第一章 「カンマを伴う分詞句」をめぐる一般的形勢、及び基礎的作業

第3節 カンマの有無を契機とする「制限的修飾」と「非制限的修飾」

   「制限的修飾」と「非制限的修飾」の一般的区別[1−18]を簡単に確認しておく。形容詞節(関係詞節)においては周知の区別だ。ただし日本語では、これら二様の修飾の在り方は視覚的にも聴覚的[1−19]にも区別されることがないことに注意しなくてはならない。(以下で取り上げるのは形容詞の「制限的用法」と「非制限的用法」ではない。この点ついては本節末を参照)

   私が書店に行き、「推理小説ください」と言っても、店員は応対に困るだろう。「本ください」と言われているのに等しいからだ。私が言葉を継いで、「ディック・フランシスが書いた推理小説」と言えば、私の求めているのがどのような推理小説であるのかが店員に伝わる。「ディック・フランシスが書いた」のように、名詞句の構成要素としてその名詞句の指示内容を絞り込むのに役立つような名詞修飾要素は一般的に「制限的名詞修飾要素」とされる。これを英語で表現する場合、例えば、“a mystery (that) Dick Francis wrote” となる。この関係代名詞節(下線部)にはカンマは不要である。[1−20]

   非制限的修飾の場合。
   私から知人への電子メール「"Twice Shy"を貸して欲しい」では、私はディック・フランシスの小説"Twice Shy"を貸してほしいと頼んでいる積りである。「ディック・フランシスの"Twice Shy"」という日本語表現は問題なく許容されるが、「ディック・フランシスの」という名詞修飾要素は、話者である私にとって、"Twice Shy"が何であるのかを明示する働きも、どの推理小説のことであるのかを明示する働きもしない。"Twice Shy"と表記するだけで既に貸して欲しいものを(これが本であることはもちろん)唯一的に特定できていると私は判断している(ところで"Twice Shy"がFred DrakeのCDアルバムのタイトルでもあることを今は簡単に調べられる)[1−21]

   話者の視点からは次のように言える。既にその指示内容は特定されている(と話者が判断している)名詞句について更に何ごとかを語る場合、話者は「非制限的名詞修飾要素」を用いることがある。"Twice Shy, which Dick Francis wrote/ written by Dick Francis"の場合のように、"Twice Shy"について更に何ごとかを語ることになる" , which Dick Francis wrote / , written by Dick Francis”は「非制限的名詞修飾要素」である。この場合、カンマは不可欠[1−22]である。 [1−23]

   例を挙げておく。関係代名詞節はそれぞれ、(1−2)では非制限的関係詞節、(1−3)では制限的関係詞節である。あえて少し端折った形で引用してみる。

(1−2)
The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.
〈その小説は私を殊のほかひきつけたが、ホーソンの作であった。〉
(1−3)
The novel which especially appealed to me was written by Hawthorne.
〈私を殊のほかひきつけた小説はホーソンの作であった。〉
(P.G. Perrin/Jimmie W. Corder『スコットフォースマン 現代英語ハンドブック 第五版』、11.3…見出し番号)(以後『現代英語ハンドブック』と略記)(下線は引用者)
   同一の語群(The novel)が、(1−2)の場合、その指示内容については非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が既に実現されていると話者は判断しているのに対して、(1−3)の場合、指示内容の「特定」が実現されるには制限的名詞修飾要素をその構成要素とする名詞句[The novel which especially appealed to me]の成立を待たねばならないと話者は判断している。こうした差異を実現し表示し、結果的にその差異が受け手に伝わることを可能にしているのが「カンマ」である。

   Michael Swan, Practical English Usage(以後PEUと略記、数字は見出し番号)では、以下の(1−4)は「カンマ」の用法の「典型的誤り」の例として挙げられている。

(1−4)
*The woman, who was sitting behind the desk, gave me a big smile. (506)
(下線は引用者、「*」は不適切な英語表現であることを示す記号[1−24]。更に[6−1]参照)
   以下が適切な文として挙げられている。
(1−5)
The woman who was sitting behind the reception desk gave me a big smile.(ibid)
〈受付に座っていた女性は私ににっこり微笑んだ。〉("the reception desk"は原文通り。下線は引用者)
   ただし、こうした記述から、(1−4)中の"The woman"の指示内容については、非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が未だ実現されていない、という示唆を読み取るべきではない。Swanの例の挙げ方が不適切なのである。発話の構成要素となっているある名詞句の指示内容について、非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が――そのような「特定」が既に実現されていることが受け手に伝わるかどうかとは関わりなく――話者の念頭においては既に実現されている場合もある。文字を用いて実現されている発話では、ある名詞句の指示内容については非制限的関係詞節を添え得るほどの「特定」が既に実現されていると話者によって判断されているということが受け手に伝わる際に、カンマがその媒介となる([1−12]参照)場合がある。

   制限的修飾と非制限的修飾の区別が分節される契機となる「特定」の在り方については次のようにも記述し得る(特定の諸相については次節で詳述する)。

   その指示内容について何ごとかを語り得るほどの「特定」が既に実現されている(と話者に判断されている)名詞句に、その「何ごとか」が名詞修飾要素として添えられる場合、その名詞修飾要素はその名詞句を非制限的に修飾する要素である。このことを逆方向から辿れば、ある名詞句に非制限的修飾要素が添えられる場合、その名詞句の指示内容については何ごとかを語り得ると話者によって判断されており、その名詞句の指示内容には話者のそのような判断の分だけの「特定」が既に実現されている。話者にとってその名詞句はその分だけ既知であるとも言える(「既知」については 本章第5節参照)。

   このとき、その名詞句に添えられる非制限的修飾要素とは、その名詞句の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがら、即ちその名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端の展開である。「(と話者に判断されている)」という記述を繰り返すのは、「その名詞句の指示内容の属性(であると話者に判断されていることがら)の一端」とは、時にはその名詞句の指示内容の属性ではないことが判明しても、つまりそこに話者の錯誤があっても差支えないからである。

   例えば、アレキサンダーが実際には「フィリップの息子」でないとしても、"Alexandre, qui est fils de Philippe"[Alexander, who is the son of Philip]〈フィリップの息子であるアレキサンダー〉と語り得るのである。以下に見るように、そこには錯誤を指摘し得るということでしかない。

初めの種類の複合語句の場合(関係詞節が説明的である場合…引用者)、そこに誤ちがあっても驚いてはいけない。なぜなら、付随的節[proposition incidente]という賓辞[attribut]は関係詞quiが関係している主体[sujet]についての確言だからである。
"Alexandre, qui est fils de Philippe"〈フィリップの息子であるアレキサンダー〉
の例では、私は、付随的にではあるにせよ、アレキサンダーについてフィリップの息子であると確言しているのであり、もしこれがその通りでないとしたら、そこには誤ちがあることになる。
(Antoine Arnauld / Pierre Nicole, La logique ou L'art de penser, p.117)(通称 La Logique de Port-Royal『ポール・ロワイヤル論理学』)(以後、通称のLa Logique de Port-Royal を用いる)
   さらに言えば、事実関係には錯誤があるとしても、"Alexandre, qui a été fils de Philippe, a vaincu les Perses."〈フィリップの息子、アレキサンダーはペルシャ人を打ち負かした。〉(ibid)と語ることを私が妨げられることはない。このアレキサンダーがかのアレキサンダーであることに変わりはないのである。

   「あえて少し端折った形で引用」と述べておいた例文(1−2)と(1−3)の原文は以下のとおり。Swanの例の挙げ方(及びその例に関する判断)が不適切である理由に思いが至るはずである[1−25](更に本章第5節参照)。これらの例について語るべきことは既に語った。

(1−2a)
Last month I read a novel and a biography. The novel, which especially appealed to me, was written by Hawthorne.
〈先月私は小説を一冊と伝記を一冊読んだ。その小説は私を殊のほかひきつけたが、ホーソンの作であった。〉
(1−3a)
Last month I read several novels and a biography. The novel which especially appealed to me was written by Hawthorne.
〈先月私は小説を数冊と伝記を一冊読んだ。私を殊のほかひきつけた小説はホーソンの作であった。〉
(『現代英語ハンドブック』, 11.3)(下線は引用者)
  
【付記】

   形容詞の「制限的用法[restrictive use]」と「非制限的用法[nonrestrictive use]」については一部の学習用文法書にも簡単な記述が見られる。前置形容詞が名詞を「制限的に」あるいは「非制限的に」修飾する場合に関する記述である。殆どの学習用文法書で形容詞の用法は、限定用法[Attributive Use](名詞の前後に置かれて名詞を修飾する)と叙述用法[Predicative Use](SVC,SVOCなどの中でCの働きをする)の二種類に大別されている。Attributive UseとPredicative Useには殆ど場合「限定用法」「叙述用法」という訳語が充てられている。ただし、restrictive useとnonrestrictive useについては、大勢としては「制限的用法」「非制限的用法」という訳語が充てられる一方、一部の文法書では、「限定用法」「非限定用法」という訳語が充てられている。ちなみに形容詞の「制限的用法」と「非制限的用法」の区別は、形容詞の「限定用法」に関する記述中に見られる。

   ここでは素朴な疑問が涌き起こっても不思議ではない。「制限(的)」と「限定(的)」はどう違うのだろう、と。あれこれの学習用文法書に目を通した結果、私にはとうとう分からなかった。

   別の疑問。Attributive Useに「限定用法」という訳語を充て、restrictive useにも同じ「限定用法」という訳語をもし仮に充てなどしたら、「限定用法」の中に「限定用法」と「非限定用法」の区別があることになってしまうのだろうか(そんないい加減な言葉遣いをもってして文法を解説する著者はいないであろうが……、いた。)。

   木村明『英文法精解』中の「形容詞の限定的用法と非限定的用法restrictive and nonrestrictive use」という一節に以下のような記述がある。木村はAttributive Useに「付加的用法」という語を、Predicative Useには「叙述的用法」という語を充てている。

(1)名詞の範囲が、形容詞によって制限を受ける場合の用法を、限定的用法といっている。たとえば、
     a. a tall boy(背の高い少年)

(2)これに反して, 形容詞が単に名詞の性質、属性を説明するにとどまる場合の用法を、非限定的用法といっている。たとえば
     b. tall John(背の高いジョン)(p.217) (下線は引用者)

   続けて次のような注意書きとともに、関係詞節による書き換えが示されている。。
このような形容詞の用法は、関係代名詞の二つの用法と一致している。
I saw a tall boy. = I saw a boy who was tall. ― 限定的用法
I saw tall John. = I saw John, who was tall. ― 非限定的用法(p.217)
   微妙な領域にあえて踏み込んだことを非とする理由はないにしても、「このような形容詞の用法は、関係代名詞の二つの用法と一致している」はより慎重な言葉遣いが求められる記述であるし、等号を用いての書き換えは不適切な記述であることを指摘せざるを得ない(「このような形容詞の用法」については、[1−18]参照)。あえて日本語に置き換えてみるが、「のっぽのジョンに会った」が「ジョンに会った。彼は背が高かった」と等価ではないと感じ取るにはさほど鋭敏な語感を求められるわけではない。"the beautiful Princess Diana ['Princess Diana, who is beautiful']"(CGEL, 5.64)〈美しのダイアナ妃〉;〈ダイアナ妃、彼女は美しい〉のような記述を見出せはするとしても、である。CGELのこの記述は、"beautiful"が非制限的用法の形容詞であることを示しているのであり、等号で結ばれるべき書き換えを示しているわけではない。

   江川泰一郎『改訂三版 英文法解説』では、関係詞の非限定用法(Non-restrictive Use)の一節中で、「限定と非限定の区別は形容詞にもある」として、以下のような文例が挙げられている。同書の「形容詞には直接に名詞を修飾する限定用法(Attributive Use)と動詞の補語になる叙述用法(Predicative Use)とがある」(p.92)という記述をもとに判断すれば、以下の文例中に見出せるのは「限定用法」の形容詞である。そして「限定用法」の中に「限定と非限定の区別」を認められるということである。

The patriotic Americans have great respect for their country's constitution. (p.77)(下線は引用者)
   この形容詞を「限定用法」と解釈すれば、「(アメリカ人全体の中の愛国的アメリカ人、すなわち)一部の愛国的アメリカ人は自国の憲法を大いに尊重している。」となり、「非限定用法」と解釈すれば、「(アメリカ人は愛国的であり)そもそも愛国的なアメリカ人は自国の憲法を大いに尊重している。」となる。

   Noam Chomsky, Cartesian Linguistics の注72に、制限的[determinative(restrictive)]関係詞節から派生するのか、説明的[explicative (nonrestrictive or appositive)]関係詞節から派生するのか曖昧であるような「形容詞+名詞」構造[adjective-noun constructions]の例として、Jespersenから次の文例が引用されている。

The industrious Japanese will conquer in the long run.(p.99)(下線は引用者)
   この「形容詞+名詞」構造が「説明的関係詞節」から派生していれば、「(そもそも)勤勉な日本人は、結局は苦難を克服するだろう」と解釈され、「制限的関係詞節」から派生していれば、「勤勉な日本人は(日本人の内、勤勉なものは)結局は苦難を克服するだろう」と解釈される。

   Jespersen, The Philosophy of Grammarでは、この文例には次のような記述が続く

この文は次のいずれの意味なのか。一民族としての日本人は苦難を克服するだろう、なぜなら彼らは勤勉であるから、なのか、それとも、日本人の内の勤勉なものは苦難を克服するだろう、なのか。(p.112)
   この疑問を解きほぐす多少の手掛かりにもなりそうな記述をCGELは残している。国民を表わす名詞に付加された場合、「形容詞は通常、非制限的である。」(7.25)として次のような例を挙げている。
the industrious Dutch ['the Dutch, who are industrious'](ibid)
   実に簡潔な裁断である。

   別の手掛かりとして、"the Americans"や"the Japanese"の指示内容にまとわりついている「ぶれ」を考えてもいい。

   CGELは「国民を表す形容詞は、全体としての国民ではなく、国民の一部を指示するために用いられることがある。例えば、国を代表する団体や軍隊。」(7.25, Note[b])(以下の例で言えば、"the English"や"the French"は、「国民全体」を指示する場合と、「国民の一部」を指示する場合があるということだ)と記述し、次のような例を挙げている。

The English lost against the Welsh in the final.〈イングランド(チーム)は決勝でウエールズ(チーム)に敗北した。〉
In 1796 the French invaded northern Italy. 〈1796年、フランス人[軍]はイタリア北部に侵攻した。〉(ibid)
   このような場合、"the French"は「仏国民全体」ではありえないことは話者と受け手に共有されている類の了解である。そのため、イタリア北部に侵攻したのは「フランス人の一部からなるフランス軍」であるという了解は受け手の内部で円滑に成立する。

   曖昧さの生じる主たる要因は、『改訂三版 英文法解説』から挙げた例について言えば、この発話だけに依拠したのでは「話者の思い」([1−25]参照)を斟酌し難いということである。受け手は十分な情報を示されていないということであり、この発話にはいずれにせよ脈絡が決定的に欠けているということである。話者が「アメリカ人はそもそも愛国的である」と認識していれば、ここでは「非限定的解釈」が成立することになる。その場合、「愛国的な」は「アメリカ人」に通有の属性であると話者に意識されているということになる。"The patriotic Americans have great respect for their country's constitution."のような、「話者の思い」が名詞句の指示内容を左右しかねない発話では、受け手が「話者の思い」を斟酌し得るか、受け手がそれを斟酌することを可能にする情報を示されていない限り、受け手にとって指示内容は曖昧であるとしか感じられないのである。

   語りすぎないのも智恵の一態である。次の程度に収めておくのは、ある意味では賢明である。

限定用法は、必ずしも、名詞の適用範囲を制限するとは限らない。a beautiful girlのような場合は、制限的用法であるが、white snowなどでは非制限的である。(安井稔『改訂版 英文法総覧』、10.1.1)
非制限的用法:修飾する名詞の持っている性質を強調して示したり、叙述に主観的・感情的要素を加えるもので、ほかと区別する働きはない。
white snow(白い雪)the blue sky(青空)poor Mary(かわいそうなメアリー)
*whiteは本来白い雪の色をさらに強調し、poor Maryは叙述に主観的・感情的要素を加えるにすぎない。(『ロイヤル英文法 改訂新版』、p.264)
   以下は更に簡略な記述ではあるが、決して不正確ではない。
意味の上では[semantifically]、修飾要素[modifiers]は主要語[head]に対して「説明的['descriptive']」情報を付加し、しばしば主要語の指示内容[reference]を制限する[restrict]。(CGEL, 2.31)
   名詞に前置された形容詞が名詞を「非制限的」に修飾する場合については更に[1−18]参照。

  

(第一章 第3節 了)

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© Nojima Akira