Cowra
Sydneyより西へ約310キロ、Canberraの北180キロ、NSWの中央に位置し、
収容所からの脱走事件(Cowra Break Out)のあった町として知られています。
歴史を忘れずに、繋がりを深める友好の証として、
京都にある修学院離宮を模して造られた日本庭園が整えられ、
桜の咲くころSakura Matsuriが開催されています。
インフォメーションセンターには、収容所に関しての資料の展示がされています。
カウラ市役所 website カウラ観光局website
2009年9月26日27日撮影 |
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Cowraに続く道
シドニーからは、M4という
高速道路でひたすら西に
向かいます。
Nepean川を超えた辺りから
Great Western Hwyに
なります。
Blue Mountains
↓
Lithgow
↓
Bathurst
↓
一時間程で
Cowraに到着 |
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さくら祭り
茶道や書道、折り紙、和楽器演奏、
着物の着付け、空手、合気道、
盆栽のデモンストレーションなどなど・・・。
春の到来を祝うとともに
日本文化を紹介する行事です。 |
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Avenue
of
Cherry Trees
Binni Creek Rd. |
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日本庭園から墓地に続く道は、
Avenue of Cherry Treesとも記されていますが、
桜の植樹は、残念ながら計画半ばのようです。
(Ken Nakajima Pl.→Sakura Ave.→Evans St.→Binni Creek Rd.→Doncaster Dr.)
Sakura Ave.からは収容所跡を眺めることもできます。
戦争中に亡くなった日本人の遺骨は民間人の遺骨も軍人の遺骨も
すべてカウラに運ばれて以来、
第二次世界大戦中の日本人の遺骨はここに埋葬されて、
地元の退役軍人の会が連合軍の兵士の墓と同様に
日本人の墓の世話をしてくださっていました。 |
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木が茂っている所にある墓地を望む |
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日本人墓地
さくら祭りの時に、
慰霊祭も行われています。
2009年9月27日撮影 |
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世界平和の鐘
Austraria's World Peace Bell
日本兵によるカウラ大脱走事件のときに、
亡くなった日本兵を地元民が手厚く葬ったという行いに対し
国連が高く評価したことで、
1979年8月、ユネスコより世界平和貢献都市のひとつとして
カウラ市に世界平和の鐘が贈られたものです。
1954年に戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、
当時の国連加盟国65カ国のコイン、メダルを銅と合金して鋳造した鐘が
ニューヨーク国連本部に寄贈されたのが、「世界平和の鐘」の由来です。
世界平和の鐘website |
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トニー・グリン神父の碑
市役所の敷地には、≪平和の鐘≫の側に
日豪の架け橋となる活動をされて
奈良で亡くなられた
≪トニー・グリン神父の碑≫も飾られています。
桜、五重塔他
奈良のシンボルである鹿も描かれています。 |
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Edwards Garden
22Anderson Lane |
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お気軽に泊まれるカントリースタイルのホリデーファーム(観光農園)です。
農園に立つと、そののどかな風景とたたずまいに、
思わずタイムスリップしたひとときを感じる事でしょう。
大地の香りをそよ風にのせて皆様をお出迎えする「癒しの宿」としてご利用ください。
カントリー・ライフを楽しみたい方にはぜひ、カウラでのご滞在をお勧めします。
(江戸和人雅園websiteより) |
手作り調度品が置かれている日本食レストランBlue Gumの店内で、
オーストラリア国立大学陶芸学科教授Greg Daly氏による作品に盛られた
まごころ料理を召し上がれ。
カウラで根をおろして日豪の交流にも力を注いでおられる堀部氏に
カウラについてお話を伺うのもいいでしょう。
インフォメーションセンターからBoorowa Rd.を南下し、
線路を過ぎると、右手に 「Japanese Restaurant」の看板が見えます。 |
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カウラは、
白ワインで有名なのだそうです。
カンタス航空1stクラスの
指定銘柄ワインに選ばれたことも
あるとのこと。
特にMulyanの
ブッシュ・レンジャー(白)が
お勧めらしいのですが、
赤ワイン党の我が家は
Cabernet Sauvignon
Merlot 2005と
Shiraz Viognier2006の2本
求めましたぁ~♪ |
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Canola Farm
キャノーラ・オイルの生産地・・・鮮やかな黄色が広がる菜の花畑です。
これからどんどん緑から黄色の絨毯が広がっていきます。 |
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Cowra Break Out
第二次世界大戦の末期、終戦を1年後に控えた1944年8月5日未明、
日本兵が≪収容所からの集団脱走=Cowra Break≫を企てたのです。
日本は、東ティモールやパプアニューギニアで豪州軍と戦いました。
潜水艦によるシドニー湾への魚雷攻撃、シドニー市街への砲撃、
北部州ダーウィンの空爆をしましたが、オーストラリア本土での地上戦はなく、
1943年、ダーウィン空襲後、メルビル島やバサースト島で捕えられた海軍機乗員が、
オーストラリアで捕虜になったのが最初だったそうです。
その後、ニューギニアや太平洋の島々などで、
栄養失調や病気で動けなかったり眠っている最中に捕まえられた兵士などが
カウラ収容所に収容されたといいます。 |
歴史には詳しくないので、参考になる資料をさがしてみました。
戦争記念館による資料など下記のサイトが参考になると思います。 |
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