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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2018/01/08 「いちご白書」をもう一度

トロントたきのおと会のはるかなさんが百人一首は藤原定家の自分史ではないかと思うと、
自身のサイトに定家の年齢、百人一首歌、できごとをまとめた定家略年譜のページを
掲載されています。
また八六話語り(8x6でなく本当に86のようです!)の中で特出しで「式子内親王と定家」の
ページを設けて百人一首43首と百人秀歌1首の恋の歌の詞書を一覧でまとめ、いろいろ
検討されています。権中納言となってまた後堀河院より勅撰集編纂の御下命を賜った
71歳の71番を境とし、それ以降の百人一首の恋の歌が女性6名(式子内親王含む)、
男性6名(藤原定家含む)というバランスに、ほ~っと思いました。
これらのページを見ていて、学園紛争をモチーフにした「いちご白書」、その時代の空気感の
恋歌であるバンバンの『「いちご白書」をもう一度』を連想しました。
過ぎ去った昔が鮮やかによみがえっています。

No. 作者 百人一首No.を定家の年齢
と見て、その年のできごと
コメント
20元良親王わびぬれば今はた同じ難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ
定家と式子内親王との出逢い [みかきもり]
定家20歳の時、後白河天皇第3皇女で賀茂斎院だった式子内親王と出会い、
以降、折々に式子内親王のもとを訪れます。
しかし定家40歳の時、式子内親王は亡くなります。

百人一首89番は「89→焼く」で荼毘にふされた式子内親王が想い浮かびます。
その後の恋の歌は90,92,97の3首で、荼毘にふされた式子内親王を想う定家の
気持ちを感じます。

90「見せばやな」 恋い焦がれて流す血の涙で袖の色が変わってしまいました。
92「わが袖は」 あの人を想う恋の涙のために袖は乾く間もありません。
97「来ぬ人を」 いくら待っても来ない人を待って恋い焦がれています。

また「わが袖は」の歌は下記の天武天皇が亡くなった時の持統天皇の歌を連想
します。

■万葉集 巻二(159) 持統天皇
やすみしし わが大君の 夕されば 見(め)し賜ふらし
明け来れば 問ひ賜ふらし 神岳の 山のもみちを
今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見(め)し賜はまし
その山を 振りさけ見つつ 夕されば あやに悲しみ
明け来れば うらさび暮らし
荒妙の 衣の袖は 干る時もなし

後鳥羽院は式子内親王を東宮・守成親王(後の順徳天皇)の准母にしようと
したが病で亡くなったため、後白河天皇第1皇女の殷富門院が准母になって
います。

40平兼盛忍ぶれど色に出でにけり我が恋は
物や思ふと人の問ふまで
式子内親王薨去(享年53歳)
89式子内親王玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることの弱りもぞする
90殷富門院大輔見せばやな雄島のあまの袖だにも
濡れにぞ濡れし色は変はらず
92二条院讃岐わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
人こそ知らね乾く間もなし
97藤原定家来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ
58大弐三位有馬山猪名の笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
源実朝、暗殺される [みかきもり]
定家19歳の時、以仁王による平氏討伐の令旨を機に治承・寿永の乱が始まり、
定家24歳の時、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。
「紅旗征戎吾事に非ず」と定家は明月記に記します。

定家58歳の時、源実朝が暗殺されます。朝廷と鎌倉幕府の公武二元支配体制
の中、順徳天皇や源実朝は定家の歌の弟子でした。暗殺を聞き、定家は大きな
ショックを受けたことでしょう。源実朝が暗殺されたことを契機に、後鳥羽院は
鎌倉幕府との融和から対立に傾きます。
「有馬山」歌からは、「ありやいなや」を問われても、「紅旗征戎吾事に非ず」と
強かに時代を見る定家は鎌倉を忘れなかったように感じます。

定家59歳の時、承久二年に順徳天皇の内裏で催された歌会のために詠んだ歌で
後鳥羽院の勘気に触れて「暫くの間公の会に召してはいけない」と命じられました。
結局翌年の承久の乱で後鳥羽院が配流されたことで、後鳥羽院に許されない
ままになってしまいました。
「やすらはで」歌からは、定家はずっと後鳥羽院の許しを待っていたと感じます。

定家60歳の時、後鳥羽院は鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を
挙げます。しかし後鳥羽院は敗れて、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡に配流
されます。
「大江山」歌からは、(鬼退治に掛けながら)この戦に行くことも文も見ていないと、
定家は承久の乱に関与していないことを言っているように感じます。

後鳥羽院、順徳院の99,100の歌は定家の後鳥羽院や順徳院に対する想いを
感じます。

99「人もをし」
愛されもし厳しく突き放されて恨めしいこともありました。
しかし俊成・定家親子の和歌を深く理解し愛してくれた後鳥羽院が隠岐に配流
された後のこの京はなんとも味気なく、あれこれと物思いにふけってしまいます。

100「ももしきや」
和歌で活気のあった宮中はもはや遠い昔のことなのですね。

59赤染衛門やすらはで寝なましものを小夜更けて
かたぶくまでの月を見しかな
定家、後鳥羽院より勅勘
60小式部内侍大江山いく野の道の遠ければ
まだふみもみず天の橋立
承久の乱
99後鳥羽院人もをし人もうらめしあぢきなく
世を思ふゆゑに物思ふ身は
100順徳院ももしきや古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり

■参考文献
・百人一首 全訳注          有吉 保      (講談社学術文庫)

■参考URL
・Wikipedia いちご白書allcinema/いちご白書(1970)Wikipedia 『いちご白書』をもう一度Uta-Net(歌詞)/「いちご白書」をもう一度(バンバン)Wikipedia 式子内親王Wikipedia 藤原定家Wikipedia 源実朝Wikipedia 後鳥羽天皇Wikipedia 順徳天皇Wikipedia 承久の乱後鳥羽院と定家~「煙くらべ」の歌の真意~(杉浦一雄)

みかきもりの気ままに小倉百人一首
・1. begin「来ぬ人を」~end「百敷や」4. 8人の天皇6. 「春過ぎて」24. 奇数のぞろ目の歌番号(年中行事)


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