グスタフ・マーラー(1860〜1911)
1.マーラーを知るための読み物
マーラーに関しては専門書もたくさん出ていますが、読んだのは一般の書店に置いてある値段の手ごろな文庫本・新書程度なので、その類を紹介します。
(1)村井 翔「マーラー(作曲家・人と作品シリーズ)」(音楽之友社、2004)
現時点で入手できる最も信頼できる本ではないでしょうか。
(2)船山 隆「カラー版作曲家の生涯 マーラー」(新潮文庫、1987)(絶版)
標準的な伝記。「カラー版」とあるとおり、伝記文だけでなく、マーラーとそれぞれの時代に関係した人物、街、自筆原稿や演奏会ポスター、初版楽譜などの写真が豊富です。著名人の一言コラムもあります。
残念ながら絶版のようです。
(3)柴田 南雄「グスタフ・マーラー―現代音楽への道」(岩波現代文庫、2010)
マーラーを愛し、日本のマーラー普及に携わってきた作曲家・柴田南雄氏の一般向け新書。伝記ではなく、マーラーの音楽の紹介が中心で、筆者の体験や関連話題への脱線も随所に。
元「岩波新書」の改装版。
(4)アルマ・マーラー/石井 宏(訳)「グスタフ・マーラー〜愛と苦悩の回想」(中公文庫、1987)(絶版)
マーラー未亡人であるアルマの回想録。アルマ(1879〜1964)は、第5交響曲作曲中の1902年に、21歳で20も歳上のマーラーと結婚、そして31歳で夫に死別。その後、画家ココシュカ(1886〜1980)との愛人関係、建築家ヴァルター・グロピウス(1883〜1969)と再婚・離婚、さらに小説家フランツ・ヴェルフェル(1890〜1945)と再婚。そのため、名前も「アルマ・マーラー・グロピウス」「アルマ・マーラー・ヴェルフェル」と変えました(マーラー未亡人であることを誇示するためか、マーラーの看板は下ろさなかったようです)。まあ、芸術家にインスピレーションを与える女性だったのでしょうか。
この本は、「アルマ・マーラー・ヴェルフェル」時代の1939年に出版されました。本来、アルマはこの手の内容を生存中に公にするつもりはなかったようですが、ヒトラーのナチス政権下でユダヤ人作曲家の「3M」(メンデルスゾーン、マイヤベーア、マーラー)が演奏禁止となり、マーラーの業績が闇に葬られることへのレジスタンスとして、記憶を呼び起こして書き上げて出版に踏み切ったようです。
多分にマーラーと自分を美化している部分もあると思われますので、事実と本音と建前を分けて読む必要がありますが、人間マーラーを知る手がかりとしては面白いと思います。
(5)アルマ・マーラー/ 酒田 健一(訳)「マーラーの思い出(新装版)」(白水社、2011)
上記のアルマ・マーラーの著作の新装版のようです。アルマの手紙も追加されているようです。
(6)吉田秀和「マーラー」(河出文庫、2011)
吉田秀和氏がマーラーについて書いた記事を集めたものです。あらためて、深い聴き方に感服します。
(7)「マーラー〜〈没後100年総特集〉」 (文藝別冊) (河出書房新社、2011)
いろいろな記事を集めたムック。
(8)前島 良雄「マーラー 〜輝かしい日々と断ち切られた未来」 ( アルファベータ、2011)
これは読んでいませんが、「従来のマーラー像を転換する」といううたい文句なので挙げておきます。
(9)前島 良雄「マーラーを識る」 ( アルファベータ、2014)
これも読んでいませんが、比較的新しい本ということで。
(10)須永恆雄 (編、翻訳)「マーラー全歌詞対訳集」 (国書刊行会、2014)
マーラーの歌曲の対訳を集めた本。
2.マーラーの生涯
マーラーの簡単な略歴をまとめておきます。
グスタフ・マーラー(1860〜1911)は、当時のオーストリア帝国のボヘミア、現在のチェコで、行商や酒製造を営むユダヤ人の家庭に生まれました。
両親には合わせて14人の子供が生まれたようですが、半数は幼少時に病気で他界したようです。当時の公衆衛生では、それが当たり前だったのでしょう。
チェコでは、マーラー誕生の直後にモラヴィアの中心都市であったイーグラウに移り、ユダヤ人とドイツ人が混在した町で「成功したユダヤ人」としてドイツ語を話し、ふつうの教育を受け、キリスト教会などで音楽に触れ、独学でピアノを弾いていたようです。
ピアノには、4歳のころ母方の祖父母の家の屋根裏で出会い、町の劇場の音楽家や教会の合唱団指導者に音楽の手ほどきを受けたようです。
1869年(9歳)でイーグラウのギムナジウムに入学し、本格的なピアノと音楽の勉強を開始します。よりよい教育が受けられるよう1871年(11歳)秋から翌年春までプラハのギムナジウムに転校しますが、またイーグラウに戻っています。
1875年(15歳):ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学します。在学中に「ピアノ四重奏曲イ短調」を作曲します。
1877年(17歳)のときに、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、師と仰いで交遊が始まります。ワーグナー崇拝者(ワグネリアン)でありながら、交響曲を重要視したのはブルックナーの影響なのでしょう。(ブルックナーの「交響曲第3番」の4手ピアノ版はブルックナーの依頼でマーラーが作成しています)
1878年(18歳):「ピアノ五重奏曲」で作曲賞を受けて音楽院を卒業。
1879年(19歳):グリム童話「歌う骨」に基づくカンタータ『嘆きの歌』完成。
1880年(20歳):『嘆きの歌』でベートーヴェン賞作曲コンクールに応募するが、審査員のブラームスらに拒否されて落選。(これで作曲家への道を絶たれ「指揮者で生計を立てるしかない」と判断。後年「生きるために指揮し、作曲するために生きる」と語っている)
1881年(21歳):スロヴァキアのライバッハで指揮者としてのキャリアを開始。
1883年(23歳):カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。
1885年(25歳):『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。
1886年8月(26歳):ライプツィヒ歌劇場の楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』に着手。
1888年(28歳):『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。
1891年(31歳):ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。
1892年(32歳):ハンブルク歌劇場で行われたチャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。立ち会ったチャイコフスキーは「優秀な指揮者だ」と評価。
1894年(34歳):『交響曲第2番ハ短調』を完成。
1895年(35歳):弟オットーが21歳で自殺。『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。
1896年(36歳):『交響曲第3番ニ短調』を作曲。
1897年(37歳):ユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。ウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の音楽監督となる。
1898年(38歳):ウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。
1899年(39歳):南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニックに山荘を建てる。
1900年(40歳):『交響曲第4番ト長調』完成。
1901年(41歳):ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。
1902年(42歳):3月アルマ(当時23歳)と結婚。『交響曲第5番嬰ハ短調』完成。10月長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)誕生。
1903年(43歳):次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)誕生。
1904年(44歳):『亡き子をしのぶ歌』、『交響曲第6番イ短調』完成、『交響曲第7番ホ短調』に着手。
1905年(45歳):『交響曲第7番ホ短調』完成。
1907年(47歳):ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督を退任。7月、長女マリア・アンナがジフテリアで死亡。マーラー自身も心臓病と診断される。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米。『交響曲第8番変ホ長調』完成。
1908年(48歳):『大地の歌』完成。秋に再度渡米。
1909年(49歳):ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任。『交響曲第9番ニ長調』完成。
1910年(50歳):精神分析医フロイトの診察を受ける。ミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演。10月、再び渡米。
1911年(50歳):2月にアメリカで感染性心内膜炎と診断されウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)!」。
3.交響曲第5番の時代――アルマとの出会いと結婚
交響曲第5番は、20世紀が始まったばかりの1901年に着手され、翌1902年に完成しました。この時期の出来事としては、アルマとの出会い、婚約、そして結婚、長女の出産があります。
この辺を年表にすると、次のようになります。
1897年:ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督に就任。
1900年:交響曲第4番完成。
1901年:交響曲第5番に着手。「亡き子をしのぶ歌」も着手。
11月アルマと知り合い、12月に婚約。
1902年:3月アルマと結婚。夏に交響曲第5番完成。11月長女マリア・アンナ誕生。
1904年:次女アンナ・ユスティーネ誕生。「亡き子をしのぶ歌」完成。交響曲第6番完成。
10月、ケルンで交響曲第5番初演(注:マーラー自身の指揮、オケはケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団)。
前述のアルマの本には、第5交響曲に関して次のような記述があります。1904年にケルンでマーラー自身の指揮による初演が行われたとき、アルマは行きたかったのに行けませんでした。そのときの記述です。
「第五が初演されている頃、私は熱があって寝ていた。第五、それは私が初めて彼の人生と作品とに力をかすことのできたものであった。その全スコアは私が清書した。のみならず、彼が私を無条件に信頼してブランクにしておいたところまで私が書いたのだ。」
アルマは、ツェムリンスキーに作曲を習っており(従ってシェーンベルクと同門)、結婚後は作曲を禁じられたものの、結婚前には何曲かの歌曲も作曲していたほどで、当時の最先端の作曲技法を身につけていたようです。そのため、5楽章最後の金管のコラールは「古臭い」といって気に入らなかったということです。
5.第5交響曲と歌曲の関係
マーラーの交響曲は、自身の歌曲と密接に関係していることは有名です。
たとえば、第1交響曲「巨人」は「さすらう若者の歌」、第2交響曲「復活」から第4交響曲は「子供の不思議な角笛」。(詳細は下記の付録にまとめましたので参照下さい)
一般に、第5から第7は、声楽を含まない純粋オケの曲で、歌曲との関係は希薄と言われていますが、この第5に関しては明確に歌曲との関連がある、と柴田氏は書いています。
(1)第1楽章と「亡き子をしのぶ歌」
まず、1楽章のティンパニ独奏によるファンファーレの再現の直前(練習番号15の11小節前:下記A)に、フルートに「亡き子をしのぶ歌」第1曲の節回しと同じもの(B)が出てきます。
(A.マーラー第5交響曲、第1楽章、練習番号15の11小節前)
(B.「亡き子をしのぶ歌」より第1曲「いま太陽は輝き昇る」13小節目)
「亡き子をしのぶ歌」は、第5交響曲とほぼ同時期に作曲が進んでいました。新婚で、妻が最初の子供を身ごもっている時期に、このような曲を作っていたことは縁起でもない気がしますが・・・。詩はリュッケルトが自分の子供を亡くした経験から書き上げたものだそうです。(数年後の1907年に、マーラー自身も長女マリア・アンナを失うことになります・・・)
ただし、この部分は、練習番号No.4から始まる葬送行進曲のこぶしのきいた節回しの変形とも考えられます。従って、引用というよりも、同時期に書き進めた同様の気分の個所に、結果として同じ曲想を使ったということではないか、と柴田氏は書いています。う〜ん、どうなんでしょうか。
この「亡き子をしのぶ歌」(原題「Kindertotenlieder」は直訳すれば「子供の死の歌」)は、いかにも縁起が悪いので、子供が生まれて以来20年近く聴いていませんでしたが、もう時効だろうと思って聴いてみました。放心状態にも似た悲痛な嘆きは、何度聴いても心打たれます。差し障りのない人は是非聴いてみて下さい。
(2)第1楽章と「子供の不思議な角笛」
また、第1楽章の葬送行進曲の旋律線や伴奏の付点リズムは、「子供の不思議な角笛」の「少年鼓手」によく似ています。この歌曲は、脱走を企てて捕まり、戦場で絞首刑にされる少年鼓手を歌ったもので、状況としては第1楽章に合い通じるものかもしれません。
(3)第4楽章と「リュッケルトによる5つの歌曲」
同じく同時期に作曲された「リュッケルトによる5つの歌曲」の中の「私はこの世に忘れられ」は、第4楽章アダージェットに雰囲気がそっくりです。これは、聴いてみるとなるほどと納得できます。(これは、自分の天国、自分の愛、自分の歌の中で孤独にひっそりと生きる、という、今で言えば引きこもりの歌です。原因は失恋でしょうか)
(4)第5楽章と「子供の不思議な角笛」
さらに、第5楽章の出だしのファゴットによる上昇音型は、「子供の不思議な角笛」の「高尚なる知性への讃歌」の冒頭にそっくりです。まあ、マラ9の第2楽章の出だしも同じ音型といわれればそれもそうなのですが・・・。
(付録)マーラーの交響曲と歌曲の関係
上でも触れた交響曲と歌曲の関連を、表にまとめてみました。
交響曲 | 場所 | 関連する歌曲 | 関連性 |
---|---|---|---|
第1番 「巨人」 | 第1楽章 | 「さすらう若者の歌」の 第2曲「朝の野辺を歩けば」 | 同一 |
第3楽章 トリオ | 同上 第4曲「彼女の青い目が」 | 同一 | |
第2番 「復活」 | 第3楽章 | 歌曲集「子供の不思議な角笛」の 「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」 | 同一 |
第4楽章 | 「原光」 (子供の不思議な角笛) | 詩集から歌詞を使用 | |
第3番 | 第3楽章 | 「若き日の歌」の 「夏の歌い手交替」 | 同一 |
第5楽章 | 「3人の天使が歌った」 (子供の不思議な角笛) | 詩集から歌詞を使用 (交響曲第4番の第4楽章と同一部分あり) | |
第4番 | 第4楽章 | 「天上の喜び」 (子供の不思議な角笛) | 詩集から歌詞を使用 (交響曲第3番の第5楽章と同一部分あり) |
第5番 | 第1楽章 練習番号15の 11小節前 | 「亡き子をしのぶ歌」の 第1曲「いま太陽は輝き昇る」13小節目 | そっくり似ている |
6.第5交響曲・第4楽章「アダージェット」
マーラーの交響曲第5番は、3つの部分、5つの楽章から成ります。
第1部
第1楽章:葬送行進曲
第2楽章:嵐のような荒々しい動きで
第2部
第3楽章:スケルツォ
第3部
第4楽章:アダージェット
第5楽章:ロンド・フィナーレ
この曲では、純粋に「緩徐楽章」と呼べるのは第4楽章だけです。弦楽とハープのみによって演奏されます。
第4楽章は、この曲を作曲しているときに出会い、婚約、結婚したアルマに対するラヴレターといわれています。
この第4楽章「アダージェット」は、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの癒し系楽曲を集めたオムニバスCD「アダージョ・カラヤン」の代表曲にもなりました。
ちなみに、カラヤンは多くの録音、様々な作曲家の全集録音をしていますが、マーラーに関しては全集録音をしておらず、マーラーを録音したのは1973年(65歳)になってからで、この「交響曲第5番」が初のマーラー録音でした。
アダージョ・カラヤン
カラヤン初のマーラー録音(交響曲第5番、ベルリン・フィル、1973年)
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)との「亡き子をしのぶ歌」とのカップリング
この第4楽章「アダージェット」を特に有名になったのは、1971年のルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」に使われてからでしょう。
1971年当時は、レナード・バーンスタインが初めて交響曲全曲を録音したものの、ごく限られたユダヤ人指揮者しか演奏しなかったマーラーの音楽を使ったという点で、画期的だったのでしょう。
トーマス・マンの原作では「初老の作家」が主人公ですが、映画では明らかにマーラーを想定した設定としています。
映画「ベニスに死す」
7.その他のマーラーに関する記事
この交響曲第5番の記事を書いたのち、交響曲第1番、第2番「復活」、第4番、第10番より「アダージョ」、そして交響曲第1番の遺稿である「ブルーミネ」(花の章)を演奏する機会に恵まれました。
そのときどきで、いろいろな無駄情報を書き留めましたので、ここにまとめてリンクを張っておきたいと思います。
興味があればご覧ください。
・マーラーとヨハン・シュトラウスの意外な関係 (2007年、交響曲第1番)
・マーラー/交響曲第2番「復活」のちょっと寄り道 (2010年)
・マーラー 交響曲第4番 に関する話題 (2009年)
・マーラー 交響曲第10番 ものがたり (2004年)