1991.8.15
孫と祖父母との関係はあやうい。
父方のおばあちゃんは、病気で早くに亡くなり、私は会ったことがない。
母方は、正月や夏祭に何回も遊びにいったので、よく覚えている。
おばあちゃんは、遊びに行った折々のことを覚えている。
台所は一段下がっていて、氷の冷蔵庫(電気式ではなく氷で冷やす)があった。コッカスパニエルという種類の茶色の毛脚の長い犬が居て、歳をとると目が悪くなった。
台所の縁の下で、犬だか猫だかが子を生んだ。庭に本物の鉄かぶと(第2次大戦のおじさんのもの)の植木鉢があり、池には狩野川で捕ったうなぎがいた。それらの折々のなかに、おばあちゃんの記憶がある。
やがて連れだって沼津の町を歩いていた従兄弟たちが大きくなると、正月や夏祭に集まることもまばらに少なくなった。おじいちゃんが亡くなった後、老人性痴呆症が強くなり、寝たきりになり入院したという話を聞く。
ずいぶん経ってから病院に見舞いに行ったことがある。やがて亡くなった。
孫が成人する20年後の話をするとき、特に事故が無ければ、孫本人と親にとって、20年後のその日はほぼ確実に来る。しかし、高齢の祖父母にとっては不確実である。
孫は可愛い。赤ん坊は可愛い。「おじいちゃん、おばあちゃん」とまとわりつく幼児は可愛い。そして自分が生きていたことを、何十年後かまで記憶に留める孫は可愛い。
「いっしょに遊んだことを覚えていてくれ」。
自分の場合でも、祖父母は父方母方とも、私の成人のころまでで亡くなり、今は不確実な記憶のなかにある。
おじいちゃんは、幼児期に一時いっしょに住んだことがあるが、もともとあまり行き来していなくて、子供の頃に亡くなった。
健康ではあったが栄養剤なのか、薬を何種類も飲んでいたことを、自分で直接見たものか大人から聞いたことか、記憶している。話をしたり、遊んだりということは思い出せない。
おじいちゃんは、喉頭がんを手術したので声が出せなかった。喉に開いた穴を、首にガ−ゼの布を下げて、覆っていた。だから話すときは、ファファファと空気の音が出て、それを聞き慣れた人が通訳した。
ずっと後に、また胃がんになり、入院して手術したが亡くなった。たしか72歳だった。
ぼくはいくつだったか。
祖父母は、やがて孫の不確実な記憶のなかに生きる。
ホームに戻る
夢幻はじめに
・夢幻
・随想
・短歌連作
・音楽
・市民運動リスト・リンク集
・その他リンク集
・引用
・メール・マガジン
・ブログ掲示板
・ソーシャルネットワーク