なお、ショスタコーヴィチの歌入り交響曲全体については、こちらの記事もご参照ください。
我が家にあるショスタコーヴィチ交響曲第14番のレコード
キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィル、当時のソ連の国営レコード会社であるメロディヤ盤
1.曲の成り立ちと構成
ショスタコーヴィチ作曲/交響曲第14番・作品136は、1963年の交響曲第13番「バービイ・ヤール」以来となる6年ぶりの交響曲で、1969年に作曲・初演されました。
日本では「死者の歌」というタイトルでも呼ばれているようですが、作曲者が付けたものではないので、ここでは使いません。
1962年に、ショスタコーヴィチはムソルグスキーの歌曲「死との踊り」のオーケストレーションを行います(この曲はロストロポーヴィチ夫人であるガリーナ・ヴィシネフスカヤに献呈され、ロストロポーヴィチの指揮により初演されています)。この曲は4曲から成り、ショスタコーヴィチは、「死」を取り扱うには短すぎるとして、「死」に関する自分なりの音楽を作りたいと考えたようです。
また、同じころ、1960年以来親交を結んでいるイギリスの作曲ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」(ソプラノ、テノール、バリトン独唱と合唱、管弦楽、室内管弦楽)が初演され(1962年初演)、この曲を「20世紀最高の傑作」と絶賛しながらも、「死はそのように美しいものではない、死はすべての終わりで、ただそれだけだ」というようなことを語って、それを音楽にすると約束しています。その約束をこの交響曲第14番で果たし、ブリテンに献呈しています。
(詳細は「ベンジャミン・ブリテン」の記事を参照いただくとして、ブリテンの「戦争レクイエム」のソプラノは、ガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌うことを前提に作曲されました。テノールはブリテンの私生活でのパートナーであるイギリス人のピーター・ピアーズ、バリトンはドイツ人のディートリヒ・フィッシャー=ディスカウが前提です。つまり、第二次大戦で戦火を交えたイギリス、ドイツ、ロシアの3人の歌手が一堂に会して歌うレクイエムです)
この交響曲第14番は、11曲のオーケストラ付き歌曲の集合体となっています。これを「交響曲」と呼べるのかということに対しては、ブリテンの「作曲者が交響曲と呼べば、それは交響曲だ」という言葉に従ったようです。直接的な例として、マーラーの「大地の歌」(6曲から成る)、ブリテンの「春の交響曲」(12曲から成る)なども参考にしたようです。
11曲の構成は次のようになっています。歌詞は全てロシア語に翻訳されたものに曲が付けられています。(切れ目のあるものと、アタッカで続けて演奏されるものを分けて示します)
第1曲:「深き淵より」 ガルシア=ロルカ詩、バス
第2曲:「マラゲーニャ」 ガルシア=ロルカ詩、ソプラノ
第3曲:「ローレライ」 ギョーム・アポリネール詩、ソプラノとバス
第4曲:「自殺」 ギョーム・アポリネール詩、ソプラノ
第5曲:「用心して」 ギョーム・アポリネール詩、ソプラノ
第6曲:「マダム、ご覧なさい!」 ギョーム・アポリネール詩、ソプラノとバス
第7曲:「サンテ監獄にて」 ギョーム・アポリネール詩、バス
第8曲:「コサック・ザポロージュからコンスタンチノープルのスルタンへの返答」 ギョーム・アポリネール詩、バス
第9曲:「おお、デルヴィークよ」 ヴィリゲリム・キュヘリベケル詩、バス
第10曲:「詩人の死」 ライナー・マリア・リルケ詩、ソプラノ
第11曲:「結び」 ライナー・マリア・リルケ詩、ソプラノとバス
この交響曲は、上記のようにブリテン作曲「戦争レクイエム」(1962)が直接のきっかけとなっており、この11曲の構成も「戦争レクイエム」の構成に密接に関連しています。 私の個人的な試論ですが、交響曲第14番の各楽章と「戦争レクイエム」の対応を表に示します。
ブリテン/戦争レクイエム | ショスタコーヴィチ/ 交響曲第14番 | |
---|---|---|
ラテン語典礼文 | オーウェンの英語詩 | |
永遠の安息 | > | |
死すべき定めの若者たちへの讃歌 | ||
キリエ | ||
怒りの日 | (第1曲)深き淵より (冒頭「怒りの日) | |
ラッパが歌った | ||
恐るべき御稜威(みいつ)の王 | (第2曲)マラゲーニヤ | |
次の戦争 | ||
思い出したまえ | (第3曲)ローレライ | |
巨砲の砲撃開始を見つつ | ||
涙の日(ラクリモサ) | (第4曲)3本のユリ | |
無用なこと | ||
奉献唱(オッフェルトリウム) | (第5曲)心して | |
老人と若者の寓話 | (第6曲)マダム、お聞きなさい | |
聖なるかな(サンクトゥス) | (第7曲)サンテ監獄にて | |
結末 | ||
幸いあれ(ベネディクトゥス) | (第8曲)コサック・ザポロージュから コンスタンチノープルのスルタンへの返答 | |
神の子羊(アニュス・デイ) | (第9曲)おお、デルヴィークよ | |
アンクル川近くの刑場にて | ||
我を解き放ちたまえ(リベラメ) (「怒りの日」の再現あり) | (第10曲)詩人の死 (第1曲冒頭「怒りの日」の再現) | |
奇妙な出会い | ||
楽園にて/永遠の安息 | (第11曲)死は偉大だ |
ショスタコーヴィチの言葉通り、「死は美しいものではない」として、通常の「レクイエム」の最初に置かれる「レクイエム(永遠の安息)」「キリエ」は省略されて、いきなり「怒りの日(ディエス・イレ)」のモチーフから始まります。
「涙の日(ラクリモサ)」が第4曲「3本のユリ」に、「幸いあれ(ベネディクトゥス)」で「いと高き所に、ホザンナ」と賛美する部分が第8曲「コサック・ザポロージュからコンスタンチノープルのスルタンへの返答」で「お前のかあちゃん、出べそ」になっているところが流石です。「怒りの日」が再現される「我を解き放ちたまえ(リベラメ)」の部分に、第10曲「詩人の死」で「怒りの日(ディエス・イレ)」が再現するところも、きちんと対応しています。
ショスタコーヴィチ自身は、「戦争レクイエム」や他の「レクイエム」で歌われる「死」が浄化された「救い」「安息」であるのに対して、「死はすべての終わりで、ただそれだけだ」と言いながら、この曲のクライマックスである第9曲「おお、デルヴェークよ」では、人間は死んでも芸術の不滅の生命、永遠の価値は残ると歌い上げています。それがショスタコーヴィチの本音のように思います。曲としては、確かに第10曲「詩人の死」、第11曲「死は偉大だ」で、虚しく冷たく消えていく死を淡々と扱っていますが。
そして、芸術の不滅の生命、残された人の心の中に生き続ける永遠の価値は、この交響曲第14番と好対照を成す「ミケランジェロ組曲」作品145においても、高らかに歌い上げられています。(息子のマキシムによると、ショスタコーヴィチはこの「組曲」を交響曲第16番にするつもりだったとのこと)
この交響曲第14番の初演は、ルドルフ・バルシャイ指揮のモスクワ室内管弦楽団によって行われました。ソプラノ独唱は当初ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(ロストロポーヴィチ夫人)が予定されていましたが、多忙でスケジュールが確保できなかったため、寿命を悟って初演を急いだ作曲者の希望で マルガリータ・ミロシニコワが起用され、そのことを知ったヴィシネフスカヤが激怒したため、指揮者バルシャイの仲介で、ミロシニコワ独唱によるレニングラードでの初演の一週間後のモスクワ初演にヴィシネフスカヤを起用することとしたようです。両者の録音がCDとして出ています。
なお、この交響曲第14番のリハーサル演奏中、聴衆として同席していた共産党幹部パーヴェル・アポストロフが心臓発作で倒れ病院に担ぎ込まれ、1か月後に死亡するということがあったようです。アポストロフは、1958年のジダーノフ批判でショスタコーヴィチを批判し窮地に追い込んだ張本人ですので、ショスタコーヴィチの作品の祟りと噂されたようです。曲も曲だし・・・。
2.曲の内容と訳詩
全11曲の詩は、第9曲を除き、全てスペイン語、フランス語、ドイツ語からのロシア語訳に曲が付けられています。下記の訳詩は、ロシア語の歌詞そのもののほぼ直訳です。
CD付属の訳詩には、ロシア語からでなく原語の詩から訳したものもあるようで、結構中身が違います。多分、もともとのロシア語訳の時点で、かなり「意訳」や「言い換え」があるのではないかと思います。さらに、ショスタコーヴィチ自身も、詩全体ではなく、抜き取り的に使っている部分もあるようです。特に第7曲「サンテ監獄にて」は、原詩とロシア語の詩の間に、かなりの相違があり、従ってロシア語の歌詞と訳詩の間にかなりの相違があるものも見受けられますので、注意が必要です(クルレンツィス指揮のCD付属の日本語訳も、歌詞とかなり異なります)。
また、こちらの歌詞サイト(梅丘歌曲会館)の日本語訳も、原詩から訳したとのことなので、歌詞とかなり違います。
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/S/Shostakovich.htm
(注)訳詩に付した時間は、テオドール・クルレンツィス指揮アンサンブル・ムジカエテルナの演奏のおおよその目安です。
第1曲:深き淵より
第1曲、第2曲は、スペインの詩人フェデリコ・ガルシア=ロルカ(1898〜1936)の詩。ガルシア=ロルカは、1936年にスペイン内戦のさなか、ヒトラーが後押しするファシスト党に銃殺されました。ガルシア・ロルカの死に対し、プーランクは1943年にヴァイオリン・ソナタ第1番「ガルシア・ロルカの思い出」を作曲しています。
深く沈んだ、死者を悼む曲。冒頭のヴァイオリンは、グレゴリオ聖歌の「怒りの日(ディエス・イレ)」です。
詩人のガルシア・ロルカ自身が、スペイン内戦の中でファシスト党に殺されているので、この詩の中の「百人の恋わずらい」は、自分の信念・信条を貫いて不条理に死んで行った人たちやドイツとの「大祖国戦争」で死んで行った人たちで、そして「彼らの思い出のために、十字架を立てよう」というのが、この交響曲なのでしょうか。
<歌詞>
詞:フェデリコ・ガルシア=ロルカ
訳:Y.ティニャーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 ヴァイオリンに「怒りの日(ディエス・イレ)」のモチーフ) | |
(00:52) | (バス) 百人の恋わずらいたちが 永遠の眠りについた 乾いた土の下で。 |
---|---|
(01:25 コントラバスに「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(01:55) |
真っ赤な砂に覆われた アンダルシアの道。 |
(02:20 ヴァイオリンに「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(02:35) | 緑のオリーブが茂る コルドバの街。 |
(03:05) | そこに百本の十字架を立てよう 彼らの思い出のために。 |
(03:40 コントラバスに「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(04:06) |
百人の恋わずらいたちが 永遠の眠りについた。 |
(04:28 ヴァイオリンに「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(04:50 コントラバスのグリッサンド、05:10終止) |
第2曲:マラゲーニャ
がらりと変わって激しい興奮と狂乱の曲。弦楽器の「ガシャガシャ」がギターをかき鳴らす音でしょうか。フラメンコのカスタネッとも鳴ります。
「死は、酒場を出たり入ったりしている」ということで、日常に常に隣り合う「死」を歌っているのでしょうか。
ちなみに、ロシア語で「死」は「スメルチ」で女性名詞です。ここで「マラゲーニャ」を歌っているのも、死本人なのでしょうか。
最初の「死は入って来て、そして出て行った、この酒場を」の部分でベースラインが上昇・下降する音形では、12半音がすべて使われています。
<歌詞>
詞:フェデリコ・ガルシア=ロルカ
訳:A.ゲレースクル
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 激しい弦楽) | |
(00:52) (ベースの12音の上昇形、刻みの加速) (ベースの12音の下降、刻みの加速) |
(ソプラノ) 死は入って来て そして出て行った、この酒場を。 (2回繰り返し) |
---|---|
(01:24 舞曲風) |
黒い馬と、悪漢たちが行きかう ギターの深い谷間を。 塩の匂いが、女の血の匂いが 浜辺の熱を帯びた月下香の香りに混じる。 |
(01:40 独奏ヴァイオリン) |
死は相変わらず入ったり出たり、 出たり入ったりを続けている、 この酒場を(繰り返し)。 |
(02:19 舞曲風、カスタネット→02:37 ムチでアタッカ) |
第3曲:ローレライ
第3曲から第8曲までは、フランスの詩人ギョーム・アポリネール(1880〜1918)の詩によるものです。
ドイツのライン川の、いわゆるローレライ伝説に基づく詩です。ローレライ(ソプラノ)と司祭や騎士(バス)との掛け合いで歌われます。途中には、馬が駆ける様をウッドブロックが奏でます。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール(原詩はクレメンス・ブレンターノ)
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 前曲よりアタッカ、ムチ) | |
(00:00) | (ソプラノ) ブロンドの髪の魔女のもとへ、男たちは押し寄せ 彼女への恋に身を滅ぼした。 司祭が彼女を呼び出し裁こうとしたが あまりの美しさに赦してしまわれた。 |
---|---|
(00:11) |
(バス) 「話して聞かせよ、ローレライよ そなたの瞳は宝石の輝き (シロフォン) 誰がお前にかような魔法を授けたのか。」 |
(00:18) |
(ソプラノ) 「死なせてください、司教様、私の瞳は呪われています。 私の瞳を見た男は身を滅ぼします。 おお司教様、私の瞳の炎は、 恐ろしい呪いの炎です!」 |
(00:46) |
(バス)(シロフォン) 「ローレライよ、そなたの炎は強力だ: お前は私を魅了してしまい、そなたを裁けない。」 |
(00:52) |
(ソプラノ) 「司教様、そう言わないでください。祈ってください。 それは神様の御心です−−私を死に導いてください。 |
(01:07 間奏) | |
(01:34) |
(ソプラノ)(虚ろに) 私の恋人は去り、遠い国へと行ってしまい、 私は悲嘆にくれ、茫然としています。 心は、死んでしまいたいほど痛みます。 こんな姿を見て死にたくなるのです。 私の恋人はもはやおらず、その日から 私の魂は真っ暗闇で、全ては空虚なのです。」 |
(02:30) |
(バス)(シロフォン) 司教様は3人の騎士を呼び、修道院に連れて行かせた: 「ローレライを、すぐに人里離れた修道院へ連れて行け。 行くのだ、愚かなローレ、恐ろしい瞳のローレ! お前は尼になり、瞳の炎を暗くするのだ。」 |
(02:48 馬が駆ける間奏) | |
(03:24) (ヴィオラ独奏) |
(バス)(シロフォン) 3人の騎士は、娘とともに道を進む。 娘は、無口のいかめしい騎士たちに話しかけた: |
(03:54) |
(ソプラノ) 「あの高い岩山の上に、ちょっと立たせてください。 もういちど私の恋人のお城を見たい。 水面に映ったその姿を見たら、(チェレスタ) そのあと私は修道院の壁の中に入りましょう」 |
(チェレスタ) | |
(04:44) |
(ソプラノ) 彼女の髪は風にかき乱され、瞳は輝く。 |
(04:48) |
(バス) 騎士たちは叫ぶ:「ローレライよ、戻れ」(繰り返し) |
(鐘) | |
(05:28 夢うつつで) (チェレスタ、ヴァイブラフォン、鐘) |
(ソプラノ) 「ライン川の曲り角に舟がやって来て、 そこには愛しい人が乗っていて私を呼んでいる。 魂は軽やかで、波は透明で・・・。」(チェレスタ) |
(07:21 低弦、鐘) |
(バス) そして、彼女はライン川へと落ちて行った。 今もこの穏やかな流れの中に見る ラインの水面に反映する瞳と、太陽に輝く髪を。 |
(チェレスタ、ヴァイブラフォン→08:34 アタッカ) |
第4曲:自殺
キリスト教では、自殺は神に対する裏切りであり、禁止されているそうです。従って、自殺者の墓には十字架がない・・・。
ロシア語で、最初の「3本のユリ」が「トゥリー・リリー、トゥリー・リリー」と歌いだされます。この部分は26歳の1932年に作曲した歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」最終幕で、一緒に殺人まで犯すほど惚れたセリョージャ(セルゲイ)の浮気を知って、放心状態で森の奥の湖を歌う部分(そこでの自殺を暗示する)に出てくるモチーフを用いています。最初の部分の伴奏は、独奏チェロ1本のみです。
ショスタコーヴィチ晩年特有の簡潔な伴奏でのリリカルな歌いまわしは、前半最大の聴かせどころでしょうか。
クライマックスでの鐘の使い方が、第3曲「ローレライ」と共通です。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 前曲からアタッカでチェロ独奏) | |
(00:38) | (ソプラノ) 三本のユリ、三本のユリ、十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。 |
---|---|
(01:15) (弦楽、チェレスタ) |
三本のユリ、金粉を冷たい風に吹き払われ、 黒い空から降る雨にときおり濡れ、 王様の杖のように堂々として美しい。(ヴァイブラフォン) |
(チェロ独奏) | |
(02:40) |
一本は私の傷口から生え、陽が当たるとき 血に染まったようになる、恐怖のユリ。 |
(チェロ独奏) | |
(03:28) | 三本のユリ、十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。 |
(04:04) | 三本のユリ、金粉を冷たい風に吹き払われる。 |
(チェレスタ、チェロ独奏) | |
(04:39) |
もう一本は柩の床の上で苦しむ私の心臓から生え (シロフォン) 柩の床は虫が食い荒らしている。 |
(04:58 弦楽の間奏、チェロ独奏) | |
(05:30) | もう一本は私の口から生えた、その根で私の口を裂く。 |
(弦のクラスター、鐘、チェロ独奏) | |
(06:05) |
どれもみな、私の墓の上にわびしく立っていて、その周りで、 空も大地も、私の人生のように、美しさを呪われている。 |
(鐘) | |
(06:57) | 三本のユリ、十字架のない私のお墓の上の三本のユリ・・・。 |
(コントラバス、鐘 →07:55 終止) |
第5曲:用心して
冒頭のテーマがシロフォンで提示されます。要するに「骸骨の踊り」です。
このシロフォンのモチーフを楽譜に書いてみると、確かに12半音がすべて含まれています。ただし、シェーンベルクの「十二音音楽」とは違って、4度や5度を使った調性的なものです。「セリー」音楽を模したというよりは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の最終曲(ロ短調)のフーガ主題と同じで、12半音をすべて使って調性音楽を書くという「職人技」なのでしょう。
歌っているのは、魅惑的に死に誘い込もうとする死の女神(前述のように、ロシア語では「死」は女性名詞)で、相手の「ちっぽけな兵士」に私の恋人、私の弟」とすり寄って行きます。兵士とその姉による「近親相姦」という解説が多いですが、そうではなくて「死の女神」による死への誘惑・引きずり込みということではないかと思います。
コーダでは、トムトムがこれでもかとはちきれんばかりに連打されます。「戦争」を象徴しているのでしょう。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 シロフォン、トムトム) | |
(00:13) | (ソプラノ) 塹壕で、夜の来る前に彼は死んでいく、 私のちっぽけな兵士、その疲れた眼は 一日中、銃眼の陰から 達成の望めない栄光をみつめていた。 塹壕で夜の来る前に死んでいく 私のちっぽけな兵士、私の恋人で弟。 |
---|---|
(00:45 シロフォン) | |
(00:13) |
だからこそ、私は美しくなりたい。 私の胸を明るい松明にしよう。 私の大きな瞳で雪に覆われた畑を融かそう。 そして私の腰には墓帯を巻きつけよう。 死が避けられないのなら、 近親相姦と死のために、私は美しくなりたい。 |
(01:46 シロフォン、弦のうねり) | |
(01:55) |
夕焼けがバラのように染まり、牛が鳴く。 そして飛び立った青い鳥を私は見つめる。 今こそ愛の時、燃えるような熱病の時、 今こそ死の時、戻ることのない。 |
(02:39 小さくシロフォン) | |
(02:47) |
バラが枯れるように死んでいく、 私のちっぽけな兵士、私の恋人で弟。 |
(トムトム、次第にクレッシェンド) →03:09 アタッカ |
第6曲:マダム、ご覧なさい!
第5曲からアタッカで続きます。第5曲に対して、夫を、恋人を死の女神に奪われた未亡人が歌っているのでしょうか。人をおちょくったような、不気味な泣き笑いの歌です。
ここでも、シロフォンが骸骨の踊りを見せます。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 弦楽のコード) | |
(00:05) | (バス) マダム、ご覧なさい! 何か落とされたようですね・・・。 |
---|---|
(00:13) |
(ソプラノ) ああ、つまらないものよ! それは私の心。 むしろ、持って行ってちょうだい。(シロフォン) −捨ててしまいたい。−そうしたい いくらでも取り戻せるもののだから。(シロフォン) |
(00:42) |
だから私は笑うの、笑うの(繰り返し、シロフォン) (ハハハハ、ハハハハ) (シロフォンのスケール) だから私は笑うの、笑うの(シロフォン) 死神が刈り取った崇高な愛を。 |
(シロフォン → 02:07 アタッカ) |
第7曲:サンテ監獄にて
一転して、再び重苦しいバス独唱によって歌われる失望と屈辱です。詩人のアポリネールも、投獄された経験があるようですが、ショスタコーヴィチは自分自身が投獄されたかもしれない恐怖と屈辱、そして現実に投獄され消されていった友人たちを思い起こしているのでしょう。
この曲の初演後ではありますが、当局の監視下に置かれていたチェロ奏者のミシャ・マイスキーは1970年に逮捕されて18か月間を強制収容所で過ごします。同じく、チェロ奏者のロストロポーヴィチも、反体制物理学者のサハロフ博士や、「収容所群島」を海外で発表した作家ソルジェニーツィンを擁護したため、1970年に国内での演奏活動禁止となり、1974年には国外追放されます。まだ、記憶の中の話ではなく、作曲当時に進行している現実だったのです。
しかし、この曲を聴いたソルジェニーツィンは激怒したそうです。「アポリネールが監獄にいたのはわずか数日間に過ぎない、それに比べて多くのロシア人は何年も強制収容所にいたのだ」と。
冒頭の低弦の上行・下降のモチーフは、ブリテン作曲「戦争レクイエム」の「神の子羊(アニュス・デイ)」の伴奏のモチーフと同じです。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 低弦) | |
(00:17) | (バス) 牢屋に入れられる前に 俺は裸にされた。 運命の戦いの片隅から 俺は、暗闇の中に追い出された。 |
---|---|
(間奏) | |
(01:18) |
さらば、さらば楽しげなロンドよ。 さらば、乙女のほほえみよ。 |
(01:34 低弦) | |
(01:59) | 俺の上には墓がかぶさる。 俺はここで完全に死に絶えた。 |
(02:23 ピチカートの間奏、ウッドブロック) | |
(04:35 付点付きリズムの低弦) | |
(04:54) |
違う、俺は違う。 今までとは違う: 俺は、今囚人だ、 希望の終わりだ。 |
(ピチカート、ウッドブロック) | |
(05:40) |
檻の中をまるで熊のように 俺は行ったり来たりする。 だが空は・・・見ない方がましだ。 ここでの俺には、空はうれしくない。 (繰り返し)檻の中をまるで熊のように 俺は行ったり来たりする。 |
(06:16)(激しく) |
なぜ俺に、こんな悲しみをもたらすのだ? 全能の神よ、教えてくれ。 |
(06:35) | おお憐れみを!(繰り返し) |
(ピチカート) | |
(06:55) |
涙も出ない目で、 俺は仮面のように見える。 |
(低弦) | |
(07:12) (盛り上がり、ジャンジャン) |
牢獄の屋根の下には、 どれだけの不幸な魂がもがいているのか。 俺から茨の冠を取ってくれ! それが脳にまで突き刺さっているわけではないが。 |
(08:18) (沈静して、つぶやくように) |
1日が終わった。頭上にランプが一つ、 闇に包まれながら燃えている。 ひっそりと静まった。独房の中で2人きりだ: 俺と、俺の理性と。 |
(ピチカート → 09:22 アタッカ) |
第8曲:コサック・ザポロージュからコンスタンチノープルのスルタンへの返答
これはもう、ナンセンスそのものの詩です。「おまえのかあちゃん、でべそ!」みたいなものです。要するに、オスマントルコからの服従の要求に対し、「何言ってやんでえ、べらぼうめ!」的な返事をする、やけくそで向こう見ずな反抗、というわけです。
前の第7曲の監獄での諦めと屈辱に対して、こちらは「強気」と「やけっぱち」ということでしょう。ショスタコーヴィチも、よくこんな詩を見つけてきたと感心します。
このアポリネールの詩は、ロシアの画家イリヤ・レーピンの1880〜1891年作の絵画「トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック」にインスピレーションを得たもののようです。ということで、ショスタコーヴィチが曲を付けて、またロシアに里帰りというわけです。
<歌詞>
詞:ギョーム・アポリネール
訳:M.クディーノフ
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 激しい弦楽合奏) | |
(00:05) | (バス) お前はバラバより百倍極悪人だ。 (バラバ:イエスと一緒に処刑されようとして恩赦を得た) ベルゼブル(悪魔の首領)に仕えるやつだ。 この世で一番卑怯なやつ。 汚物と泥で育ったやつ。 お前の集会に俺たちは行かねえぞ。 |
---|---|
(間奏) | |
(00:40) |
腐った出来物め。サロニク(ギリシャ北部の町)のゴミ野郎、 鼻が曲がってちぎれるほど、とても言えねえ気色悪い夢で、 お前のカアチャンが痙攣して下痢したときに お前が生まれたのさ。 |
(間奏) | |
(01:11) |
ポドリア(ウクライナ西部地域)の極道刑吏め。 お前の傷口は膿だらけだ。 馬のぶざまなケツ、ブタの醜いツラして てめえの金を取っとくんだな でねえと傷を治す薬が買えねえぜ。(捨て台詞) |
(弦の刻み → 01:55 アタッカ) |
第9曲:おお、デルヴィーグよ
この交響曲唯一のロシア語のオリジナルの詩です。この交響曲の核心部分と言えるでしょう。
抒情的な、心にしみいる曲です。
帝政ロシアの旧態依然の沈滞に対して、ナポレオンの遠征で知った西欧流の近代化を求めた貴族出身の将校・インテリたちによる1825年の「デカブリストの乱」でシベリア流刑となった友に贈った詩です。流刑にされたデルヴィークに、ショスタコーヴィチは自分自身や友人たちを重ねて見ているのでしょう。
<歌詞>
詞:ヴィリゲリム・キュヘリベケル
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 急に抒情的に)(ヴィオラ、チェロアンサンブル) | |
(00:36) | (バス) おお、デルヴィーク、デルヴィークよ! 報酬は何だ、 偉業と詩作に対して? 天才の喜びとは何だ、そして、どこにあるのだ? この悪党や愚か者ばかりの世の中で。 |
---|---|
(チェロアンサンブル) | |
(01:47) |
ユウェナリス(古代ローマの風刺詩人)の厳しい手の 恐ろしい鞭が、悪党どもに飛び やつらの顔から血の気を奪う。 そして、専制暴君は震える。 おお、デルヴィーク、デルヴィークよ! |
(独奏チェロ) | |
(02:32) |
迫害がなんだ? 不滅の命と、 雄々しく気高い偉業と、 優しい歌の響きがあるではないか! だから、我らの同盟も、 自由、喜びそして誇りも滅びはしない! そして、楽しいときも苦しいときも、 永遠のミューズを讃える同盟は揺らがない! |
(03:50 チェロアンサンブル、 04:45 終止) |
第10曲:詩人の死
第9曲に続き、この交響曲の頂点を成す曲です。この交響曲冒頭の「ディエス・イレ」のモチーフが再現し、原点に戻って曲の本質に至ります。
ドイツの詩人リルケによる「詩人の死」によって、ショスタコーヴィチは仲間の芸術家たちの冥福を祈っているようです。この交響曲の中で、ひときわ美しい抒情的な曲です。
この曲の「死のモチーフ」は、構成がうり二つで交響曲第16番にするつもりだったといわれている「ミケランジェロ組曲」の第9曲、第10曲にも使われます。
<歌詞>
詞:ライナー・マリア・リルケ
訳:T.シーリマン
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00第1曲冒頭の「怒りの日(ディエス・イレ)」再現) | |
(00:20) (伴奏はヴァイオリンのみ) |
(ソプラノ) 詩人は死んだ。彼の顔は蒼ざめて、 すべてを拒絶するようで、 彼はかつて世界のすべてを知っていたが、 その知識は次第に消え、 再び無関心の日に引き戻された。 |
---|---|
(01:23)(「死」のモチーフと「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(01:54) |
ずっと彼は考えられてきた: 世界と彼とは、全てが一つであると: 湖と谷間が、そして野原が、 彼の顔そのものだったから。 |
(02:55)(「死」のモチーフと「怒りの日(ディエス・イレ)」) | |
(03:36) |
彼の顔と、広々とした空間があった、 その空間は手を伸ばしてまとわりつき―― おびえているその顔は 明らかに死んでいるように見える―― |
(04:15「死」のモチーフで) |
果物が腐っていく運命であるかのように。 |
(「怒りの日(ディエス・イレ)」→ 05:17 アタッカ) |
第11曲:結び
11曲からなる巨大な交響曲の締めくくり、と思うと、あっという間にあっけなく終わってしまいます。「死」は、あっけなくやってきてそれでおしまい、ということでしょうか。
11曲目の最終曲が軽くあっけなく終わってしまうところも、「ミケランジェロ組曲」と同じです。
最後は、2曲目の「マラゲーニヤ」の「死が出たり入ったりする」場面の再現で、弦楽器が刻みをどんどん細分化していく音形のクライマックスで突然終止します。
<歌詞>
詞:ライナー・マリア・リルケ
訳:T.シーリマン
時間および特記事項 | 訳詩 |
(00:00 ピチカート、ウッドブロック) | |
(00:10) | (ソプラノとバス) 死は偉大だ 歓喜のときにも それは見つめている。 最高の人生の瞬間、我々の中に悶え、 我々を待ち焦がれ、 我々の中で涙している。 |
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(弦の刻みの加速で終止、01:10) |
3.お薦めCD
最近、ショスタコーヴィチのCDもかなり増えてきました。
ただし、ロシア語歌唱という特殊性から歌手や指揮者が限定され、他の純粋器楽の交響曲に比べると数は少ないと思います。
全てのCDを聴いているわけではありませんが、その中では下記のCDがお勧めです。
テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカ・エテルナ
(ソプラノ)ユリア・コルパチェヴァ
(バス)ペトル・ミグノフ
↑ 2010年の新しい録音で、2010年の「レコード芸術」誌の「レコードアカデミー賞」を受賞しています。歌手もオーケストラも充実していて、現時点では最もお薦めできる演奏かと思います。国内盤は、海外盤に別刷りの日本語解説を付属しただけですが、この解説がなかなかの力作なので、解説も読みたければ日本盤をお勧めします。ただし、歌詞の和訳はロシア語からの訳ではなく、内容がかなり異なります。
ワシリー・ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィル
(ソプラノ)ガル・ジェイムズ
(バス)アレクサンドル・ヴィノグラードフ
↑ 1976年サンクト・ペテルブルグ生まれの若手指揮者、ワシリー・ペトレンコがロイヤル・リヴァプール・フィルとNaxosに録音した交響曲全集のひとつで、2013年の録音です。
なかなかすぐれた演奏で、歌手も好演しています。
ルドルフ・バルシャイ指揮 モスクワ室内管弦楽団
(ソプラノ)マルガリータ・ミロシニコワ
(バス)エフゲニー・ウラジミロフフ
↑ 上の2つが現代の最先端の演奏だとすれば、曲が生まれた当時の時代を刻印した、初演者による演奏です(初演のライブではなく、初演翌年の1970年のスタジオ録音)。当時のソ連での録音としては、かなりよい音です。
キリル・コンドラシン指揮 モスクワ・フィル
(ソプラノ)エフゲーニャ・ツェロヴァルニク
(バス)エフゲニー・ネステレンコ
↑ ショスタコーヴィチの生前に唯一の交響曲全集を録音していたコンドラシンの1974年の録音。当時のソ連の録音なのでよい音と言えませんが、時代の空気が感じられる歴史的な演奏です。
この交響曲に関連の大きい、ブリテン作曲「戦争レクイエム」のお勧めCDも挙げておきます。この曲については、こちらの記事もご参照ください。
ブリテン作曲「戦争レクイエム」
ベンジャミン・ブリテン指揮 ロンドン交響楽団
(ソプラノ)ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
(テノール)ピーター・ピアーズ
(バリトン)ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ