ヒンデミット「ウェーバーの主題による交響的変容」 〜ちょっと寄り道〜

2019年 11月 17日 初版作成
2020年 2月 2日 一部追記


 横浜フィル 次回(第83回、2020年5月3日)の定期演奏会で、ヒンデミット作曲「ウェーバーの主題による交響的変容」を演奏します。
 ヒンデミットは、第58回(2007年11月)に交響曲「画家マティス」を演奏して以来です。
 ということで、ヒンデミットについて、ちょっと寄り道をしてみましょう。

 ちなみに、今年2020年は、「ベートーヴェン生誕250周年」であるとともに、「ヒンデミット生誕125周年」でもあります。「ヒンデミットは、ベートーヴェンの「半分」程度に新しい」ということですね。(ベートーヴェンが「古典」なら、ヒンデミットも「半古典」ということ・・・どういうこっちゃ?)

パウル・ヒンデミット(1895〜1963)
Paul Hindemith




1.ヒンデミットの生涯

 パウル・ヒンデミット(1895〜1963)はドイツの作曲家です。ただし1930年代に台頭したナチスとの折り合いが悪く、指揮者フルトヴェングラーが新聞紙上でヒンデミットを擁護したいわゆる「ヒンデミット事件」によってドイツを離れ、スイスを経て1940年にアメリカに亡命します。これは「20世紀の音楽史」には必ず出てくる有名な話です。
 ヒンデミットについてはきちんと経歴をトレースしたことがなかったので、この機会にその生涯の足跡を調べてみました。(代表曲、有名曲の作曲の履歴も入れてみました)

1895年11月16日:ドイツのハーナウに生まれる。ハーナウは、ヘッセン州の町で、フランクフルト(・アム・マイン)の東約20 km にある。グリム童話で有名なグリム兄弟の生誕地でもある。父親は職人だったが、子供達には夢を託して音楽教育を行った。
1908年(12歳):フランクフルトのホッホ音楽院に入学。ヴァイオリンと作曲を学ぶ。
1913年(17歳):劇場オーケストラのヴァイオリン奏者として活動を始める。
1916年(20歳):フランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターとなる。
1918年(22歳):第一次大戦に従軍。父親は戦死。戦後は主にヴィオラ奏者として活動しながら作曲を始める。
1919年(23歳):ヴィオラ・ソナタ Op.11-4無伴奏ヴィオラ・ソナタ Op.11-5
1920年(24歳):アマール弦楽四重奏団を結成、ヴィオラを担当。
1921年(25歳):「室内音楽第1番」Op.24-1(12の独奏楽器のための)
1922年(26歳):「小室内楽曲」Op.24-2(木管五重奏曲)
1924年(28歳):フランクフルト歌劇場の首席指揮者ロッテンベルクの娘ゲルトルートと結婚。「室内音楽第2番」Op.36-1(ピアノと室内管弦楽団)
1925年(29歳):「室内音楽第3番」Op.36-2(チェロと室内管弦楽団)、「室内音楽第4番」Op.36-3(ヴァイオリンと室内管弦楽団)。この頃「朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された『さまよえるオランダ人』序曲」(弦楽四重奏)を作曲。

1927年(31歳):ベルリン音楽大学の作曲科教授。ベルリンで、Vn. ヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールトベルク)、Vc. エメヌエル・フォイアーマンと三重奏団を結成。「室内音楽第5番」Op.36-4(ヴィオラと室内管弦楽団)、「室内音楽第6番」Op.46-1(ヴィオラ・ダモーレと室内管弦楽団)、「室内音楽第7番」Op.46-2(ヴィオラ・ダモーレと室内管弦楽団)。
1928年(32歳):「室内音楽第8番」Op.46-2(オルガンと室内管弦楽団)。
1934年(38歳):フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルで交響曲「画家マティス」が初演され好評を博す。しかし三重奏を組むシモン・ゴールトベルクがユダヤ人であったことからヒンデミットとナチス政権との折り合いが悪く、交響曲の本編である歌劇「画家マティス」の上演許可がおりなかった。これに新聞紙上でフルトヴェングラーが抗議したことから、フルトヴェングラーはすべての公職、ベルリン・フィル、ベルリン国立歌劇場音楽監督の地位を解かれることとなった(ヒンデミット事件)。ヒンデミット自身も帝国音楽院の顧問を辞職してトルコに逃れた。なお、この事件をきっかけにベルリン歌劇場第一楽長の地位にあった指揮者のエーリヒ・クライバーは、南米アルゼンチンに移住した(なので、息子は「カール」ではなくカルロス・クライバー)。
1935年(39歳):「白鳥を焼く男」(ヴィオラ協奏曲)を作曲。
1936年(40歳):公式にドイツ国内でのヒンデミットの作品の上演が禁止された。ヒンデミットはトルコの音楽教育の編成、アンカラ音楽院の創設に尽力。
1938年(42歳):スイスに亡命。バレエ音楽「気高い幻想」、そこから抜粋して組曲「気高い幻想」。

1940年(44歳):アメリカに亡命。「交響曲変ホ調」。
1943年(47歳):「ウェーバーの主題による交響的変容」。
1946年(50歳):アメリカ市民権を得る。ダラス交響楽団の委嘱により「シンフォニア・セレーナ」。
1951年(55歳):スイスのチューリヒ大学教授。バーゼル室内管弦楽団創立25周年記念に交響曲「世界の調和」(同名のバレエ音楽から)。
1953年(57歳):スイスに移住。
1956年(60歳):ウィーン・フィル初来日に指揮者として随行。
1958年(62歳):ピッツバーグ市創立200年記念に「ピッツバーグ交響曲」を作曲。
1963年(68歳):スイスの自宅で高熱を発し、診察に訪れていたフランクフルトで死去。
 

2.「ウェーバーの主題による交響的変容」

 ここでいう「変容」とは、「メタモルフォーゼン(Metamorphosen):変化、変身(複数形)」のことであり、音楽用語でいえば変奏曲(variation)とほぼ同等ですが、変奏曲(variation)ほど「主題」に縛られずに自由に発展させるものを指します。
 有名なところではリヒャルト・シュトラウス晩年の傑作「23の独奏弦楽器のためのメタモルフォーゼン」(1945年)があります。(これは音楽形式というよりは、連合軍の空爆によりドイツの伝統や文化が破壊されていくことへの想いをタイトルにしたものでしょう。モチーフとしてベートーヴェンの「英雄」交響曲第2楽章の「葬送行進曲」が引用されています)

 ヒンデミットの「ウェーバーの主題による交響的変容」は、アメリカ亡命時代の1943年にアメリカで作曲され、翌1944年1月にアルトゥーロ・ロジンスキー指揮ニューヨーク・フィルによって初演されました。
 この時代には、同じくアメリカに亡命していたバルトークの「管弦楽のための協奏曲」(1943年)、シェーンベルクの「主題と変奏」(オリジナルは吹奏楽用のOp.43aで管弦楽編曲版はOp.43b)、ストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」(1945年)などがあり、いずれも「音楽後進国アメリカ」を意識して調性的にも内容的にも「分かりやすい」音楽になっています。アメリカ人作曲家のものでは、コープランドのバレエ音楽「ロデオ」(1942年)、「アパラチアの春」(1944年)などがあり、バーンスタインもこの時代に交響曲第1番「エレミア」(1942年)、バレエ「ファンシー・フリー」(1944年)、ミュージカル「オン・ザ・タウン」(1944年)などを作曲しています。

 曲は4つの楽章で構成され、各々が「ウェーバーの主題」による自由な変奏曲となっています。
 ここでいう「ウェーバーの主題」とは、下記のものです。

第1楽章:アレグロ〜 ウェーバー作曲「4手のピアノのための8つの小品」Op.60 の第4曲(YouTube 音源に飛びます)
 ↓全曲版
 「4手のピアノのための8つの小品」Op.60 の全曲演奏(YouTube 音源に飛びます)。第4曲は 16:40 から

第2曲:楽章:トゥーランドット、スケルツォ〜 ウェーバー作曲・劇音楽「トゥーランドット」Op.37 の序曲(YouTube 音源に飛びます)

 この「トゥーランドット」は、アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)に起源をもつ「謎かけ姫」の物語ですが、ヨーロッパでは1710年ごろにフランスで出版された「カラフ王子と中国の王女の物語」として広まったようです。有名なところではプッチーニ作曲の歌劇「トゥーランドット」が有名で、トリノ冬季オリンピックのフィギュアスケートで荒川静香さんが「誰も寝てはならぬ」を使いましたね。物語の舞台は北京です。(日本の長崎を舞台にした「蝶々夫人」に続くオリエントシリーズです)
 ウェーバーの「トゥーランドット」は、1809年にシュトゥットガルトで初演された演劇で、ウェーバーはこの劇のために音楽を書きました。中国の雰囲気を出すために、ジャン=ジャック・ルソーの『音楽辞典』の巻末譜例から『中国の歌』を引用しているとのことで、この「ウェーバーの主題」の原曲も確かに「なんちゃって中国風」ではあります。

第3楽章:アンダンティーノ〜 ウェーバー作曲「4手のピアノのための6つの小品」Op.10a 第2曲(YouTube 音源に飛びます)

第4楽章:行進曲〜 ウェーバー作曲「4手のピアノのための8つの小品」Op.60 第7曲(YouTube 音源に飛びます)
 ↓全曲版
 「4手のピアノのための8つの小品」Op.60 の全曲演奏(YouTube 音源に飛びます)。第7曲は 27:45 から
 

3.ヒンデミットの代表作

 ヒンデミットは多作家で、歌劇をはじめいろいろな分野の曲を作っています。自身がヴァイオリン、ヴィオラ奏者であったことから、室内楽もたくさん手掛けています。
 作曲技法としてはやや無調に近い作風ながら、完全な無調や十二音音楽には進まずに調性の範囲内で作曲しています。
 また、伝統音楽としての形式や対位法に優れており、対位法マニアのピアニストであるグレン・グールドも「対位法の大家」として認めており、バッハ、シェーンベルクに次いで多く演奏・録音しています。そういった意味で「職人」的な作曲家だったといえます。

3.1 交響曲

 ヒンデミットは、いわゆる「番号付き交響曲」は作曲していませんが、「交響曲」に分類されるものを8つ作曲しています。その8曲とは

(1) 「おどけたシンフォニエッタ」作品4(1916年、未出版)
(2) 交響曲「画家マティス」(1934年)
(3) 交響曲変ホ調(1940年)
(4) シンフォニア・セレーナ(1946年)
(5) シンフォニエッタ ホ調(1949年)
(6) 吹奏楽のための交響曲変ロ調(1951年)
(7) 交響曲「世界の調和」(1951年)
(8) ピッツバーグ交響曲(1958年)

 この中では、(2) の交響曲「画家マティス」が圧倒的に有名で、ヒンデミットの全作品の中でも代表作とされています。
 「画家マティス」以外にも職人技の光るよい曲が多いので、この時代のドイツ人作曲家による「交響曲」としてもっと演奏されてもよいと思います。「ドイツ」でも「アメリカ」でもない「カテゴリー分けできない曲」ということがネックなのでしょうか。
 ウィーン出身で、アメリカで「映画音楽」作曲家として活躍したエーリヒ・コルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」などの演奏頻度が高まってきていることもあり、そろそろヒンデミットにも陽が当たってもよいのではないでしょうか。

(1)「おどけたシンフォニエッタ」作品4(1916年、未出版)
 これは若い時代の作品で、演奏されることはほどんどありません。私も録音を含めて聞いたことがありません。なのでパスします。

(2)交響曲「画家マティス」(1934年)
 フルトヴェングラーの「ヒンデミット事件」のきっかけともなったもので、「交響曲」は歌劇「画家マティス」のプロモーション用にオペラの中から「聴きどころ」を抜粋したものです。
 詳しくはこちらの2007年の「画家マティス」の記事に書いてありますが、中世の画家マティアス・グリューネヴァルトが、宗教改革期の宗教戦争の中、農民側の「プロテスタント」に心情的にひかれながらも、仕事の依頼主であるカトリック教会に従わざるを得ないという「芸術家と社会との対立・葛藤」を描いています。この主題にナチスは「ナチス政権への批判」として反発したのでしょうね。
 3つの楽章はそれぞれグリューネヴァルトが描いた「イーゼンハイムの祭壇画」の中の絵に対応しています。この祭壇画はフランス東部のアルザス・ロレーヌ地方(ストラスブール近郊)の小都市コルマールの修道院をそのまま利用した「ウンターリンデン美術館」にあります。私は2012年のドイツ出張の折、ちょっと足を延ばして行ってきました(そのときの記事はこちら)。その意味で思い入れのある曲です。

第1楽章:天使の奏楽
 下記の「イーゼンハイムの祭壇画」第2面の中央上で天使が弦楽器を弾いている「天使の奏楽」の絵です。

イーゼンハイムの祭壇画第2面イーゼンハイムの祭壇画第2面

天使の奏楽

第2楽章:埋葬
 上記の「イーゼンハイムの祭壇画」第2面の中央下の台座部分でイエスが埋葬されている絵です。

第3楽章:聖アントニウスの誘惑
 下記の「イーゼンハイムの祭壇画」第3面の向かって右側の扉で、聖アントニウスの修行中に様々な魑魅魍魎・怪物たちが現れて誘惑(というよりも脅迫・拷問)する絵です。

イーゼンハイムの祭壇画第3面イーゼンハイムの祭壇画第3面

聖アントニウスの誘惑
(部分的に拡大)

(3)交響曲変ホ調(1940年)
 ヒンデミットがアメリカに亡命した直後の作品です。
 ドイツの作曲家として、「交響曲とはこのようなものだ」というのをアメリカに誇示する目的もあったのでしょうか、明るくて華やかで、いかにも「映画音楽」を思わせる明快な楽想ながら、形式的には交響曲にのっとったものとなっています。とにかくカッコいい!
 「交響曲」という器に、アメリカ人の好きそうな音楽を盛りつけたといった趣向でしょうか。
 初演は、ディミトリ・ミトロプーロス指揮のミネアポリス交響楽団。
(「変ホ調」といいながら、すべての楽器の楽譜は「調号なし」で、すべて臨時記号で書かれています)

第1楽章:非常に生き生きと
 最初に提示される金管のファンファーレによる第1主題が、リトルネルロ主題として繰り返し登場します。フェルマータ後の第2主題も華やかで、そのまま大パノラマを展開してさっそうと終わります。

第2楽章:非常にゆっくりと
 「画家マティス」の第2楽章を思わせるエレジーもしくは葬送行進曲。中間部のオーボエ独奏も「画家マティス」の第2楽章を思わせます。終結部はヒンデミットお得意の対位法的なもの。

第3楽章:生き生きと
 いわゆるスケルツォ楽章。ただ、ちょっと魔女のお祭り的な怪奇的な雰囲気です。マーラーの交響曲第10番(クック版)のスケルツォに似たモチーフも出てきます。
 中間部はオーボエに始まるちょっと穏やかな落ち着き。
 スケルツォに戻って、そのまま第4楽章に続きます。

第4楽章:生き生きと
 付点による行進曲風の主題が対位法的に展開して繰り広げられます。大いに盛り上がった後に、木管によるコケティッシュな踊りや、弦楽器のエレジーを挟んで、再び盛り上がってクライマックスで曲を閉じます。

(4)シンフォニア・セレーナ(1946年)
 「穏やかな(のどかな)交響曲」というタイトルを持つ曲です。第二次大戦が終結し、平和な時代がやってきたという安堵感の中で作られたということでしょうか。
 1946年にダラス交響楽団の委嘱で作曲され、アンタル・ドラティ指揮ダラス交響楽団により初演されています。
 曲は4つの楽章から成り、第2楽章が管楽器と打楽器のみで演奏され、ベートーヴェンが軍楽隊用に作曲した「行進曲ヘ長調」WoO.18 のパラフレーズになっています。これと対応して、第3楽章は弦楽器のみで、2つのグループに分かれた「対話」となっています。
 ヒンデミットの「遊び」が織り込まれた曲になっています。

第1楽章:適度に速く
 ホルンによる穏やかな、4度、5度の跳躍をもつ第1主題で開始します。
 第2主題はオーボエで提示されます。
 対位法的に展開され、最後は第1主題で盛り上がって終止します。

第2楽章:パラフレーズ〜ベートーヴェンによる速い行進曲、管楽器のみ
 ベートーヴェンの「行進曲ヘ長調」WoO,18 に基づくパラフレーズ(自由な引用と変奏)であり、管楽器と打楽器のみで演奏されます。
 行進曲といっても、ヒンデミット特有の変拍子が紛れ込みます。

第3楽章:対話〜2セクションの弦楽器
 2グループの弦楽合奏に分かれ、一方は「静かに」と指定されたしっとりとした部分を演奏、他方は「スケルツァンド」と指定されたおどけたピチカートによる部分を演奏します。また、「オーケストラの中」の独奏ヴァイオリンと「左側の舞台裏」の独奏ヴァイオリン、そして「右側の舞台裏」の独奏ヴィオラと「オーケストラの中」の独奏ヴィオラが対話します。
 最後は、両方のグループによるポリリズムの音楽となります。(2/2拍子2小節と、4/8拍子とが対応する)

第4楽章:フィナーレ
 いろいろな楽器や楽器群が次々に登場する「管弦楽のための協奏曲」といった楽章で、いろいろなテーマがいろいろな楽器で対位法的に扱われます。まるで遊園地のような音楽。
 コーダでは弦楽器のビルの上から降りてきたロープのような速いパッセージの上に独奏管楽器が断片的なテーマを乗せ、ヴィオラとピッコロだけになったところに「ガツン」と打楽器と金管が参入して終わります。

(5)シンフォニエッタ ホ調(1949年)
 これもめったに演奏されません。私も録音でも聞いたことがないので、これもパスします。

(6)吹奏楽のための交響曲変ロ調(1951年)
 これは吹奏楽の世界では重要な曲らしいのですが、私はあまりよく知らないのでパスします。

(7)交響曲「世界の調和」(1951年)
 これは、パウル・ザッハーが創設したスイスのバーゼル室内管弦楽団の創立25周年記念として委嘱され、ヒンデミットが1936年から手掛けていてまだ完成していなかった歌劇「世界の調和」から引用して作曲されました。
 歌劇「世界の調和」は、天文学者ケプラーを主人公としたもので、ケプラーが1619年に著した「世界の調和(Harmonices Mundi、これはラテン語。古楽器などの録音レーベルである「ハルモニア・ムンディ」はこれのことです)」にちなんだタイトルとなっています。
 曲は3つの楽章からなり、それぞれ古代ローマの哲学者アニキウス・ポエティウス(480〜525)が古代の音楽観をまとめた「音楽綱要(De Institutione Musica)」に書かれた音楽の分類である「Musica Instrumentalis(ムジカ・インストゥルメンタリス:楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽)」「Musica Humana(ムジカ・フマーナ:人間の体の調和としての音楽)」「Musica Mundana(ムジカ・ムンダーナ:世界・宇宙の調和としての音楽)」をそれぞれのタイトルとしています。
 ヒンデミットのこのオペラに対する思い入れと、音楽の世界に対するヒンデミットの理論的な思考・思想が生んだ、理屈っぽくて緻密で複雑な音楽になっています。

第1楽章:Musica Instrumentalis(ムジカ・インストゥルメンタリス:楽器や声を通して実際に鳴り響く音楽)
 冒頭ののトランペットによる「4度下降」によるモチーフは、オペラの序曲からとられているそうです。これに続き、厳しい表情の行進曲、そして3/8拍子のフーガが続きます。最後は行進曲と冒頭のテーマが再現して終止します。

第2楽章:Musica Humana(ムジカ・フマーナ:人間の体の調和としての音楽)
 緩徐楽章。冒頭は「ケプラーの歌」に相当するそうです。金管の付点リズムの伴奏に乗って、夢見る、憧れるような、しかし確実な足取りで歌われます。続くオーボエ独奏はケプラーの奥さん。ちょっと悲しみをたたえながらも強く優しい表情。(これも「画家マティス」の2楽章のイメージに似ている)
 最後は、ティンパニやグロッケンなどの打楽器を従えた弦楽器のエレジー。

第3楽章:Musica Mundana(ムジカ・ムンダーナ:世界・宇宙の調和としての音楽)
 フィナーレは低音楽器による重厚な対位法的主題で長い序奏が開始され、主部は9/8拍子のパッサカリアです。中間にフルートとファゴットによるレシタティーヴォ風の部分を挟んで、パッサカリア主題が繰り返され、最後はクライマックスとなって曲を閉じます。
 オペラの終幕部分に相当するそうです。

(8)ピッツバーグ交響曲(1958年)
 ピッツバーグ市創立200周年記念祭のための委嘱を受けて作曲され、1959年1月にヒンデミット自身の指揮するピッツバーグ交響楽団によって初演されています。
 3つの楽章からなり、第3楽章の終結部にはピッツバーグの市歌である「ピッツバーグ讃歌」が引用されています。

第1楽章:きわめてエネルギッシュに
 最初にヴァイオリンに23小節の定旋律が提示され、これに対旋律を付随させる「カントゥス・フィルムス」の形式で作られています。

第2楽章:ゆっくりした行進曲
 付点付きリズムに伴奏されて、オーボエが長い旋律を歌い、それがホルンで繰り返されます。  中間部ではテンポが変わって、トランペットによる「ペンシルヴァニアのオランダ人入植者の歌」が現れて何回か変奏されます。
 「入植者の歌」の旋律をティンパニが受け持った後、「入植者の歌」が対旋律となった冒頭のテーマに戻り、弦楽器による静かな終結部で終わります。
 ヒンデミット自身が、このオランダ人入植者たちの「ドイツ語に近いなまり」になつかしさを感じたようです。

第3楽章:オスティナート
 短い断片的なモチーフを何度も繰り返しながら変奏します。ヴァイオリンのグリッサンドやハーモニクスを使った独特の響きがします。
 最後の方の変奏の中にホルンによる「ピッツバーグ讃歌」が紛れ込み、次第に高揚して終止します。
 

5.室内音楽

 ヒンデミットは、大戦間の1920年代に、実験的要素を取り込んだ「室内音楽」をたくさん作っています。
 第一次大戦後のこの時期は、ヨーロッパ社会は疲弊していたためか、第一次大戦前の肥大化したオーケストラによる大音響から一変して、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」やペルゴレージの編曲による「プルチネルラ」、イタリアのレスピーギによる「リュートのための古い舞曲とアリア」や組曲「鳥」、フランス六人組などにみられるように「小編成のオーケストラ曲」が多く作られました。いわゆる「新古典主義」の時代です。

(1)室内音楽第1番、作品24-1(1922年)
 12の独奏楽器のために書かれています。12の楽器とは、フルート(ピッコロ持ち替え)、クラリネット、ファゴット、トランペット、打楽器(いろいろな打楽器を1人で演奏)、ハーモニウム、ピアノ、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。

(2)小室内楽曲 作品24-2(1922年)
 木管五重奏曲(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)。

(3)室内音楽第2番、作品36-1(1924年)
 ピアノと室内オーケストラの協奏曲。

(4)室内音楽第3番、作品36-2(1925年)
 チェロと室内オーケストラの協奏曲。

(5)室内音楽第4番、作品36-3(1925年)
 ヴァイオリンと室内オーケストラの協奏曲。

(6)室内音楽第5番、作品36-4(1927年)
 ヴィオラと室内オーケストラの協奏曲。

(7)室内音楽第6番、作品46-1(1927年)
 ヴィオラ・ダモーレと室内オーケストラの協奏曲。

(8)室内音楽第7番、作品46-2(1927年)
 オルガンと室内オーケストラの協奏曲。
 

6.ヴィオラのための音楽

 ヒンデミット自身がヴィオラ奏者であったことから、ヴィオラソナタや独奏ヴィオラのためのソナタを多数作曲している、ヴィオラ奏者の重要なレパートリーとなっています。

(1) ヴィオラと大室内管弦楽団のための協奏音楽、作品48(1930年)

(2) 「白鳥を焼く男」(1935年)

(3) ヴィオラとピアノのためのソナタ
  ヴィオラソナタ ヘ調 op.11-4 (1919年)
  ヴィオラソナタ op.25-4 (1922年)
  ヴィオラソナタ ハ調 (1939年)

(4) 独奏ヴィラのためのソナタ

  独奏ヴィラのためのソナタop.11-5 (1919年)
  独奏ヴィラのためのソナタop.25-1 (1922年)
  独奏ヴィラのためのソナタop.31-4 (1923年)
 

7.いろいろな楽器のためのソナタ

 主にナチスに迫害を受けてドイツ国外に亡命して以降、弦楽器以外のいろいろな楽器のためにソナタを作曲しています。  めったに室内楽や他の演奏者との共演をしないグレン・グールドも、これらのソナタを録音しています。
 これらのソナタについては前回2007年に書いた記事あるのでそちらを参照ください。  
 

8.冗談音楽

 ヒンデミットはイメージ的には「くそまじめ」っぽいのですが、上の年表の中にも書いたように、自身の弦楽四重奏で楽しむために「朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された『さまよえるオランダ人』序曲」(弦楽四重奏、1925年)という曲を作っていますし、「弦楽四重奏のための軍楽隊レパートリー『ミニマックス』」(1923年)などという曲も作っています。
 結構「職人的」でありながら「ユーモアのある人」「パロディー好き」だったようです。
 そういう「皮肉っぽい」「批判精神が旺盛」なところが、ヒトラーやナチスとはウマが合わなかったのでしょうか。  
 



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