軍刀利神社・桂の大木との出会い |
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■軍刀利神社の桂 |
1995.7実母が筋萎縮性側策硬化症との告知を受け、現代の医学では、原因が解明されていない為、治療の方法はないと、断言される。そのころから東洋医学に必然的に関心が高まり、いろいろと調べるようになった。その中で宝島社の’気で治る本’があり、風水のコーナーでこの桂の大木を知る。1997.9実母は他界したが、その一年後、何故か、どうしてもこの桂の大木に逢いたくて訪ねることにした。 1998.9.5土曜日・くもり06:20出発。08:40若干の渋滞を抜けて、上野原インターを降りる。道路の両側の家々には、注連縄(しめなわ)と紙垂(しで)、提灯の結界がなされている。後から分かったことであるが、9月4〜6日は、この地区のお祭りであった。上野原は、甲州街道の宿場町として古くから栄えたそうだ。また牛倉神社例大祭における御輿渡御は、勇壮な暴れ神輿で名高く、百年の伝統があり郡内三大祭の一つに数えられている。須佐乃男命(すさのうのみこと)など、秋の実りをもたらしてくれる農耕の五神に感謝を捧げる祭りで、古くから地域住民の信仰を集めてきた。今日を選んだことが、偶然ではなく、呼び寄せられたような気になる。国道を外れて、棡原(ゆずりはら)方面へ向かっても、どの家々にも結界がはられている。 やがて山中に入り結界も解けだしたころ、長寿の村として有名な棡原地区に入った。そこは低い山並にたたずむ穏やかな、そして優しく包み込むような(何もかも受け入れてくれそうな)村落だ。駐在所、郵便局を通りすぎ・・・さて、どうしたものか。観光名所というわけでもないので、考えてみれば看板もなにもでているわけない。なにせ、インターネットから取り寄せた上野原町のおおざっぱな観光地図しか持ってきていない。地形と方向だけをたよりに探そうとしてみたが所詮、これだけの情報では目的地の軍刀利神社にはたどり着けるはずがない。村はずれで、初老の夫婦に神社の行き方を尋ねる。旦那さんは、少し間を置いて、それから穏やかに、丁寧に、解りやすく行き方を教えてくれた。けっこう、良いところまできていた。 少し戻り、小さな集落を越えると、お寺かと見間違えるほどのどでかい民家があらわれた。さらに’長寿’をアピールした民宿(黒田荘)を通り越し、しばらくゆくと、軍刀利神社の文字があらわれた。予想どおり、静かな、化粧されていない、質素な感じの場所だ。左側のお店の脇をかけあがると、一の鳥居があらわれた。鳥居の奥には、重厚な、聖なる空間が続いているようだ。鳥居の脇に車をとめる。今年最初の彼岸花と対面して、鳥居をくぐり歩き出した。思ったより急勾配で骨がおりる。左側の軍刀利川(井戸川)に沿って山道は続いている。しばらく登ると、二の鳥居があらわれた。そして、さらに急勾配の階段。どこそこ苔に覆われた黄緑色の光景。すがすがしい空気と、少し薄暗い重厚な空気が入り混じる。鳥居をくぐってから、オニヤンマや蝶にであったが、そのおだやかな動き、警戒心のなさそうなスローモーションのような光景、少し次元の違うような感覚に吸い込まれる。いつかどこかで、出会ったことのあるような、懐かしい静かな時間が過ぎて行く。 さらに奥へ進むと、奥の院へと続く三の鳥居があらわれた。こちらは、ただ道知るべのような軽やかなたたずまい。ふわりとした空気の中を、きれいに手の入れられた草道を歩いて行く。砂防ダムを過ぎると、やがて正面に重厚な薄暗い空間が現われた。緑の中に何かやたら大きく黒いもの・・・何だ?建物か?少しずつ近づいて見る。うっ、おおっ、そう、これだ、これだ。これに間違いない。溝落ちのあたりが、ぐぐっと反応している。本能的な、体の’よろこび’の反応だ。桂の大木が、今、目の前に現われた。 今、目の前にカツラの大木が、ある。 風水のマニュアルのようなこの場所に、その龍穴の上にカツラの神木はどっかと腰をおろしている。ありあまったエネルギーをまわりにたたえながら、たくさんの幹とひこばえ(木の切りかぶから生まれる新芽の事)の集合体が、さらに上へ上へと向かっている。神聖な空気を感じるどころか、そのどでかさに圧倒されて、ただ、ただ驚く。なぜ、こんな所に・・・。そう、ただ、そこにあるだけで意味がある。そこにあることに意味がある。木も、石も、水も、そして、人も。すべて、そこに存在することに意味がある。なぜ、ここにこんな大きな木があるのか、やはり風水は、龍穴は・・・あるのであろう。しばらく、その場の時間に溶けた後、何度か振り返り、行きつ、戻りつ、小雨に押されながら下っていった。 ●軍刀利神社 祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) |