第五章 分詞句の解放に向かって
第1節 「欠落した範疇」という出口

   「分詞の非制限的名詞修飾用法」は二重に欠落した範疇、欠落しているという意識が欠落している範疇であると述べた。日本の学校英文法の《本流》は、分詞の非制限的名詞修飾用法を認知しておらず、学習用文法書の中にも、この欠落を埋めている記述は、私の知る限り見当たらない[5−1]。いや、分詞の非制限的名詞修飾用法について詳述した書物が有るや無しやは、実はたいして重要な問題とはならない。分詞句による名詞修飾のこうした在り方が「欠落した範疇」であること、少なくとも《公的》に認知されていないことが確認できればそれで十分なのである。こうした実態に即した英文の読まれ方があり、英文の読み方・書き方の指導がなされているという事実を、私個人の経験も披瀝しつつ、これまで述べてきた。

   しかし、既に文例を挙げて指摘したように、現にそこにある「分詞の非制限的名詞修飾用法」という範疇に目を閉じ続けるわけにはいかない。この範疇は、日本の学校英文法が抱えている《分詞構文》という執着とは無関係に、次から次へと文例を挙げてその実在性を確認できるほどの今ここにある現実であり、分詞句による名詞修飾について、考え方の整理と変更を迫る現実なのである。分詞句に関する記述には欠落があることを意識し、次いで、欠落している範疇を具体的に認識することで、どの程度まで考え方の整理と変更を迫られることになるのか、本章では更に問題点を突き詰めてみたい。

   分詞の非制限的名詞修飾用法を確かに経験しようとする場合、最も効率的にその経験を可能にしてくれる形態の分詞句は「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」である[5−2]。そして分詞句が名詞句を非制限的に修飾する実例は一つあれば新たな世界に足を踏み入れるのに十分である。「われ思う、故にわれあり」、の手口だ。たった一つの文例を梃子に、分詞の非制限的名詞修飾用法を成立させる条件である「カンマ」についてその役割を改めて確認することで、自由な活動領域が確実に広がるはずである(非制限的関係詞節とカンマの関係については第一章第5節参照)。

   今、まず辿るべき過程の一つは、カンマを伴う分詞句のすべてを《分詞構文》という閉じた世界内に囲い込めるわけではないことに、ある範疇の欠落は世界が開いていることの証しであることに気づき、活動の領域を開かれた世界に置くことである。いわばカンマを伴う分詞句を解放する道を辿ることである。欠落部は何よりも《分詞構文》という閉じた世界の非在を告知するものであったことが分かるだろう。分詞句読解の鍵はその暗黙の主辞との関わりの中に見出されるという道をひたすら辿りさえすればよいのである。

  

(第5章 第1節 了)


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© Nojima Akira