ショスタコーヴィチ/交響曲第13番の簡単な解説と訳詩
〜気難しい曲に親しむためのガイド〜

2015年 5月 24日 初版作成


 ショスタコーヴィチの10番以降の交響曲はとっつきにくい、特に13番、14番の「歌入り」交響曲は、歌詞の意味も分からないし、何かとっつきにくそう、と敬遠している方が多いのではないでしょうか。
 ここでは、そんな方をターゲットに、訳詩とその補足も含めて、音楽の中に分け入ってみるヒントを提供します。
 ショスタコーヴィチがようやくソビエト連邦社会の重鎮となり、身の危険を感じる必要がなくなった環境下で、いったいどんな音楽を目指したのかの触れてみるきっかけとなれば幸いです。

 なお、ショスタコーヴィチの歌入り交響曲全体については、こちらの記事もご参照ください。



ショスタコーヴィチの墓石 2013年にお参りしたショスタコーヴィチのお墓
詳しくはこちらを参照ください


ショスタコーヴィチのお墓 ショスタコーヴィチのお墓に案内してくれた売店のおばあちゃん


 

1.曲の成り立ちと構成

ショスタコーヴィチ/交響曲第13番「バービイ・ヤール」作品113は、1961年に作曲・初演した交響曲第12番「1917年」作品112に続き、1962年に作曲されました。
 それにしても、交響曲「第13番」、しかも作品番号「113」。これは、ショスタコーヴィチ自身もいろいろと意識したのではないでしょうか。
 暗いテーマと、バス独唱と男声合唱だけという地味で沈鬱な世界。一説によると、「アジ演説とそれに応える群衆のシュプレヒコール」なのだと。そして、そういった場には「女性はいない」という現実世界。

 この時期、ソヴィエト連邦のフルシチョフ政権は、文化政策の締め付けと緩和(いわゆる「雪融け」)、アメリカとの平和共存(1959年フルシチョフ訪米)と冷戦(1962年キューバ危機)の間を揺れ動くこととなります。その意味で、ショスタコーヴィチの立場も、体制との距離感を見定めながら、ある意味で体制寄り/体制批判の間をあいまいなまま推移していくことになります。

 そんな中、ショスタコーヴィチは、1960年に、自作の「チェロ協奏曲第1番」作品107(1959年)の国外初演のためロストロポーヴィチとともに訪れたイギリスで、ベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)と親交を深めます。
 そのブリテンは、1962年に「戦争レクイエム」を初演します。独唱者の一人にはロストロポーヴィチ夫人でソプラノ歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤが予定されていましたが、ソ連当局から許可が下りず参加できませんでした(翌年の録音セッションには参加)。この曲に対して、ショスタコーヴィチは「20世紀の最高傑作」と讃えています。

 かたやショスタコーヴィチは、1957年のロシア革命40周年に交響曲第11番「1905年」(1905年とは、ときのロシア帝国の首都ペテルブルグで起こった民衆に対する発砲事件で、これによりロシア皇帝は国民の信頼を失った。「第一次ロシア革命」とも呼ばれる)、そして1961年には交響曲第12番「1917年」(これは正真正銘のロシア革命)を作曲し、自分なりの革命に対する本音に近い思いを曲にしますが、国内外からは「体制寄り」「体制への迎合」として受け取られていました。(ショスタコーヴィチ自身の本音は不明であり、1956年のハンガリー動乱に対する共感だとか、1960年に共産党に入党する見返りとしてソ連作曲家同盟の第1書記に就任したこととの関係だとか、複雑なようです)

 そのような中で、ブリテンの「戦争レクイエム」での社会問題に対する音楽を通しての主張に啓発されたこともあったのでしょう、当時のソ連の反ユダヤ主義を告発した若き詩人エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ(1933〜2017)の詩「バービイ・ヤール」に出会い、交響曲第13番・作品113を作曲することになります。
 当局からのあからさまな阻止の動きをはねのけて初演を行い、初演会場でステージに立ったショスタコーヴィチとエフトゥシェンコは熱狂的な喝采の嵐に包まれたとのことです。友人のピアニストであるマリヤ・ユーディナは、「この曲で、彼は再び我々の一員になった」と言っていたそうです。

 1953年のスターリン没後の文化政策の「雪融け」の中、1961年に当時28歳の詩人エフトゥシェンコは反ユダヤ主義を批判する詩「バービイ・ヤール」を発表し、また、同じ年にソルジェニーツィンの小説「イヴァン・デニーソヴィチの一日」が出版されます。この「バービイ・ヤール」に感激したショスタコーヴィチは、この詩に基づく交響詩を書き上げますが、エフトゥシェンコから贈られた新しい詩集から何篇か選ぶとともに、詩人に新たに詩を書き下ろしてもらって、全5楽章からなる交響曲に発展させました。第1楽章の詩のタイトルから、交響曲全体が「バービイ・ヤール」と呼ばれます。
 バービイ・ヤールとは、ウクライナのキエフ近郊にある渓谷の地名で(「女たちの谷」というような意味らしい)、第2次大戦中、そこでドイツ軍によってユダヤ人の大量殺戮が行われました。そこを訪れた若き詩人が「墓標すらない」ことに驚き、当時のソ連政府の反ユダヤ政策を批判して発表した詩が「バービイ・ヤール」です。それがショスタコーヴィチの目に留まり、曲を付けたいと申し入れたようです。
 かつて、このエフトゥシェンコと「バービイ・ヤール」の詩誕生にまつわる逸話を詳しく書いたサイトがあったのですが、残念ながらリンク先が行方不明で、検索しても探し当てられませんでした。
 そこには、エフトゥシェンコが詩を投稿した雑誌の編集者が、内容がソ連のタブーに触れていることから掲載してよいか迷った挙句「女房と相談してくる」と部屋を出た後(つまり逮捕されるなり編集者をクビになるかもしれないので)、「女房も、涙を流してぜひ載せてほしいと言ってくれたよ」といった逸話や、この詩に曲を付けたいとショスタコーヴィチが電話したときに、エフトゥシェンコの奥さんは「ろくでもない奴がいるものね、こともあろうにショスタコーヴィチを名乗った電話よ」(当時すでにショスタコーヴィチは超有名人だった)と取り次いだ逸話などが載っていたと記憶しています。

 第1楽章「バービイ・ヤール」が反ユダヤ主義への批判、第2楽章「ユーモア」が権力への反抗・反骨としてのユーモア礼賛、第3楽章「商店にて」が当時のソヴィエト社会でも虐げられた女性の忍耐への礼賛、第4楽章「恐怖」がかつての「粛清」の恐怖は消えつつあるものの「体制への迎合」「ことなかれ」がはびこっていることへの警告、第5楽章「立身出世」でガリレオの例を出して抑圧されても真実を主張して後世認められることが本当の出世だと歌います。
 若いエフトゥシェンコと、本音レベルで意気投合した結果の作品ですが、第5楽章「出世」では、ショスタコーヴィチ自身も体制におもねった現状を振り返り、反省と自戒をしているようです。ガリレイ以外の学者が地動説を支持しなかったことを、「学者はみな馬鹿ではなかった。彼らも地球が動くことは知っていた。しかし、彼らには家族がいた」と歌う部分で、「D-S-C-H」のモチーフが登場することからも想像できます。
 とてもまじめでシビアな外観の曲ですが、詩の内容も曲の内容も、非常にユーモラスで皮肉に満ちています。「まじめ」「暗い」と考えるのは、実は間違っているとして聴けば、何とも味わい深い曲です。

 しかし、ショスタコーヴィチがこの反体制の詩に曲を付けたことを当局が知り、初演のリハーサルに当局の役人がやってきて初演中止の圧力をかけ始めました。当初初演を依頼した指揮者のムラヴィンスキーが断ったため、代役として直前に交響曲第4番を初演したキリル・コンドラシンが指揮することになったのは有名な話です。コンドラシンにも初演当日に政府高官から電話があり、自主的に初演を撤回するよう要求されたようですが、断固断ったそうです(このコンドラシンも、ショスタコーヴィチ没後の1978年に西側に亡命したことはご承知のとおりです)。バス独唱者にも次々と圧力がかかり、ようやく3人目で確保したボリショイ劇場の歌手ネチパイロには、当日ボリショイでのオペラ公演の欠員の代役として抜擢され、当日になって交響曲への出演をキャンセルしてきたそうです。当局からの明らかな干渉ですが、万が一に備えてバックアップで確保していた若い歌手グロマツキイを急遽呼び出し、何とか初演できたという有様だったようです。さすがに、スターリン時代と違い、当局も正当な理由なく初演コンサートを表立って潰すことはできなかったのでしょう。この初演直後の再演時のライブ録音がコンドラシン指揮の交響曲全集に収められています(セッション録音したものとは別テイクとして)。ただならぬ緊張感が感じられる演奏です。

 だがしかし、初演の数日後、詩人のエフトゥシェンコが突然「バービイ・ヤール」の改訂版を新聞に発表します。当局の圧力に屈したためと言われていますが、この曲の出版・演奏を許可する条件として、当局は若くて立場の弱いエフトゥシェンコに圧力をかけたのでしょう。それを知ったショスタコーヴィチは、作曲済みの部分に相当する8行分の歌詞の入替えは了解したものの、変更後の詩に対して曲を作り直すことはしませんでした(詩の差替えも出譜版に対してのみで、自筆スコアは変えなかったそうです)。エフトゥシェンコの立場や配慮を尊重したのだと思いますが、それが最大限の抗議だったのでしょうか。

 しかし、このような変更によって楽譜は出版され、演奏は許可されたものの、これだけのソ連当局からの露骨な圧力に対して、現実にはソ連国内で演奏されることはなくなります。

 なお、ソ連で出版された楽譜は、当然のことながら改訂(修正)された歌詞となっています。従って、ショスタコーヴィチの存命中にコンドラシンが録音したショスタコーヴィチの交響曲全集では、この曲は改訂された歌詞で歌われています。ただし、上に書いた初演直後の再演時のライブ録音では、歌詞はオリジナルで歌われています。この当時の時代背景を物語る、生きた記録です。
 また、現在日本国内で販売されている全音のスコアは、出版譜の基づいているため改変後の歌詞となっています。オリジナル歌詞でのスコアは、今現在でも国内盤では手に入らないと思います。

 ソ連時代から、西側の録音、たとえば1980年に録音されたハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の録音では、当然ながら歌詞はオリジナルで歌われています。  そういうところにも、20世紀の歴史が刻印されています。

 曲は5つの楽章からなります。

第1楽章:「バービイ・ヤール」

 バービイ・ヤールとは、ウクライナにある峡谷の地名です(「女たちの谷」というような意味らしい)。第2次大戦中に、そこで大量のユダヤ人がドイツ軍によって殺害されました。そういう歴史があるのに、1960年当時ソ連当局は墓碑すら立てていませんでした。(ちなみに、現在はあるそうです)
 この地に立った詩人は、ユダヤ人に思いを馳せ、自分がユダヤ人になった気がして、次々とユダヤ人の受難を思い出します。

○モーゼによる旧約聖書の「出エジプト記」(エジプトのファラオによるユダヤ人迫害)。
○イエスの処刑・・・手には釘の跡が残る・・・。
○ドレフュス事件:1894年、フランス軍の砲兵大尉ドレフュスが人種的偏見によりドイツのスパイとして逮捕・投獄された事件。「シオニズム運動」の直接の契機となったと言われる。
○ベロストーク事件:ベロストークとは、当時は帝政ロシア領内の町で(現在はポーランド北東部のビャウィストク。エスペラント語の創始者ザメンホフの生まれた町)、ロシア人によるユダヤ人の大量殺戮があったとのこと。そのときのロシア人たちは「ロシア民族同盟」と名乗ったらしい。
 詩人は「ロシア国民はもともと国際主義者だ。恥知らずの反ユダヤ主義者が「ロシア民族同盟」と名乗るとは、何とぞっとすることか!」と歌います。ここの音楽は非常に凶暴です。
○アンネ・フランク:音楽がちょっと優しくなって、詩人は「アンネの日記」で有名なアンネになった気がする。恋をしている。隠れ家に閉じこもっていても、優しく抱き合うことができる・・・。
 そのとき、オーケストラの密かな足音に、合唱は「誰か来るぞ!」、アンネは「びっくりしないで、あれは春の音よ」。足音は凶暴になり、合唱が「ドアを壊しているぞ!」と警告するが、アンネは「あれは氷が割れているのです」・・・。

 再び詩人はバービイ・ヤールにたたずみ、そこに埋められた老人たち、子どもたちになった気がします・・・。
 「『インターナショナル』よ、高らかに鳴り響け!」というのは、ソ連が国際共産主義(コミンテルン)を主導したことと、ピエール・ドジェーテルが作曲した革命歌「インターナショナル」が革命後の1917年から1944年までソヴィエト連邦の国歌であったことを皮肉っているのでしょう。
(「インターナショナル」=世界革命の実現を目指す「共産主義インターナショナル=コミュニスト・インターナショナル=略称コミンテルン」の革命歌)

 最後に詩人は、「自分はユダヤ人ではないが、あたかもユダヤ人かのように反ユダヤ主義者からの忌まわしい憎悪を感じる、だからこそ私は真のロシア人なのだ」と歌います。正しいことを主張して体制に憎悪される者こそ真のロシア人だ、造反有理ということなのでしょう。

<詩の内容>

<歌詞>
  詞:エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ

時間および特記事項訳詩
(00:00 鐘を伴う重苦しい音楽)
(00:56)(合唱)
バービイ・ヤールに 記念碑はない。
きりたつ崖が そまつな墓標だ。
私は恐ろしい。
今日、私は年老いたように感じる、
あのユダヤの民と同じように。
(01:26 ホルンの合いの手)
古代エジプトをさまようモーゼ、イスラエルのイエス
(01:42)  (独唱)
今、私はユダヤ人のような気がする。
古代エジプトを彷徨っているのだ。
ここで十字架に架けられて死ぬのだ。
そして今も私に残る釘のあと。
(当局の圧力での修正版)
ここで、私は水源に立っている。
それは、私に兄弟の信頼を与える。
ここに、ロシア人、そしてウクライナ人が横たわる。
ユダヤ人と一緒に、同じ地に。
ドレフェス:1894年フランス砲兵大尉ドレフェスがドイツのスパイとしての冤罪事件
(02:15)



(トランペットによる衝撃3回)
(独唱)(続けて)
私はドレフュスのような気がする。
俗物たちがわたしの密告者、そして裁判官。
私は鉄格子の中、孤立無援、
痛めつけられ、ののしられ、恥ずかしめられる。
フリルの付いたレースを身につけたご婦人方も
金切り声をあげて 傘で私の顔をつつく。
(間奏)
ベロストークの少年:ロシア領であった現ポーランドの町ベロストークで
1905年に大規模なロシア人によるユダヤ人迫害事件があった。
(03:30)(独唱)
 私はベロストークの少年のような気がする。
(03:38 音楽が凶暴になる)



(04:06)


(04:23)
(合唱)
血が床の上に飛び散る。
酒場で首謀者達は狂暴になっている。
ウォツカと玉ねぎの混じった匂いがする。
(独唱)
私は、蹴られて地面に倒れ、無力だ、
むなしく、私は迫害者に懇願する。
(合唱)
彼らは「ユダヤ人を殺せ! ロシアを救え!」と高笑いする。
粉屋は私の母親を殴りつける。
(凶暴な間奏 → 冒頭の再現、鐘、静かになる)
詩人の述懐
(05:24) (独唱)
おお、私のロシア国民よ、私は知っている
あなた方が心の中では国際主義者であることを。
しかし、汚れた手をもった連中が
あなた方の名声を悪用してきた。
私は、我が祖国が善良なことを知っている。
だが、何とぞっとすることか、恥じることなく 
反ユダヤ主義者がこう名乗ることを。
(06:35) (合唱と独唱)
「ロシア民族同盟!」
(再び狂暴になる)
アンネ・フランク:有名な「アンネの日記」
(06:53 
低弦のうごめきとチェレスタ)
(独唱)
私は、アンネ・フランクのような気がする、
4月の木の芽と同じくらい柔らかい。
そして、私は恋している。
言葉は必要ない、
私たちに必要なのは、見つめあうこと。
私たちはほとんど会うことも臭いをかぐこともできない!
私たちは木々の葉や空を見ることもできない、
でも、私たちにできることはたくさんある−
私たちは互いに優しく抱き合うことができる、
暗くなった部屋で!
(07:34 足音) (合唱)(ひそやかに)
−「誰かが来る!」
(07:43) (独唱)
−「びっくりしないで。 あれは春の音です、
春が来たのです。
私のところに来て、
はやく私に口づけしてください!」
(07:55 オーケストラ凶暴に) (合唱)(叫ぶ)
−「ドアを壊しているぞ!」
(08:00) (独唱)
−「いいえ! あれは氷が割れているのです!」
(凶暴な間奏 → 08:33 冒頭が凶暴に再現、鐘)
再び、バービイ・ヤールの地に立った詩人の心境
(09:30) (合唱)(声をひそめて)
バービイ・ヤールの上に、野草はかさかさ音を立てる、
まるで裁判官のように、木々は恐ろしく見える。
ここでは、すべては無言の叫びをあげる、
そして、帽子を脱ぎながら、
私は、ゆっくり白髪になっていくように感じる。
(10:32) (独唱)
そして、私は無言の叫びの塊になる、
何万もの、ここに埋められた人たちの上で、
私はここで撃たれたひとりひとりの老人だ、
私はここで撃たれたひとりひとりの子供だ。
私の中では決して忘れることはない。
(当局の圧力での修正版)
私はロシアの英雄的な死者について考える。
ファシズムへの道に立ちふさがり、
小さな露のしずくに、彼女は私に近づく。
彼女の存在と、彼女の運命の中で。
(11:45 B.Cla、鐘)
(12:02) (合唱)(次第に盛り上がりながら)
「インターナショナル」と高らかに鳴り響け。
地球上の最後の反ユダヤ主義者が
ついに葬り去られるときに。
(鐘)
(12:40) (独唱)
私にはユダヤ人の血は流れていない、
しかし、私はすべての反ユダヤ主義者からの
忌まわしい憎悪を感じる。
あたかも私がユダヤ人であるかのように−
(独唱と合唱)
だからこそ、私は真のロシア人なのだ!
(盛り上がって終結 13:40)
 

第2楽章:「ユーモア」

 ユーモアは、いつに時代にあっても庶民が権力を批判するときの有力な手段なのでした。ショスタコーヴィチも、そして詩人エフトゥシェンコも、そうやって権力を批判し、溜飲を下げてきたのでしょう。そんな思いが、実に饒舌な音楽で歌われます。

 中間部で、政治犯として捕まったユーモアが刑場に向かって歩いて行く場面で、「1942年に作曲された「イギリス詩人の詩による6つのロマンス」作品62の第3曲「処刑台に向かうマクファーソン」(詞はロバート・バーンズの詩のロシア語訳)のメロディが行進曲風・ポルカ風に使われています。ここで取り上げられているジェームス・マクファーソンは、17世紀のスコットランドの実在の人物で、ロビン・フッドのような義賊で、捕えられて処刑されるときに、愛用のヴァイオリンを弾いて踊り、そのヴァイオリンを叩き壊して処刑に臨んだのだとかで、まさしく「ユーモア」が捕えられて処刑台に引き立てられるという詩の内容に対応しています。本音を隠し権力に対抗するための「ユーモア」は、ショスタコーヴィチの真骨頂でもあったのでした。
 なお、この旋律自体は、1939年に作曲されたバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章の主題の引用と思われます。バルトークは、1938年にデュッセルドルフで開催されたナチスによる「退廃音楽展」に対して、自ら「出品されなかった自分の音楽こそ退廃音楽だ」と抗議したほどの反骨の士ですから、これを讃えての引用と思います。後に、ショスタコーヴィチの1942年の交響曲第7番「レニングラード」第1楽章のファシストの侵略行進を揶揄して引用したといわれるバルトークの「管弦楽のための協奏曲」第4楽章の「中断された間奏曲」も、決してショスタコーヴィチへの揶揄ではなく、そういったショスタコーヴィチの奮闘に対して、安住の地アメリカで何もできないバルトーク自身の深い挫折感の裏返しなのだと思うのですが・・・。

 ちなみに、ここで引用した「イギリス詩人の詩による6つのロマンス」作品62は、当初「作品62」でピアノ伴奏の歌曲として作曲され、「作品62a」としてオーケストレーションされましたが(1942年)、この交響曲作曲後の1971年に「作品140」としてオーケストレーションし直されています。よほど愛着があったか、あるいは1942年当時と晩年の1971年で、この「バービイ・ヤール」の作曲も含めて曲に対する心境の変化があったのでしょうか。(私は「作品140」の方しか聴いていないので、比べることはできませんが)。
 しかし、処刑直前にユーモアはするりと逃げ出し、銃を持って革命の宮殿前広場に駆けつけると、そこで交響曲第11番にも引用される革命歌「ワルシャワ労働歌」が引用されます。
 ショスタコーヴィチは次から次に饒舌な音楽を繰り出します。

<歌詞>
  詞:エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ

時間および特記事項訳詩
(00:00 スケルツォ/ポルカ風の開始)
(00:43) (独唱)
皇帝(ツァーリ)、王様、帝王−
この世の支配者たちは
観兵式を指揮することはできたが
ユーモアにだけは命令できなかった。
(合唱)(後半を重ね、繰り返し)
命令できなかった。
(01:15) (独唱)
毎日ごろごろして暮らす
お偉い方々の宮殿に
さすらいのイソップが現れると
お偉い方々はみじめに見えたものだ。
(合唱)
さすらいのイソップが現れると
お偉い方々はみじめに見えたものだ。
(01:37) (独唱)
偽善者が しみったれた小さな足跡を
残した大広間で
ナスレッディン・ホジャのジョークは チェスのように
俗物たちを やっつけた。
(合唱)
ナスレッディン・ホジャのジョークは チェスのように
俗物たちを やっつけた。
(注)ナスレッディン・ホジャ:
トルコや周辺イスラム圏で有名な中世の知恵者。
(間奏、ムチ)
(02:25) (独唱)
かれらはユーモアを買収したいと思った。
(合唱)
だが、やつだけは買えないぜ!
(独唱)
かれらはユーモアを殺したいと思った。
(合唱)
だが、ユーモアにばかにされたのさ!
(02:37 Vn.ソロによる間奏=死の舞踏)
(03:00) (独唱)
ユーモアと闘うのは苦労だ。
ユーモアをなんども死刑にした。
(合唱)
ちょんぎったユーモアの首を
銃兵の槍の先にのっけた。
(鐘、ピッコロ)
(03:37)  (独唱)
しかし、旅芸人の笛が
物語りを始めた そのとたん、ユーモアは叫んだ
「わしはここだよ!」
(合唱)
「わしはここだよ!」
(独唱と合唱)
そして勢いよく踊り出した。
(03:53 間奏)
(ポルカ)(自作の「イギリス詩人の詩による6つのロマンス」Op.62 の第3曲「処刑前のマクファーソン」の引用)
(04:34)
(ワーグナー「ラインの黄金」の
の巨人族のライトモチーフの引用?)
(独唱)
政治犯として捕まったユーモアは
すりきれたぼろ外套をまとい
目をおとし、
さもしおらしく
刑場へと歩いていった。
(04:50 大仰な行進曲)
(05:05)  (独唱)(トロンボーンのコラール=葬式の暗示?)
どう見ても従順そのもので
あの世への覚悟も十分。
(05:17 大仰な行進曲)
(05:25)  (独唱)(マクファーソンのメロディで)
ところが、ふいと
外とうから抜け出すと片手を打ち振って、そして
(独唱と合唱)
「バイバイ!」
(マクファーソンのメロディで間奏 → 05:54 冒頭に戻る)
(06:07)  (独唱)
彼らは、地下牢の中にユーモアを閉じ込めた、
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
ユーモアは格子と石壁を、するりと通り抜けた。
(合唱)
風邪をひいて咳ばらいをしながら、
下っ端の二等兵のように、
ユーモアは、ライフル銃を持って冬の宮殿へ
いつもの調子で行進していた。
(06:32 金管が交響曲第11番第4楽章の「ワルシャワ労働歌」引用)
(06:43)  (独唱)
ユーモアは悪意のまなざしには慣れっこで、
そういったものを全く気にしない、
そして時々、ユーモアは
自分自身をユーモラスに眺める。

ユーモアは不滅だ。
(合唱)
不滅だ。

(独唱)
ユーモアはかしこい。
(合唱)
かしこい!

(独唱)
そして すばしっこい
(合唱)
そして すばしっこい!

(独唱)
どんな物、どんな人の中も 通り抜けてゆく。
 
(独唱と合唱)(最後に声をそろえて)
だから、ユーモアに栄光あれ!
ユーモアは勇気のある奴だ。
(マクファーソンに基づくコーダ、08:01)
 

第3楽章 商店で

 ソ連時代の国営商店に黙々と並ぶロシア女性を称えています。淡々と、しかし押し殺した怒りをこめて・・・。ここではロシア人女性は「女神」に例えられ、つり銭や重量(めかた)をごまかそうとする商店側のずるさに対して、「怒りの日」の旋律が流れます。
 それを見ている詩人は、「ペリメニ」(ロシア風餃子)をそっと万引き(?)する・・・(合唱が「アーメン」のハーモニーで寄り添います)。

<歌詞>
  詞:エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ

時間および特記事項訳詩
(00:00 重苦しい、低弦による前奏)
(00:57)
(ヴィオラは第1楽章の主題)
(独唱)
ある者はショールを、ある者は小さなショールをかぶり
手柄をたてに、また 仕事に行くように
女たちが商店に入ってゆく
黙ったまま、一人ずつ。
(バス・クラリネット、ウッドブロック)
(02:05))
(ピチカート、ピアノ)
(合唱)
ああ、手に持つ缶やガラスびん
鍋のひびき、
ねぎや きゅうりの匂い
そしてトマト・ソースの匂い。
(クラリネット)
(03:13) (独唱)
私が会計への長い列でこごえて、
しかし、少しずつレジへ近づいてゆくうちに
大勢の女たちの息で
どんどん店は暖かくなってゆく。
(ウッドブロック、クラリネット、ホルン)
(04:10) (独唱)
彼女たちは静かに待っている
家庭を守護する女神たち…
手にはにぎりしめている
自分の汗で手にしたお金を。
(ウッドブロック、ホルン)
(04:50)
(ピチカート、ピアノ)
(合唱)
彼女たちは静かに待っている
家庭を守護する女神たち…
手にはにぎりしめている
自分の汗で手にしたお金を。
(ウッドブロック)
(05:22)



(抒情的に)
(独唱)
それが ロシアの女たちだ。
わたしたちを支持し、わたしたちを裁く。
彼女たちは、コンクリートをこね、農地を耕し、刈り取りもした。
すべてに 彼女たちは耐えてきた。
すべてに これからも彼女たちは耐えていくだろう。
(合唱)
すべてに 彼女たちは耐えてきた。
すべてに これからも彼女たちは耐えていくだろう。
(06:50 ヴァイオリン、ハープによる間奏)
(07:27) (独唱)
この世のすべては 彼女たちの手の内だ。
そのような力が 与えられているのだ!
(間奏、クレッシェンド)
(08:17) (独唱と合唱) (怒りの日)
彼女らに つり銭をごまかすのは 恥しらず!
彼女らに 計量をごまかすのは 罪なこと!!
(ムチ)
(09:28) (独唱)
ペリメニ(ロシア風餃子)をポケットに突っ込みながら
私は、おごそかに、しずかに見つめる
買い物袋を持つのにくたびれた
彼女たちの高貴な手を。 (アーメンのハーモニー)
(ウッドブロック → 10:05 低弦の間奏 → アタッカ)
 

第4楽章 恐怖

 他の楽章が、既存のエフトゥシェンコの詩に曲を付けたのに対し、この楽章のみはこの交響曲のために書き下ろされたものです。おそらく、ショスタコーヴィチとエフトゥシェンコの交流の中で2人の共通の意思として書き起こされたものなのでしょう。
 かつての匿名の密告、不意のドアのノック、外国人と話をする恐怖(外国人どころか、自分の妻でさえも!)、一番怖いのは独り言(思わず本音をつぶやいてしまう)というのは過去のものと歌いながら、その恐怖が国外に向けられている(東西冷戦や、1956年のハンガリー動乱の鎮圧などを指しているのでしょう。この時点では1968年の「プラハの春」はまだ未来の話…)、そして詩人は「全力を尽くして書かない」こと(体制に配慮して当たり障りのないことしか書かないこと)を新たな恐怖として、詩を書き急ぎます・・。
 「自分の妻さえも!」というのは、「家族に対しても本音を言ったら危険だ」という当時の状況や、初演の指揮を断ったムラヴィンスキーは奥さんが共産党員だったからだとか、1962年にチャイコフスキー・コンクールで優勝しながら、アイスランド人と結婚したことから国外に亡命することとなった(コンクール優勝も公式記録から抹消された)ピアニストのアシュケナージのことなども暗示しているのでしょうか。

<歌詞>
  詞:エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ

時間および特記事項訳詩
(前楽章からアタッカ →  ドラ → 00:00 テューバ)
(01:00) (合唱)
ロシアでは 恐怖は死にかけている、
過去の亡霊のように。  (テューバ)
老婆たちのように、教会の入り口で、
ここそこで、もっとパンをくれと求めるだけ。
(01:55) (独唱)
私は、恐怖たちが、嘘ののさばった裁判所で
強力で巨大だったのを覚えている。  (ホルン)
(02:29)






(トランペットに3連符の動き)
(独唱)
恐怖は、影のようにどこにでも、
あらゆる床を貫通して滑り込んだ。
それらは密かに人々を征服した。
そして、皆にその印を押した:
私たちが黙すべき時、それ(恐怖)は私たちに叫べと言い、
叫ぶべきとき、それ(恐怖)は黙っていろと言った。
これは皆、今は遠いものに見える。
今、思い出すことすら奇妙だ。
匿名の密告の目に見えない恐怖、
ドアのノックに対する目に見えない恐怖。
(04:15 トランペット、鐘)
(04:58)
(弦のうねりと鐘)
(独唱)
そうだ、それから外国人と話をする恐怖は?
外国人? いや、あなたの妻とさえも…!
そうだ、それから、行進の後に、
ひとりで静寂と共にとり残される言いがたい恐怖。
(05:56)
(行進曲風に)
(合唱) 
私たちは暴風雪の中の建設工事や、
砲火の下の戦争におもむくことを恐れていなかったが、
時折、私たちが自分自身に話しかけること(独り言)を
致命的に恐れていた。 (独り言で言った本音を誰かに聞かれたら?)
私たちは破壊も崩壊もされなかった、
そして、今やロシアが、自分自身の恐怖を克服し、
敵により大きな恐怖を抱かせているのは
間違いないことだ。 (東西冷戦や、ハンガリー動乱の鎮圧を暗示している?)
(06:38 弦セカセカ)
(06:47) (独唱)
私は、新しい恐怖が始まるのを見る:
自分の国に虚偽であるのことの恐怖、
自明の真実である思想を
不正直に卑しめる恐怖。
自慢することに麻痺する恐怖、
他人の言葉を機械的に繰り返す恐怖、
猜疑心をもって他人を陥れる恐怖、
そして自分自身を過信する恐怖。
(07:32 強奏、鐘で沈静化)
(08:03) (合唱)(ひそやかに)
ロシアでは 恐怖は死にかけている。
(08:13) (独唱)
そして、私がこれらの詩を書きながら、
時おり、心ならずも急ぐのは、
全力を尽くして書かないという
たったひとつの恐怖からだ。
 (書くべきことを書かない、ことなかれ主義への警鐘か?)
(低弦の動きから、09:42 アタッカ)
 

第5楽章 出世

 ショスタコーヴィチ自身の主義主張と、そうすべき・そうしたかったが自分はできなかった、という自戒の念、悔いと開き直りの入り混じった複雑な曲。ショスタコーヴィチ自身は、自身の「名誉称号」を1966年の歌曲「自作全集の序文とその序文に関する簡潔な考察」でおちょくっているので、この楽章で歌われている内容が「本音」であることは間違いありませんが、「しかし家族がいた」というのも自分自身であると認めた上で、この詩を取り上げていると思われます。
 ですから、声高に歌い上げるのではなく、申し訳なさそうに、しみじみと歌っていますね。

 ここでは、ガリレオが地動説を主張したことが題材となっていますが、そこでは「その時代の学者はガリレオより愚かな訳ではなかった。彼も知っていた、地球が回るのだと。しかし、彼には家族がいた」と歌われます。ガリレオ以外の学者は家族ゆえに保身を図ったのだと(上記の、エフトゥシェンコが「バービイ・ヤール」の詩を発表するときの雑誌の編集者の話とつながるものがありますね。この部分には、DSCH音形の変形が現れます。ショスタコーヴィチ自身もそうだったということでしょうか)。でもエフトゥシェンコは「正しいことをして偉大になることこそ出世だ」と続けます。

 ショスタコーヴィチ自身は、体制に迎合することでソ連の中では出世したわけですが、それは本当の出世ではない、と考えてこの詩に曲を付けたのでしょう(1960年ロシア共和国作曲家同盟第1書記、1962年ソ連最高会議代議員=要するに国会議員、1966年レーニン勲章・社会主義労働英雄・・・)。この曲では、偉大な者として、合唱がシェークスピア、パスツール、ニュートン、そしてトルストイと列挙しますが、そこで独唱が「レフか?」と割って入り、合唱が「レフだ!」と応えます。これは、スターリン時代の御用作家アレクセイ・トルストイ(1883〜1945)を皮肉ったものなのだそうです(偉大なのは、御用作家アレクセイ・トルストイではなく、文豪のレフ・トルストイだ、ということ)。
 ただし、ショスタコーヴィチ自身が、1936年の「プラウダ批判」の翌年に交響曲第5番を発表したときに、いちはやくこれを肯定的に評価し、交響曲全体の流れを、精神的危機を克服して革命的理想に目覚めていく主人公の成長過程という文学的比喩でとらえ、「人格の形成」というこの交響曲のキャッチフレーズを定着させたのは、このアレクセイ・トルストイの論文だったと言います。要するに、ショスタコーヴィチにしてみれば「命の恩人」のような存在だったわけです。ショスタコーヴィチ自身も、レニングラード初演後のモスクワ初演に先立ち、「私の創造的回答」という論文を発表し、このアレクセイ・トルストイの論文を引用しているとのことですので、十分にそれに便乗したことを自覚しているようです。エフトゥシェンコも、そういった経緯を踏まえて(あるいはショスタコーヴィチ自身から聞いて)この詩に取り入れたと思います。

 また、「ののしった者たちは忘れ去られた」という独唱に、「しかし我々はののしられた者たちを記憶している」とDSCH音形に乗って合唱が応えます。さらに、「私は彼らの出世を手本にする」という部分にもDSCH音形が出てきます。このフィナーレでは、ショスタコーヴィチ自身の決意が述べられているのでしょうか。
 ただし、ショスタコーヴィチ自身は「自分はそうなれなかった」ことを揶揄しているような、消え入るような結末です。

 皮肉と反骨精神に富んだ詩と音楽には、まだまだ裏の意味が隠されているようです。

<歌詞>
  詞:エヴゲーニイ・エフトゥシェンコ

時間および特記事項訳詩
(00:00 木管の「天真爛漫」なモチーフ
 → 01:19 弦によるもの悲しい「反省」のモチーフ
 → 01:27 ファゴットのおどけた「なんちゃって!」のモチーフ)
(01:32) (独唱)
司教たちはきめつけた
ガリレオは悪者で、愚か者と。
(合唱)
ガリレオは愚か者…  (DSCH変形)
(01:50) (独唱)
しかし、時の流れが明らかにするように
愚か者のほうが賢い!
(合唱)
愚か者のほうが賢い!  (DSCH変形)
(02:08) (独唱)
その時代の学者は
ガリレオよりばかではなかった。
(合唱)
ガリレオよりもばかなわけではなかった。
  (DSCH変形、トランペットのおちょくり)
(02:24) (独唱)
彼も知っていた、地球が回るのだと。
しかし、彼には家族がいた。
(合唱)
しかし、彼には家族がいた…  (DSCH変形)
(02:36) (独唱)
そして 自分の信念を曲げ
妻と 立派な馬車にのり
これこそが出世と思っていたが、
実は、それをぶちこわしていた
(合唱)
実は、それをぶちこわしていた…  (倍速のDSCH変形)
(02:56) (独唱)
この惑星の認識のために
ガリレオは ひとり危険を犯し
そして 彼は偉大になった。
(合唱)
そして 彼は偉大になった…
(独唱そして合唱)
これこそが、私のいう出世主義者だ!
(03:45)
弦ピチカートによる「天真爛漫のモチーフ」による間奏
→ 04:58 弦による「反省のモチーフ」 
→ 05:05 ファゴットのおどけた「なんちゃって!」
(05:12) (合唱)
そこで、出世ばんざい、
その出世が
シェークスピアやパスツール、
ニュートンやトルストイ、
そう、トルストイのしたようなものならば。
(05:30) (独唱)
レフか? (「レヴァ?」)
(合唱)
そう、レフだ! (「レヴァ!」)
(御用作家アレクセイ・トルストイではなく
文豪レフ・トルストイだ、との皮肉)
(05:36) (合唱)
なぜに彼らは泥をぬられたのか?
いくらそしられても、天才は天才なのだから。
(独唱)
ののしったものたちは忘れ去られた。
(合唱)
しかし、我々はののしられた者を記憶している。 (DSCH変形)
(05:50 フーガによる間奏)
→ 06:46 木管による「反省のモチーフ」が重なる 
→ 06:52 ファゴットのおどけた「なんちゃって!」 → 鐘で沈静化
(07:17) (独唱)
成層圏をめざした人たち
コレラでたおれた医者たち
彼らこそ出世したのだ!
(独唱と合唱) (声高に)
私は彼らの出世を手本にしよう!
(鐘)
(08:25) (独唱)(しみじみと)
私は彼らの神聖な信念を信ずる。
彼らの信念は私の勇気だ。
私は、出世しないことを自分の出世とするのだ!
(バス・クラリネット 
→ 09:50 弦楽四重奏による「天真爛漫のモチーフ」 
→ 11:05 チェレスタ(ユダヤ風) 
→鐘 11:40 静かに終止)
 

 最後で、ショスタコーヴィチの魂は、思いを全て言い切って、軽々とすすがしい境地に至ったようです。
 

3.お薦めCD

 最近、ショスタコーヴィチのCDもかなり増えてきました。
 ただし、ロシア語歌唱という特殊性から歌手や指揮者が限定され、他の純粋器楽の交響曲に比べると数は少ないと思います。

 全てのCDを聴いているわけではありませんが、その中では下記のCDがお勧めです。

record ベルナルト・ハイティンク指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団&合唱団
(バス)マティウス・リンツラー

 ハイティンクによる当時の西側初の交響曲全集録音のひとつで、この曲は1984年の録音です。当時の「ソヴィエト系」の録音と異なり、冷静に音楽的に演奏されています。この曲の真価をしっかり聞き取るには最適の演奏だと思います。独唱、合唱とも素晴らしい演奏です。

 

record キリル・コンドラシン指揮 モスクワ・フィル
(バス)アルトゥール・エイゼン

やはり、初演者であり、ショスタコーヴィチの生前に唯一の交響曲全集を録音していたコンドラシンの演奏は外せないでしょう。この全集には、1967年のスタジオ録音とともに、初演翌々日の1962年12月20日の再演時(ショスタコーヴィチ自身も臨席)のライブ録音(こちらのバス独唱は、初演者のヴィタリイ・グロマツキイ)が収録されています。当時のソ連の録音なのでよい音と言えませんが、時代の空気が感じられる歴史的な演奏です。

 

record マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団
(バス)セルゲイ・アレクサーシキン

マリス・ヤンソンスがいろいろなオーケストラを指揮して完成させた交響曲全集の1枚で、全集としては多少凸凹がありますが、この曲はよい演奏だと思います。2005年の録音。

 

record クルト・マズア指揮 ニューヨーク・フィル
(バス)セルゲイ・レイフェルクス

ちょっと変わったところで、クルト・マズアの1993年のライブ録音。当日の演奏会で行われたエフトゥシェンコ自身の「バービイ・ヤール」の詩の朗読も収録されています。


 



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