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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2013/7/10 奇数のぞろ目の歌番号(年中行事)
(2013/07/13 説明追加修正)

陽の数である奇数のぞろ目の日は1年の節目の日として年中行事があります。
百人一首を見ると、奇数のぞろ目の歌番号にはその年中行事にあった作者・和歌が配置されており、
なかなか尖った作者が選ばれています。

No. 作者 解釈
11 小野篁 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよあまの釣舟
1月1日 四方拝

[みかきもり]
四方拝(しほうはい)は1年の一番最初に宮中で行われる儀式です。
元旦早朝に天皇がその年の属星(北斗七星の7つの星に干支が割り当てされている)、
天地(北、北西)、四方の神々(東南西北)、山陵(天皇陵)を拝んで、1年の災いを祓い、
豊作を願います。
明治以降は皇居が東京に移って儀式の次第も道教の影響を排除され、伊勢神宮の
内宮(天照大神)・外宮(豊受大神)を拝んで、四方の神々を拝むように改められました。

地球上からは北の空の星は北極星の周りをまわっているように見えます。
古代中国でこの天の中心に位置する北極星が神格化され、宇宙の根源を表す太一
(たいいつ)と習合されました。
日本で太一は天照大神と習合され、天照大神=太一=北極星とみなされたゆえ
北を天として拝んだのだろうと思います。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよあまの釣舟
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倭姫命が天照大神の鎮座する処を求めて大八洲(おおやしま)をめぐっていると、
天照大神は美しい伊勢志摩に居たいと倭姫命に告げました。
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「わたの原八十島」の歌及び歌番号11番からは、 日本書紀に記載された第11代垂仁天皇の
二十五年三月の倭姫命が想起され、 天照大神が感じられます。
また小野篁は夜ごと井戸を降りて地獄で閻魔大王のもとで裁判の補佐をしたといわれます。
歌番号11番「わたの原八十島」(小野篁)は天照大神、人、閻魔大王で、天界、人の世界、
冥界が感じられ、天地・四方の神々を拝む1月1日の四方拝を連想します。
そこにはこれから新たな1年という大海原を漕ぎ出す舟(日本)の祭祀王である天皇が
神々と対話をする姿を感じます。

「わたの原八十島」の歌と小野篁に天照大神、閻魔大王が感じられ、天と地の神々などを
拝む1月1日の四方拝をかけて、定家はこの「わたの原八十島」を歌番号11番にしたのでは
ないでしょうか。

33 紀友則 久方の光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
3月3日 上巳

[みかきもり]
上巳(じょうし)は3月3日にあたり、長かった寒い冬がそろそろ終わって暖かな春の日射しを
感じる頃です。古来、草や紙で人形(ひとがた)をつくってそれに穢れを移し川や海に流して、
健康や災厄を祓う「上巳の祓い」が行われていました。

久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
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醍醐天皇から和歌集編纂の勅命があり、長い時を経てようやく和歌に暖かい春の光が
射してきた中で、古今集の完成を見ずに紀友則がなくなったことは心穏やかではいられ
ません。
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醍醐天皇から初の勅撰和歌集編纂の勅命があり、それまでの唐風文化から国風文化復興で
和歌に暖かい春の光が射してきました。
その最初の勅撰集「古今集」の撰者は紀貫之 、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒ですが、
紀友則は古今集の完成を見ずになくなります。
初の勅撰和歌集編纂に対して、当時としては穢れを嫌って取りやめとなっても不思議では
なかったでしょう。そしていったん編纂取りやめになるといつ機会がめぐってくるかわからない
といった状況になったのではないかと思います。和歌を志す者すべてにとっての希望の光が
消える恐れがあり、心穏やかならざるものがあったと思います。
現場に危機感が生まれそれが情熱となり、またきっとうまくとりなした人がいたのでしょう。
振り返ると、古今集は素晴らしい勅撰和歌集となりました。

紀友則がなくなったことは、古今集の成功及び以後の和歌の隆盛のために自分を人形として
自分に穢れを移して災厄を祓ったように感じられます。
定家は「久方の」の歌に「上巳の祓い」に通じるものを感じて歌番号33番にしたのではない
でしょうか。

55 藤原公任 滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
5月5日 端午

[みかきもり]
端午(たんご)の節句は菖蒲(しょうぶ)の節句とも呼ばれます。
「滝の音は」の歌が詠まれた嵯峨野の大覚寺の北のほうに菖蒲谷があり、端午の節句には
菖蒲谷の菖蒲が御所に献上されました。
この菖蒲谷は、壇ノ浦で平家が滅んだ後の残党狩りで、平清盛の嫡孫で平維盛の嫡子の
若君「六代御前」がここで忍び暮らしているところをある女房の密告で北条時政によって
捕らえられた場所です。(平家物語)
また源頼政は後白河院の第三皇子の以仁王と結んで平氏討伐を計画し、平氏討伐の令旨を
諸国の源氏に伝えました。その源頼政の妻に菖蒲前(あやめのまえ)がいますがある逸話が
残されています。
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鵺(ぬえ)の怪物退治をした褒美に何がよいか鳥羽院に尋ねられた源頼政は一目ぼれした
鳥羽院の女房の菖蒲前を妻にもらいたいと申し出ます。ほんの少し見かけたくらいで本当に
菖蒲前が誰かわかっているのか? 鳥羽院は一計を案じて宮中の何人もの美人をそろえて
源頼政に菖蒲前がその中の誰かを当てさせます。困った源頼政は歌を詠みます。
 五月雨に 沢辺の真薦(まこも) 水越えて いづれ菖蒲と 引きぞ煩ふ
一人が顔を赤らめます。こうして源頼政は菖蒲前を見つけることができ、その歌と機転に
感心した鳥羽院は源頼政に菖蒲前を渡します。
この歌は「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」の語源になりました。
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滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
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まるで滝のような激動の平家の時代が終わってずいぶん久しいですが、その名だけは
こうして今でも響き渡っています。
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平氏の絶頂期から滅亡までの時期を定家はリアルタイムで過ごしています。
定家は端午の節句で菖蒲の香りにその時代を思い起こしていたのではないでしょうか。

・藤原定家(1162生-1241没)
・平清盛(1161権中納言、1165権大納言、1166内大臣、1167太政大臣、1181没)
・以仁王の平氏討伐の令旨(1180)
・壇ノ浦の戦いで平氏滅亡(1185)

77 崇徳院 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末に逢はむとぞ思ふ
7月7日 七夕

[みかきもり]
七夕(たなばた)といえば織姫と彦星の物語が有名です。
機を織る織姫と牛飼いの彦星とが結婚しますが、仲が良すぎて二人とも仕事を忘れて遊んで
ばかりいるようになります。このため、二人が仕事をしないので困っているという皆からの
クレームが織姫の親の天の神様のもとに来るようになりました。天の神様はすっかり怒って
しまい、二人を天の川の東と西に別れ別れにさせました。一人娘の織姫が悲しそうなのを
見て、天の神様は「一年に一度だけ七月七日の夜だけ彦星と会ってよい」と言いました。
織姫も彦星も毎日仕事に精を出し、待ちに待った七月七日の夜に織姫は天の川を渡って
彦星に会いに行きます。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
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恋の逸る気持ちの流れを抑えきれない織姫と彦星に、天の神様は二人を天の川の
東と西に別れ別れにしましたが、二人は七月七日に必ず逢おうと思う。
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「瀬をはやみ」の歌及び歌番号77番には天の川の東と西に別れ別れにさせられた
織姫と彦星が感じられ、7月7日の七夕の物語を連想します。
また保元の乱で後白河天皇方に敗れて崇徳院は讃岐に配流されましたが、崇徳院が
亡くなる前に俊成に見せよと書き置いた歌は、まるで織姫の彦星に逢いたい気持ちを
綴ったもののようです。

「夢の世になれこし契り朽ちずして さめむ朝(あした)にあふこともがな」
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夢のようにはかない世でのあなたとの絆がこのまま朽ちないで
迷いの夢から覚めた浄土で再び逢いたいものだ。
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式子内親王は後白河院の第三皇女で賀茂斎院でした。
天の川(ミルキーウェイ)からは「後白河院」が連想されます。
定家は七夕の夜に天の川を見上げて遠い日を思い出し、式子内親王を想っていたかも
しれませんね。

・藤原定家 (1162生-1241没)
・式子内親王(1149生-1201没)
定家(20歳)は1181年に初めて内親王(33歳)を訪れ、以後折々に内親王のもとを伺候した。

99 後鳥羽院 人もをし人もうらめしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は
9月9日 重陽

[みかきもり]
重陽(ちょうよう)は五節句の一つで9月9日です。菊の節句とも呼ばれます。
陰陽思想では奇数は陽の数で、9月9日は一桁の奇数で最大の9が重なる日であることから
「重陽」と呼ばれます。
邪気を祓い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた菊酒を酌み交わして
祝ったりしました。

人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は
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愛されもし厳しく突き放されて恨めしいこともありました。
しかし俊成・定家親子の和歌を深く理解し愛してくれた後鳥羽院が隠岐に配流された後の
この京はなんとも味気なく、あれこれと物思いにふけってしまいます。
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後鳥羽院はたいへん好んで菊を自らの印として愛用しました。それを後の天皇が自らの印と
して用いるうちに慣例となって菊花紋が皇室の紋として定着しました。
定家は重陽の節句(菊の節句)が来るたびに菊を愛した後鳥羽院のことを思い起こした
ことでしょう。
「人もをし」の歌及び歌番号99番には定家の後鳥羽院に対する想いが感じられます。



■参考:偶数のぞろ目の歌番号の作者・和歌
 22. 文屋康秀   「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ」
 44. 中納言朝忠  「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし」
 66. 大僧正行尊  「もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」
 88. 皇嘉門院別当 「難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき」

■参考文献
・百人一首 全訳注       有吉 保       (講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)    宮腰 賢、桜井 満   (旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 小野篁Wikipedia 四方拝Dailymotion 史上初!天皇陛下の正月祭祀 【四方拝】 皇室のきょうかしょ 正月の宮中祭祀困難を過度する(四方拝)Wikipedia 紀友則Wikipedia 上巳Wikipedia 古今和歌集神社本庁 節句日本文化いろは事典 上巳の節句京都通百科事典 雛祭、上巳の節句Wikipedia 藤原公任Wikipedia 端午Wikipedia 源頼政平安京探偵団 菖蒲谷と六代御前竹内みちまろのホームページ/平家物語のあらすじと登場人物、その5故事ことわざ辞典 何れ菖蒲か杜若神社マニア、玉苔が行く 高寺観音Wikipedia 崇徳天皇Wikipedia 七夕Wikipedia 太一Wikipedia 北極星Wikipedia 式子内親王Wikipedia 後鳥羽天皇Wikipedia 重陽Wikipedia 菊花紋章Wikipedia 菊酒世善知特網旧殿(如月) 拾遺 後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈

みかきもりの気ままに小倉百人一首
・4. 「8人の天皇」19. 「五徳大事」22. 「伊勢神宮式年遷宮」

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