第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第5節 「脈絡内照応性」と「カンマ」の関係

   話者の視点で実現されている発話(ちなみに下線部は「発話」を修飾する制限的名詞修飾要素)内の名詞句の指示内容である「特別な一個体」は当該発話に関わる脈絡の中で「特定の一個体」に照応するということ、即ちその名詞句については「脈絡内照応性」は既に実現されているということが、発話の受け手には伝わる場合もあり伝わらない場合もある。

   伝わる場合とは、そのことを受け手に伝えるのに必要な情報が言語表現という形で示されている場合、即ち当該発話に関わる言語的脈絡が示されている場合であり、あるいはまた、そのような言語的脈絡に代わる働きをする非言語的脈絡が話者と受け手に共有されている場合である。このような場合、本稿では、その名詞句は受け手にとって既知であると言う。

   伝わらない場合とは、そのような言語的脈絡が示されていないために、あるいはまた、そのような言語的脈絡に代わる働きをする非言語的脈絡が話者と受け手に共有されておらず、そのような非言語的脈絡は話者に独占され、ただ話者の念頭にあるばかりであるために、「脈絡内照応性」は話者の念頭において密かに実現されているに過ぎない場合である。このような場合、その名詞句は話者にとって既知であると言う。

   かくして、話者にとって既知である名詞句は、受け手にとっても既知であるとは限らない。

   伝わる場合とは、例えば、"An intruder has stolen a vase. The intruder stole the vase from a locked case. The case was smashed open."(CGEL、5.36)(下線と太字は引用者) 〈ある侵入者が花瓶を盗んだ。その侵入者は鍵のかかったケースからその花瓶を盗んだ。そのケースは叩き壊されて開けられていた。〉中の「the + 名詞」の場合である[1−40]。ここでは、例えば名詞句"The intruder"の指示内容である「特別な一個体」は当該発話に関わる脈絡の中で「どの一個体」に照応するのかが受け手には伝わる。受け手は容易に、"The intruder"は"An intruder"に照応することを見て取れるのである。それに必要な言語的脈絡が示されているからである。このとき、話者は定冠詞"the"にある判断を露出させている。"The intruder"には「脈絡内照応性」が既に実現されておりそのことは受け手にも伝わる、即ち、この名詞句は受け手にとっても既知である、という判断である。話者がそのような判断を"the"に露出させ得るのは、ここでの「the + 名詞」については「脈絡内照応性」は既に実現されているということを受け手に伝える働きをする脈絡が既に示されている、と話者は判断しているからである。端折った物言いをすれば、「the + 名詞」は脈絡を参照すべしとの示唆である([1−32]参照)。そのような示唆が不実ではない、即ち参照すべき脈絡が受け手に示されている(あるいは共有されている)限りにおいて、話者のそうした判断を受け手は共有し得ることになる[1−41]。「脈絡内照応性」は既に実現されているということが受け手にも伝わるのである。このような「the + 名詞」は、定冠詞が使用される代表的事例である。

   定冠詞については次のように語られることがある。

定冠詞theは、それが導く句は画定的である[definite]ことを、即ち、話者と受け手に共有されている文脈的[contextual]知識あるいは一般的知識の範囲内で唯一的に[uniquely]特定され[identified]得るものに言及していることを表示するのに用いられる。(CGEL, 5.27)
   受け手は、名詞句"The intruder"の指示内容である「特別な一個体」を、参照すべき脈絡が示されているがゆえに「唯一的に特定し得る」。こうして、"The intruder"は受け手にとっても既知である、即ち「脈絡内照応性」は既に実現されているということが受け手には伝わる。発話線分上の"The intruder"の時点(位置)でこの名詞句について受け手に既に示されている情報(知識)の中身は「(この侵入者は)ある花瓶を盗んだ」というほどのことに過ぎず、"The intruder"の指示内容について受け手が語り得るのはその程度のことに過ぎない。ただし、名詞句の指示内容について語り得ることがらがいかに乏しかろうと、それについて受け手は殆ど何も知らないと言えるほどであっても、その名詞句は受け手にとって既知であるとは言える。既知であるという場合、その内実、即ちどれくらいのことを語り得るかは問われないのである。従って、ある名詞句が既知である場合、その指示内容について、語り得ることの多寡はともかく、何ごとかを語り得るのである。

   「脈絡内照応性」は既に実現されているということが受け手には伝わらない場合もある。ある名詞句が話者にとっては既知であっても、受け手にとっては既知ではない場合である。以下の(1−4)は本章第3節でも挙げた文例である。Michael Swanによって「カンマ」の用法の「典型的誤り」の例として挙げられていた。

(1−4)
*The woman, who was sitting behind the desk, gave me a big smile. (PEU, 506)
(下線は引用者。記号「*」については[1−24]参照。以下が適切な文として挙げられていた。
"The woman who was sitting behind the reception desk gave me a big smile."〈受付に座っていた女性は私ににっこり微笑んだ。〉"the reception desk"は原文通り )
第一章第2節で挙げた"The milk, which was near the window, turned sour."と比較せよ )
   Swanがこの文に記号「*」を付した理由として思い当たることを挙げておく。先に引用したCGELの記述(CGEL, 5.27)に見るように、定冠詞"the"を使用するに当たっての一般的条件とは、"the"に導かれる名詞句について「脈絡内照応性」は既に実現されているということは受け手にも伝わると話者が判断し得ることである。ところが、(1−4)では、受け手に伝わると話者によって判断されていることが受け手には伝わることなく、結果的に、"the"の使用条件は十分に充たされていない。話者は「the+名詞」を提示することで受け手に脈絡を参照すべしとの示唆を行っておきながら、何らの言語的脈絡も示しておらず、さりとて受け手は、それに代わるような非言語的脈絡に心当たりがあるわけではない。話者の示唆は受け手をどこに導くこともない。受け手は話者の不実([1−41]参照)を目の当たりにすることになる。Swanが記号「*」を付した理由はこの辺りに見出せるはずだ。

   もし、上記のごとき定冠詞"the"の使用条件は常に充たされるべきであるとしたら、例えば、話者は常に受け手の知識の範囲、即ち受け手の念頭にある(当該発話に関わる)非言語的脈絡の広がりを正確に見積もった上で発話を実現するのであるとしたら、文例(1−4)の場合のカンマは誤用であるというSwanの判断は広く共有されることになるかもしれない。

   実際には、「もちろん、話者が受け手の有する知識を誤って判断することはあり得る。その場合、受け手は which ないし what の疑問文によって明確化を図る必要があろう。」(CGEL, 5.28)ということにもなる。例えば、"Aren't the red roses lovely? WHAT red roses ?"(ibid)(下線は引用者)のように([1−40]参照)。更に、話者は時には、その名詞句は受け手にとっては既知でない、即ちその名詞句について「脈絡内照応性」は既に実現されてはいるがそのことはその場では受け手に伝わらないと判断しながらも、「the+名詞」を発話することがある[1−42]。「脈絡内照応性」が話者の念頭において密かに実現されているに過ぎない「the+名詞」の場合、「脈絡内照応性」は既に実現されているということを受け手に伝えるのに必要であろうと話者が判断する情報、即ち受け手が参照すべき脈絡は、時には、「the+名詞」の後から追加的に提示されることにもなるだろう。

   文例(1−4)――これを文法的に不適切な文ともカンマの誤用があるとも見なさない――の場合、「話者にとっては既知である名詞句"The woman"」[1−43]の指示内容である「特別な一個体」について語り得る(と話者に判断されている)ことがら[1−44]の一端が、カンマを伴うwho節という形で展開されている。

   ただし、このとき、その名詞句について「脈絡内照応性」という在り方の「特定」が既に実現されているということは、そのことを受け手に伝えるのに必要な脈絡が(示唆されているにせよ)受け手に示されてもおらず共有されてもいないが故に、受け手には伝わらない。言語的脈絡に代わる働きをする、話者の念頭にある非言語的脈絡は自ずから他者と共有されるわけではないのである。ここでの「脈絡内照応性」は話者の念頭において密かに実現されているに過ぎない。その限りにおいて、そうした名詞句は話者にとって既知であるとしても、受け手にとっては既知ではない。名詞句"The woman"の指示内容である「特別な一個体」は当該発話に関わる脈絡内で「どの一個体」に照応するのかが受け手に伝わるには、示唆されているに過ぎない参照すべき脈絡が、言語表現という形で示されるか、そこに至る経緯はどうあれ、受け手に共有されるに至ることが必要である。ただ、文例(1−4)について留意すべき点は、少なくとも脈絡を参照すべしとの示唆を行ってはいる話者に伝達の意志は欠落してはおらず、それゆえ伝達の可能性は残されていると判断し得るということだ。示唆されているだけで覆われたままの脈絡が明かされさえすればいいのである。話者は受け手が有する知識の範囲を常に正確に見積もった上で発話を実現するわけではない以上、話者の見積もりに誤りがあれば、手順はどうあれその誤りが正されればいいだけのことである。受け手にとって"The woman"は未だ既知ではないに過ぎない。そこに話者の決定的不実を見て取るのは早計である(「不実」の具体例については[1−41]参照)。

   ある名詞句が話者にとっては既知であっても、受け手にとっては既知ではなく、その上、受け手の了解に滞りが生じかねない場合がある。

(1−8)
They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.
(池谷彰「伝統文法の組織」(『英語学体系 第3巻 文法論T』所収)pp.226--227に、C. Smith, “Determiners and relative clauses in a generative grammar of English”, Language 40, 1964, pp.37--52から引用されている文例)(下線と斜体・太字は引用者)
〈彼らは一匹の犬を指差した。(…は)絶望的な様子で彼を見つめていた。〉(私訳)
   (1−8)の場合、受け手の了解に滞りが生じるとしたら、その滞りの中心にあるのは、「話者にとって既知である名詞句」と「そのような名詞句に添えられた修飾要素(ここでは非制限的名詞修飾要素)」との結びつきの在り方が受け手に誘う当惑である。

   こうした当惑は、時には、次のように語られることがある。。

特定的な不定名詞句は、非特定的な不定名詞句とは違って、非制限的関係詞節の先行詞となることがある。
〔8〕I met a logician, who is teaching at Chicago.[a logicianは特定的]
しかし、このような文の文法性の判断には個人差的な揺れがある
(安井稔編『コンサイス英文法辞典』"specific (特定的)"の項)(斜体・太字と下線は引用者)
   ここでの「個人差的揺れ」は概ね次のような経緯で生じる。まず、当然のことながら、話者にとってこの"a logician"は既知であり、名詞句"a logician"の指示内容である「特別な一人の論理学者」は話者の念頭にあるに過ぎない脈絡の中で「どの論理学者」に照応するのか、話者は先刻心得ている。そこで、受け手の側はてんでんにこの発話に関わる密かな脈絡を探り当てようとし、"a logician"に込められている「話者の思い」を慮ろうとするのである。受け手は、「どのような一論理学者」についてであれば、更にwho以下のことを語り得るのだろうか、という怪訝の思いに促されて慮るのであり、脈絡を参照すべしとの示唆が行われてもおらず参照すべき脈絡が示されてもいないがゆえに自力で手探りの脈絡探索を企てるのである。そして、そうした企ての成就や失敗は、一人一人その程度を様々に変えて体験され、受け手一人一人の了解を取り取りに形成することになる。ここではおそらく受け手は、話者の助けを望めないことを予感している。なぜ話者がここで"a logician"(不定冠詞+名詞)を用いているのかを考えてみれば分かる。話者が「不定冠詞+名詞」を用いているのは、この"a logician"については(話者の念頭においては)「脈絡内照応性」が既に実現されているけれどもそのことはその場では受け手には伝わらないし、そのことが受け手に伝わるのに必要な脈絡は未だ示されていない、即ち、受け手が参照すべき脈絡は不在である、と判断しているからである。従って、話者は脈絡を参照すべしとの示唆を行ってさえいない。このような状況下で受け手がてんでんに企てたのはそもそも詮無き業であったのであり、その結果としてのてんでんの揺れ、「個人差的な揺れ」であった。

   話者が独りつ分には如何様にも語り得る。話者の視点からということなら、話者は"I am a dog/ Christ/ Napoleon."とでも何でも語り得るのである。しかし、受け手の了解に解消し難いような滞りを引き起こすことが話者の目論見ではないとしたら、つまり、話者に伝達の意志があるのだとしたら、話者はその語りように一定の枠をはめられることになる。語るに際しては(物)語りの作法に従わねばならなくなる。受け手に、「語り得ようもないことがらが語られている」と判断させることがあってはならず、受け手に、「語り得ることがらが語られている」と判断させるような(物)語りでなくてはならない。例えば次のように。

〔3〕She has α car. It’s blue. (彼女には車がある。青色のね)
この場合、話し手は彼女の車がどういうものかを知っており、だからこそ「それは青色だ」とコメントしているわけである。
(安井稔編『コンサイス英文法辞典』"referential use (of noun phrases)((名詞句の)指示的用法)"の項)(下線と斜体・太字は引用者) [1−45]
   この場合、受け手にとって、この"a car"は「特別な個別性」が実現されている名詞句であるにとどまる(同辞典には、"a car"は「特定の指示対象をもつ不定名詞句」(ibid)とある)にせよ、受け手は了解の滞りとも当惑とも無縁であり、「ここでは語り得ることがらが語られている」という判断を遅滞なく下す。話者にとって名詞句"a car"は既知であり(「話し手は彼女の車がどういうものかを知っており」)、この名詞句の指示内容である「特別な一台の車」について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が語られているという事情は、先の"a dog"や"a logician"の場合と変わるところはないように見えるにもかかわらず、である。

   (1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)中の"a dog"及び"I met a logician, who is teaching at Chicago."中の"a logician"の場合、簡略な言い方をすれば、それらについて語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端がそれぞれ語られていた。"They pointed to a dog"に従属する節であるwho節には、"They pointed to a dog"中の"a dog"の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端が展開されていたし、"I met a logician"に従属する節であるwho節には、"I met a logician"中の"a logician"の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端が展開されていた。"She has α car. It’s blue."の場合にもやはり、"She has α car."中の"a car"について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が語られているように見える。

   しかしながら、受け手の視点から見て取れるのは、ここで語られているのは、"She has α car."中の名詞句"a car"の指示内容である「特別な一台の車」についてというよりむしろ、従属的節ではない独立の文"It’s blue."中の"It"の指示内容である「特別な一個体」について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端であるということだ。"It"の指示内容である「特別な一台の車」はここに示されている脈絡の中で"a car"に照応することを受け手は容易に見て取れるが故に、ここで話者によって語られているのは、「脈絡内照応性」は既に実現されておりそのことは受け手にも伝わるような名詞句の指示内容についてなのであって、"a dog"や"a logician"の場合のように、その指示内容である「特別な一個体」に照応すべき「特定の一個体」が(脈絡が示されていないが故に見当たるはずもなく)受け手にとっては空虚であるような名詞句の指示内容についてではないのである。「脈絡内照応性」は既に実現されておりそのことは受け手にも伝わるような名詞句の指示内容についての(物)語りが、ここでは(物)語りの作法通りに始められている[1−46]。話者は「the+名詞」ではなく、「the+名詞」に代わり得る"It"をまず提示して語り始めることで脈絡を参照すべきことを、付随的に伝達の意志を示唆していることに加え、参照すべき脈絡を現に示してもいる。(1−8)の場合とは違って、ここでは(物)語りの作法が守られているために物語の主人公が明かされることになる。"It"が照応すべき"a car"、即ち、「彼女が持っている一台の車」がこの物語の主人公である。(物)語りはそのような「特別な一台の車」をめぐって始まったばかりである。そのような「特別な一台の車」は、未だ話者の念頭にあるに過ぎない脈絡の中で「どの車」に照応するのかは、(物)語りが展開される過程で、次第に受け手に明かされることになるかもしれない[1−47]。その「特別な一台の車」のことなら受け手には何から何まで分かっているという事態さえやがて訪れるかもしれない。(物)語りとは、(物)語りの冒頭で開陳される「脈絡内照応性の欠如」を徐々に充たすべき脈絡のことである。

   翻って、(1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)の場合、受け手の了解には滞りが生じる。そして、その滞りの中心にあるのは、「話者にとって既知である名詞句」と「そのような名詞句に添えられた非制限的名詞修飾要素」との結びつきの在り方が受け手に誘う当惑である。そして、この当惑は、「語り得ようもないことがらが語られている」と判断せざるを得ないという体験でもある。つまり、受け手の視点からは、名詞句"a dog"の指示内容である「特別な一匹の犬」に照応すべき「特定の一匹の犬」は(脈絡が示されていないが故に)いずこにも見出しようがなく、それゆえ空虚である他はない「特別な一匹の犬」について何ごとかが語られているように見えるのである。受け手は、語り得ようもないことがらが語られているといった場面に立ち会わされることになる。受け手には、互いに「融和不可能」([1−31]参照)な観念が結び合わされた命題が提示されているように見える。「空虚」について"(who) was looking at him hopelessly"と語り得ようはずもないのである。"A teacher is tall."という発話が成立しにくい([1−40]参照)のは、"A teacher"について語り得ようもないと判断せざるを得ないことがらが語られているからなのだが、このことは一面では、この名詞句"A teacher"の指示内容である「特別な一人の教師」は(この発話に関わる脈絡が全面的に不在である場合)空虚であると判断せざるを得ないが故に、空虚について"is tall"とは語り得ようはずもないと判断せざるを得ないということでもある。

   かくして、"She has α car. It’s blue."の場合、「個人差的な揺れ」が指摘されないのは、"It"の指示内容である「特別な一個体」が"a car"に照応することを受け手は容易に見て取れるからである。また、この発話が受け手の了解に滞りを誘いにくいのは、"a car"の指示内容である「特別な一個体」について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が、(1−8)の場合のように非制限的名詞修飾要素という形で展開されていないからである[1−48](名詞修飾要素に伴うカンマは時に躓きの石だ[1−49])。つまり、受け手の視点からは、"It"の指示内容である「特別な一個体」について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が、即ち、(その「脈絡内照応性」は既に実現されていることが受け手にも伝わる)名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が語られているのであり、空虚についてその属性が語られているわけではないと判断し得るからである。

   その一方(1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)中の"a dog"については、"I met a logician, who is teaching at Chicago."中の"a logician"の場合と同様、「脈絡内照応性」は(話者の念頭にあるに過ぎない脈絡の中では)既に実現されているがそのことはその場では受け手には伝わらないし、そのことが受け手に伝わるのに必要な脈絡は未だ示されていない、と話者は判断しているはずなのである。

   このような場合、既に述べたように、受け手側の了解に解消し難いような滞りを引き起こすことが話者の目論見ではないとしたら、つまり、話者に伝達の意志があるのだとしたら、話者は、「語り得ることがらが語られている」と受け手に判断させるような語り方をせねばならない。空虚についてその属性が語られている、と受け手に判断させるようなことがあってはならないのである。

   にもかかわらず、(1−8)の場合のように、受け手にはその空虚が伝わるだけの「特別な一個体」について何ごとかが語られるとすれば、受け手の前に出現するのは、その端緒が既に結末であるような(物)語りということになる。そのような(物)語りは、「脈絡内照応性」が既に実現されているということが受け手に伝わるために必要な、受け手が参照すべき脈絡は、未だ示されていないにとどまらずこれからも示されることはない、ということの密かな宣告である。「特別な一個体」が「どの一個体」に照応するのかは受け手には決して伝わらないということの、「脈絡内照応性」は既に実現されていてもそのことは受け手に伝わることはないということの示唆である。そして受け手は途方にくれる。脈絡を参照すべしとの示唆が行われることも参照すべき脈絡が示されることも(物)語りが展開されることもなく、その代わりに、未だ示されていない参照すべき脈絡の将来的不在が、(物)語りは既に終わっていることが示唆される。空脈絡が、(物)語りの不在が示唆される。

   このとき、未だ示されていない参照すべき脈絡の将来的不在とは、受け手にとっては、"a dog"に欠けている「脈絡内照応性」を充たすべき脈絡は過去現在未来に渡って不在であり、その指示内容である「特別な一個体」はいつまでも「特別な一個体」という充たされぬ空虚であり続けるということである。受け手は、"a dog"に「記号それ自体の《意味》を認める」([1−20]参照)ことを、例えば「もっぱら愛玩動物である四本足の家畜の一種」を見出すことを求められているに等しい。"a dog"に後続して非制限的関係詞節という形で展開されているのは、受け手にとっては空虚でしかない指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端である、というのが受け手が下さざるを得ない判断である。展開されている属性の主体は受け手にとって空虚であり続けることが示唆され、(物)語りは始まるや否や展開されることもなく既に終わっている。(物)語りを展開する意志を、(物)語りの主人公を明かす意志を欠いた話者には、伝達の意志も欠落しており、それゆえ、ここでは伝達の可能性も欠落している。語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が語られてはいるのだとしても、受け手の視点からは、語り得ようもないことがらが語られているように見える。名詞句"a dog"の指示内容である「特別な一匹の犬」を唯一的に特定するのに必要な参照すべき脈絡の将来的不在が、即ち(物)語りの端緒がすでに結末であることが既に示唆されている以上、この「特別な一匹の犬」は受け手にとっていわば中身のない張りぼてであり続けるからだ。受け手の視点からは、さながら蝋細工の食品見本の味が語られており、空集合の要素があげつらわれており、行き過ぎるさの行人のふとした呟きを耳にしたかの思いに駆られる。話者の、則を越えた恣意が透けて見える。

   (1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)に関する受け手の直感的な印象はおそらく次のような当惑であろう。一体「どのような状況下にある特別な一匹の犬」についてであれば、「絶望的な様子で彼を見つめていた」といったことを語り得るというのか。(1−8)中の非制限的関係詞節に示されているような属性はどんな犬にも備わっているわけはないのである。しかし、受け手はこうした当惑を解消する手立てをいずこにも見出し得ず、話者には受け手のそうした当惑を解消しようという意志が欠落している。手妻さながら、虚空から次々とあれやこれやのものが取り出だされるといった光景を前に受け手は呆然と佇むほかはない。

   受け手が体験するこうした呆然たる思い、「どのような状況下にある特別な一匹の犬」についてであれば「絶望的な様子で何かを見つめていた」という述辞を選択し得るというのか、といった当惑は、受け手の了解にたまゆらの滞りを引き起こすことにつながる。そして、その滞りの中心にあるのは、その指示内容である「特別な一個体」が受け手にとっては空虚であり続けるような名詞句の指示内容(即ち、空虚)について、何ごとかが語られているということである。語り得ようもないことがらが語られているという事態を前にしての戸惑いである(繰り返すが、「空虚」についていかなる属性を語り得るというのか)。

   (1−8)では、「特別な一匹の犬は、絶望的な様子で彼を見つめていた」という主辞と述辞の組み合わせが成立しているわけではないのである。この「特別な一匹の犬」は受け手にとっては今もそしてこれからも空虚であり続け、空虚は「××は、絶望的な様子で彼を見つめていた」のようにも表記し得ず、せいぜい「(…は)絶望的な様子で彼を見つめていた」と表記し得るのみであり、そこに見出せるのは命題の項であろうかと推測し得る程度の述辞に過ぎない。《空虚を主辞の項に置いた命題》(命題に非ざる命題であり、「非命題」とでも呼んでおく他はない)はそもそも受け手の了解を拒絶しており、伝達の意志を欠いた話者の、受け手に対しては閉じられた独自世界内で密かな主辞を戴いて成立している命題、命題に非ざる命題、「非命題」である。受け手の了解が成立する場である世界認識とは異質の世界認識に由来するという印象しか与えない命題(「非命題」)が提示されることになる。

   これに比べれば、例えば、「国際連盟は、弁舌を上達させるには立派な組織である」([1−44]参照)という主辞と述辞の組み合わせは、話者独特の、それだけに、受け手に異和の感(ときには、親しみ、かもしれない)を呼び起こす可能性のある体験(そして世界認識)を予感させるにしても、「非命題」を紡ぎ出す類のあの独自性と閉鎖性に比べれば遥かに開かれている。ことによれば(脈絡は探索し得ないことに、参照すべき脈絡は過去現在未来に渡って不在であることに気付かぬまま探索を続ければ)、(1−8)の受け手は発話全体に関わる自らの了解がふと闇に閉ざされるのを体験するかもしれない。(1−8)のような孤立した発話は受け手を我知らぬ間に無明に引き込み、受け手は、自らの了解にまとわりつく暗い陰によって判断を曇らされ、辿るべき道を誤るようなことがあるかもしれない。例えば、(1−8)中のカンマなどは不要なのだ[1−49]参照)、という風に。しかしながら、受け手に伝わるべきは、参照すべき脈絡は徹底的に不在であるということ、結果的に受け手は当該発話に関わる脈絡を、従って話者の閉ざされた思いを共有し得ないということ、話者には伝達の意志が欠落しているということである。

   受け手が当惑を誘われることになる契機を考える上で、あるいは、(1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)中の"a dog"とそれに後続する非制限的関係詞節との関係の在り方を目の前にして我知らぬ間に無明に引き込まれるといった受け手の体験が夢幻でないことを確認するためにも、(1−8)中の"a dog"と以下の(1−9)中の"a dog"を対照することは無駄ではあるまい。

(1−9)
They pointed to a dog who was looking at him hopelessly.
(池谷彰「伝統文法の組織」, ibid)(下線と斜体・太字は引用者)
〈彼らは、絶望的な様子で彼を見つめている一匹の犬を指差した。〉(私訳)
   (1−9)で吟味の対象とすべき名詞句は、"a dog"というより"a dog who was looking at him hopelessly"である。この名詞句(不定冠詞+単数名詞+制限的関係詞節)と(1−8)中の「不定冠詞+単数名詞+非制限的関係詞節」とは、カンマを視野から消せば視覚的には同一の語群である。しかしながら、「主辞と述辞の組み合わせ(即ち一つの判断)」を読み取れた(1−8)の場合とは異なり、(1−9)の場合、「一つの複合的名辞[1−50](更に[1−31]参照)」を目にすることになる。ここでの「不定冠詞+名詞」と名詞修飾要素(制限的関係詞節)との結びつきは受け手の当惑を誘うこともない。それどころか、「絶望的な様子で彼を見つめている犬」やら「逆立ちして綱渡りをする犬」やら「白いカラス」やら「窓ガラスで背中をこする黄いろい霧[The yellow fog that rubs its back upon the window-panes]」(T. S. Eliot, The Love Song of J. Alfred Prufrock, 西脇順三郎、上田保訳)([1−18]参照)やらは、受け手の判断対象たり得る情報であるための要件を未だ充たしていない。未だ単なる主辞ないし述辞であり、それぞれにやがて組み合わせられることになるのかもしれない述辞ないし主辞の項は未だ空白のままである。

   判断対象たり得るための要件を充たしている情報は命題を構成する項に見出せる([1−31]参照)というよりむしろ、主辞と述辞の備わった命題に見出されるのである[1−51]。受け手は、「我が国の首相は絶望的な様子で彼を見つめている犬である」とか「犬は逆立ちして綱渡りをする」とか「カラスは白い」のような「主辞と述辞の組み合わせ」を提示されて初めて、そこに示されている話者の判断は共有するに値するかどうかを判断することになるのであり、あるいは、たとえ一瞬であれそこに異和を体験することになるのであり、更には「そこに示されているそれらの観念は融和不可能である」という判断を下すことにもなるのである(「融和不可能」、「判断〔命題〕と複合語句の対照」などについては[1−31]参照)。(1−9)の場合、受け手は、我知らず無明に引き込まれるといった体験とも、当惑や了解の滞りとも未だ無縁である。

   こうして、(1−8)と(1−9)の場合では、受け手が体験する了解には確かに相違があり、しかも、そこにはカンマの有無の他に違いを見出せない以上、カンマに体験の相違の淵源を求めるほかはなくなる。つまり、カンマは決して紙魚ではなく、カンマの有無はそのまま、時には文体の重要な特性につながるような情報量の差である。ひとたびカンマは紙魚ではないことを確認できれば、カンマの有無に起因する(1−8)と(1−9)の相違は、一般的に提示されている関係詞節の在り方の相違でもある[1−52]。当然のことながら、カンマが招くのは、普通は、無明や当惑や了解の滞りといった、受け手に不安や異和感を掻き立てるような心的体験だけではないのである。そして、見て見ぬ振りが許される紙魚などではないカンマによって分節される関係詞節の在り方の相違とは次のようなものである。

   カンマの介在を契機として受け手に伝わることは、話者にとって既知である名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が、非制限的名詞修飾要素という形で展開されているということである。そして、「(話者にとって)既知である名詞句」と「そのような名詞句に添えられた非制限的名詞修飾要素」との結びつきは、名詞句の指示内容とその属性との間に内在する結びつきに相当する。

   (1−2a)(Last month I read a novel and a biography. The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.)(第一章第3節参照)及び(1−8)(They pointed to a dog, who was looking at him hopelessly.)中の"The novel"と"a dog"の場合、その指示内容である「特別な一個体」について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端が、非制限的名詞修飾要素という形で展開されている。

   その内、(1−2a)の場合のように、名詞句"The novel"には「脈絡内照応性」が既に実現されているということが(現に示されている脈絡を介して)受け手に伝わる場合もある。"the"を掲げることがそのまま脈絡を参照すべしとの示唆ともなっている"The novel"は、現に示されている参照すべき脈絡の中で"a novel"に照応することを、受け手は見て取れるのである。この場合、受け手は、"The novel"とwhich節の間にはカンマが介在すべきであるという話者の判断を共有し得る。

   他方、(1−8)中の"a dog"は、話者の思いが籠った名詞句であり、話者にとって既知である名詞句であり、その指示内容は話者にとって展開し得る属性の詰まった「わけありな個体」であるとしても、「脈絡内照応性」は話者の念頭において実現されているに過ぎないが故に、この名詞句は受け手にとっては既知ではない。既に述べたように、(物)語りを展開する意志を欠いた話者には伝達の意志も欠落しているが故に、この"a dog"の指示内容である「特別な一匹の犬」に照応すべき「特定の一匹の犬」を(脈絡が過去現在未来に渡って不在であることが示唆されているために)受け手はいずこにも見出し得ない。この"a dog"が「どの特別な一匹の犬」のことなのか受け手には見当もつかない。そして、受け手は、この"a dog"は「わけありな個体」の対極に位置するような「空虚」であると判断せざるを得ない。このとき、受け手は、"a dog"とwhich節の間にはカンマが介在すべきであるという話者の判断を共有し得るわけではなく、そこにはカンマが介在すべきであると話者は判断していると判断し得るのみである。そしてこれが、そこにあるカンマを介して受け手に伝わることである。

   とまれ、(1−2a)と(1−8)のいずれにおいても、話者にとって既知である名詞句に続けて、「そのような名詞句を非制限的に修飾する要素(即ち非制限的名詞修飾要素)」という形で展開されているのは、その名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端であった。

   既に本章第3節で次のように述べておいた。

   発話の構成要素となっているある名詞句の指示内容について、非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が――そのような「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わるかどうかとは関わりなく――話者の念頭においては既に実現されている場合もある。文字を用いて実現されている発話では、ある名詞句の指示内容については非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が既に実現されている(と話者に判断されている)ということが受け手に伝わる際に、カンマ([1−12]参照)がその媒介となる場合がある。

   文字を用いて実現されている発話では、ある名詞句には非制限的名詞修飾要素を添え得るほどの「特定」が既に実現されているという話者の判断が、名詞修飾要素に伴うカンマによって表示されることがある。名詞修飾要素に伴うカンマは、その名詞句が話者にとって既知であることを受け手に伝えるのであり、このとき、カンマを伴う名詞修飾要素は、話者にとって「脈絡内照応性」が既に実現されている名詞句(即ち話者にとって既知である名詞句)の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがらの一端の展開であることが、受け手には伝わるのである。カンマは、その名詞句が受け手にとっても既知である(あるいは、既知でなくてはならない)ということを示しているわけではない。つまり、受け手は必ずしも、その名詞句にはカンマを伴う名詞修飾要素を添え得るという話者の判断を共有し得るわけではないのである。もしその名詞句が受け手にとっても既知である(即ちその名詞句にはカンマを伴う名詞修飾要素を添え得ると受け手もまた判断し得る)とすれば、当該発話に関わる言語的脈絡が示されているからであるか、もしくは、そのような言語的脈絡に代わる働きをする非言語的脈絡が話者と受け手に共有されているからである[1−53]。脈絡――当該発話に関わる言語的脈絡、もしくは、そのような言語的脈絡に代わる働きをする非言語的脈絡――を介して初めて受け手に伝わるべきことは、脈絡が不在である場合には受け手には伝わらない方が、拠りどころを欠いた伝達はむしろ実現しない方が、つまり、伝わるべくもないことは伝わらない方が幸いであろう。

  

(第一章 第5節 了)

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© Nojima Akira