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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2014/4/22 三十六歌仙からの25名
(2014/4/23, 4/26 説明追加)

三十六歌仙から百人一首に入っているのは25名です。
六歌仙から百人一首に入っているのが5名であることに照らせば、三十六歌仙(6x6=36)
から25名(5x5=25)というのは定家の百人一首編纂方針であると推測できます。
それは三十六歌仙を選んだ藤原公任の歌番号が55であることで察せられます。
その25名の選出は以下の通り、歌道のバイブルであった古今集を重視しながら、
後撰集・拾遺集にバランスを取ったものでした。

(1) 古今集の仮名序・真名序に名前が挙げられた歌人【6名】
(2) 古今集の撰者【4名】
(3) 古今集初出の歌人【7名】
(4) 後撰集初出の歌人のうち特別な歌人【4名】
  ・天徳内裏歌合(3名)、 今昔物語集のエピソード【時平・敦忠】(1名)
(5) 拾遺集初出の歌人のうち特別な歌人【4名】
  ・万葉集の撰者(1名)、 百首和歌の祖(1名)、 定家の想い(貞観地震、天皇の鎮魂)(2名)

百人一首
歌番号
三十六歌仙 百人一首歌 選出判断内容 勅撰集
撰者
天徳内裏
歌合
3 柿本人麻呂
(660頃-720頃)
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
◎古今集仮名序(歌聖評)

[みかきもり]
歌番号3,4は、山柿の門を連想させます。
   
4 山部赤人
(不詳-736頃)
田子の浦にうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
   
5 猿丸大夫
(生没年不詳)
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき
◎古今集真名序(六歌仙評)
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 六歌仙と猿丸大夫
   
6 大伴家持
(718頃-785)
かささぎの渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞ更けにける
拾遺集初出
◎日本最古の和歌集である万葉集の撰者
   
9 小野小町
(生没年不詳)
花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせし間に
◎古今集仮名序(六歌仙評)
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 美しい数字「小野小町」
   
12 僧正遍昭
(816-890)
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
◎古今集仮名序(六歌仙評)    
17 在原業平
(825-880)
ちはやぶる神代も聞かず龍田川
からくれなゐに水くくるとは
◎古今集仮名序(六歌仙評)
16在原行平の異母弟
   
18 藤原敏行
(不詳-901)
住の江の岸に寄る波よるさへや
夢の通ひ路人目よくらむ
◎古今集初出
妻は紀有常の娘で、17在原業平の妻の妹
   
19 伊勢
(872頃-938頃)
難波潟短き蘆のふしの間も
逢はでこのよを過ぐしてよとや
◎古今集初出
古今集(23首)、後撰集(72首)、拾遺集(25首)をはじめ、女性歌人で最も勅撰集に
歌が入っている。
宇多天皇の寵を得て皇子を産むが早世、宇多天皇の出家後に宇多天皇の皇子の
敦慶親王と結ばれて中務を産む。
20元良親王の「わびぬれば」の歌は宇多法皇の寵妃であった藤原褒子に贈った歌
   
21 素性法師
(不詳-910頃)
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
◎古今集初出
12遍昭(良岑宗貞)の在俗時代の子
   
27 藤原兼輔
(877-933)
みかの原わきて流るるいづみ川
いつ見きとてか恋しかるらむ
◎古今集初出
25藤原定方の従兄弟
   
28 源宗于
(不詳-940)
山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思へば
◎古今集初出
15光孝天皇の孫
   
29 凡河内躬恒
(859頃-925頃)
心あてに折らばや折らむ初霜の
置きまどはせる白菊の花
◎最初の勅撰和歌集である古今集の撰者 古今集
撰者
 
30 壬生忠岑
(860頃-920頃)
有明のつれなく見えし別れより
暁ばかり憂きものはなし
◎最初の勅撰和歌集である古今集の撰者 古今集
撰者
 
31 坂上是則
(不詳-930)
朝ぼらけ有明の月と見るまでに
吉野の里に降れる白雪
◎古今集初出
征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫とされる。
   
33 紀友則
(845頃-907)
久方の光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
◎最初の勅撰和歌集である古今集の撰者
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 奇数のぞろ目の歌番号(年中行事)
古今集
撰者
 
34 藤原興風
(生没年不詳)
誰をかも知る人にせむ高砂の
松も昔の友ならなくに
◎古今集初出
現存する最古の歌学書「歌経標式」を光仁天皇に撰上した藤原浜成の曾孫
   
35 紀貫之
(868頃-946)
人はいさ心も知らず古里は
花ぞ昔の香ににほひける
◎最初の勅撰和歌集である古今集の撰者
33紀友則の従兄弟
古今集
撰者
 
40 平兼盛
(不詳-991)
忍ぶれど色に出でにけり我が恋は
物や思ふと人の問ふまで
後撰集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 11番4勝5敗2分
◎天徳内裏歌合で最も多くの歌を出詠しています(11首)
◎天徳内裏歌合で、平兼盛「忍ぶれど」と壬生忠見「恋すてふ」の優劣がつかず、
 天皇が「忍ぶれど」を口ずさんでいるのを判者の藤原実頼が察知して勝ちとした
 エピソードが有名です。

[みかきもり]
歌番号の40は、天徳内裏歌合20番ラストの40首目であることを連想させます。
【参考】Wikipedia 天徳内裏歌合
  出詠
41 壬生忠見
(生没年不詳)
恋すてふ我が名はまだき立ちにけり
人知れずこそ思ひそめしか
後撰集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 4番1勝2敗1分
30壬生忠岑の子

[みかきもり]
歌番号40,41の順は、壬生忠見「恋すてふ」が平兼盛「忍ぶれど」に負けたことを
連想させます。
  出詠
42 清原元輔
(908-990)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山波越さじとは
拾遺集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 1番0勝1敗
後撰集撰者
36清原深養父の子、62清少納言の父

[みかきもり]
◎歌番号42・清原氏・歌枕「末の松山」は、869年に陸奥国で発生した貞観地震及び
 津波を連想させます。
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 「末の松山」
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 東日本大震災と「滝の音は」
後撰集
撰者
出詠
43 藤原敦忠
(906-943)
逢ひ見ての後の心にくらぶれば
昔は物を思はざりけり
後撰集初出
◎今昔物語集第22巻の第8話「時平の大臣、国経の大納言の妻を取れる語」
 時平が老齢の叔父の国経の若い妻(在原業平の孫)を取ったことが語られています。
 時平とその妻との間に生まれたのが敦忠です。
◎今昔物語集第24巻の第32話「敦忠の中納言、南殿の桜を和歌に読める語」
 左大臣の藤原実頼に召された敦忠が和歌を求められて源公忠の歌を詠み、左大臣は
 これにまさる優れた歌など詠めるはずもないと言ったことが語られています。
 ※岩波文庫今昔物語集の注には左大臣在任期間前に敦忠は没していたとある。

 とのもりのとものみやつこ心あらば この春ばかりあさぎよめすな
----------
 宮中の清掃をする主殿寮の人よ、風流の心があるのなら、この春のうちは
 散った桜の花びらを朝の清掃で清めないでおくれ
----------

[みかきもり]
「逢ひ見ての」の歌には、老齢の国経のもとを去って若くて地位のある時平のもとに
行った若い妻の心を感じます。
藤原敦忠は藤原時平の子です。時平は39歳、敦忠は38歳と早逝しています。
歌番号43は、黄泉を連想させます。
   
44 藤原朝忠
(910-967)
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし
後撰集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 7番6勝1敗
25藤原定方の子
◎天徳内裏歌合で最も多く勝利しています(6首)
「逢ふことの」の歌は天徳内裏歌合19番目で勝利したときの歌です。

[みかきもり]
歌番号40,41,44の歌は天徳内裏歌合に出詠された歌ですが、44の歌の前に42,43の歌が
入っていることで定家の意図を感じます。
  出詠
48 源重之
(不詳-1000頃)
風をいたみ岩うつ波のおのれのみ
くだけて物を思ふころかな
拾遺集初出
◎冷泉天皇の皇太子時代に百首歌を献上しており、百首和歌の祖とされる。

[みかきもり]
百人一首編纂にあたって百首和歌の祖は外せないでしょう。
歌番号の48は、1, 2, 3, 4, 6, 8, 12, 16, 24, 48 の10個の約数を持つ高度合成数で、
10の平方数は100です。この約数に百人一首のエッセンスを感じます。

【1天智天皇, 2持統天皇】 藤原氏の祖<藤原鎌足、藤原不比等>
【3柿本人麻呂, 4山部赤人】 山柿の門
【6大伴家持】 日本最古の和歌集<万葉集>
【8喜撰法師】 歌学書<喜撰式>
【12僧正遍昭】 15光孝天皇による遍昭七十歳の賀(日本三代実録に記載)
【16在原行平】 現存最古の歌合せ<在民部卿家歌合>
【24菅原道真】 遣唐使停止(国風文化復興へ)、日本三代実録<六国史、貞観地震>
【48源重之】 百首和歌の祖

【参考】Wikipedia 48
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 8人の天皇
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 歌の聖「あしびきの」
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 3人の遣唐使
   
49 大中臣能宣
(921-991)
みかきもり衛士のたく火の夜は燃え
昼は消えつつ物をこそ思へ
拾遺集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 3番1勝2分
後撰集撰者
◎皇室の氏神である伊勢神宮の祭主

[みかきもり]
歌番号の49は、49日を連想させます。
伊勢神宮祭主による77崇徳院、99後鳥羽院、100順徳院の鎮魂が感じられます。
【参考】Wikipedia 中陰
【参考】みかきもりの気ままに小倉百人一首 五徳大事
後撰集
撰者
出詠
- 源公忠
(889-948)
  後撰集初出
15光孝天皇の孫
今昔物語集第24巻の第32話「敦忠の中納言、南殿の桜を和歌に読める語」
   
- 藤原清正
(不詳-958)
  後撰集初出
27藤原兼輔の子
   
- 源信明
(910-970)
  後撰集初出
源公忠の子
   
- 中務
(912頃-991頃)
  後撰集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 5番0勝3敗2分
19伊勢の子
  出詠
- 大中臣頼基
(886頃-958頃)
  拾遺集初出
49大中臣能宣の父
   
- 源順
(911-983)
  拾遺集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 2番2勝
後撰集撰者
後撰集
撰者
出詠
- 藤原仲文
(923-992)
  拾遺集初出    
- 斎宮女御
(929-985)
  拾遺集初出    
- 藤原高光
(939頃-994)
  拾遺集初出    
- 小大君
(生没年不詳)
  拾遺集初出    
- 藤原元真
(生没年不詳)
  後拾遺集初出
天徳内裏歌合(20番勝負) 2番1敗1分
  出詠


■参考文献
・古今和歌集(一) 全訳注   久曾神 昇  (講談社学術文庫)
・古今和歌集(四) 全訳注   久曾神 昇  (講談社学術文庫)
・今昔物語集 本朝部(中)   池上 洵一  (岩波文庫)
・百人一首 全訳注       有吉 保       (講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)    宮腰 賢、桜井 満   (旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 万葉集Wikipedia 勅撰和歌集Wikipedia 古今和歌集Wikipedia 後撰和歌集Wikipedia 拾遺和歌集Wikipedia 後拾遺和歌集Wikipedia 三十六歌仙Wikipedia 喜撰Wikipedia 在原行平Wikipedia 菅原道真Wikipedia 藤原浜成Wikipedia 日本三代実録

・三十六歌仙(Wikipedia)
柿本人麻呂   山部赤人    猿丸大夫    大伴家持    小野小町    僧正遍昭   
在原業平 藤原敏行 伊勢 素性法師 藤原兼輔 源宗于
凡河内躬恒 壬生忠岑 坂上是則 紀友則 藤原興風 紀貫之
平兼盛 壬生忠見 清原元輔 藤原敦忠 藤原朝忠 源重之
大中臣能宣 源公忠 藤原清正 源信明 中務 大中臣頼基
源順 藤原仲文 斎宮女御 藤原高光 小大君 藤原元真
・三十六歌仙(千人万首)
柿本人麻呂   山部赤人    猿丸大夫    大伴家持    小野小町    僧正遍昭   
在原業平 藤原敏行 伊勢 素性法師 藤原兼輔 源宗于
凡河内躬恒 壬生忠岑 坂上是則 紀友則 藤原興風 紀貫之
平兼盛 壬生忠見 清原元輔 藤原敦忠 藤原朝忠 源重之
大中臣能宣 源公忠 藤原清正 源信明 中務 大中臣頼基
源順 藤原仲文 斎宮女御 藤原高光 小大君 藤原元真

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