マーラー/交響曲第2番「復活」のちょっと寄り道 〜次回・第64回定演の演奏曲の関連情報〜

2010年 6月 20日 初版作成


 横浜フィルの次回・第64回定演の定期では、マーラーの交響曲第2番「復活」を演奏します。

 マーラーの「復活」については、皆さんそれぞれ一家言あるようですので、一アマチュアがあまり素人っぽいことを書くのも、他人からの聞きかじりを自分で調べたように書くのも何なのですが、せっかくの「復活」演奏ですので、気ままに寄り道してみることにしました。



1.第1楽章の草稿<交響詩「葬礼」>

 交響曲第2番「復活」の第1楽章は、当初は<交響詩「葬礼(Totenfeier)」>として作曲されたそうです。
 この「葬礼」という曲、私もマーラーの生誕150年記念のマーラー・コンプリート・エディションなる18枚組のCDを買って、初めて聴きました。(このセットの中の「葬礼」の演奏は、ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団です)

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 これはほとんど「復活」第1楽章と同じですね。
 「復活」第1楽章は、この「葬礼」からオーケストレーションを一部修正し(楽器規模を拡大)、数小節削除して完成させたもののようです。

 曲の成立の流れを時系列で整理すると、次のようになるようです。(ほぼ同時進行となる交響曲第1番の成立経緯については、第59回定期(2008年)のときに書いた「マーラーとヨハン・シュトラウスの意外な関係」も参照下さい。)

マーラー「復活」関連の出来事その他の出来事
1860マーラー誕生(7月7日)。 
1876「ピアノ四重奏曲」第1楽章作曲。ブラームス/交響曲第1番
1878ブルックナーに依頼され、ブルックナー交響曲第3番を4手ピアノ用に編曲。 
1880「嘆きの歌」作曲。ブルックナー/交響曲第4番
1883マーラー23歳。カッセル王立歌劇場の指揮者になる。ワーグナー没
1885「さすらう若者の歌」完成。ブラームス/交響曲第4番
ブルックナー/交響曲第7番
J.シュトラウス/喜歌劇「ジプシー男爵」
1888交響曲第1番となる「交響詩」を作曲。
交響曲第2番のもとになる「葬礼」を作曲(「交響曲ハ短調」と書かれていたとも)。
「子供の不思議な角笛」作曲開始。
10月、ブタペスト歌劇場の指揮者に就任。
チャイコフスキー/交響曲第5番
R.シュトラウス/交響詩「ドンファン」
1889 11月、「交響詩」(交響曲第1番)をブタペストで初演する(初稿=ブダペスト版)。 フランク/交響曲d-moll
ドヴォルザーク/交響曲第8番
J.シュトラウス/皇帝円舞曲
1891 3月、ハンブルク歌劇場の指揮者に就任。
10月、交響曲第2番の第1楽章を単独に交響詩「葬礼」として出版しようと試みるが出版社に断られる。
11月にピアノ演奏でハンス・フォン・ビューローに聞かせるが不評。
チャイコフスキー/バレエ「胡桃割り人形」
1892歌曲集「子供の不思議な角笛」の第1群をほぼ完成、オーケストレーションを進める。 
1893 1月、交響詩「葬礼」を改訂。
7月、交響曲第2番の第2楽章〜第4楽章を完成。(第4楽章に「子供の不思議な角笛」の「原光」をそのまま転用。また第3楽章に「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」を管弦楽版として引用)
10月に「交響詩」(交響曲第1番)を改訂し交響詩「巨人」の名を付けてハンブルクで演奏(第2稿ハンブルク版)。
チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」
ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
1894 2月、ハンス・フォン・ビューローがカイロで客死。3月にハンブルクで葬儀が行われ、ここでオルガンと合唱によるクロプシュトックの「復活」を聴き、交響曲の終楽章の歌詞に使用することを思いつく。
4月、「葬礼」を改訂して交響曲第2番の第1楽章とし、6月に全曲の下書きを完成。
7月:交響詩「巨人」をヴァイマールで再演(ハンブルク版を一部改訂した第2稿ワイマール版と呼ばれるもの)。
12月、交響曲第2番を完成。
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
1895 3月、交響曲第2番の声楽の入らない第3楽章までをベルリン・フィルによって初演。
12月、交響曲第2番全曲をマーラー指揮ベルリン・フィルで初演。
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲
R.シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
1896 3月、交響曲第1番を最終稿で初演(第2楽章「花の章」を削除してオーケストレーションを改訂し、「巨人」のタイトルを削除した現行版=第3稿)。この演奏会で、交響曲第1番に先立ち、交響曲第2番の第1楽章「葬礼」のタイトルで演奏した。
11月、交響曲第3番を完成。
ブルックナー/交響曲第9番(未完)
R.シュトラウス/交響詩「ツアラトゥストラはこう語った」
ブルックナー没
1897ウィーン宮廷歌劇場指揮者に就任。ブラームス没
1899交響曲第4番に着手。 シェーンベルク/浄められた夜
J.シュトラウス没
1904交響曲第6番完成。ドヴォルザーク没

 つまり、交響曲第2番「復活」は、第1番の完成形(現在の4楽章版)よりも前に初演されたということですね。
 また、交響曲第2番そのものも、第1楽章は当初「交響詩『葬礼』」として構想され、交響曲にする過程で、第3楽章に歌曲「魚に説教する・・・」を流用、第4楽章に歌曲「原光」をそのまま転用、第5楽章にクロプシュトックの「復活」を取り込み、ということで、最初から交響曲として構想したという訳ではないようです。
 

2.第3楽章で引用される「子供の不思議な角笛」

 「子供の不思議な角笛」(Des Knaben Wunderhorn)は、ドイツロマン派文学者のルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニム(1781〜1831)とクレメンス・ブレンターノ(1778〜1842)が収集し、1806 年〜1808年に出版されたドイツの民衆歌謡の詩集です。全体で約600編の詩を含むそうですが、マーラーはその中から歌曲集としては12曲、それ以外に交響曲第4番の第4楽章「天上の生活」、「若き日の歌」の中の9曲、「最後の7つの歌」の中の2曲にも取り上げており、計24編に曲を付けています。

 詳細はwikipediaを参照下さい。

 マーラーの歌曲集「子供の不思議な角笛」は、1888年から1898年にかけて順次作曲され、12曲から成ります。ただし、このうち「原光」(Urlicht :おおもとの光といった感じでしょうか)は交響曲第2番に、「3人の天使が優しい歌を歌う」は交響曲第3番の第5楽章に転用されたので、この2曲を歌曲集から除外し、逆に同じ詩集から歌詞をとって後に作曲された「死んだ鼓手」と「少年鼓手」を追加することも多いようです。構成や曲順は固定していない、ということのようです。
 これらの作曲年代を順に書くと次のようになります。

番号曲名作曲年備考
  交響曲第1番ニ長調1888 
第1曲歩哨の夜の歌
(Der Schildwache Nachtlied)
1892 
第2曲無駄な骨折り
(Verlor'ne Muh)
1892 
第3曲不幸なときの慰め
(Trost im Ungluck)
1892 
第4曲この歌をひねり出したのは誰?
(War hat dies Liedlein erdacht?)
1892 
第5曲原光
(Urlicht)
1892交響曲第2番第4楽章に転用
第6曲浮き世の生活
(Das irdische Leben)
1892/93 
第7曲魚に説教するパドヴァの聖アントニウス
(Des Antonius von Padua Fischpredigt)
1892/93交響曲第2番第3楽章に引用
第8曲ラインの小伝説
(Rheinlegendchen)
1893 
  交響曲第2番ハ短調「復活」1887/94 
第9曲3人の天使が優しい歌を歌う
(Es sungen drei Engel einen sussen Gesang)
1895交響曲第3番第5楽章に転用
第10曲高き知性を讃えて
(Lob des hohen Verstandes)
1896 
  交響曲第3番ニ短調1893/96 
第11曲塔の中の囚人の歌
(Lied des Verfolgten im Turm)
1898 
第12曲トランペットが美しく鳴り響くところ
(Wo die schonen Trompeten blasen)
1898 
  交響曲第4番ト長調1899/1901第4楽章に「天上の生活」
死んだ鼓手
(Revelge)
1899「最後の七つの歌」より
少年鼓手
(Der Tamboursg'sell)
1899「最後の七つの歌」より

 このうち、「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」のオーケストラ部分が交響曲第2番の第3楽章に使用されています(歌詞はなし)。同様に、この歌曲集から歌詞を取った「若き日の歌」の中の「夏の歌い手交替(Ablosung im Sommer)」を、そのままオーケストラに置き換えたものが交響曲第3番の第3楽章に使用されています。
 つまり、交響曲第2番、第3番は、「子供の不思議な角笛」の歌詞を持った楽章(第2番が「原光」、第3番が「3人の天使が優しい歌を歌う」)と、歌詞はないがこの詩集の歌詞から作られた曲をそのままオーケストラとした楽章とを1つずつ持っていることになります。ちなみに、交響曲第4番は「歌詞を持った楽章」が1つだけです(「天上の生活」)。

 この辺の「流用」や「そら似」については、第50回定期(2003)のときに書いた昔の記事「マーラー交響曲第5番にまつわるよもやま噺」を参照下さい。

 この歌曲集は、曲順やどんな声で歌うかは指定されていませんので、演奏者によって、女声/男声の歌い分けや、同一曲を女声・男声の2重唱で歌うか否か、といった違いがあります。代表的なCDの演奏内容を比較してみました。

アバド盤:(女声)アンナ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾソプラノ)、(男声)トマス・クヴァストフ(バリトン)、アバド指揮ベルリン・フィル

シャイー盤:(女声)バーバラ・ボニー(ソプラノ)、サラ・フラゴーニ(メゾソプラノ、原光、天上の生活)、(男声)マティアス・ゲルネ(バリトン)、ゲスタ・ウィンベルイ(テノール、死んだ鼓手のみ)、シャイー指揮コンセルトヘボウ管弦楽団

バーンスタイン盤:(女声)ルチア・ポップ(ソプラノ)、(男声)アンドレアス・シュミット(バリトン)、バーンスタイン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団

セル盤:(女声)エリザベート・シュヴァルツコップ(ソプラノ)、(男声)ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ(バリトン)、ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団

タイトルアバドシャイーバーンスタインセル
順番順番順番順番
歩哨の夜の歌男声5男声1男+女1男+女6
無駄な骨折り女声4女声5男+女5男+女3
不幸なときの慰め男声3男声11男+女12男+女11
この歌をひねり出したのは誰? 女声8女声2女声2男声7
原光女声13女声7女声13
浮世の生活女声6男声4女声4女声2
魚に説教するパドヴァの聖アントニウス男声9男声6女声6男声9
ラインの小伝説女声2男声9女声8女声4
3人の天使が優しい歌を歌う
高き知性を讃えて男声10女声10男声9女声8
塔の中の囚人の歌男声7男声13男+女11男+女10
トランペットが美しく鳴り響くところ女声11女声12女声10男+女12
死んだ鼓手男声1男声8男声7男声1
少年鼓手男声12男声3男声3男声5
天上の生活(交響曲第4番終曲)女声14

 こう見ると、明らかに女声・男声が決まるものと、どちらもあり得るものがあることが分かります。
 軍隊もの(死んだ鼓手、少年鼓手)は男声が妥当ですが、同じ軍隊ものでも、女性の誘惑や亡霊(悪魔か死神か?)が出てくるもの(歩哨の夜の歌、塔の中の囚人の歌)は、1つの曲を歌い分ける方が面白いと思います。
 「トランペットが美しく鳴り響くところ」は、戦争ものでありますが、故郷で兵隊に行った恋人を待つ女性の歌なので女声が多いようですが、そこに現れる恋人の亡霊(既に戦死している)を男声が歌う方が説得力があるように思うのですが・・・(こう歌っているのはセル盤。おそらくフィッシャー=ディスカウの意見でしょう)。
 原詩が男女の掛け合いになっている「無駄な骨折り」や「不幸なときの慰め」は男女の掛け合いで歌うのが自然だと思います・・・。

 変わっているのは、シャイー盤で「浮世の生活」を男声が歌っています。この歌は、「かあちゃん、かあちゃん、腹減った!」という子供が、母親が麦を刈ったり粉をこねたり焼いたりして、パンが出来上がったときには棺桶の中、というブラックな歌なので、女声で歌うのが当然と思っていましたが。(交響曲第4番の第4楽章「天上の生活」と対を成しているそうですね)
 また、バーンスタイン盤で「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」を女声で歌っているのも風変わりです。
 

3.ベリオ作曲「シンフォニア」への引用

 イタリア生まれの現代作曲家ルチアーノ・ベリオ(1925〜2003)の『シンフォニア』(Sinfonia、1968/1969年)は、ニューヨーク・フィルハーモニックの125周年記念として委嘱された、8人の混声重唱を伴う、5楽章から成る管弦楽曲です。第4楽章までがベリオ自身の指揮によりニューヨーク・フィルで1968年10月10日に初演されました。翌年、5楽章に改訂され、エルネスト・ブール指揮の南西ドイツ放送交響楽団によりドナウエッシンゲン音楽祭にて初演されたそうです。なお、どちらも重唱は、当時ジャズ風のスキャットや、バッハを「ダバダバ、ダバダバ」と歌うことで有名だったヴォーカルグループ「スウィングル・シンガーズ」が担当しています。

 ちなみに、このニューヨーク・フィル創立125周年記念の委嘱作品としては、他に武満徹氏の「ノヴェンバー・ステップス」があります。(こちらは1967年11月9日に小澤征爾氏の指揮で初演)

 「シンフォニア」は、次の5つの部分から構成されます。

第1部:フランス語の歌詞。クロード・レヴィ=ストロースの『生のものと、料理されたもの』から引用。
第2部:O king(オー、キング)の副題。この曲が作曲された1968年に暗殺された黒人の人権活動家マーティン・ルーサー・キング牧師の名前を歌詞の素材として使用しています。
第3部:マーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章をもとに、多種多様な曲をコラージュした楽章。その上に「声」(語り、叫び、歌・・・)が重ねられます。
第4部:第1部の歌詞を抜粋。第2部と対になっています。
第5部:第1部から第4部までを再構成。(初演の翌年の1969年に追加された)

 第1楽章のレヴィ・ストロースは、昨年2009年10月に亡くなった社会人類学者・思想家ですね。私は残念ながらストロースの著作を読んだことも、思想の内容も知りませんが、訃報を聞いたときに、この「シンフォニア」に使われている人、ということに思い当たりました。

 ここで話題にしたいのは、当然「第3部」です。ここでは、ヴォーカルの叫びで始まり、マーラーの交響曲第4番の冒頭部分から、「復活」第3楽章が始まり、そのまましばらく進行します。そこにいろいろな曲の断片が継ぎ接ぎのように重ねられます。これが「コラージュ」といわれる手法で、もともと絵画などで新聞や雑誌あるいは布といった素材や、現実に存在するもの(ボタンやガラスの破片、小物など)を画布上に貼りつける手法を指すようです。
 ここでは、登場順に、マーラー交響曲第4番の第1楽章冒頭、ドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」(これがR.シュトラウスの「ばらの騎士」のワルツからいつの間にか入れ替わっている)、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」第2楽章などなど。一体、何曲分かるでしょうか。

 これに、さらに人声が重ねられます。最後には、「その日の出演者の名前を入れて」という指示もあるそうで、「サンキュー、***」(***には指揮者の名前)とそれぞれの演奏で違った指揮者名が挿入されます。

 この「シンフォニア」を都響定期(2008年1月)で歌われた歌手の方のブログ記事がありますので、ご参照下さい。

 でも、この「シンフォニア」の作曲当時の1967年は、現在と違って、マーラーはそれほどポピュラーな存在ではなかったと思います。ひょっとすると、当時ニューヨーク・フィルを指揮してマーラーを積極的に取り上げていたバーンスタインに敬意を表してのことだったのでしょうか。

 CDは、さすがに現代曲で売れる見込みもあまりないので、下記の2種類しか出ていないようです。

     ブーレーズ指揮/フランス国立管弦楽団、ニュー・スウィングル・シンガーズ(ヴォーカル) \764

     シャイー指揮コンセルトヘボウ管弦楽団、エレクトロニック・フェニックス(ヴォーカル) \1,684

 シャイー盤には、タワーレコードの特別企画盤(日本語解説付き)\1,000もありますが、限定盤なのでお早めに。

 我が家には、サイモン・ラトルが1998年にベルリン・フィルに客演したときのライブ演奏の映像がありました(テレビで放映されたものを録画したもので、市販はされていないようです)。ヴォーカルはシャイー盤にも出演している「エレクトリック・フェニックス」というグループで、マイクを使っています。

 YouTubeに、サイモン・ラトル指揮/バーミンガム市交響楽団のライブ映像もあったと思うのですが、著作権問題にひっかかるのか、現在は公開されていないようです。静止画の上に音だけ、というものはいくつかありました。
 下記のYouTubeの演奏者は不明ですが、写真は作曲者ルチアーノ・ベリオと、その奥様だった声楽家のキャシー・バーベリアンだと思います。
 ベリオ作曲/シンフォニア 第3部・前半
 ベリオ作曲/シンフォニア 第3部・後半

 ↓はブーレーズの演奏ですね。第3部の最後に「サンキュー、ミスター・ブーレーズ」と入っています。
 ベリオ作曲/シンフォニア 第3部・前半
 ベリオ作曲/シンフォニア 第3部・後半〜第4部
 

4.指揮者バーンスタインとニューヨーク・フィル

 マーラー「復活」の演奏に当たって、いろいろとCDを聴いていますが、やはりレナード・バーンスタインの指揮するマーラーはつくづく名演だと思います。
 バーンスタインは、1950年代までごく一部の指揮者に限られていたマーラーの演奏を一般化したという意味で、マーラー演奏史に絶大な貢献がありました。
 バーンスタイン自身も、同じユダヤ人ということもあり、また「作曲もする指揮者」として、マーラーに大いに共感し、マーラーの交響曲も「まるで自分で書いたような気がする」と言っていたそうです。 (Wikipedia参照)

 バーンスタインがマーラーの交響曲を全集録音したのは、マーラー生誕100周年である1960年から1967年まで、オーケストラは常任指揮者を務めていたニューヨーク・フィルでした。ちなみに、交響曲第2番「復活」は1963年の録音です。
 バーンスタインは、後にヨーロッパで活躍するようになってから、再度マーラーの交響曲を全曲録音していますが、このときも、交響曲第2番「復活」の録音にはニューヨーク・フィルを起用しています(1987年録音)。

 ニューヨーク・フィルがバーンスタインの手兵だった、ということもあると思いますが、実はニューヨーク・フィルはマーラー演奏にかけてはおそらく世界一の歴史と伝統を持つオケだから、ということでしょうか。

(1)マーラー自身がニューヨーク・フィルの指揮者であったこと。
 マーラーは、1907年(47歳)にウィーン宮廷歌劇場の指揮者を終われるように辞任した後、その年のうちにアメリカに渡り、1908年1月1日にメトロポリタン歌劇場にデビューします。このときから人生最後の4シーズンにわたり、冬はアメリカで、夏はオーストリアで過ごします。1908年秋からはニューヨーク・フィルの演奏会も指揮するようになり、世を去る3ヶ月前の1911年2月まで出演しています。
 つまり、ニューヨーク・フィルにとっては、マーラーは「自分たちの指揮者」だったのでした。

(2)マーラーの直弟子ブルーノ・ワルターが長らく指揮者を務めたこと。
 ユダヤ人であったことからナチスに追われたブルーノ・ワルターは、1939年にアメリカに渡り、生涯アメリカを本拠地に活躍します。ワルターは、1947〜1949年に「音楽顧問」を務めるなど、ニューヨーク・フィルとは生涯深い関係を持ったようです。
 ワルターは、マーラーも取り上げたと思いますので、ニューヨーク・フィルは、ヨーロッパがナチスの支配下でマーラーを演奏しなかった時期も含めて、マーラーの演奏を継続して伝統を維持する数少ない演奏団体であったと思われます。
 そういえば、1943年に、当時ニューヨーク・フィルの副指揮者だったバーンスタイン(25歳)は、健康が優れなかったワルターの代役で急遽コンサートを指揮し、衝撃的なデビューを果たしたのでした。
 また、私が最初に買ったマーラーのレコードは、ワルター指揮ニューヨーク・フィルの「大地の歌」(1960年のステレオ録音)でした。

 そう、バーンスタインは、今年(2010年)が没後20年の記念の年ですね。
 ということで、バーンスタイン作曲の「ミサ」(The Mass)を最近気に入っているので、別途紹介記事を書こうと思っています(いつになるか・・・)。この曲、「ミサ」といっても宗教音楽ではなく、いわばミュージカルです。カトリックのラテン語による「ミサ曲」と、英語テキストによる語りや歌が、エレキギターを含むロックバンドやマーチングバンドなどの種々雑多な伴奏を伴って歌われます。
 バーンスタインの曲は、クラシックの要素に加え、ミュージカルなどのシアターミュージックの要素、ジャズなどのアメリカ的要素などの「折衷」で成り立っていますが、マーラーの音楽にも軍楽隊、街の庶民音楽の要素が含まれていて(「復活」でいえば、第5楽章の舞台裏のラッパは軍楽隊もしくは街の祭のバンドのイメージ)、共通点が多いような気がします。
 作曲されたのは1971年、ワシントンに新築された「ケネディ芸術センター」(コンサートホール、オペラハウス、演劇用の劇場などの複合施設)のこけら落とし作品として、ジャクリーヌ未亡人から委嘱された作品だそうです(ケネディセンターには、私も行ったことがあります)。折からベトナム戦争の真っ只中、反戦運動やヒッピー、無気力と社会的規範の喪失といった精神的な危機感のもとに作られた曲です(英語のテキストはバーンスタイン自身の作ですが、一部はベトナム反戦のポップスグループとして有名な「サイモンとガーファンクル」の一人であるポール・サイモンが提供しています)。
 今では時代遅れの曲、との印象もありますが、当時のアメリカの精神的危機状況は、実は、今の日本がかなり似た状況なのではないか、とも思うのです。



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