死と永遠の意識

801200−980625

Man is mortal

Man is mortal 「人間は誰でも一度は死ぬ」。
大学の受験勉強をしていた、高校のときのこと。英和辞典の〔man〕を引くと、この言葉が出てきた。 以来、頭の隅に残っていて、忘れることはない。〔mortal〕「いつか死ぬべき運命の」 〔Man is mortal 〕「人はいつかは死ぬべきものだ」
生物で死ななかったものがあるという実例は、宗教的伝承を除けば、未だ無い。
死は、恐ろしい。何故か?
まず、感覚が無くなる。5つの感覚。視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる。目、耳、鼻、舌、身体。 障害を持っていた、かのヘレン・ケラ−も後ろ3つの感覚が機能していた。5感を遮断すると、 おそらく真っ暗な世界。情報はどこからも得られない。又時間の経過を確認する手立ても無い。 自分の位置を確認する手立てを失ったまま、意識が取り残される。
更に、意識そのものが存在しない。記憶も、思考機能も無い。今まで生きてきたこと、楽しかったこと、 辛かったこと。好きな人の笑顔、その温もり。読んだ本、努力したこと、その成果。そして歴史、 人類がどうなっていくか。宇宙は爆発するか、その先にあるものは何か?
知る手立てが無い、知る主体が無い。
「人は考える葦である(パスカル)」。広大な宇宙の2メ−トル四方に満たない空間、 何十億年を超える歴史の100年前後の時間に身を置きながら、それらの拡がりを認識することが出来る。
できることなら生きたい、永遠に生きたい。これがぼくの希望である。

カミュ「不条理な論証」

〔「不条理な論証」所載『シ−シュポスの神話』新潮文庫1974年(昭和49年)〕
まず、蛇足から始めなければならない。
第1に、この本は、とてもわかりにくい。一度読んだだけでは、意味を捉えにくい。 そこで、ぼくが捉えた内容を、「カミュは何を問題にしたか、どの様に考えたか、結論は何か」と、 順に本文を引用しながら、明らかにしたい。
第2に、カミュが、耳目を集めるために冒頭に「不条理と自殺」という項目を設け、 「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、 これが哲学の根本問題に答えることなのである。」と、書き出していることだ。自殺について書いた論稿は 過去にあるが、カミュにしてもショ−ペンハウエルにしても、書いた本人は自殺していない (He did not killed himself.)。つまり、わかりにくい文章を注意深く 最後まで読み通せば、それが著者の結論だということだ。本の最初しか読まない人が、早合点しないために、 これから書く内容を先取りして示せば、<カミュは「どの様に生きるか」を問題にし、 「最も多くを生きること」を結論とした>のである。
それでは、本題に入ろう。

カミュは何を問題にしたか

「これまでは結論と考えられていた不条理が、この試論においては出発点(8頁)」である。 カミュはキルケゴ−ルを引用している。「もし仮りに人間が永遠の意識をもっていないとしたら、 (中略)そのとき人生とは、いったい、絶望以外のなんであるだろう(61頁)」。つまり、 「永遠の意識が無いという認識(=不条理)」の下で、カミュは「人生の意義こそもっとも差し迫った問題 だと判断(12頁)」している。
「こうした不条理の状態、問題はそこで生きることである。(中略)ぼくはこの状態にある生を生きる ための規則を探ね求めている(60−61頁)」。

理性で説明し得るものに基づいて生きること

「何もかも説明がつくか、或るいは何一つ説明がつかぬか、ぼくはそのどちらかであってほしいと思って いる(43頁)」。「ぼくは、理解不能なものの上には何一つ築きたくない。自分は果して、自分の知って いるものとともに、ただそれだけを共にして生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。 (中略)ぼくはただ、知力がその明晰さを保っていられる中道に身を持していたいだけだ(60頁)」。

永遠の意識が無いということ

「明白な事実をぼくは知っている。人間は死すべきものだということだ(31頁)」。
「世間の人々の誰もが、まるで《死を知らぬ》ようにして生きていることには、いくら驚いても 驚き足りぬだろう。これは実は、死の経験というものが無いからだ。本来、現実に生き、意識したものしか 経験であり得ないのだが、この死という場合、せいぜいのところ、他人の死についての経験を語ることしか できない。(中略)実は、恐怖は死という事件の数学的側面からやってくる(27頁)」。
「とりたてて事もない人生の来る日も来る日も、時間がぼくらをいつも同じように支えている。 だが、ぼくらの方で時間を支えなければならぬときが、いつか必ずやってくる。ぼくらは未来を当てにして 生きている、「明日」とか、「あとで」とか、(中略)ともかくいつかは死ぬのに、こういう筋の通らぬ 考え方をするとは、(中略)ある一日が訪れ、人は自分が30歳だと自覚し、(中略)だがそれと同時に 彼は時間との関係に身を置くのだ。彼は時間のなかに位置する。自分が或る曲線上の一点にあることを認め、 以後その曲線を辿ってゆくことになると承認する。彼は時間に従属している(25頁)」。

永遠の意識が無いという認識の下で、理性は世界を認識し得るか

カミュはハイデッガ−を引用している。「『人間存在の有限性及び被限定性は、人間それ自体よりも 本源的だ(中略)世界は激しい不安に悶える人間に、もはや何ものも提供することができぬ』(39頁)」。 ここで同じく引用されているハイデッガ−の《憂慮》とは、死の恐怖である。 「彼は(中略)これしか語らない。(中略)『平凡な人間が、憂慮を自分自身の中で和らげ静めようとする とき、憂慮は生への倦怠という相貌を示し、精神が死を見つめるときは、恐怖という相貌を帯びる』(39頁)」。
カミュは続ける。「世界は、理性では説明のつかぬものに満ち満ちている。ぼくには世界の唯一絶対の 意味が理解できない−−世界はひとつの巨大な非合理的なものに過ぎない。(中略)以上に述べた人々は、 何ものも明らかではない、一切は混沌だ、だから人間はただその明徹な視力を保持し、自分を取り巻く壁を 認識するしかないと、競い合って宣言する(43頁)」。
「ぼくの言い得るのは、なるほどこれはぼくの尺度を超えている−−これだけだ。(中略)ぼくは理性の 限界を認めてはいるが、だからといって、ぼくは理性を否定はしない、理性の相対的な力は認めている(60頁)」。
「世界は人間の理性を超えている、それだけのことなのだ(中略)この理性が野望をいだくからこそ、 それに見合ってこうした限界が生まれるというにすぎない(71−72頁)」。
「絶対と統一とを求めるぼくの本能、そして、この世界を理性的かつ妥当な原理へと還元することの不可能性(75−76頁)」。
つまり、人間の存在は死という明らかな事実によって限定されている。人間と不可分の理性も、 この結果、限られている。宇宙は爆発するか、その先にあるものは何か?宇宙は何のために存在するか? 知る手立てが無い、知る主体が無い。
「何ものも解決されない(77頁)」。

論理的短絡として神を持ち出すこと

カミュはヤスパ−スの超越者(=神)に関する論証について、「こうした論証はいかなる点においても 論理的であるとは言えない。それを飛躍と名付けられよう(51頁)」と、言う。
又シェストフに関して引用する。「人間の判断する限り、突破口など存在しない(中略)。 人が神へと向かうのは、ただ、不可能事を獲得したいために他ならない。可能事についてなら、 人間でこと足りる(52頁)」。ここで言う「不可能事」とは、永遠の意識である。
又キルケゴ−ルの見解に対して、「不条理(引用者注=永遠の意識が無いという認識)とは(中略)、 神へと人を導かぬものなのだ。(中略)それは神の無い罪だ(60頁)」と言う。ここの「神の無い」とは、 キリスト教における復活、仏教における輪廻が無いということだ。
哲学において、主題として「神」を取り上げるのは、「永遠の意識が無い」 (=理性は世界を認識できない)という壁にぶつかったとき、これを論理的に解決するために、 「神を措定する」のである。〔措定〕「・或るものを対象としてまたは存在するものとして立てること。 ・或る命題を自明なものとして、または仮定として肯定的に主張すること」。
宗教においては、死の恐怖を和らげるために、復活や輪廻、その保証人としての神を持ち出す。
しかし、哲学にしても、宗教にしても、神を必要とするのが、死の恐怖に基づくということでは同一である。
前述のように、カミュは「ぼくは、理解不能なものの上には何一つ築きたくない(60頁)。」 と考えているから、これらの論理的短絡に対して、「真なるものを探究するとは、願わしいものを探究する ことではない(61頁)」と言う。
そして、一連の論理展開に対して、「この否定や矛盾は、常に永遠を憧れている、 ただ永遠のみを目掛けて、それらは飛躍を行う(62頁)」と言う。
「理性の勝利と理性の屈服という互いに対立する道を辿りながら、(中略)フッサ−ルの抽象的な神から キルケゴ−ルの雷で人を打つ神に至る距離は、それほど大きくはないのだ。理性と非理性的なものが、 同じく神を説くに至る。(中略)抽象的哲学者と宗教的哲学者が、共に同じ混乱から出発し、 同じ苦しみの中に立っている。(中略)この二人の哲学者の生きた時代の思想が、世界は無意味だという 哲学が最も激しく浸透した時代の一つであり、同時に又その結論において最も激しく分裂した時代 の一つでもある。(中略)この時代の思想は、現実を幾つかの典型的説明原理に分割するに至る程の、 極端に理性万能的な現実解釈と、現実の神格化に至る程の、極端な反理性的解釈との間を揺れ動いて 止まなかった。(中略)本当は、理性的に考えるというその意図においては如何に厳密であろうと、 実は理性という概念は、他の色々な概念と同じく、柔軟な概念なのである。(中略)理性は思考の道具 であり、思考そのものではない。そして一人の人間の思考とは、何よりもまず、その人間のいだく郷愁 (引用者注=希望、願望)なのだ(69−70頁)」。
「果してこの世界には、この世界を超える意義(引用者注=神又はSomething grate) が有るのだろうか、ぼくは知らない。だが、そういう意義を今ぼくは認識していないし、今のところそれを 認識することはぼくには不可能だということを、ぼくは知っている。(75頁)」。

最も多くを生きること

「死後にもう一つの生をご褒美として生きられるように(中略)と考えて、そのもう一つの生を希望する、 いやそれは希望というよりはむしろ欺瞞だ、生そのもののために生きるのではなくて、生を超えた何らかの 偉大な観念(引用者注=神又は天国、極楽浄土)、生を純化し、生に一つの意義を与え、 そして生を裏切ってしまう偉大な観念のために生きている人々の欺瞞なのだ(18頁)」。
「不条理な精神は、諦めて虚偽に身を委ねるよりは、むしろ、恐れることなくキルケゴ−ルの答え 『絶望』を取る方を選ぶ(62頁)」。
「不条理な精神とは、自己の限界を確認している明晰な理性のことだ(72頁)」。
「もしぼくが(中略)一本の樹であれば、(中略)一匹の猫であれば、(中略)生に意義があるかどうか という問題そのものが存在しないであろう、その場合ぼくはこの世界の一部であるのだから。だが現実の ぼくは、ぼくの意識の全てによって、(中略)この世界に対立している(引用者注=主体と客体・対象 という関係になっている)のである。(中略)世界とぼくの精神との間のこの葛藤、この断絶の本質を なすものは、それについての僕の意識(中略)。この意識を保ち続ければ、(中略)肉体、愛情、創造、 行動、人間の高貴が、この道理の通らぬ世界の中で、それぞれしかるべき位置を占めるに至る(76−77頁)」。
つまり、仮に、死から逃れるために、神を措定する場合は、神の意志と自分の意志という関係が生じる。 「肉体、愛情、創造、行動、人間の高貴」は、神の意志との対比において、評価される結果になる。 だから、神を措定しなければ、自分の意志は、それ自体として評価し得ることになるのである。
「以前は、人生を生きるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。 ところがここでは反対に、人生は意義がなければないだけ、それだけいっそう良く生きられるだろうと 思える(78頁)」。
「重要なのは和解することなく死ぬことであり、進んで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。(81頁)」。
「重要なのは、最も良く生きることではなく、最も多くを生きることだ(87頁)」。
「自分の生を、反抗を、自由を感じ取る、しかも可能な限り多量に感じ取る、これが生きるということ、 しかも可能な限り多くを生きるということだ(90頁)」。
「要はひたすら運の問題だ。(中略)60歳まで生きられるかもしれないのに40歳で死んでしまう、 そのとき、その差の20年間の生と経験は、もはやけっして、他の何ものによっても置き換えられぬ。 (中略)この地上で感じるというこの上なく純粋な悦び(中略)絶えず意識の目覚めた魂の前にある現在時、 そして現在時の継起(91頁)」。
カミュは、末尾にニ−チェを引用する。「天上においても地上においても枢要なのは、長い間、 そして一つの同じ方向に『従うこと』だ(中略)やがてはその結果として、例えば徳、芸術、音楽、舞踏、 理性、精神というような、この地上で生きることはそれだけの労に値するものだと思わせる何か或るもの、 変貌をもたらす何か或るもの、何か洗練された、狂気じみた、或いは神に似たものが生まれてくるのだ (92−93頁)」と。
「以上に述べたことは、単に一つの考え方を定義しているに過ぎない。いまや、問題は論証ではなく、 生きることだ(94頁)」。

ここでまた冒頭の蛇足に戻る。カミュは、「ぼくの期待していたのは(中略)こういう分裂とともに生き、 ともに思考すること、受容すべきか拒絶すべきかを知ること(中略)。不条理に基づいて生きることが 果してできるだろうか、或いは論理の必然的帰結として不条理ゆえに死ぬべきなのか、それを是非とも 知りたい(73頁)」と書いた。しかし、この書き方は耳目を集めるにはいいが、問題の立て方が誤っている。 何故なら、結論は「受容」以外ない。「拒絶」(=個体の死)は、人類という種が存在する以上、 不条理(引用者注=永遠の意識が無いという認識)という問題の解決にはなり得ないからだ。

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