ショスタコーヴィチ 交響曲第12番「1917年」のちょっと寄り道 〜ロシア革命の無駄知識も〜

2025年 6月 19日 初版作成


 横浜フィルの次の演奏会(第92回、2026年1月18日)で、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」を演奏します。
 ショスタコーヴィチは、第24回(1989年10月29日)と第52回(2004年11月14日)に交響曲第5番を、そして第46回(2001年12月2日)に「祝典序曲」を演奏して以来です。

 ショスタコーヴィチの交響曲では、プロ・アマ問わず第5番が圧倒的に演奏頻度が高いです。その他の曲になると格段に演奏頻度が落ちますが、その中では最近は第7番「レニングラード」、第10番が演奏される機会も増えてきた様に思います。
 その中にあって、ロシア語の歌唱が入らないとはいえ第11番「1905年」、第12番「1917年」の演奏頻度は極めて低いです。その理由として、つい最近まで、音楽的な内容以前の「ソ連政権に忖度したプロパンガンダ作品」というレッテルが貼られていたことが影響しているようで、とてももったいない気がします。
 実は、この2曲の交響曲は私のお気に入りです。まるで映画音楽のように、情景やそこに登場する人々の心情が的確に音楽表現されていると思います。そういう「描写音楽」を一段低く見る人もいますが、「言葉や具体的な音で何かを説明する」のとは違った、作曲者自身やその歴史に立ち会った肉親や民衆の心象風景に迫る音楽がそこにあると思います。

 2025年はショスタコーヴィチ没後50年、2026年は生誕120年の節目にあたるので、この機会に交響曲第12番を演奏するのは大変意義深いと思います。

 ということで、今回はショスタコーヴィチと、交響曲で取り扱っている1917年のロシア革命について、ちょっと寄り道します。

recordドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)




1.私とショスタコーヴィチ

 私は、個人的にショスタコーヴィチに対する思い入れがあります。
 最初にショスタコーヴィチの音楽に向き合ったのは1969年。吹奏楽でしたが、交響曲第5番の終楽章を演奏しました。ショスタコーヴィチはまだ現役で、交響曲第14番を作曲している頃でした。
 そして、大学時代の1973年に、某インスタントコーヒー会社が後援して各地のアマチュア団体で演奏会を開く「ゴールドブレンド・コンサート」という催しでオラトリオ「森の歌」を演奏しました。
 当時は仙台の大学オケで演奏していて、仙台が「杜(もり)の都」と呼ばれ学生も多かったことから「杜の都、学生の街」というタイトルでのコンサートでした。
 司会は歌手のペギー葉山さん。ペギー葉山さんの持ち歌に「学生時代」という歌があっことからの人選だったのでしょう。もちろん、ペギー葉山さん本人の歌う「学生時代」や「ドレミの歌」の伴奏もしました。(ペギー葉山さんは、あの「ドレミの歌」の日本語歌詞の作詞者でもあります)

「学生時代」(ペギー葉山さん)

「ドレミの歌」(ペギー葉山さん)

 オープニングはブラームスの「大学祝典序曲」、そしてメインは独唱・合唱を交えた「森の歌」でした。
 ショスタコーヴィチの生存中にショスタコーヴィチの作品を演奏したというのが、私の音楽人生の中での一つの貴重な体験であり誇りでもあります。

 それに加え、私が大学生だった1970年代には、ソ連はアメリカと並ぶ科学技術の先進国で、噂によると「ソ連には、どんな凡才でも一流の科学者・技術者に仕立て上げるすぐれた教科書と教育システムがある」とのことでした。
 物理、化学、ロケット、原子力・・・など、いろいろな分野で。
 それらは門外不出なので、ロシア語を学ばないと読めない、学べないとも。
 ということで、大学では第二外国語としてロシア語を履修しました。
(結果として、そんなものは存在しないことが分かりましたが・・・)

 そんなこんなで、ショスタコーヴィチやロシアは、私にとっては学生時代から「ちょっと気になる」存在であり続けました。

 でも、学生時代、そして社会人になってからも、ソ連・ロシアは遠い国、鉄のカーテンの向こう側であり、行くことができない国だと思っていました。
 様子が変わったのが、1989年のベルリンの壁崩壊と、1991年のソ連崩壊。
 でもその後の経済的・社会的混乱で、ロシアに行くことがないまま時間が流れました。

 2013年に、ようやくロシアを訪問する機会がありました。
 ショスタコーヴィチの墓参りもできました。
 同じ墓地に、プロコフィエフの墓、映画監督エイゼンシテインの墓もありましたので、合わせてお参りしてきました。
 そのときの記事は、こちらを参照ください。

ショスタコーヴィチのお墓 ショスタコーヴィチの墓石 ショスタコーヴィチのお墓

 

2.ロシアの簡単な歴史

 交響曲第12番「1917年」を読み解くのに、1917年のロシア革命で起こっていた出来事を頭に入れておくのがよいと思います。
 そこだけ書いても何なので、ついでに「5分でわかるロシア史」をまとめておきましょう。ロシア音楽を楽しむ上で必要なバックグラウンドが一気に分かります。

(1)中世以前
 9世紀以前から、ロシア北西部のバルト三国に近い地方、現在のノヴゴロド州近辺に、北方から移動して来たヴァイキングの一派「ルス族(ルーシ)」が国家を樹立。現代でもこのノヴゴロドは「ロシア発祥の地」といわれています。

ノヴゴロドの位置 ノヴゴロド

(2)キエフ大公国(882〜1240年)
 882年にノヴゴロド公オレグがキエフを征服し、東スラヴを統一してキエフ大公国を築きました。
 10世紀ごろに、東ローマ帝国から「東方正教会」のキリスト教を導入します。

キエフ大公国の位置 キエフ大公国

(3)タタールのくびき(1240〜1480年頃)
 ユーラシア大陸の東からモンゴル民族(1206年にチンギス・ハンがモンゴル帝国を建国)が侵攻し、1240年にキエフが陥落して、旧キエフ大公国の大部分がモンゴル民族の支配下に入ります。
 1480年になって、モスクワを拠点とするモスクワ公国がモンゴルに対する献納を廃止し、その後他の地域もモンゴルの支配から脱して独立して行くことになります。その間の約250年間をロシアでは「タタールのくびき」と呼んで、歴史上の屈辱と考えています。

(注)ボロディン作曲のオペラ「イーゴリ公」に「ダッタン人の踊り」などが出てくるのはこういった歴史があるからです。

モンゴル族の所領 「タタールのくびき」時代のジョチ・ウルス(チンギス・ハンの長男ジョチ家の所領)

(4)モスクワ大公国(1263〜1547年)
 旧キエフ大公国の北部辺境にあったノヴゴロドはモンゴル人の支配下には入りませんでしたが、東方正教会の支配下にあったためドイツ騎士団・スウェーデンなどの「カトリック教団」(北欧十字軍)からも侵攻されました。
 ノヴゴロド公アレクサンドル(1220〜1263)はこれを撃退して現在のサンクト・ペテルブルクのネヴァ河の向こう側まで追いやりました。この功績によりアレクサンドルは「ネヴァ河のアレクサンドル(アレクサンドル・ネフスキー)」と呼ばれるようになりました。

(注)「アレクサンドル・ネフスキー」はロシアの歴史上の英雄の一人であり、映画監督エイゼンシテインは映画「アレクサンドル・ネフスキー」を制作し(1939年)、音楽をプロコフィエフが担当しました。プロコフィエフは、後にその音楽をカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」に改作しました。

 アレクサンドルの末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領がモスクワ大公国の起源になります。
 最初は辺境の小国でしたが、次第に領地を拡大し拠点をモスクワに移します。1480年にモンゴル帝国への献納を拒否して独立しました。そのときの大公がイヴァン3世(1440〜1505年、在位1462〜1505)であり「イヴァン大帝」と呼ばれます。
「イヴァン雷帝」と呼ばれるイヴァン4世(1530〜1584年、在位1533〜1584)はイヴァン大帝の孫にあたります。

モスクワ大公国 モスクワ大公国

(5)ロシア・ツァーリ国(1547〜1721年)
 イヴァン4世は、その在位中の1547年にロシア正教会からツァーリ(皇帝)として戴冠されて「東ヨーロッパ唯一の皇帝」として認められます。(「西ヨーロッパ」の皇帝は、ローマ・カトリック教皇によって戴冠された「神聖ローマ帝国」皇帝。当初は輪番制だったが後にオーストリアのハプスブルク家が代々務めた)
 また、中央アジアのモンゴル支配地域を奪還し、ロシアの版図をシベリアにまで広げました。

(注)このイヴァン4世の後継者は知的障害のあるフョードル1世のみであったため、摂政のボリス・ゴドゥノフ(1551〜1605年)が実権を握り、ツァーリとして即位することになります。このボリス・ゴドゥノフが、謎の死を遂げたイヴァン4世の皇太子ドミトリー(フョードル1世の異母弟)を暗殺したのではないかとの疑惑が、ムソルグスキー作曲のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」の原作です(プーシキンの作品)。
 また、映画監督エイゼンシテインは、1944年からイヴァン4世の生涯を描く映画「イヴァン雷帝」の制作を始めましたが、その強権的独裁者の扱いがスターリンの気に入らずに未完に終わりました。この映画の音楽もプロコフィエフが担当しましたが、未完成であったことからプロコフィエフ没後にアトヴミャン(ショスタコーヴィチの上演禁止となったバレエから作曲者の了解を得て「バレエ組曲」を編集した)がオラトリオとして編集しました。

 この謎の死を遂げた皇太子ドミトリーが実は生きていてポーランドで成人したとしてポーランド貴族の支援で挙兵し(偽ドミトリーと呼ばれる)、モスクワに進撃してボリス・ゴドゥノフの息子で帝位を継いだフョードル2世を殺害して即位し(ドミトリー1世、在位1605〜06)、折からの大凶作・飢饉やロシア内の貴族の対立によりロシアは大混乱となりました(大動乱、スムータ)。
(ポーランドはローマ・カトリック国なので、この偽ドミトリーにはローマ・カトリック教会やイエズス会など「ロシア正教」に対抗する宗教勢力の思惑が関係していた)

 モスクワ大公国の貴族(アレクサンドル・ネフスキーの弟の直系)シュイスキー(1552〜1612年)が、偽ドミトリーを殺害してヴァシーリー4世(在位1606〜10)として即位しますが、その後もポーランドが介入し(ロシア・ポーランド戦争:1605〜1618年)、スウェーデンも介入するなど、ヴァシーリー4世が退位した1610年からはツァーリ不在の無政府状態に陥ります。

(6)ロマノフ朝ロシア(ロシア帝国)(1613〜1917年)
 1613年になって、商人や貴族が呼びかけて結成した国民軍がポーランド勢力からモスクワを奪還し、ミハイル・ロマノフ(1596〜1645年)をツァーリに選出しました(在位1613〜45)。
 その後継者であるピョートル1世(1672〜1725年、在位1682〜1725)は、1721年に大北方戦争でバルト海沿岸地域を領土に収め、あらたにバルト海沿岸に首都ペテルブルクを建設して「ロシア帝国」を名乗り「初代ロシア皇帝(インペラートル)」となりました。(このため、歴史上の「ロマノフ朝ロシア」を1721〜1917年とすることも多い)
 ロマノフ朝ロシアは、フランス革命に対して「反革命」の立場をとり、ナポレオンの遠征を1812年に「冬将軍」の支援もあって撃退しました。

 ロシアは農業を中心とした後進国であり、農民も土地に縛られた「農奴」であったため、19世紀に産業革命やフランス革命後の市民階級の台頭で急速に近代化した西ヨーロッパに比べ、社会の近代化が遅れました。
 西ヨーロッパの啓蒙思想に影響された自由主義思想の青年貴族らが武装蜂起した「デカブリストの乱」(1825年)は政府軍に鎮圧され、首謀者や同調者はシベリア送りとなりました。
 また、進歩思想の作家アレクサンドル・プーシキン(1799〜1837年、「ルスランとリュドミラ」や「ボリス・ゴドゥノフ」、「エフゲニ・オネーギン」などの作家)はその進歩思想を嫌った保守派とのいざこざから「決闘」で殺されます。
 そういった「閉塞感」「徒労感」「やりきれなさ」が若い知識人を中心にロシア全体に蔓延しました。その結果「無気力、ニヒリズム」(エフゲニ・オネーギンがその典型例)、その対極としての革命思想、そしてバクーニンらに代表される「アナーキズム(無政府主義)」さらには「テロリズム」などを生み出しました。
 1861年にアレクサンドル2世が「農奴解放令」を出しましたが、社会全体に大きな変化は生まれなませんでした。そのアレクサンドル2世は、1881年に革命派のテロリストによって暗殺されます。
 海外に植民地を持てなかったロシアは、中央アジアそして満州へと進出し、日本と利害が対立して日露戦争(1904〜1905年)に発展します。

(7)ソビエト連邦(1917〜1991)
 1904年に始まった日露戦争は、ロシア経済を圧迫して国民生活を苦しめます。そんな中、1905年1月9日(西ヨーロッパのグレゴリオ暦では1月22日)に、ペテルブルクの宮殿前広場で国父としての皇帝にパンを嘆願する民衆の行進に守備兵が発砲して千人以上の死傷者を出す「血の日曜日事件」が起こりました。これにより国の家父長的存在だった皇帝に対する民衆の敬意や支持が失墜し、労働者のストライキが頻発するようになります。
 また、1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅的な敗戦を被ったことなどから厭戦機運が高まり、6月には黒海艦隊の巡洋艦ポチョムキンで水平の反乱が起こりました。
 こういった一連の出来事を1917年のロシア革命への第一歩として「第一次ロシア革命」と呼ぶこともあります。
 ショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」はこの「血の日曜日事件」を取り扱っています。

血の日曜日事件 ペテルブルク冬宮前広場での血の日曜日事件

 そして、第一次世界大戦(1914〜1918)にロシアが参戦すると、さらに社会・経済は混乱し、宮廷で怪僧ラプースチンが暗躍するに至って人心は皇帝から離れ、ついに1917年2月に市民のデモ隊と皇帝軍が衝突します。このときには皇帝軍は市民への発砲を拒否し、ロシア暦2月27日に皇帝ニコライ2世が退位して300年続いたロマノフ朝ロシアは消滅します。
 これが「二月革命」であり、西ヨーロッパのグレゴリオ暦では3月の出来事ですがロシアではそう呼ばれます。

 これにより、政権は臨時政府に移って西欧型の立憲民主主義を目指しますが、ドイツとの第一次大戦はそのまま継続しました(フランス、イギリスなどの「西部戦線」国から単独講和するなとの要請だったらしい)。
 臨時政府内には、戦争継続の自由主義派、戦争反対の社会民主主義派(後に「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれる)、急進的共産主義派(「ボリシェヴィキ(多数派)」)が並存して混迷を極めました。
 2月革命発生後、早期にロシアと停戦したいドイツは、スイスに亡命していたレーニンを密かに特別列車でペトログラードに移送しました(ドイツとの開戦後、ドイツ風の呼び方であった「ペテルブルク」はロシア風の「ペトログラード」に改められた)。ペトログラードに到着したレーニンは「すべての権力をソヴィエト(労働者・兵士で構成する会議)へ」とする「四月テーゼ」を発表しますが、7月に自由主義派と社会民主主義派の連立が臨時政府を掌握し、共産主義派の多くが逮捕され、レーニンは地下潜伏を余儀なくされます。レーニンは、ペトログラード郊外のラズリーフ湖近くに潜伏して「国家と革命」の執筆を始め、8月にはフィンランドのヘルシンキに移りました。
 8月になって、臨時政府内部で自由主義派の軍総司令官が社会民主主義派を一掃しようとクーデターを画策しますが失敗し、社会民主主義派は逮捕されていた共産主義派を釈放して連立を画策します。これにより臨時政府内では共産主義派の支持・権力が高まる結果となりました(共産主義派のトロツキーがソヴィエトの議長となった)。
 それを受けて、レーニンはフィンランドから帰国し(ショスタコーヴィチ自身が「フィンランド駅前でレーニンの演説を聞いた」というのはこのときのことと思われます)、レーニンが率いるボリシェヴィキ(多数派)は、ペトログラード・ソヴィエトの多数派を掌握し、軍からの支持も取り付けて10月24日(ロシア歴)に臨時政府を完全に掌握するための武装蜂起を開始しました。
 首相ケレンスキー(1881〜1970)を含む社会民主主義派(「メンシェヴィキ(少数派)」)が立てこもる冬宮に対して、10月25日にネヴァ河に停泊する巡洋艦「アウローラ号」の砲声を合図に進撃が開始され、首相ケレンスキーは国外に亡命し、10月26日にボリシェヴィキ(多数派)は政権の掌握を宣言しました。
 これが「十月革命」です。(これまた、西ヨーロッパのグレゴリオ暦では11月の出来事だが、ロシアではこう呼ばれる)

アウローラ号 ネヴァ河に停泊する巡洋艦アウローラ号

 ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」は、この「二月革命」から「十月革命」までの一連の出来事を扱っています。
(第1楽章冒頭の革命前夜の不穏な空気、第2楽章で「二月革命」後にレーニンが潜伏した「ラズリーフ」、第3楽章に「巡洋艦アウローラ」が登場することなどから、そういった時系列に沿っていると考えられます)

 その後、ボリシェヴィキ(多数派)による革命政府は、フランス、イギリスなどの同盟国を無視して、ドイツ・オーストリアと単独講和を結ぶことになります。(この無条件講和により、ポーランド、フィンランド、バルト3国などを失う)
 また、各国から革命に対する軍事干渉を受け、日本も「シベリア出兵」を行うことになります。

 そして、革命政府はその後も反革命勢力(「赤軍」に対して「白軍」と呼ばれる)との内戦を続け、ようやく1922年に「ソヴィエト社会主義連邦」の成立を宣言します。
 社会主義革命は世界全体で起こすものとされており(起て!万国の労働者)、1919年には世界革命を起こすための国際組織である「国際共産主義者同盟」(COMmunist INTERNational:コミンテルン:1919〜1943)を創設し各国の共産党・革命家を育成しますが、結局は「一国社会主義」に終わります。この「コミンテルン」は、その前身である「第一インターナショナル」(1864〜1876)、「第二インターナショナル」(1889〜1914)を引き継ぐ「第三インターナショナル」とも呼ばれます。この「第一インターナショナル」の中で実現した「パリ・コミューン」(普仏戦争敗戦直後にパリで誕生した自治組織)で作られた歌が「インターナショナル」です(作詞:ウジェーヌ・ポティエ(フランス語)、作曲:ピエール・ドジェーテル)。
 ソヴィエト連邦では、革命後の1918年から、スターリンが正式な国歌を定めた1944年まで、ロシア語歌詞によるこの「インターナショナル」が「ソヴィエト連邦国歌」として歌われました。

旧ソヴィエト連邦国家「インターナショナル」(ロシア語)

「インターナショナル」(日本語歌詞版)

(注)こちらの記事にあるように、交響曲第13番「バービイ・ヤール」の第1楽章で、反ユダヤ政策をとろうとするソ連政府を批判して、「ロシアはもともとインターナショナルだった」「『インターナショナル』よ高らかに鳴り響け」と歌うのは、こういった歴史に対する皮肉・ユーモアです。

(8)現在のロシア連邦(1991〜 )
 第二次大戦後、アメリカとソヴィエト連邦は2大国として東西冷戦をけん引しますが、1980年頃から東欧諸国での民主化要求、計画経済の行き詰まりが目立つようになり、西側の「豊かな商品経済」との格差が目立つようになります。
 1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが始めた「ペレストロイカ(再構築)」「グラスノスチ(情報公開)」によって急速に改革が進みますが、自由への渇望はとどまるところを知らず、1989年のベルリンの壁崩壊、チェコのビロード革命、ルーマニアの独裁政権崩壊、1990年の東西ドイツ統一やバルト三国の独立などを次々と引き起こし、ついにはソヴィエト連邦自体も1991年に崩壊しました。

 ソヴィエト連邦の主要構成国の一つであったロシア共和国は。1990年にエリツィンが大統領となり、1991年のソヴィエト連邦崩壊後にはロシア連邦の大統領となって、資本主義化を進めました。
 急速な資本主義化により、オリガルヒと呼ばれる新興財閥・資産家を生むとともに、スーパー・インフレを引き起こして経済は大混乱となり、1998年には債務不履行(デフォルト)に陥りました。
 2000年3月の大統領選挙で、エリツィンが後継者と指名した元KGB(国家保安委員会)のウラディーミル・プーチンが当選し、メドベージェフ大統領時代(2008〜2012)もプーチンは首相として権力を行使するとともに、その後の2012年選挙で大統領に返り咲き、結果として極めて長期にわたって政権を維持しています。
 その結果としての現状は、知ってのとおりです。  
 

3.交響曲第12番「1917年」

 この交響曲は、1957年に作曲された交響曲第11番「1905年」とともに「兄弟作」として1960〜61年にかけて作曲されました。

 ショスタコーヴィチは文化政策を含めて権威をふるったスターリンを嫌っており、スターリンが亡くなった1953年に、解き放たれたように「交響曲第10番」を作曲して自己主張を行いました。交響曲第10番の第2楽章は「スターリンの肖像」と言われ、第3楽章で何気なく登場し、第4楽章で高らかに吠える「D-Es-C-H」音形は「D. SCHostakovich」の音名象徴(エピグラフ)として墓石にも刻まれています。
 スターリンの死後、ソ連共産党の書記長に就任したフルシチョフは、スターリン批判を行って、アメリカを代表とする資本主義国家との「平和共存」を打ち出し、ソ連国内の文化・言論の統制を緩めて、いわゆる「雪融け」の時代が到来します。

 そこで、ショスタコーヴィチは当局からの要請や強制ではなく、自発的に交響曲第11番「1905年」と12番「1917年」を作曲します。

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(注)1950年代には、ショスタコーヴィチも50代になり、第二次大戦中の「レニングラード交響曲」などによって「世界的な作曲家」として国際的な名声を得ていましたから、いまさらソ連国内で権力に忖度する必要もなくなっていました。
 ソ連当局も、ショスタコーヴィチの国際的知名度を利用して、様々な「官職」「主要ポスト」を与えていました。ショスタコーヴィチ自身は、かなり「うっとうしかった」ようですが、「身の安全」を確保するために受け入れていたようです(下記の歌詞の最終行にその気持ちが表れています)。1966年には、そういった「自分の肩書」を含めた自作の歌詞による「自作全集への序文とその序文についての短い考察」作品123という歌曲を作っています。
 その歌詞の中に、自身の肩書を自虐とユーモアをもって列挙し、例の「D-Es-C-H」音形を伴って歌われます。

「・・・・・
 そこの署名は、ドミトリー・ショスタコーヴィチ
 ソヴィエト連邦人民芸術家
 その他にも非常に多くの名誉称号
 ロシア連邦共和国作曲家同盟の第一書記
 ソヴィエト連邦作曲家同盟のヒラ書記
 同様に非常に多くの
 きわめて重要な責任ある奉仕と義務」

 下記に音源がありますが、残念ながら日本語訳付きのサイトはありませんね。

「自作全集への序文とその序文についての短い考察」作品123(楽譜付き)

「自作全集への序文とその序文についての短い考察」作品123

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 この2つの兄弟交響曲が作られた背景には、ショスタコーヴィチ自身、そして父親や祖父母、曽祖父母といった歴代のショスタコーヴィチ家の革命に対する思いや共感が反映していると思います。
 ショスタコーヴィチの曽祖父ピョートル(1807〜1871)はリトアニアの獣医でしたが、1831年の帝政ロシアに対する反乱に加わって逮捕され、妻(作曲者の曾祖母)マリヤとともにウラル地方に流刑になっています。作曲者の祖父ボレスラフ(1845〜1919)はその地(現在のエカテリンブルク)で生まれています。
 ボレスラフは、ギムナジウム卒業後にモスクワに上京して革命結社「土地と自由」に加わって活動し始め、1866年の皇帝暗殺未遂事件に関連して逮捕されてシベリア送りになり、そこで革命運動の同志ヴァルヴァラと結婚します。
 その次男が作曲者の父親ドミトリー(1875〜1922)です。(作曲者と同じ名前。ロシアでは真ん中に「父称」を付けるので、父親は「ドミトリー・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチ」、作曲者は「ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ」)
 その父親ドミトリーも革命派であり、1905年のペテルブルクの「血の日曜日事件」のデモ行進にも参加していたそうです。また、1917年の革命に際しても革命後も、革命派に協力して働いていました。
 ショスタコーヴィチ自身も1917年の十月革命時に、父親に連れられてペトログラードの街頭で演説するレーニンの姿を見たと語っています。要するに、レーニンが呼びかけた集会あるいはデモに参加したということなのでしょう。
 なので、1917年のロシア革命はショスタコーヴィチ自身の「体験」であり、1905年の「血の日曜日事件」のことも父親から生々しい体験談を聞いていたのだと思います。
 こういった経緯から、ショスタコーヴィチ自身はレーニンに対して親近感や敬愛の情を抱いていたようです。そして、そこから捻じ曲がったスターリン以降の政権は「自分の理想とした革命とは違う」という違和感を持ち続けたのでしょう。(「政権」と「人民」のうち、自分は「人民」の側にいるという認識)

 このように、ショスタコーヴィチ家は、曽祖父母からの代々革命家の家柄だったわけです。それも、曽祖父だけでなく曾祖母も、祖父だけでなく祖母も革命家という、「筋金入りの革命家」の家系です。
 そういったショスタコーヴィチ家の「ファミリー・ヒストリー」から、交響曲第11番「1905年」と12番「1917年」は、「スターリンや共産党幹部たち」によって捻じ曲げられた歴史ではなく、純粋に自分と家族の歴史の中にある出来事こそが正真正銘の「ロシア革命」であって、それを再現・記録しようとした試みがこの2曲の交響曲なのではないかと思います。「ソ連当局にとってのロシア革命」ではなく、「我が内なるロシア革命」もしくは「革命当事者の心象風景」を描きたかったということです。

 私の勝手な解釈ですが、この2曲に対してはそのようなアプローチ、聴き方が必要なのだと思います。

第1楽章「革命のペトログラード」

 ここでいう「革命」は、1917年に続けて起こったブルジョア革命としての「二月革命」とプロレタリア革命としての「十月革命」の両方を指していると思います。
 そして、ひょっとすると第1楽章ではまだ「二月革命」の段階かもしれません。
 この楽章の冒頭の序奏では、革命前夜の不穏な風雲急を告げるペトログラードが描かれます(モチーフA)。その最後の4小節(「2」の3小節目から)は、第4楽章のコーダでも繰り返される「過去との決別」のモチーフなのでしょうか。
 そして、アレグロの主部の第1主題(序奏のモチーフAの変形)は「二月革命」(練習番号「3」)。
 レーニンは、二月革命の時点には亡命先のスイスにいましたので参加していません。
 第2主題(練習番号「16」からの「モチーフB」)は「レーニンのモチーフ」といわれています。この時点で、ようやくペトログラードに姿を現した。

 「24」で銅鑼が鳴り、ここからが展開部で、まずは第1主題が展開されます。
 ここで、突然「26」から、交響曲第11番の第2楽章にも登場する「軍隊の展開」を暗示する音形。ここは軍隊ではなく、革命を求める民衆でしょうか。
 そこに「28」から革命歌「憎しみのるつぼ」が引用されます。(交響曲第11番の第4楽章にも引用されている「ワルシャワ労働歌」にも似ています)
 ショスタコーヴィチの記憶の中に、この歌を歌った(あるいは聞いた)思い出があるのでしょうか(もしかすると父親と一緒に歌った)。

革命歌「憎しみのるつぼ」

革命歌「ワルシャワ労働歌」

 「37」からモチーフA、「39」からモチーフB、「44」から再びモチーフAが強奏されてクライマックスを作ります。

 打楽器が炸裂し、その打楽器の不穏な隊列行進の響きが残る中、「46」から再現部に入ります。
 モチーフBが弦楽器、次いで木管のコラール風に、さらにホルン独奏で静かに再現されます。そして「52」からモチーフAが金管コラールの形で再現され、木管のコラールに引き継がれて、打楽器の隊列行進を伴うブリッジ部で第2楽章に進みます。

第2楽章「ラズリーフ」

 「ラズリーフ」とは、二月革命後、臨時政府から排除されたレーニンが一時潜伏した場所です。
 最初に弦楽器に現われる主題は、他のショスタコーヴィチの作品でも使われている「夜」あるいは「静寂」を表わすものでしょう。
 「56」からホルンに現われる主題、「57」の2小節目からのホルンによるコラール風の主題が、この楽章の主要な動機になります。
 「65」の4小節目からモチーフBが登場し、ここにレーニンが潜んでいることを暗示します。
 「71」から、フルートに第3楽章の主題が予告のように登場します。ここでレーニンが十月革命の構想を練ったことを暗示するのでしょう。
 クラリネット独奏、トロンボーンの長い独奏を経て、第3楽章へと続きます。

第3楽章「アウローラ」

 「アウローラ」とは、十月革命の武装蜂起の合図となった大砲をぶっ放した巡洋艦の船名であり、北極の空に広がる「オーロラ」のロシア語です。(上記の「ロシアの歴史」の写真を参照ください)
 まずは、ティンパニと弦楽器のピチカートで、ペトログラードの街の中に展開する民衆が描かれます。この主題は第2楽章の「71」に既に登場していものです(「軍隊」のような整然とした隊列ではないので、変拍子です)。
 「84」の7小節目にはテューバにモチーフB(レーニン)も顔を出します。
 そして、ついに「88」でアウローラ号の号砲が鳴り響きます。
 武装蜂起から、そのまま第4楽章になだれ込みます。

第4楽章「人類の夜明け」

 十月革命により、ついに社会主義革命、民衆が主役の明るい社会がやって来た・・・。
 まず「92」から、ホルンが力強く朗々と明るい社会の到来を告げます。「勝利のモチーフ」と呼びましょう。
 「96」からは、新しい社会の建設でしょうか。
 「99」や「102」など、ところどころにモチーフAが現れるのは、まだ旧体制への想いや迷いがあり、内戦を経験しているのかもしれません。ところどころに勝利のモチーフも登場し、「106」からは静かながら確信に満ちて高らかに勝利が宣言されます。
 「109」から再び新しい社会の建設が繰り返され、「117」からモチーフBが登場。レーニンの主導による新しい社会の建設でしょうか。
 大いに盛り上がったところで、「119」のティンパニの3連発から満を持してコーダに入りますが、最初は突然静まって交響曲冒頭の「革命前夜のペトログラード」に戻ります。すぐに「訣別のモチーフ」で打ち消され、祝祭的な終結部が始まり、「訣別のモチーフ」を繰り返しながら、モチーフBや勝利のモチーフ、「125」にはアウローラのモチーフも登場して高らかに演奏されます。
 長かった革命全体の思い出と、それを成し遂げた喜び、そして未来への希望なのでしょうか。
 ショスタコーヴィチ家の何代にもわたる「革命への想い」が、ここにあふれているのでしょう。

 

4.参考資料

(1)千葉潤・著「ショスタコーヴィチ 〜作曲家 人と作品〜」(音楽の友社 2005年)

(2)ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論社、中公文庫版、1986年 現在絶版)

(3)亀山 郁夫・著「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」 2018/3/28 現在廃版?

 



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