第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第6節 「脈絡内照応性」と世界の揺らぎ

   (1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)中の"a dog"は、話者の思いが籠った名詞句であり、話者にとって既知である名詞句であり、その指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの詰まった「わけありな個体」であるとしても、「脈絡内照応性」は話者の念頭において実現されているに過ぎないが故に、この名詞句には「脈絡内照応性」が既に実現されているということは受け手には伝わらない。

   ところが、(1−8)中の"a dog"と同じような「わけありな個体」の場合でも、そこに込められた《話者》の思いが、そこには「脈絡内照応性」が既に実現されているということが、《受け手》に伝わってしまう場合がある。以下に挙げる(1−10)中の"a woman"の場合である。

   ある夜更け、紀伊国坂を登っていて恐ろしい思いをした老商人がその場を這這の体で逃げ出し、蛍の光に見紛う遠くの明かりを目当てに一目散に走りに走り、ようやく、明かりの在り処、提灯を吊るした蕎麦屋の屋台にまで辿りつく。何があったのか、屋台の亭主に問われた老商人が喘ぎ喘ぎ口にした台詞。

(1−10)
"I saw . . . I saw a woman -- by the moat ; -- and she showed me ......... Aa! I cannot tell you what she showed me!" ........
(LAFCADIO HEARN, MUJINA, Gaslight files, http://www.mtroyal.ab.ca/programs/arts/english/gaslight/) ) (下線は引用者)
   「物語の読者という受け手」には、"a woman"については「特別な個別性」に加え、「脈絡内照応性」が既に実現されているということが伝わる[1−54]にせよ、談話[1−55]の当事者の一人、即ち恐怖におののいている老商人の発話の《受け手=屋台の亭主》には、《話者=老商人》が出会った"a woman"はこの発話に関わる脈絡の中で「どの特別な一女性」に照応するのかは伝わるべくもない。この発話に関わる脈絡を既に示されている「物語の受け手」とは異なり、《受け手=屋台の亭主》は脈絡を示されていない(はずである)からだ。ところが、"a woman"には「脈絡内照応性」が既に実現されているということが《受け手=屋台の亭主》には伝わってしまっている。そのことが(1−10)に続く部分で次のように明かされる。そして、これが物語の結末である。
"Hé! Was it anything like THIS that she showed you?" cried the soba-man, stroking his own face--which therewith became like unto an Egg.... And, simultaneously, the light went out. (ibid)
   「のっぺらぼう」を目にするのがこれで二度目となる《話者=老商人》の恐怖が改めて描かれることはない。この物語の怖さの源は「女の顔に目も鼻も口もなかった」ことでも、《話者=老商人》が二度に渡って「のっぺらぼう」に遭遇して体験した恐怖でもない。この物語の怖さを体験するのは、「のっぺらぼう」に遭遇した《話者=老商人》だけではないのであり、「のっぺらぼう」を目の当たりにしたわけでもない「読者という受け手」もまた、《話者=老商人》の体験した恐怖を共有するのである。

   この物語の怖さの源は、「伝わるべくもないことが伝わってしまうこと」の証しを目の前に突きつけられることである。《受け手=屋台の亭主》には、"a woman"に「特別の個別性」という在り方の「特定」が実現されていることが伝わるにせよ、《話者=老商人》が出会った"a woman"はこの発話に関わる脈絡の中で「どの特別な一女性」に照応するのかまでは、日常的時空間のもとでは伝わるべくもなかったのである。《話者=老商人》がどんな女に出会ったのか、《受け手=屋台の亭主》は知るべくもなかった。怖いのは、外見は人でありながらその顔には目も鼻も口もない存在に遭遇したことではなく、「そんなことはあり得ようはずもない」という判断を覆すような時空間の在り方、いわば非日常的時空間を《話者=老商人》(そして「物語の受け手」)は体験させられるということである。自分の世界認識の在り方に深刻な揺らぎを、《老商人》とともに、というよりむしろ読者こそが体験させられることになる。物語中の時空間においては、こうして生きている自分を支えているはずの日常的判断が支えとしては無力であることを告げられる[1−56]。「脈絡内照応性」の伝達の在り方に生じるゆがみを体験することは、自分の生きる場である日常性の危さを体験することであり、ことによれば自分の生きる場である日常性のゆがみを体験することであった。ただし、怖さを感じることは受け手の咎ではない。

   自身の世界認識の在り方とはあまりにも異質な世界認識を予感させる発話を体験するような場合、受け手が無明に包まれることがあっても受け手を咎めるのは酷であろう。

   「鶏が鳴く前に、あなたは」という主辞に接ぎ得る無数の述辞の中から「わたしを三度知らないと言うであろう[1−57]」が《話者》によって選択されるとき、その主辞と述辞の組み合わせは、その発話の《話者=イエス》のためならその身を投げ打てもすると思いなしている《受け手=シモン・ペテロ》の戸惑いを誘うばかりである。一体どのような脈絡の中であれば「あなた=《受け手=シモン・ペテロ》」の指示内容である「特別な一個体」が「《話者=イエス》を三度否むほどの背信の徒」に照応するというのだろう。そして、そのような主辞と述辞の組み合わせに示されている判断――そこには「融和不可能性」を見出し得ないという判断が《話者=イエス》によって下されている――の由って来たる源となる世界認識が、《受け手=シモン・ペテロ》が普段に親しんでいる世界認識の在り方といかにかけ離れていようと、ここでは《話者=イエス》の念頭にある脈絡の広がりに限りはなく、それゆえ《話者=イエス》は超越的視点からあらゆることに適切な判断を下し得る立場にあり、《受け手=シモン・ペテロ》はと言えば、せいぜい《話者=イエス》にとって自分(=《受け手=シモン・ペテロ》)は既知であるということが伝わるほどの立場に置かれているに過ぎないことがやがて明かされることになる。

   《話者=イエス》が下す判断の中にあって、その主辞を構成する「あなた=《受け手=シモン・ペテロ》」の指示内容である「特別な一個体」は、《話者=イエス》の念頭にあるどのような脈絡の中でなら「《話者=イエス》を三度否むほどの背信の徒」に照応するのか、《話者=イエス》にとって《受け手=シモン・ペテロ》はいかなる脈絡の中で既知の一個体であるのかは、《受け手=シモン・ペテロ》には伝わるべくもない。「あなた=《受け手=シモン・ペテロ》」についてそのような「脈絡内照応性」を実現することになる脈絡は《受け手=シモン・ペテロ》には示されてもおらず共有されてもいないのである。《受け手=シモン・ペテロ》は、《話者=イエス》の念頭にある無限の脈絡の中では、《話者=イエス》によって選ばれる述辞(「わたしを三度知らないと言うであろう」)の主体であり得るほど既知の一個体なのだという《話者=イエス》の思いは、この発話の時点では《受け手=シモン・ペテロ》に共有されることはない。

   《受け手=シモン・ペテロ》がこうした無明に敢えてとどまるとしたら、詮なきものであるがゆえに解消すべくもない疑惑に胸を焼き焦がすに等しい。なぜこの《私》が「《話者=イエス》を三度否む」ほどの「背信の徒」たり得るのかその訳を明かさない《話者=イエス》には伝達の意志が欠落しているのだ、といった風に。愕然とするのは《受け手=シモン・ペテロ》だけではない。愕然とするのはむしろ「読者という受け手」であると言った方が適切であろう[1−58]し、それこそが「物語の話者」によって企まれていた仕掛けである。「物語の受け手」さえ、というより、「物語の受け手」こそがまず愕然たる思いを体験する。このような場合、《信》という飛躍を決意するか、否応なしに示されることになる時間という脈絡を辿りつづけるか、さもなくば、脈絡が十分に明かされていない発話に対してはあまり向きにならないというのが、おそらく、あるべき心構えなのである。

  

(第一章 第6節 了)

(第一章 了)

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© Nojima Akira