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 槙尾山(和泉市)  平成18年12月20日

槙尾山施福寺
 和泉市槙尾山町の槙尾山施福寺(天台宗)は寺伝の沿革によると、欽明天皇(539年〜571年)の勅願を受けて行満上人が弥勒菩薩を本尊として開創された。その後、役の行者小角(637年〜704年)が法華経の書写を葛城峯々に安置したときに最後の巻を納めたので「巻の尾」と呼ばれるようになった。
 槙尾山施福寺は修験者の道場として発展した。行基菩薩が慶雲3年(706年)に修行し、文殊菩薩を安置し、卒塔婆を立てた。行基菩薩の高弟の法海上人が宝亀2年(771年)大津の浦(泉大津)で霊感を得て安置した千手観音は、現在、西国観音霊場の本尊として信仰されています。

 平安時代に来住した奈良大安寺の勤操大徳を慕って弘法大師が来山し、愛染堂で得度授戒して仏門に入ったといわれる。花山天皇が永延2年(988年)西国巡礼の際に道に迷って馬の嘶きに道案内されて、後堂に馬頭観音を安置された。この時に詠じられた「深山路や檜原松原分けゆけば巻の尾寺に駒ぞいさめる」が御詠歌になっています。

 真言系統の寺院として繁栄したが、天正9年(1581年)に織田信長の兵火に罹り灰燼に帰し、慶長年間に豊臣秀頼の寄進によって再興されたが、以前のような盛観はなくなり、江戸時代の初期に天台宗に転じて、元禄年間には80余宇の坊舎が見られたといわれています。
 弘化2年(1845年)の山火事のために仁王門を残して殆どを焼失し、安政2年(1855年)頃より浄財を募って再建に着手して、安政年間末頃に完成した諸堂が現在に残されています。

 施福寺の本堂(写真右上)は槙尾山のほぼ頂上にあります。寄棟屋根のために写真では小さく見えますが、「馬頭観音」が安置されている本堂裏側の後堂(写真右中)のようにかなり大きな本堂です。

日本の仏教
 日本の仏教は欽明天皇13年(552年)または宣化天皇3年(538年)に百済の聖明王が使いを遣わして仏像経論と僧を献上したのが最初の公伝であり、蘇我氏と物部氏との政争の一つとなり、欽明天皇・敏達天皇のころは物部氏の排仏派が優勢であったとされます。
 蘇我馬子が厩戸王(聖徳太子)と用明天皇2年(587年)に排仏派の物部守屋を滅ぼした後に、百済の寺工・瓦工・画工などの技術によって建立した法興寺(飛鳥寺)が日本最初の本格的寺院となり、続いて法隆寺、四天王寺などが建立されています。

 法興寺は養老3年(718年)に奈良に移されて元興寺となり、新しく建立された東大寺に次ぐ寺院に位置付けされています。当時の仏教は修行というより学問であり、東大寺・元興寺に次ぐ大寺院の大安寺・薬師寺・興福寺・法隆寺・四天王寺もほぼ都に集中しています。
 都を離れた地で仏教が興隆するのは平安時代になってからで、天台宗の最澄が延暦7年(788年)比叡山に一乗止観院という草庵を建て、真言宗の空海が弘仁7年(816年)高野山に金剛峯寺を修禅の道場として開創しています。

 以上のように日本仏教の始まりを概観すると、日本に仏教が伝わった最初の欽明天皇が勅命によって都を遠く離れた槙尾山に施福寺が建立されたということには大きな疑問が生じます。欽明天皇のころの和泉は未だ河内国の一部で、河内国は排仏派の物部氏の本拠地の一つでもあります。
 槙尾山を訪れたときの仮説は「槙尾山に日本古来の山岳信仰が存在していて、山岳信仰が寺院か神社に編成し直されたときに寺院になった」というものですが、裏付けになる資料は見つかりません。各地に残る行基や空海の伝承は「各地に伝わる諸信仰を仏教に転換させた」功績ではないかと想像しています。

槙尾山の紅葉
 槙尾山は「大阪みどりの百選」で「西国巡礼4番礼所である施福寺は、槙尾山頂にあり、溪谷、滝、樹林など自然美に恵まれ、野鳥の宝庫」と紹介されていて、大阪府の中では紅葉の名所にも取り上げられます。
 槙尾山の紅葉の見頃は11月初旬から中旬です。中旬に予定していた訪問日を雨で一週間延期したために、仁王門から山頂の本堂に至る参道では樹上より足元の紅葉を多く見ることになりましたが、本堂の近くの小堂(写真右下)に今年最後の紅葉が残っていました。

 施福寺本堂のある槙尾山頂は河内長野市の滝畑から金剛山にかけての展望が美しく、雑木による色とりどりの紅葉が見られます。大阪湾側は参道の途中で少し見えるだけです。登山道で蔵岩に行けば和泉山地と大阪湾が一望できると教えられましたが、高所は苦手なので断念しました。

所在等
 槙尾山の麓は池田市から泉佐野市に至る大阪外環状線(国道170号線)と泉大津市から和泉中央を経て和歌山県有田市に至る国道480号線が整備されて自動車なら簡単に行けそうですが、バスを利用すると運行本数などで少し不便なところです。
 泉北高速鉄道の和泉中央駅から槙尾山口行きのバス(南海本線泉大津駅から出てJR阪和線和泉府中駅と和泉中央駅を経由するバスもあります)に乗り、途中の槙尾中学校前で槙尾山行きのバスに乗り換えます。槙尾山行きのバスは便数が少ないので南海バスのホームページ等で調べておくのがよいと思います。
 槙尾山バス停から槙尾山頂の施福寺本堂は徒歩で約30分です。今回はバスの運行間隔に合わせて、写真を撮りながらゆっくり歩いて、約2時間で往復しました。
「槙尾山施福寺の沿革」などを参考に記載しました(山内)

 日根野(泉佐野市)  平成18年10月20日

日根野
 今年4月の「佐野」の記事と重複しますが、奈良時代に大鳥郡・和泉郡・日根郡が河内国から分割されて和泉国になったように「日根」は泉州の南部を指す地名として古くから存在し、日根郡北部の更に紀州街道・熊野街道を境として佐野を除いた地域が鎌倉時代から九条家の荘園で「日根荘」になっています。
 中世(鎌倉・室町時代)日根荘が室町時代末期まで存続したということは、九条家の支配力が強かったというより有力な豪族が蚕食するほどに豊かな耕地になっていなかったのはないかと想像しています。京都で支配していた九条家が政基が文亀元年(1501年)から3年9か月滞在した入山田村はJR日根野駅から南東に約4.5kmの山間であり、日根荘の平地部には政基が滞在できるような集落が形成されていなかったと考えられます。

 鎌倉時代の「日根野村絵図」にはいくつかの灌漑池が記されており、住持谷池(現在の十二谷池)が見られます。日根野丘陵(熊取との境)からの水量が足りない十二谷池には、日根神社付近から樫井川の水を導く井川(用水)が設置されています。「日根野村絵図」には井川が記載されていないので、日根野の開発に重要な役割を果たす井川の築かれた年代は不明です。
 十二谷池とそれに繋がる池で灌漑されるのは日根野の約半分といわれています。残りの地域の灌漑の元になる大池が造られたのは近世とされ、樫井川上流から大池に取水する雨山溝が寛文12年(1672年)に造られているので、日根野の開発は江戸時代まで続く大事業であったことが知れます。

 日根神社と慈眼院は政基が滞在した入山田村など古くからの集落のある山間地形の西北端、日根野の山間部と平地部との境に位置します。日根神社附近は集落や農耕地が拡がる緩やかな坂の地形ですが、日根神社(写真右上と右中)の直ぐ西側(右側)を流れる樫井川は10mを超えるかと思える深い谷です。平地に深い溝を掘ったような珍しい地形で「ろじ渓」といわれ、両岸から川面に枝を伸ばした樹で桜の名所になっています。

日根神社
 日根神社は白鳳2年(691年)の開創で、豪族日根造の祖先神とされ、霊亀2年(716年)に和泉国五大社(和泉五ノ宮)になっています。延喜式神名帳の式内社で、主祭神は鵜葺草不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依比売命(たまよりひめのみこと)です。
 社殿は泉州の他の社寺と同様に、秀吉の根来攻めのときに焼失し、その後に秀頼によって再建されています。桃山時代の建築様式を残す日根神社本殿と比売神社は、大阪府指定の文化財になっています。

 鎌倉時代の「日根野村絵図」には大井関大明神と記され、農業用水の恵みを与える神ともいわれ、樫井川下流の水利に関わる重要な地点にあることから日根野・上之郷・長滝の広い地域が氏子になっています。

 日根神社の境内は前に訪れた鳳大社・泉穴師神社・聖神社のような鬱蒼とした神社林ではありませんが、「ろじ渓」の桜と合わせて境内にも桜の樹が多く、4月の花見時の景観が美しいと思います。7月の「ゆ祭り」には前回の夏祭りに掲載した「五社音頭踊り」が奉納されます。

慈眼院
 慈眼院は天武2年(673)に勅願寺として造営され、井堰山願成就寺無辺光院と称しています。日根神社と同様に社殿の多くを秀吉の根来攻めの際に焼失して、秀頼によって再建されていますが、その戦火を免れた多宝塔と金堂は鎌倉時代の建築で、二層の多宝塔は国宝、金堂(写真右)は重要文化財に指定されています。

 江戸時代に岸和田藩主岡部行隆が祈願寺として修理を加えて、その落慶時に真言宗仁和寺末寺となり、大悲山慈眼院の寺号を授けられています。明治の神仏分離までは神宮寺として日根神社と密接な関係があったとされます。

 金堂と多宝塔はいずれも寺院建築としては小規模ですが、非常に美しい形を見せています。慈眼院にお願いしてから行けば境内を拝観させていただけるようですが、右の写真は準備不足のため日根神社の境内から柵越しに撮影したものです。多宝塔も樹木越しに拝見することはできますが、前の樹が大きく写っているので写真は省略します。

所在等
 日根神社・慈眼院・ろじ渓へはJR阪和線日根野駅から東南に約2km、バスで約15分です。日根野駅付近の市街地を過ぎると道路が狭くなり、慈眼院前のバス停の辺りでは農家建築の多い田園風景になります。バスの便数が少ないので、降車したら帰りのバス便を確認します。一通り見るだけの散策なら約1時間です。
 掲載写真は今年4月に下調べの積もりで佐野に行く前に立ち寄って撮影したもので桜が写っています。日根神社の付近には中世の日根を感じられるものがなく、日根の歴史を訪ねるのであれば土丸・大木方面まで行程に入れた方がよいようです。花見を兼ねて行くのであれば、「ろじ渓」の前後に「泉の森ホール」周辺と「ダンバラ公園」に行くと泉佐野の桜が満喫できると思います。
「泉佐野の史跡」「日根神社の掲示」などを参考に記載しました(山内)

 夏祭り(貝塚市・泉佐野市)  平成18年7月16日・7月29日・8月14日

貝塚・太鼓台祭り 平成18年7月15日・16日
 「太鼓台祭り」の案内では、天正11年(1583年)に浄土真宗の顕如上人が紀州から貝塚(今の願泉寺)に本願寺を移したことを祝して住民が三日三晩踊り明かし、梯子に太鼓を載せて担いで回ったのが始まりとされ、「太鼓台」が感田神社の夏祭りに担ぎ出された天文6年(1741年)は、泉州で最も古い「太鼓台祭り」といわれています。貝塚では寺内町地区だけに行われる祭りで、貝塚の他の地区は10月に「だんじり祭り」が行われています。

 今年7月15日の宵宮では大北町・中町・堀之町・南町・中北町・西町・近木町の7基の「太鼓台」が夜になって府道204号線に集合して、各町の「太鼓台」が互いに荒々しさを競い合う練り合いが行われました。
 16日の本宮では中町通りに集合した「太鼓台」が順番に感田神社への宮入りを行った後、練り合いが始められました。力強い太鼓の響きと掛け声の中で重さ約1.5トンの「太鼓台」が大きく揺れ動く練り合いはとても勇壮です。

 −太鼓台の音声1太鼓台の音声2音声の停止

 貝塚駅前・中町通り・浜通りなどや門前・軒先の御神灯で、貝塚の町に祭りならではの風情があります。祭りの観衆は「太鼓台」が運行される広い通りに集っていたので、寺内町の町並みは静かに見て歩くことができました。

泉佐野・布団太鼓 平成18年7月16日・17日
 泉佐野市春日町、新町、野出町の「太鼓台」による春日神社の祭礼です。7月23日に泉佐野を訪れてわかったので祭りは見ていませんが、貝塚の「太鼓台」と同じ祭りのようです。泉佐野の太鼓台は3基で貝塚より少なく、泉佐野も他地区では「だんじり」或いは「やぐら(2輪の山車)」による祭りが行われています。

泉佐野・佐野くどき 平成18年7月29日
 「佐野くどき」は、江戸時代に佐野の豪商食野家の庭先で紀州藩主のもてなしのために踊られたのが始まりともいわれて、約300年の歴史を有する泉佐野の伝統芸能とされています。三味線と太鼓の伴奏で長い歌詞がゆったりとしたリズムで悠々と唄い続けられ、唄の合間に踊り手が入れる静かな囃子に独特の雰囲気があります。踊りは派手な手振りが無いだけに簡単そうでいて実は年季が要りそうです。

 −佐野くどきの音声音声の停止

 泉佐野市の末広公園グラウンドで7月29日に開催された「第31回泉佐野郷土芸能の集い」は、踊りのない「泉州長持唄」で始まり、踊りは「佐野くどき」の前に「五社音頭」が踊られました。
 「五社音頭」は「伊勢音頭」が元唄で、日根神社の祭りの宮入音頭として唄い継がれるうちに日根神社独自の唄となり、日根神社が和泉五社の一社であることから昭和40年に「五社音頭」と命名されたそうです。

 −五社音頭の音声音声の停止

 泉佐野市観光協会の「盆踊りMAP」によると、今年は泉佐野市の18の地区で盆踊りが開催され、そのうちの13地区が「佐野くどき」の盆踊りです。開催日時は地区によって異なりますが、8月14日・15日の2夜が多いようです。

貝塚・三夜音頭 平成18年8月14日・15日
 「三夜音頭」は、天正11年(1583年)に浄土真宗の顕如上人が紀州から貝塚(今の願泉寺)に本願寺を移したことを祝して住民が三日三晩踊り明かしたのが始まりとされ、貝塚市の無形民俗文化財に指定されています。「さんや」と呼ばれる音頭は主に女性が、囃子は主に男性が行うそうです。楽器は太鼓だけで、「ブチ」というレンガ状の木を使って太鼓の周りを踊りながら打たれ、ズシッと響く低音で踊りの輪の外まで空気の振動が伝わってきます。

 −三夜音頭の音声音声の停止

 明治初期までは願泉寺の境内で、その後は南町の浜辺などで踊られていたそうですが、今は8月14日と15日に感田神社の境内で行われています。

貝塚・東盆おどり 平成18年8月14日−16日
 「東盆おどり」は17世紀後半に円光寺で始められた報恩講が起源とされ、踊り方から「念仏おどり」の一種とも言われて、大阪府の無形民俗文化財に指定されています。ゆったりとした三拍子の音頭で、太鼓は使われず、三味線・大正琴・尺八などが使われていて、「くどき」や「さんや」よりも旋律的に聞こえました。踊り手の中には編み笠を被っている方もあり、一つ目小僧などの仮装も見られました。

 −東盆おどりの音声音声の停止

 「東盆おどり」は毎年8月14日から16日に貝塚市東町の円光寺の境内で行われています。

「太鼓台」の激しい動きや体に響く太鼓の音は、観衆として見る分には、泉州各地のだんじり祭りに優るとも劣らない迫力がありました。「三夜音頭」と「東盆おどり」は踊りの輪も小さく、地元の方の踊りを見せていただくだけですが、貝塚の文化は少し違うと思わせるものがあります。
 泉佐野の「郷土芸能の集い」は広い会場に各地から踊り手が集まり、誰でも気軽に参加できる雰囲気で行われています。「佐野くどき」は三味線に合わせて間がとりやすく、見様見真似で直ぐに参加できる踊りですが、上手な人ほど形が美しくなるような奥深さのある踊りだと思いました。

夏祭りの感想などを記載しました(山内)

 信達(泉南市)  平成18年6月16日

信達
 大阪南部を山側と海側で南下してきた熊野街道と紀州街道は泉佐野で合流して同じ道となり、泉南市域ではJR阪和線に近い信達大苗代、信達市場、信達牧野、信達岡中など一連の信達名の地区を通って、和泉鳥取から山中渓を越えて和歌山に至っています。
 泉南市の信達大苗代の「厩戸王子」と信達岡中の「一ノ瀬王子」の熊野街道(中世)の参拝所や休憩所であった「王子」跡が残り、信達市場と信達牧野には紀州街道(近世)信達宿の面影を残す町並み(写真右上と写真右中)が今も見られます。

 信達北部の大苗代では泉南地域の歴史的先進性を示す「海会寺」跡と豪族住居跡が発見されています。発掘調査で出土した海会寺金堂の軒丸瓦が「四天王寺」に用いたと同じ木型から作られていたことなどから、「海会寺」は白鳳時代(約1350年前)に建立された日本最古の大寺院の一つとされています。
 海会寺跡からの出土品は直ぐ近くの古代史博物館に展示され、海会寺跡には「法隆寺」の伽藍配置と同じとされる礎石や柱の一部が再現されています。なお、海会寺を建立して隣に居住した豪族については中央政権に関係する地方有力者と推定されているものの、誰であったかは特定されていません。

 海会寺跡の東の高台には海会寺の建立と近い時代に造成されたとされる「海会宮池」があり、自然地形を活かしたとしても相当な土木力を要したであろう大きな池です。池の眺めも美しいのですが、池の堤からは泉南および泉佐野の平野部が海岸まで見渡すことができ、泉州の先進地域となった信達の地形と地理的な特性がよく見て取れます。

信達宿
 海会寺や豪族住居が消失した9世紀に地方政治拠点としての重要性が薄れて後の信達は、熊野街道と紀州街道が重なる信達宿として泉州の交通で重要な役割を果たすことになります。「後鳥羽院熊野御幸記」に「後鳥羽上皇が先ず厩戸王子に参り、すなわち宿所に馳せ入る。この御宿の名は信達宿なり。」と記された頃の信達宿の位置は定かではありませんが、江戸時代の信達宿は本陣のあった信達市場を中心に南の信達牧野および北の信達大苗代とされています。

 大名や公家が宿泊した本陣(信達市場の角谷邸)は門塀に囲まれた大きな屋敷ですが、その他の家屋(写真右上・右中など)は街道に直接面して建築され、信達の町並みの特徴は屋根や壁の形状は農家に近くて、隣家と軒を連ねることもなく、同じ紀州街道の岸和田や貝塚の商家中心の町並みとは印象が異なります。

 泉南市域の江戸時代の商工業が海岸の岡田浦や樽井に集積して物資搬送には浜街道が多く用いられたこと、紀州藩参勤交代がない平時の交通量や宿泊客の多くない信達宿の経営を維持するために紀州藩から援助がなされていたことなどから、信達宿は農家の副業的経営の宿場であって、宿場としての役割を終えた現在も大きく変わることなく、昔からの町並みが維持されているのではないかと思われます。

 泉大津、岸和田、貝塚、泉佐野、信達の町並みの写真は意に反して時々どれも同じように見えてしまいますが、実際に通りを歩きながら家屋の建ち並ぶ様子を見ると、歴史的背景や経済基盤を反映した町並みの違いが感じられると思います。

長慶寺
 信達市場の小高い丘陵にある長慶寺は、神亀元年(724年)行基よって創建されて、真言宗仁和寺派に属し、本尊は如意輪観世音で行基の作と伝えられます。海会寺が消失した後、信達岡中の林昌寺と並ぶ信達の大寺院です。

 和歌山県根来に通じる根来街道に位置する長慶寺には、同じ真言宗の根来寺のミニチュアのような山門、三重塔、本堂、香炉堂、開山堂、大師堂が石庭の周りに配置されており、樹木の繁った長い石段を登って山門を過ぎると急に境内の諸堂と庭園が一望のもとになる景観が非常に美しく、最近に再建された三重塔は未だ木の色も鮮やかです。また、石段や境内にアジサイの花が多いことでも有名な寺院です。

泉南市
 泉南でも泉州の他地域と同様に、江戸時代には和泉木綿や紋羽織の生産が盛んに行われ、明治・大正・昭和の時代には紡績工場が相次いで数多く創設されて、紡績業が地域の発展を支える地場産業に成長しています。
 泉南市域は明治22年の町村制施行時に7村となり、昭和に入ってから2町4村となり、昭和31年の合併によって泉南町となり、同45年には単独で市制を施行していますが、泉南市誕生の基は昭和40年代から50年代にかけての大規模な住宅開発による人口の急増にあるようです。

 関西国際空港建設に合わせて整備された湾岸の埋立地には未利用地が多く、泉州他都市のように臨海部で工業生産を拡大することはできていませんが、工業化と宅地化で古いものを殆ど失ってしまった高石市とは対照的に、住宅地化の進む市域の各所に古い文化や景観がうまく残されているようです。

所在
 信達大苗代の海会寺跡(一岡神社)と古代史博物館はJR阪和線の新家駅から東に約1kmです。健脚或いは自動車なら泉佐野から紀州街道(府道64号線)を南下すると到着します。海会寺跡と古代史博物館の間の道を南下すると、信達大苗代から信達市場に入る辺りで紀州街道信達宿の面影を残す旧家が多くなり、長慶寺への脇道を過ぎて、信達牧野のほぼ中央でJR阪和線の和泉砂川駅に行く道と交差します。
 案内地図などのパンフレットは古代史博物館にありますが、日曜日は休館になっています。地図が無いときは、同じルートを和泉砂川駅側から辿る方が道に迷いにくいと思います。
「泉南市史」などを参考に記載しました(山内)

 佐野(泉佐野市)  平成18年4月16日

佐野と日根野
 泉佐野は漁業のみならず、和泉国府の大津(泉大津)と並ぶ泉州の海上交通の要衝として発達してきました。平安時代に摂津から海上を南下して佐野に上陸して陸路を高野山に至ったという記録があるように、海上と陸上交通の結節点にもなっています。
 泉大津市・岸和田市・貝塚市と海岸近くを南下してきた紀州街道と和泉市から岸和田市・貝塚市の山手を南下してきた熊野街道は、泉佐野市北部で合流して今の南海本線とJR阪和線のほぼ中間地点を通り、泉南市を過ぎるあたりからJR阪和線の近くを南下して、山中渓を越えて和歌山に至ります。
 泉佐野から紀州街道に代って海岸線近くを南下する道は浜街道と呼ばれ、田尻町・泉南市・阪南市と南海本線の近くを通って、孝子峠を越えて和歌山に至ります。
 この浜街道は南海本線泉佐野駅から府道204号線を海側に超えた商店街のある道で、浜街道から埋立前の海岸までの間(現在の本町・春日町など)に、江戸時代に商工漁業で栄えた佐野の面影を残す古い町並み(写真右)が保存されています。

 奈良時代に大鳥郡・和泉郡・日根郡が河内国から分割されて和泉国になったように「日根」は泉州の南部を指す地名として古くから存在しますが、概ね熊野街道を境として佐野を除いた日根郡の北部は「日根荘」として鎌倉時代から九条家の荘園になっています。
 中世(鎌倉・室町時代)日根荘の歴史の一面は荒地として残されていた日根野(現JR阪和線日根野駅周辺)の溜池等の土木事業による農業基盤整備であり、もう一面は衰退する公家と武家の勢力争いですが、織田信長・豊臣秀吉と根来衆・雑賀衆との戦乱を経て、江戸時代には岸和田藩に組み込まれることになります。

佐野の発展
 佐野もまた江戸時代には岸和田藩に編入されますが、泉州一といえる漁業と廻船業で栄えた佐野には木綿、製油、製糖、髪鏡、舟大工、鍛冶、鋳物、醸造、米商、干鰯商、魚商人などの商工業も発達して、政治の岸和田・経済の佐野とも言われるように、商工業では岸和田を凌駕する独自の経済基盤を持つ都市として発展しています。
 佐野の漁業は佐野網といわれて遠くは九州の五島・壱岐・対馬や関東にまで進出し、また、漁業で蓄積した操船技術によって大型船(北前船)で佐野・大坂から瀬戸内海を通り日本海を奥羽地方まで北上する廻船問屋の食野家・唐金家・矢倉家などの商人を輩出して繁栄しています。
 食野家は廻船業で築いた巨財を岸和田藩その他の大名の資金に用立てるなど、当時の三井家・鴻池家などと並ぶ豪商であったが、幕末には廻船業が振るわなくなり、明治には大名貸し金の貸し倒れで没落したといわれています。

 食野家の屋敷跡は今の第一小学校になり、唐金家その他の豪商の屋敷は消失していますが、泉佐野市本町を中心とする浜街道の北側地区には曲折した狭い道に数多くの大きな町家や寺院が連なり、江戸時代に栄えた佐野の面影を伝える町並みが今も残されています。
 「新川家住宅」(写真右上)はその町並みの中心付近に現存する貴重な町家建築として、一般に公開されています。
 また、元の海岸(今は埋め立てられて湾岸道路になっています)近くには「いろは蔵」(写真右下)といわれた廻船問屋の倉庫が残っています。地元の方に聞くと、写真のように蔵とわかる建物だけでなく、今は工場や住宅に転用されている付近の建物の全部が「いろは蔵」で、その数の多さから佐野の流通物資の豊富であったことが窺い知れます。

泉佐野市の発展
 佐野村は明治44年に町制を施行し、昭和29年に市制を施行しており、昭和29年の町村合併促進法に基づいて日根野・上之郷・長滝などの村を合併して今の泉佐野市になっています。町制・市制の施行は岸和田・貝塚より遅れており、経済基盤であった廻船業の衰退は明治以降の佐野の発展に対する大きな痛手であったと思われます。
 平成15年の泉佐野市の製造品等出荷額は2,262億円で岸和田市1,945億円・貝塚市1,405億円・泉大津市1,385億円を上回っています。出荷額が多いのは食料品製造業の1,226億円で、海産物に限らず多様な食品関連工場が泉佐野北部の埋立地に数多く立地している様は、物資流通の廻船問屋で栄えていた佐野の復活といえなくもありません。
 食品に次ぐ業種はわかりません(事業所数が少ない業種の出荷額は伏せられています)が、泉佐野特産品の泉州タオルを含む繊維工業製品・衣服その他の繊維製品の出荷額は191億円です。

泉州の原風景
 JR阪和線の熊取駅から南海本線の泉佐野駅に向かう途中の小高い丘陵(ダンバラ公園付近)から日根野の開発で作られた潅漑池が点在する風景が見られます。この時期は「ダンバラ公園」から「歴史館いずみさの」「中央図書館」にかけての桜が満開で、泉佐野の史料を調べに行ったついでに予想外の花見ができました。
 熊野街道の史跡に立ち寄ることもできるルートで、全行程を歩くと約2時間ですが、途中まで熊取駅から泉佐野駅へのバスを利用して時間の節約ができます。

所在
 佐野の町は今の泉佐野市春日町・本町・元町の辺りです。南海本線泉佐野駅から北に歩いて府道204号線を渡り、その先の浜街道(商店街)を超えて海岸までの間に佐野の古い町並みが見られます。観光パンフレットは泉佐野駅南側出口にあるインフォメーションセンター(泉州タオルの店のように見えます)に置かれています。
 紀州街道の貝塚から泉佐野までの間は地図上で現存するかどうかもわからなくなっていますが、不明部分を府道204号線で南下すると、富之里から泉佐野まで自転車で約2時間です。
「泉佐野市史」「大阪府史」などを参考に記載しました(山内)

 寺内町(貝塚市)  平成18年1月16日

貝塚の寺内町
 南海本線貝塚駅の東南に海塚(かいづか)・貝塚駅の西北に近木(こぎ)の古い地名が残り、近木の北に当たる貝塚市中の浄土真宗貝塚御坊の願泉寺の辺りから北町にかけて、寺内町として栄えたころの面影を残す古い町並みが保存されています。
 貝塚は、江戸時代に泉州政治経済の中心となった岸和田の至近距離にありながら、岸和田から独立した街として独自の発展を続けています。その一例として貝塚には大阪府無形文化財の盆踊り・三夜音頭・太鼓台(神輿)・だんじりの祭りがあり、岸和田から取り入れただんじり以外は、貝塚独自の伝統行事であるといわれています。

近木荘の形成
 参考にした大阪府史の記述は詳細すぎて理解しにくいところもありますが、鎌倉時代後期に貝塚市の脇浜・海塚・石才・神前・王子にかけての近木郷が高野山丹生社に寄進されて高野山領の近木荘になり、高野山は存続し続けた在地土豪の掌握に努めて、室町時代初期に漸く支配を貫徹することができたが、高野山の支配はその後の武士の介入などによって漸次衰退したように書かれています。
 この高野山による支配は宗教的なものでなく、寺領としての政治経済的、しかも在地土豪を利用した間接的な支配であったようで、高野山領であったころの近木荘は寺内町とは考えられていません。
 近木荘は平安時代から櫛と酢が特産品として生産されていたというように古くから商工業が発達し、室町時代後期に近木荘商工農民の経済力と浄土真宗本願寺の拡大が結びついて寺内町へと変遷します。

寺内町の成立
 寺内町の成立は近木荘の住民が行基の遺跡と伝えられる廃寺に天文14年(1545年)ごろに根来寺の僧・右京坊(後に卜半斎了珍)を住持として迎えたことに始まり、天文19年(1550年)に浄土真宗本願寺の末寺となり、織田信長と和睦して石山本願寺を明け渡した顕如上人が一時移住した天正11年(1583年)から天正13年の間は本願寺となり、顕如が再び移住した後に願泉寺の寺号を受けています。
 卜半斎了珍は続く豊臣秀吉と根来・雑賀と争いで秀吉側に組して支配力を強くします。自ら招致した住持に支配されるようになった住民との間に紛争が生じたこともあったといわれていますが、二代目・了閑が慶長15年(1610年)に徳川家康から寺内諸役免許を受けて地頭になり、岸和田藩の支配が及ばない貝塚寺内町が幕末まで存続することになります。

寺内町の産業
 貝塚寺内町の江戸時代の史料では、元禄9年(1696年)の世帯数1,536戸・人口7,110人で、宝永2年(1705年)の世帯数1,323戸のうち356戸が商工業、宝永7年(1710年)の主な業種は櫛挽・質屋・干鰯屋・鍛冶屋・木綿屋・米屋・旅籠屋・油屋・薬種屋・酒屋・問屋・材木屋などになっています。歴史の古い和泉櫛に加えて、鍛冶屋(鋳物)に特色があり、泉州の他都市と同じように木綿屋も多かったようです。
 貝塚の寺内町は明治の廃藩置県後も岸和田に併合されることなく、明治22年(1889年)に貝塚町、昭和18年(1943年)に貝塚市(府下9番目の市)になり、現在は元岸和田藩であった東南部の町村を合併して南を和歌山県に接する市域に拡大しています。
 貝塚市の平成15年の産業別製造品出荷額は鉄鋼274億円・一般機械機具263億円・食料品179億円・金属製品145億円・繊維製品141億円・窯業土石製品128億円などで、岸和田市と同様に重工業化していますが、食料品と繊維製品の生産は岸和田市より多くなっています。

寺内町の町並み
 歴史的な寺内町は北の北境川と南の清水川を環濠として南海本線東側の海塚から貝塚駅西側の近木などを経て海岸に達する範囲ですが、元寺内町の北部に位置する現町名の「中」と「北町」に願泉寺ほかの社寺と古い町家が数多く残されています。
 岸和田から南下した紀州街道は寺内町の北端で府道204号線に合流するので、府道沿いにも古い町家が見られます。一般の道と舗装を変えている散策ルートは、北町の東側から府道を横断して北町の西側に続き、西町と南町を経て、近木の商店街を通って貝塚駅に戻ります。
 願泉寺の本堂・太鼓堂・表門は江戸時代の重厚な建造物で国指定の重要文化財ですが、平成16年11月から22年12月の大改修で築地塀が解体されて現地になく、本堂は仮設建物に完全に覆われて見ることができません。掲載した写真は平成2年と3年に撮影したものです。

 貝塚の寺内町を少し調べて、政治経済的な理由で成立した寺内町と参拝者が多く集まるだけの門前町との違いが理解できましたが、願泉寺は広域から参拝者が集まるような寺ではなく、寺内町の町家は現在大半が住居とされている静かな通りです。
 岸和田の町並みは御神灯の見えるだんじり祭りの夕方から夜にかけてが普段より風情を感じられたので、貝塚寺内町も今度は伝統行事の太鼓台祭り・感田神社の三夜音頭・円光寺の東盆おどりの何れかを目当てにして行ってみようと思います。

所在
 寺内町の中心は貝塚市中と北町です。南海本線貝塚駅から線路の西側を北に歩くと数分で感田神社に着き、願泉寺は感田神社から少し西北の通りにあります。願泉寺から先の散策ルートは道に標があるので直ぐにわかりますが、観光パンフレットは貝塚駅東南側出口にある観光案内所に置かれています。
 岸和田の本町から貝塚の寺内町は紀州街道を南下して僅か2kmほどの距離で、自転車なら約10分、徒歩で行くことも可能です。岸和田市本町から少し行くと蛸薬師の大きな鳥居があり、津田川を渡って貝塚市に入り、暫くして紀州街道が府道204号線合流する地点から南が寺内町になります。府道との合流点で渡る細い川は、寺内町の北側の環濠として利用された北境川です。
「大阪府史」などを参考に記載しました(山内)

 紀州街道(岸和田市)  平成17年11月16日

紀州街道
 紀州街道は大阪市中央区の高麗橋から和歌山市に至る江戸時代の主要街道です。高麗橋から堺筋を南下して住吉神社の西側を経て堺市の大道筋になり石津・浜寺に至りますので、概ね今の阪堺電気鉄道・阪堺線の直ぐ近くを通っています。
 高石市の高石神社以北は府道204号線(旧国道26号線)と重なったりして現存しないようです。高石神社より南は府道204号線の東側、高石市南端から府道204号線の西側を通って泉大津市神明町に至る道筋は前の浜街道(泉大津市)に掲載したとおりです。
 泉大津市神明町から南は忠岡町と岸和田市を経て貝塚市まで途切れることなく一本道として残っていますが、岸和田市堺町と南町に鈎型に曲がっている箇所があります。岸和田市本町に至るまでの泉大津市・忠岡町・岸和田市春木地区の紀州街道では所々に泉大津市浜街道と同じような建築様式の古い町家が見られます。

岸和田市本町
 「岸和田市史」によると、岸和田の城下町は紀州街道に沿って分布し、城の直ぐ西に位置する本町と中町が最も早く16世紀末から17世紀初めに形成され、その東北の堺町が17世紀中ごろ、南西の南町は17世紀後半に形成されています。
 岸和田市本町は大阪から和歌山に至る紀州街道の中でも古い町家を最も多く残しているところです。
 泉大津市浜街道・忠岡町・春木地区に残された町家に比べて、岸和田市本町の町家は屋根・中2階窓・格子などの線が細く繊細で、農工的色彩の少ない純粋な商家建築様式ではないかと思われます。
 写真右上の家の説明には弘化2年(1845年)に売買で取得されたと書かれています。写真右中・手前の家の説明には明治30年代の後半に建てたとあり、その先の家の説明には18世紀初頭の町家遺構の古式であると書かれています。
 写真右下の家の説明には19世紀中期に増築されたと書かれていることから、当時の様式を残して修復されていると思われます。瓦・壁・木の色も鮮やかで、江戸時代に町並みが形成された頃の美しさを窺い知ることができます。

岸和田城と岸和田藩
 岸和田は建武元年(1334年)に摂津・河内・和泉の守護となった楠正成が和田高家を和泉掃守郷岸に置いたことに始まり、後に松浦氏が織田信長に組して本願寺と戦い、豊臣秀吉の時代には根来衆・雑賀衆と戦い、徳川家康の時代には旧豊臣勢力と戦っています。時の権力の泉州支配に大きな役割を果たしていますが、戦乱が収まると、岸和田城主は織田家・豊臣家・徳川家の各々に近い家臣に交代し、中村氏、小出氏、松平氏、岡部氏へと引き継がれています。
 岸和田城は松浦氏の代に照日山から現在の地に移り、小出氏の代に天守閣が築かれています。この天守閣は文政10年(1827年)に雷火によって焼失して、再建を待たずに明治の廃藩置県を迎えており、現在の天守閣は昭和29年(1954年)に再建されたものです。
 岸和田藩は小出秀政が石高4千石から1万石、3万石、松平康重が5万石から6万石、岡部宣勝が6万石(後に分知により本知5万3千石)で、岡部氏の領地は今の岸和田市・泉佐野市・泉南市・熊取町・田尻町に及びます。

岸和田市の産業
 岸和田市史に慶応2年(1866年)諸村の綿作率が春木50%、真上・八田・神須屋45%とあり、岸和田市北部から現JR阪和線付近の地域では泉大津などと同様に綿作が盛んに行われています。それより更に山側の地域は換金作物でなく稲作が中心であったようです。
 岸和田城下近くには、海産物を特産品としていた記録や、魚・酒・米などの商人や大工・船大工・風呂屋・髪結・木挽・綿打・桶屋・籠作・左官などの職人の記録があり、断片的な記録ですが、城下町の商工業が多岐にわたっていたことが知れます。
 明治時代には先ず泉州木綿と煉瓦が岸和田の主要産業となり、後に窯業は板硝子・硝子食器・理化学硝子に幅を広げています。また、岸和田の資本による銀行が設立され、南海鉄道に資本参加する他、電力供給その他の商工業が発達して大阪府の先進地域となり、岸和田は大正11年(1922年)に大阪市・堺市に次ぐ大阪府下3番目の市になっています。

 平成14年度の岸和田市製造業の産業分類別生産高(大阪府企画調整部統計課「工業統計調査結果表」)は、鉄鋼(416億円)・金属製品(119億円)・一般機械(119億円)・パルプ紙(65億円)・食料品(60億円)・繊維(59億円)・木材(56億円)・電気機械(54億円)などで、伝統的な泉州木綿から発達した繊維産業に替わって、臨海工業地帯の重工業が岸和田市産業の中心です。

紀州街道と熊野街道
 紀州街道より古くに大阪と和歌山を結ぶ道は熊野街道で、大阪市内は紀州街道より東の上町台地を南下して、堺市内は南海高野線堺東駅の付近を通って鳳神社と鳳商店街の付近に至り、高石市内は等乃伎神社付近を南下し、和泉府中・熊取・和泉砂川・山中渓を経て和歌山に至ります。
 熊野街道は奈良時代から室町時代までの泉州で最も重要な街道で、岸和田市でも久米田池・久米田寺・積川神社など奈良・平安時代の史蹟は熊野街道の近くに分布しています。

 室町時代には泉州各地に分散した小拠点の一つと考えられる岸和田が織田・豊臣・徳川氏による泉州支配の過程で泉州の政治経済の中心となり、泉州の産業は泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野などの紀州街道沿いで発達することになります。熊野街道から紀州街道への変遷については、岸和田の政治的発展が先行したのか、紀州街道沿い都市の経済的発展が先行したのかという疑問が残ります。

泉州の原風景
 高石市から泉大津市・和泉市・岸和田市・貝塚市に少し足を伸ばすと、町並み・寺院・神社・城・遺跡や、山と海の両方が見える大津川や津田川など、知識や説明なしに漠然と歴史や自然を感じられる風景があります。仔細に見学するのでなく、横を通り過ぎるだけでもよい風景です。偶には自転車で遠出したり、自動車で買物に行ったりして立ち寄ると、高石市には乏しい泉州の原風景が身近なものに感じられると思います。

所在
 紀州街道の代表的な町並みは岸和田市本町です。南海本線岸和田駅から商店街を西に行き、府道204号線を渡って暫く行くと紀州街道になり、紀州街道を南に行くと堺町を通って本町に至ります。道がわかりにくいときは、府道を渡らずに南に行き、岸和田城の堀の辺りで府道を西に渡ったところが本町で、府道から一筋西の道が紀州街道です。紀州街道(本町)の「まちづくりの館」に、岸和田の観光案内が置かれています。
 高石市から紀州街道を南下すると、富之里から岸和田市本町まで自転車で約1時間です。紀州街道には一方通行の箇所が多いので、自動車で行くときには要注意です。
「岸和田市史」などを参考に記載しました(山内)

 浜街道(泉大津市)  平成17年10月16日

浜街道
 大阪と和歌山を結ぶ紀州街道沿いに発達した泉大津の町が、綿織物から牛毛布・綿毛布・羊毛布へ、家内工業から工場生産へと変化する過程で、紀州街道より海側(西側)に商工業の中心が拡大して形成されたのが「浜街道」です。紀州街道はアーケード付きの商店街になって往時の面影が殆ど見られないのと対照的に、浜街道には歴史的な町家建築が数多く残されています。
 浜街道の形成が江戸時代に遡ることは文献や古地図でわかりますが、現存する建物の建築時期についての資料は見つかりませんでした。優れた景観の町並み保存地区であることから、今後に詳しく紹介されることになると思います。

浜街道まつり
 平成14年から年1回(平成17年は10月16日)、浜街道の居宅の軒先や寺院の境内などを利用して、民芸品・菓子などの模擬店、洋楽・邦楽のコンサート、生花などの展示をされています。泉大津市の支援もあるようですが、住民の皆さんがボランティアで開催されている手作りの親しみやすいイベントです。
 浜街道の町家は殆どが個人の居宅で普段は外観しか拝見することはできませんが、浜街道まつりの日には玄関など建物一部を模擬店や展示催しのスペースとして開放されています。また、古い工場建物に昔の民具を集めた「のこぎりホール」や「南溟寺」・「強縁寺」が催し会場の一部になって、普段は開放されていないところも拝見することができます。

「浜街道」(泉大津市ホームページ)にも浜街道と浜街道まつりの情報が掲載されています。

泉大津の綿織物
 国産木綿の最初の史料は文明11年(1479年)九州筑前国の粥田荘から領家の高野山金剛三昧院へ木綿一反を進上している文書とされ、当時の木綿は朝鮮から輸入されて軍事用に使用される貴重品であったようです。綿作・木綿織は16世紀になると武蔵・下総・遠江・駿河・甲斐・土佐・伊予・肥後・築後・薩摩の史料にも散見され、泉州地域では慶長10年(1605年)に和泉国大鳥郡上神谷村豊田の小谷家で実綿166斤、翌年に196斤が収穫されたと報告されています。
 江戸時代には稲作が重要な産業であり、寛永19年(1642年)に幕府が出した法令の中に「田方ニ木綿作申間敷事」とあり、幕府は綿を本田に栽培することを禁じていますが、助松村の宝暦13年(1763年)の村明細帳には「当村ハ用水不足ニ付、田方四分方(本田の40%)、古昔より田綿仕付申候」とあり、砂地が多く米作に不向きな泉大津地域では綿作が盛んであったことが記されています。
 綿作は栽培だけでなく、実綿を繰り糸にする作業や布に織る作業が伴い、農家が織機を買って家内労働力で生産する方式、奉公人を雇っている農家が奉公人にも木綿織をさせる方式、資力のある商人が農家に織機を貸して織賃を支払う方式などで農家の余業として経済的支えになりましたが、江戸時代末期には資本家が工場を作り賃労働者を雇って生産する方式も出現しています。
 天保年間の記録で泉大津の木綿織職が白木綿(幅約34センチメートル)、五輻毛綿(幅約1.7メートル)、広毛綿風呂敷地織、真田織(真田紐)、女帯地織などに区別されており、多様な綿織物が生産されていたことがわかります。泉州木綿は広幅に特色があったようですが、厚手で丈夫とされた河内木綿よりも評価が低く、天保年間の農家余業制限政策により急激に衰退しています。
 「鳳百年史」には堺市鳳地域の木綿生産の盛衰について同様の記載があることから、両地域に挟まれた高石市域の農家もまた同じであったと推察されます。

泉大津の毛布産業
 現在国内生産量の98%を占める泉大津の毛布産業は、明治18年に真田織の継承を目的として設立された真盛社が真田紐で得た利益を投入して牛毛服地を製造したことに始まります。牛毛服地は服地として評価されずに真盛社は解散しますが、牛毛服地から牛毛布が誕生し、その後は綿毛布・羊毛布と変化して、泉大津市の主要産業に発展します。
 毛布産業の契機となった真盛社は、江戸時代末期に衰退し始めた泉州木綿の生産が幕末の開港を経て西欧からの輸入で更に圧迫され、滅亡の危機にあった綿業者が出資して設立した会社で、解散後には各人が社長となって工場を設立したことから、生産技術のみならず経営形態の革新としても、その後の毛布産業の発展の礎となったようです。
 明治39年(1906年)に旧大津村が町制を施工したことを報じた新聞記事には、大津村住民の9割が毛織物業に従事し、その数は赤毛布・茶縞毛布・ネル地肩掛・綿毛布・レースなど約30種にのぼると記されていて、毛布を中心とした毛織物が泉大津の主要産業に成長したことを示しています。
 毛織物工場の創業年代の資料によると、明治・大正・昭和初期に創業した工場の多くは南海電鉄泉大津駅の周辺に分布するが、昭和21年以降(戦後)の工場は泉大津市の全域に分布して、従業員数など工場の規模も大きくなっていることから、浜街道周辺に歴史的な町並みが残されたのは、毛織物業発展に伴う工場立地の変化によるものと思われます。

南溟寺・緑照寺・強縁寺・長生寺・安楽寺・来迎院
 泉大津市神明町と本町(浜街道と紀州街道の間)は、南溟寺・緑照寺・強縁寺・長生寺・安楽寺の寺院が集まり寺内町のようになっています。南溟寺(写真右)は天文5年(1536年)に長泉寺として創建された浄土真宗東本願寺派の寺院で、一時は大津御堂と呼ばれ、延宝6年(1678年)に南溟寺と改められた。和泉国伯太藩渡辺氏の菩提寺でもあり、明治時代に再建された9間四方の本堂と、客殿、鐘楼、太鼓堂を有する泉大津市では最も大きな寺院です。
 浜街道まつりで南溟寺と強縁寺を拝見しましたが、住民参加で寺院の本堂に生花を展示したり、境内で三味線を演奏したりする演出は秀逸です。

大津神社
 泉大津市若宮町で紀州街道に面し、泉大津駅から西の浜街道へ向う道が紀州街道と交差するところです。由緒には元の若宮八幡神社に周辺の神社を合祀したと記載されています。祭神は元若宮八幡神社の品田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)と合祀した他の神社の祭神です。

紀州街道
 高石市の紀州街道は高石神社前の交差点から府道204号線(旧国道26号線)の東側を南下する道路で、高石市の南端で府道204号線の西側に変わります。泉大津市助松町(南海電鉄北助松駅の西)には江戸時代の参勤交代の休憩所であった田中本陣が残っています。泉大津市松之浜(南海電鉄松ノ浜駅の西)と春日町(南海電鉄泉大津駅の北)で府道204号線に合流して途切れますが、府道を南下すると直ぐに府道の西側に現れます。泉大津市若宮町の大津神社まで、富之里から自転車で約30分です。

所在
 浜街道は泉大津市東湊町・神明町・本町にまたがります。南海電鉄の泉大津駅から西北に歩き、府道204号線(旧国道26号線)、紀州街道と大津神社を過ぎて、次の交差点を超えて斜め(西)に少し行くと、浜街道の北端に到着します。
浜街道まつりを見学して、「泉大津市史」などを参考に記載しました(山内)

 池上曽根遺跡  平成17年9月20日

池上曽根遺跡の概要
 池上曽根遺跡は奈良県の唐古鍵遺跡・佐賀県の吉野ケ里遺跡と並ぶ日本最大規模の弥生時代の遺跡で、和泉市池上町・泉大津市曽根町ほか約60万平方メートルの広大な環濠集落です。現在その中心部分の11万5千平方メートルが国史跡に指定され、発掘調査された南端部3万5千平方メートルが史跡公園として公開されています。

 古くは明治に地元の南繁則氏が自宅で石器を発見したことに始まり、1950年代に森浩一氏と泉大津高校地歴部が遺跡の大きさと重要性を提唱して、1961年の発掘調査によって竪穴住居跡と多量の遺物から弥生時代の大集落跡であることが確認されました。
 その後、第二阪和道路の工事に先立つ1969年から2年半にわたる発掘調査、遺跡を東西に横切る松ノ浜曽根線の調査、大阪府、和泉市、泉大津市の史跡周辺での発掘調査が行われていますが、1990年に史跡整備委員会が発足して南端部の発掘調査が開始されるまでに長い年月を要しています。

 1990年に始まる史跡整備による発掘調査により、集落のほぼ中央部に巨大な建物が存在するということ、その大型建物の近くに巨大な井戸をもつこと、その近辺には石器・土器・たこつぼの埋納と火を使った痕跡が認められること、これらは規則的な方形区画上に配置されていること、竪穴住居跡の著しい建てかえがあることなどの集落構造が明らかになり、弥生時代の都市(クニ)とも考えられています。
 地下水位が高い池上曽根遺跡には一般には残りにくい木製品や植物遺存体などが数多く残存しています。その柱のうちの1本が年輪年代法により紀元前52年に伐採されたことが判明して、弥生時代は土器編年(考古学では土器などの遺物の移り変わりによって年代を決めてきた)による年代推定から約100年遡ることになりました。

史跡公園の復元建物
○大型掘立柱建物「いずみの高殿」(写真上) 太い柱の遺構と土器に描かれた建物絵画により、壁がなく屋根だけで覆われた高床式の建物として復元されています。床面積133平方メートル(約80畳)、床高4メートル、独立棟持柱9メートル、全高11メートル、屋根面積400平方メートル
○くり抜き井戸「やよいの大井戸」(写真上の丸い屋根の下) 直径2.3メートル、深さ2メートル
○立柱(写真上の右端の柱) 池上曽根遺跡で見つかった単独で立つ巨木の柱のうち「いずみの高殿」と同時期に立っていた南北2基の柱が復元された。
○竪穴住居(写真下) 発掘資料を元に丸い竪穴住居と四角い竪穴住居が復元されています。丸型から四角型への移行段階であったと考えられています。
○小型掘立柱建物 金属器工房と考えられる2棟の掘立柱建物が復元されています。
○小型竪穴 魚醤と推定される漁業に関連した加工施設が復元されています。

池上曽根遺跡と日本の歴史
 都市(クニ)とも考えられる池上曽根遺跡から出土した柱が紀元前52年に切られた木であることは、近畿に早くから政治権力が発生した可能性を高めることになり、景初3年(239年)年に魏に朝献したと魏志倭人伝に記されている卑弥呼の邪馬台国は近畿にあったとする畿内説の根拠の一つに加えられることもあります。池上曽根遺跡は近年の奈良県の遺跡調査と合わせて、邪馬台国九州説に傾いていた流れを畿内説に揺り戻すことになったようです。
 邪馬台国畿内説では初代・神武天皇より後の大和政権が邪馬台国になり、卑弥呼は倭途途日百襲姫(第7代孝霊天皇の娘)・倭姫(第11代垂仁天皇の皇女で第12代天皇景行天皇の妹)・神宮皇后(第14代仲哀天皇の妃で第15代応神天皇の母)などと考えられています。邪馬台国九州説では邪馬台国は初代・神武天皇の代になって大和に東征する九州勢力(高天原)で、卑弥呼は天照大神と考えるようです。

 池上曽根弥生学習館の資料によると弥生時代の遺跡は何処にでもあるといえるほど各所に分布していますが、池上曽根遺跡はその規模の大きさから当時の大阪平野で最も進んだ地域であったようです。しかし、弥生時代の後期には衰退の跡が見られ、古墳時代まで発展し続けるものではなかったようです。

曾禰神社
 史跡公園の西側に接して曾禰神社があります。祭神は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)・伊香我色雄命(イカガシコオノミコト)で物部氏の祖神です。記紀神話で、饒速日命は天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)より前に天下りして、大和政権(神武東征)の前に近畿を平定していた神とされています。

 弥生博物館には遺跡より約300年後の卑弥呼に関する展示があるだけで、記紀その他の日本の歴史に関する説明は見当たりませんでした。等乃伎神社・鳳神社(天児屋根命)、和泉穴師神社(天忍穂耳尊)、聖神社(聖神)、曾禰神社(饒速日命)と池上曽根遺跡から泉州の歴史を探るという思い付きでしたが、少しデータを集めただけに終ったという感じです。

所在
 池上曽根遺跡は大阪府和泉市池上町と泉大津市曽根町ほかで、大阪府立弥生博物館と池上曽根弥生情報館は和泉市池上町、池上曽根弥生学習館は泉大津市千原町にあります。JR阪和線の信太山駅から約500メートル、駅北側の道を北北西に行くと遺跡の北部分・池上曽根弥生学習館に到着します。
 他の遺跡の出土品を含む弥生時代の詳しい展示は大阪府立弥生博物館(有料)に、「いずみの高殿」・「やよいの大井戸」の遺構と出土品の一部の展示は池上曽根弥生学習館(無料)にあります。「いずみの高殿」復元建物の見学の受付は池上曽根弥生情報館(TEL:0725−46−5544)(無料)です。
池上曽根弥生学習館の展示や資料などを参考に記載しました(山内)

 聖神社  平成17年8月24日

聖神社
 聖神社は和泉国五社(大鳥神社、泉穴師神社、聖神社、積川神社、日根神社)の三ノ宮になります。和泉市の信太山丘陵の北に位置し、聖神社の東南の参道の掲示板には「当神社は延喜式内の旧社であって聖神を祭る。社は信太明神とも呼び、今から約1300年前、白鳳三年(西暦675年)八月十五日天武天皇の勅願により、国家鎮護の神として創建。和泉国五社のうち三ノ宮として位し皇族武家の信仰があつく、殊に後白河法皇の崇敬があつく、その奉納されたと伝える勅額が社宝として残っている。安産、子宝の神、又長寿の守護神として知られ、参詣者の多い神社である。・・・」と記されています。

 和泉市史には「聖神社・旧府神社は、信太郷に蕃居する信太首族の氏神であり、古く行宮などが営まれた故地に祀られたと思われる祭神であった。・・・信太大明神とも呼ばれており、「旧事地神本紀」によれば、素戔鳴尊の御子大事神が須沼比神の娘伊怒姫を娶って生んだ五柱の神のうち、もっとも末の神にあたる聖神なる神があるが、この聖神を祭神としている。・・・その神域一帯は古く森林に囲まれ、その森は信太森と呼ばれ、日本における森の代表的なものとして、平安時代ころから和歌の題にされることもしばしばであった。いつみなるしのたの森の楠の木の 千枝にわかれて物をこそおもへ はその一例である。・・・」との記述があります。

 和泉市史の記述の中の素戔鳴尊は日本神話で天照大神の弟とされる須佐之男命で、御子大事神は大年神になります。京都その他の八坂神社など素戔鳴尊と大年神を祀る神社は各地にありますが、聖神を祀る神社は極めて少なく、信太首族の氏神が大年神の子の聖神であったとすることにも無理があります。史実を調べることはできませんが、聖神社という名前から後日に同じ聖の字を持つ聖神を祭神にしたと考えるのが自然で、素戔鳴尊や大年神を合祀することなく他の神社に殆ど例のない聖神を祭神とする自由さには、日本神話を超える泉州地域の歴史の古さが感じ取れます。

祭神
[本社]
 祭神 聖神
 配神 天照大神 饒速日命 瓊々杵尊 木花開耶姫命 磐長姫
[末社]
 保食神 天児屋根命 別雷神 (三神社)
 伊邪那岐命 伊邪那美命 (滝神社)
 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神 (平岡神社)
 市杵島比売命 (厳島神社)
 大物主神 (琴平神社)

社殿
 本社の建築については「本殿は慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもので、国の重要文化財に指定されている。正面桁行三間、側面三間の三間社入母屋造と呼ばれる形式で、屋根は桧皮葺とし、中央には千鳥破風、向拝一間部分の軒には唐破風が付いている。また、正面と両側面一間分の脇障子までは、縁を廻して高欄を設けている。内部は中央後寄りの内陣と正側面の外陣を分かち、内陣には宮殿を安置している。内外、宮殿とも彩色し、花、雲、唐獅子、龍などが極彩色で表現されており、桃山時代の気風横溢する社殿として貴重である。」と掲示されています。写真(右上)の本社本殿は屋根だけがですが、拝殿に入ると本殿の細部がかなりよく見えます。

 同時期に再建された境内社もまた少し様式の異なる桃山時代の貴重な建築とされており、三神社本殿と滝神社本殿が国の重要文化財、平岡神社が大阪府指定有形文化財です。三神社、滝神社、平岡神社は低い塀越しに本殿の全容を見ることができます。

信太の森
 聖神社の境内林は信太の森と呼ばれています。神社創建の頃は丘陵の上の森を切り開いて泉北の平野を一望にしていたと想像できますが、現在は鶴山台団地など周囲の開発により、聖神社境内に残された樹木だけが貴重な森林になっています。

 信太の森には、白狐の化身を妻にした安倍安名が男児を授かり、成長して安倍晴明になったという葛葉伝説があります。信太山丘陵を降りたところの葛葉稲荷神社にも同じ伝説があり、伝説の起源が聖神社か葛葉稲荷神社かは定かでないようです。

所在
 大阪府和泉市王子町919
 JR阪和線の北信太駅から南南東に約1kmです。聖神社付近は急な坂で歩いて登ると時間がかかりますが、途中に泉大津方面と大阪湾を見渡せるところがあります。鶴山台団地までバスを利用する行き方では、直ぐに聖神社の境内に入ってしまいます。
「和泉市史」・「聖神社の掲示」などを参考に記載しました(山内)

 泉穴師神社  平成17年6月27日

泉穴師神社 由緒
 当神社は、式内社で和泉五社の一、泉州ニ之宮であります。穴師の里、千古の神境に神殿奥深く鎮まります。主祭神は、農業の神であらせらる天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、紡織の神であらせらる栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)の御夫婦ニ柱の神であり、天忍穂耳尊は天照大神の御子神で皇室の御祖神の系列にあらせられ、栲幡千々姫命は御名の通り、栲は古い昔衣服の原料となる麻・絹・綿等一切の繊維類の総称であり、幡は「潤v「服」の字に相当し、布帛の総称で、暑(はたもの)は、織機の意味で衣服の紡織に種々工夫改良を加えられた姫神様であらせられ、泉州の地が今日農耕並に紡織を以って繁栄して居りますのも洵に御神徳のいたすところであります。
 衣食の安定は政治の中心でありますので、往古より歴代の天皇の当社に対する御崇敬は、文献に数々残されて居りまして枚挙にいとまがありません。又、古来より、幼児虫封じに霊験あらたかと云われ、参拝者多数ございます。

社殿
 住吉社本殿の一部から鎌倉時代の文永十年(1273年)の墨書が発見されていますが、豊臣秀吉の根来攻めの兵火で社殿の多くを焼失したため、現存する社殿は慶長七年(1602年)に豊臣秀頼が再建したものとされています。
 本社本殿・住吉社本殿・春日社本殿は国指定重要文化財になっています。写真(上)の中央は拝殿で、本社・住吉社・春日社は拝殿の更に奥です。

祭神
[本社]
 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
[摂社]
 天富貴命 (春日社)
 古佐麻槌命 ( 〃 )
 表筒男命 (住吉社)
 中筒男命 ( 〃 )
 底筒男命 ( 〃 )
 息長定姫命 ( 〃 )
[境内社]
 事代主大神 (戎社)
 菅原大神 他七座(合祀殿・穴師天満宮)(菅原神社を移転し、八坂神社など近在の神社を合祀)

泉大津市史等にみる歴史
 泉穴師神社は、奈良時代の霊亀二年(716年)河内国より和泉国が分かれたときに大鳥、穴師、聖、積川、日根神社を和泉五社としたと伝えられ、平安時代初期の功仁六年(815年)に編纂された「新撰姓氏録」(和泉国神別)に「穴師神主」(天富貴命五世孫古佐麻豆智命之後也)が見えますが、奈良時代以前の起源については定かではないようです。(「泉穴師神社由緒」には御鎮座天武天皇白鳳年間(約1300年前)と記されています。)
 「泉大津風土記」は「穴師とは・・・戌亥の方向(北西)から吹く風を意味し・・・船乗りは・・・海が荒れることを恐れた・・・」と船の安全を祈願したように記しています。しかし、奈良県桜井市の穴師坐兵主神社など各地の穴師神社には穴師を金属採掘と精錬の技術者とする伝承が多く、弥生時代池上曽根遺跡の直ぐ近くでもある泉穴師神社の付近に、筑紫・出雲・大和などの勢力が交錯する古代から先進の技術者集団が居住していたと推測することも可能に思えます。

 泉穴師神社の境内にはクスノキ・クロガネモチ・カクレミノなどの大樹が数多く繁り、大阪みどりの百選の一つになっています。神事や信仰は別として、安らぎ・癒しの空間として訪れてもよいところです。

所在
 大阪府泉大津市豊中町1−1−1
 JR阪和線の和泉府中駅から徒歩約15分。和泉府中駅北側の踏切の道を西北に歩き、穴師小学校で右折すると鳥居が見えます。
「泉穴師神社由緒」・「泉大津市史」・「大阪府史」などを参考に掲載しました(山内)

 大鳥大社  平成17年5月10日

大鳥大社 由緒沿革
 当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社八十五社の一であって、屡々臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観三年七月には従三位に叙せられ、後正一位に御昇階になりました。
 御祭神日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところでありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、俄に病にお罹りになり、伊勢国能褒野に於て死去遊ばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給ひ、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起源であって今から約1,850有余年前であります。
又、大鳥連祖神様は、此の和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とすると伝えられて居ります。当社は明治四年五月祭神日本武尊として官幣大社に列格になりましたが、明治九年一月天覧に供しました官社祭神考証に於ては、祭神大鳥連祖神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、爾来当社歴代の宮司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、遂に明治二十九年十月三日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、偶々昭和三十二年六月二十八日付にて、祭神日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、茲に御祭神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする弐座の御社となり、御神慮に御応え申すことが出来たのであります。
 御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度に亘って奉仕して居ります。又、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に観学院神鳳寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。

祭神
[本社 大鳥大社]
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
 大鳥連祖神(オホトリムラジノミオヤノカミ)
[摂社 美波比神社](本社境内)
 天照大神
 相殿 菅原道真公
[摂社 大鳥北濱神社](堺市浜寺元町三丁)
 吉備穴戸武媛命(景行天皇の妃)
[摂社 大鳥濱神社](高石市羽衣)
 両道入媛命(日本武尊の妃)
[摂社 大鳥井瀬神社](堺市宿院(本社御旅所))
 弟橘姫命

社殿
 本殿は大鳥造と申しまして、神社建築史上一種の様式を保っており、その構造は出雲の大社造に酷似しており、切妻造、妻入社殿で出雲大社に次ぐ古い形式を今日に伝えております。
 社殿は天正年間の兵乱によって炎上し、慶長七年豊臣秀頼によって再興せられましたが、更に寛文二年には徳川家綱の命によって堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年には特別保護建物に指定されましたが、同三十八年八月に雷火の為に再度炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。
 昭和九年国費で御屋根替、更に昭和三十六年御祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手に依って内部の模様替と原型解体に近い大修理が行はれました。

大鳥神社の起源
 鳳小学校百周年記念事業の「鳳百年史」はその第5章第2節で、『「新撰姓氏録」の「和泉国神別条」によりますと「大鳥連、大中臣朝臣同和、天児屋根命之後也」を伝え、室町中期頃の成立と伝えられる大鳥神社の神宮寺だった神鳳寺縁起によりますと、「天児屋根命の十一世の子孫にあたる大野臣が、筑紫よりこの里にきて大鳥神社を祭祀し、それ以後、大野臣を改めて大鳥姓を称した」と伝えています。』『考古学というもののなかった室町時代に成立したといわれている同書に「筑紫からきた」という記載と、四ツ池遺跡の発掘の結果「北九州(筑紫地方)から移住してきた弥生人」という事実のつながり』から『ある程度確実な伝承があった』として、『伝承では大鳥杜は「景行天皇54年に鎮座」』『その年号の伝承を西暦にしますと、250年前後で、日本では弥生時代の晩期に当たり、その実在の投影のある応神天皇の少し前に当たります。』と、大鳥連を大鳥神社の起源とする記述をしています。

所在
 大阪府堺市鳳北町1丁1番
「大鳥大社由緒略記」と「鳳百年史」の一部を記載させていただきました( 山内 )

 等乃伎神社  平成17年5月5日

等乃伎神社 縁起
 古事記下巻仁徳天皇(313-399)の段に記載されている兔寸河(ときがわ)のほとりの巨木説話から、この地が、古く先史時代の樹霊信仰と、高安山から昇る夏至の朝日を祭る弥生時代の農耕民族の祭祀場、つまり太陽信仰の聖地であったとされています。
 その後、奈良時代の天平勝宝四年(753)五月、古代祭祀を司る中臣氏の一族、殿来連(とのきむらじ)竹田売が租神天児屋根命をこの地に奉祀し、太政大臣藤原武智麻呂、その子大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いで、この里に来住したと伝えられています。

古事記下巻仁徳天皇(313-399)
 此の御世に、兔寸河(富木川)の西に一高樹ありけり。その樹の影は、朝日に当れば、淡路島におよび、夕日に当れば、高安山を越えき。故、この樹を切りて船を作りしに、いと疾く行く船なりけり。時にその船を名づけて、枯野といひき。故、この船をもちて、朝夕に淡路島の寒泉を汲みて、大御水に奉りき。この船の破壊れたるを以ちて、塩を焼き、その焼け残る木を取りて、琴に作りしに、その音、七里に響きけり、かれ歌ひしく、
 加良奴袁(からのを) 志本尓夜岐(しほにやき)
 斯賀阿麻理(しがあまり) 許登尓都久理(ことにつくり)
 賀岐比久夜(かきひくや) 由良能斗能(ゆらのとの)
 斗那賀能伊久理尓布礼多都(となかのいくりにふれたつ)
 那豆能記能(なづのきの) 佐夜佐夜(さやさや)
 訳:枯野(船名)を焼いて塩を作り、その焼け残りの木で琴を作って掻き鳴らすと、(その音は)由良の海峡の海中の岩に生えて、ゆらゆら揺れている海草のように、さやさやと響くよ。(土橋 寛)
 此は志都歌の歌ひ返しなり。
 この天皇(仁徳)の御年、八十三才。御陵は毛受の耳原に在り。

祭神
 [本社]
 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
  天照大神が天岩戸にお隠れになった時、
  美声でのりとを奏上された神
  (芸能上達、厄除開運)
 大歳大神(おおとしのおおかみ)
  須佐之男命の御子
  (家内安全、交通安全)
 壷大神(つぼのおおかみ)
  太陽神
  (延命長寿)
 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
  天神様
  (学業成就、心願成就)
 譽田別命(ほんだわけのみこと)
  応神天皇
  (良縁成就、安産子宝)
 [摂社]
 宇賀之御魂神(うがのみたまがみ)
  お稲荷様
  (商売繁盛)
 [末社]
 天御中主神(あめのなかぬしのかみ)
  天地開闢の時、天上界最初の主宰神
  (諸病退散(神経、頭、足腰))

所在
 大阪府高石市取石2−14−48
等乃伎神社の掲示を記載させていただきました( 山内 )