富之里自治会
大阪府高石市西取石1丁目〜3丁目
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 富之里今昔(1)  平成15年6月1日  最新の記事は富之里今昔(9)平成19年6月1日です

 ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし (方丈記より)
 私たちの住む富之里も時とともに変わってまいりました。人は、その流れの中にあって昔のことを懐かしく思うものです。十年前、二十年前、もっと昔はどんな様子だったのかと、そのルーツまで知りたくなるものです。
 そこで、今回から、富之里ニュース発刊を機に、富之里住宅のおこり、くらしなど現在までのあゆみをコラムとして掲載させていただくことになりました。記憶にもとづいて記述をすすめます。ご意見ご感想をお聞かせください。
 さて、前おきはこれくらいにして、古くは萬葉集に、
   妹(いも)が手(て)を 取石(とろし)の池(いけ)の
   波(なみ)の間(ま)ゆ 鳥(とり)が音異(ねけ)に
   鳴(な)く 秋過(あきすぎ)ぬらし  巻第十・二一六六
 (注) 妹が手をはトル・取の枕詞、音異(ねけ)はいつもと様子が違う。
 この歌にある、取石の池は現在の取石六丁目にありましたが、今では埋立地となっています。とても大きな池で農業用水を湛え、池の西に広がる取石地区の農地をうるおす大切な池だったそうです。
 この池のおかげで取石地区では、米づくりや綿づくりが盛んに行われていたそうです。 (つづく)
どいけんじ

 富之里今昔(2)  平成16年1月5日

 ここ泉州では温暖な気候に恵まれているとは言っても、夏の暑さは格別です。寝苦しい熱帯夜が続きますが、この暑さのお陰で稲が成長し豊作の秋を迎えることができるのです。
 でも、米づくり、綿づくりを生業をしている農家にとって、梅雨時に雨が降らずに田植えに困ったり、夏の日照り続きで池が干上がって底を見せたり、水田に地割れができ、せっかく植えた稲が枯れ、米が取れず飢饉(ききん)となった年もあったと言われています。そのような時に、取石池は農業用水として大きな役割を果たしたと言えるでしょう。更に、水不足を補うため、小さな池があちこちに掘られました。
 富之里(旧取石村富木・現高石市西取石一丁目)地区は、昭和の初め頃までは鉄道(現JR阪和線・昭和五年に天王寺和歌山間開通)も民家や工場もなく、長閑(のどか)な田園風景が広がり、浜(高師之浜)から吹いて来る風は潮の香りを運び、夏には、すくすくと成育した水田の緑の波が、秋には、豊かに稔った黄金色の波が一面を覆い、その中に銀色に光る水面(みなも)を覗(のぞ)かせる用水池がありました。
 今では埋められてその面影はありませんが、富木駅の西側近くに小さな池が、市立高石中学校の場所に、西取石三丁目の車塚の南に、鴨公園の場所に大きな池があり、それぞれ農業用水として大切な命の水を湛えていたのです。 (つづく)
どいけんじ

 富之里今昔(3)  平成16年6月1日

 私の子どもの頃(昭和のはじめ)祖母から、昔の村に伝わる話をよく聞かされました。
 その中で印象に残っている話を紹介いたします。
 千原(ちはら)(泉大津市)騒動(そうどう)と言って、天明二年(西暦一七八二年)八月二十日に起こった一揆(いっき)のことで、どうしてこの騒動(そうどう)が起こったかについては、いろいろ考えられますが、当時農村が連年の凶作(きょうさく)で全国的大飢饉(だいききん)へと、その頂点に達しました。天明五年の「老農置土産添日記」に、「我々が身の上さえ安堵(あんど)なき世の中、其所(そこ)にも飢渇(きかつ)、此処(ここ)にも飢饉(ききん)と見るにも聞くにも珍しからず、偏(ひとえ)に餓鬼道(がきどう)とやいわん。幼き子は捨てられて、父母を尋ね迷(まよ)ふを見れば地獄(じごく)とやいわん。又道路に於て追剥(おいはぎ)強盗(ごうとう)を見れば修羅道(しゅらどう)とやせん。適々(たまたま)幼き者に手の内を施(ほどこ)せば其の親奪い取り喰(くら)へば、親子兄弟の情もなく、君父の礼をも失へば畜生道(ちくしょうどう)とやいわん。目前の六道言語に絶(たえ)たり」とあります。このように天明飢饉(ききん)の惨状(さんじょう)は、凶作(きょうさく)を中心に冷害、洪水などの天災が波状的に日本全土を襲ったそうです。
 ここ泉州にも冷害型の海流異変、気候変化によって、棉作が凶作になり、農民の生活が日に月に苦しく深刻化していったのです。
 綿づくりを生業(なりわい)としている農民にとって大きな打撃。その上、米麦から主食が玉蜀黍(とうもろこし)粟(あわ)その他の雑穀となり、ついには草木の芽、雑草、樹皮までが食用に供せられるようになっていったのです。 (つづく)
とみのさと どいけんじ

 富之里今昔(4)  平成17年1月5日

 その頃(天明の時代)は徳川幕藩体制(ばくはんたいせい)で当地は一橋藩領(ひとつばしはんりょう)に置かれ、武士がすべてを支配していた時代でした。
 等乃伎(とのぎ)神社の森には鬱蒼(うっそう)と木が茂り、神神(こうごう)しい雰囲気(ふんいき)の森の東側を小栗街道(おぐりかいどう)(熊野街道)が南北に走っていました。北へは、今の鳳南町(長承寺(ちょうしょうじ))から大鳥大社の前を通って更に北へ伸び大阪の渡辺の津へと続いていたそうです。この街道は、京(京都)から和泉を経て紀州・熊野本宮へと続く要路になっていました。(今の大阪和泉泉南線と沿うように)
 渡辺を起点として熊野までの沿道には一里塚が置かれ、随所(ずいしょ)に熊野権現(ごんげん)を祀(まつ)る熊野九十九王子という神のやしろがあり、これらの王子のうち大鳥(おおとり)王子(堺市鳳)、南へは篠田(しのだ)王子(和泉市信太)と平松(ひらまつ)王子(和泉市伯太)が一橋藩領内にあったそうです。 (つづく)
 参考図書 天明の義挙千原騒動 児山祐一良著
どいけんじ

 富之里今昔(5)  平成17年6月1日

 この長閑(のどか)で平和な泉州地方を襲ったのは連年に亘る悪天候による農作物の凶作でした。
 特に当地では棉作りが大打撃を受け、農民の暮らしは窮乏を極め、日を追って苦しくなるばかりでした。ところが、為政者は極めて冷淡で農民に対する理解も同情もなく、平年同様に厳しく年貢を取り立ててきました。これが天明二年に起こった千原騒動(農民一揆)の直接の原因だとされています。
 農民の不平は日一日と高まり、このままでは重大な事態が起こりかねない状況に直面しました。そこで各村の百姓惣代(そうだい)が何回も集まって相談した結果、五十三ヶ村の百姓が結束し納税延期を願い出ることとなりました。これを聞きつけた庄屋たちはこの行動を静めようとしましたが時すでに遅く、新家村(取石四丁目)の勘七、富木村の組頭(くみがしら)土井忠兵衛の助言により、その不平は極に達し、代官所に押しかけ強訴(ごうそ)に及びましたがその要求は聞き入れられませんでした。
 これに激怒(げきど)した農民達は、八月二十日いよいよ一大事を決行に及びました。ほら貝の音を合図に竹槍(たけやり)、筵旗(むしろばた)を持ち犇(ひしめ)きあいながら貝吹山(信太(しのだ)村)の周囲に、ちょうど蟻が群がるように蝟集(いしゅう)していたと言われています。ここで大いに気勢をあげ奔馬(ほんば)の如く千原村の庄屋川上邸を襲ったのです。この騒動の中心的役割を果たし、農民のためにたたかった忠兵衛の偉業を讃える碑が楷定寺に建立されています。(つづく)
とみのさと どいけんじ

 富之里今昔(6)  平成18年1月6日

 ここで話は一変して、祖母のむかし話は、この地方に伝わる「狐(きつね)と狸(たぬき)」の民話へと続きます。むかしから「狐の七化(ななば)け、狸の八化(やば)け」と言って、狐や狸が化けて人を騙(だま)すという民話が各地に伝えられています。でも今では、その主人公である狐や狸は、この地方では動物園でしか見ることができません。どこへ行ったのでしょう。
 さて、これからの話は、どうやら浜寺公園でのようで、この話を進める前に少しだけ浜寺公園について触れておきましょう。南海本線浜寺公園駅下車西へ旧26号線(海岸通り)に沿(そ)って、古い松林、ジャンボプール、バラ園等、広くて美しい公園です。西側には浜寺水路を隔(へだ)てて高い煙突(えんとつ)が林立(りんりつ)する臨海工業地が広がっています。
 この風景から、老松(ろうしょう)はこの公園の歴史の推移(すいい)を物語(ものがた)っているように思います。今から六十年ほど前の昭和20年頃(ごろ)までは海風に耐(た)えぬいて逞(たくま)しい老松が生(お)い茂(しげ)り、澄(す)みきった海水が遠浅(とおあさ)の砂浜まで打ち寄せ、眺めはまさに白砂青松、夏は海水浴客で賑(にぎ)わい、水も空気も美しくすばらしい風景だったのです。
 ところが終戦(昭和20年)後、連合軍の占領下(せんりょうか)に置かれ公園には鉄条網(てつじょうもう)が張(は)り巡(めぐ)らされ近づくことすらできません。占領軍の兵舎や住居を建てるため老松は切り倒(たお)され見る影もなく寂(さび)れていったのです。(つづく)
とみのさと どいけんじ

 富之里今昔(7)  平成18年6月1日

 浜寺公園の東側に沿って旧国道26号線、阪堺電車(チンチン電車)の浜寺駅があります。そこから東へ歩いて3分ぐらい行くとちょっと風変わりな建物が目に入ってきます。これが有名な南海電鉄の浜寺公園駅です。この近くに今では途切れて昔の面影はありませんが大阪方面から和歌山方面に通じる紀州街道があったのです。
 今、ちんちん電車として市民から親しまれている阪堺電車(阪堺電気軌道株式会社)は明治30年5月創業(今から109年前)。当時は大阪市内を南北に貫く上町台地で馬に牽かれた鉄道が走り、大阪馬車鉄道と呼ばれ車輌7輌と馬16頭からスタートしました。
 一方、南海電鉄は明治18年12月難波−大和川北岸間に私設鉄道を開業しました。そして明治36年3月難波−和歌山間が開通したのです。その当時のようすを「松之浜寺」という本に白眼吉弘氏の名文が記されていましたのでここにその一部を紹介いたします。
  風月列車(ふうげつれっしゃ)
 南海電鉄は花鳥風月(かちょうふうげつ)の使者(ししゃ)なり、春は紀泉(きせん)の緒勝(しょしょう)探(さぐ)るべき拾翠(しゅすい)列車として、夏は茅淳(ちぬ)沿岸の随所(ずいしょ)に避暑(ひしょ)する納涼(のうりょう)列車として、秋は紀南より産(さん)する黄顆々(こうかか)たる蜜柑(みかん)列車として、冬は鯛(たい)、松露(しょうろ)、松茸(まつたけ)、栗(くり)、柿(かき)、及び漆器(しっき)、其他(そのた)紀泉の各地より産(さん)する物資(ぶっし)を載(の)せ、或(あるい)は寒(かん)を避(さ)け雪を看(み)る列車として、或(あるい)は蘆花浅水(ろかせんすい)の上を行き、或(あるい)は松翠砂明(しょうすいさめい)の地を走り、漁荘蟹舎(ぎょそうかいしゃ)の間を穿(うが)ちて、銀漢微雲(ぎんかんびうん)の南に向(むか)うて来往(らいおう)す。(中略) 唯(しか)り我(わが)が南海電鉄の如(ごと)き終年愉快(しゅうねんゆかい)なる旅行の機関(きかん)として、起点(きてん)より終点(しゅうてん)に至(いた)る迄(まで)右に海景(かいけい)を控(ひか)え、左に翠微(すいび)を観(み)て蒼嵐白帆(そうらんはくほ)の間を往来(おうらい)する者に比すれば固(もと)より言うに足(た)りず。(つづく)
とみのさと どいけんじ

 富之里今昔(8)  平成19年1月5日

 このような鉄道や道路ができる以前の街道は、昼は旅人が行き交うほかは、夜になるとほとんど人通りが無く、海から吹きつける浜風が松林を揺すり「ヒューヒュー」とさびしく聞こえてくる。その上、月の出ていない夜はまっ暗闇。
 「ちょいと、そこ行く旅人さん、お金おいていきや。」
 暗闇の中で追剥(おいはぎ)の頭(かしら)が旅人に声をかけた。
 頭(かしら)の口笛が松林の中に響き渡り、みるみるうちに盗賊(とうぞく)が集まってきた。まるでライオンの群が獲物を襲うようで、金品はもちろん、着衣まで剥ぎ取ってしまう盗賊がこの界隈(かいわい)に出没したそうです。
 紀州方面に向かう旅人が、夕刻この場所にさしかかった際、泊まる宿もなく一人で思案にくれているうちに、すっかり日は暮れてしまいました。
 「お金は持っているし、何とかここを通りぬけなければ。」
 そう思っているいるところへ、暗闇の中から一人の男が現れ、旅人に、こう言いました。
 「わしは決して怪しい者ではない。さっきから、あなたの様子を見ていると、お金を取られはしないかと思案しているようだな。」
 旅人は自分の心の中を読み取られたようで思わず「はい。」と答えました。
 「ここは追剥がよく出るので、今のうちに持っている金を松の木の根もとに埋めなさい。そして、どの松の木の根もとに埋めたのかわかるように自分でマークをつけておきなさい。」と言って姿を消しました。
 旅人は言われるまま、松の木の根もとに金を埋め、砂をかぶせて、その上にマークをつけて、その場を立ち去りました。あくる朝、急いでその松の木のところまで・・・。(つづく)
とみのさと どいけんじ
 富之里今昔(9)  平成19年6月1日

 「大切なお金は盗まれてはいないかな。」
と旅人は胸をときめかしながら・・・。やはり自分がお金を埋めた松の木の根もとにはきちんとマークがそのままの姿でありました。
 「よかった。助かった。」
 旅人は思わず叫びました。さっそくマークを取りのけて、その下の砂を掘り始めました。ところが、掘っても掘ってもお金は出てきません。出てきたのは木の葉っぱばかり。
 「しまった。だまされた。キツネにだまされた。」
 旅人は、ゆうべ闇夜から現れ、
 「わしは、決して怪しい者ではない。・・・今のうちに持ってるお金を松の木の根もとに・・・。」
と、言って急に姿を消したあの男。その後姿に大きな尻尾が見え隠れしていたとは。狐か狸があの男に化けてお金を埋めるように言ったのだと、はじめて気づいたのでした。
 旅人のまわりには、さっき掘った木の葉が飛び散り、せっかくつけたマークのにおいがあたり一面に漂っていました。そして、茅淳(ちぬ)の海から吹きつける浜風は老松を揺すり、松葉の苗が淋しげに旅人の心を奏でているように思われました。
 祖母の話を聞きながら、昔の旅はさびしく、きびしく、こわかったのだなあと思いながら、子ども心にも、狐と狸が人に化けることは本当にあるのかなあと疑問を持ちつつ眠りについたものでした。(つづく)
 茅淳(ちぬ)の海=茅淳は、和泉国(いずみのくに 大阪)の南部地方の称。和泉国と淡路国(あわじ 兵庫)の間の海で現在の大阪湾一帯にあたる。
どいけんじ