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科学的認識の進展による

二元論の復活


不可知

対象を知ること、認識することができるかどうかの問題です。
まず、何が対象か、何を対象とするかが問題です。
そして、知るとは、認識するとはが問題です。
ですからつまり、意識の有り様の問題です。

意識は私であり、何かを感じ、何かを思う者であり、身体が共にあります。
その意識が意識できるのは、意識できる対象だけです。
そして逆に、何らかの対象を意識していなければ意識は失せます。
意識が意識する対象は、意識できるもの、意識しているものだけです。
意識の対象は意識できる、意識している対象だけです。
これでは、意識だけが存在する唯我論であり、意識以外の対象は認識できない、存在しないとする不可知論です。
唯我論としての不可知論はこれで終了です。

意識できる意識の対象には区別と関係からなる普遍的秩序があります。
意識と意識の対象との区別があります。
この区別は意識する関係での絶対的普遍性です。
意識の対象は対象として対象間に区別が有ります。
この区別は対象としての相対的、形式的普遍性でます。
他から区別されるから対象になります。どのような区別かは問わない形式の区別です。
部分に対する全体であっても相対的です。全体どうしの区別があります。

自らを意識として意識する普遍的意識である私があります。
普遍的意識である私には、私の身体がともにあります。
私の身体は身体でない対象と相互作用しています。
身体と身体の対象との相互作用によって私は支えられています。
身体は絶えず活動し、対象との相互作用で代謝し、身体を維持しています。
呼吸し、飲食し、排泄し、眠って身体を維持しています。
身体の対象間でも相互作用があります。
これらすべての相互関係に普遍的秩序がうかがえます。
すべてが変化しつつ、すべてが互いの区別と関係に在ります。
区別と関係が成り立たなくなると失せます。
意識としての私、私の身体、身体との関係にある諸々とらですべてがあります。
これらは意識の対象であり、意識での表現ですからすべて知りえて、認識できます。
意識と意識の対象がすべてであるとする唯識論です。
唯識論もここで終了です。
ただし、対象の区別と関係の形式的普遍性は論理として表現できます。

意識できる対象の区別と関係を言葉で、さらに記号で論理として表現します。
論理によって区別と関係を規定し、意識に依存しない対象として表現します。
意識とは別の言葉、あるいは記号による対象表現が成り立ちます。
対象間の関係で対象の対象に、意識自らを関係づけます。
言葉による表現としての意識表現を対象に、意識自らの存在を考えることができます。
ただし、言葉で表現できても理解したことになりません。
名前を付け、名前を覚えても知ったことには成りません。
意識できる対象は意識とは別の、意識を成り立たせる元としてありまります。
これからどうなって、これからどうするかは、意識とは別の対象との関係で成り立ちます。

知るとはどういうことかが肝心な問題になります。
知るとは意識を意識できるように対象を意識することではありません。
感覚で捉えられることが知ることではありません。
感覚で捉えることができるのは感覚であって、対象ではありません。
意識を意識する過程は再帰ですが、対象を意識する過程は受容です。
知るとは対象の他との相互関係を明らかにし、他との相互関係を担う対象の秩序を明らかにすることです。

意識とは別の、意識を成り立たせる意識の対象を物質と定義します。
意識の対象となる物質を知りえるか、認識しえるかが本来の不可知論の問題です。
「物質を認識できるか」「意識の対象である物自体を意識は認識できるか」の問題です。

物質の有り様、物質の区別と関係から意識の実現を科学が説明します。
意識は身体の対象との相互作用関係を調節し、身体そのものの代謝を制御する神経系の中枢に実現します。
意識は中枢神経系* の神経信号処理表現として実現しています。
感覚器官からの感覚神経信号を処理して感覚表象を表現しています。
また、身体各所からの伝達物質による刺激も神経信号処理に受け入れ感情を表現しています。
意識は神経信号処理の表現を実現し、その意識表現を対象として意識しています。
意識は神経信号処理表現として、神経信号処理表現を意識できるだけですから、意識は神経信号の発生元からは隔絶しています。
身体の対象からの刺激は感覚受容器で神経信号に変換され、中枢神経系で何段階かの分類・統合処理されて意識対象を表現します。
身体内の受容器からの神経信号、組織器官からの神経伝達物質も中枢神経系での神経信号に変換され、感情を表現します。
ですから、意識できるのは神経信号処理表現だけであり、神経信号の発信元は意識できません。
科学に基づく不可知論の根拠です。

科学自体はこの不可知論を受け入れません。
科学的に知ると、認識するとは意識することとは別であり、対象を再構成することです。
対象の区別と関係の論理表現に基づいて対象に作用し、対象として再現します。
経験し、検証することで対象としての存在を知り、確認します。
区別と関係秩序を法則として論理で表現し、法則を根拠に対象の説明を理論として表現します。
これが科学的に知ることであり、科学的な理解です。

しかし、科学的認識そのものに限界があり、対象を知り、理解することは不可能です。
科学も物質が何であるかを明らかにできていません。
波でも粒でもある量子*、物質としての性質が定まらないもつれた量子* を説明できません。
生き物である人の対象を知る能力は量子もつれ* にある非局所相関* に対してまったく向いていないようです。
経済、社会の変動を予測できません。
戦争は人が起こすにかかわらず、防ぐことができません。
科学的認識には原理的限界が在ります。
物質の性質は実現するまで確定しない* 偶然にあります。
知りえない対象があから科学は完成することがありません。
これが本質的不可知論です。

それでも、意識と意識の対象との関係は現実にあります。
意識と対象との関係を解明し尽くすことはできなくても、日常経験で困ることはありません。
対象が何であるかを知ることができなくても、感じ、思うことで適切に対応できます。
対応できてきたからこそ人類の一員として生存できています。
人、個人もそれぞれ知りえることは量的に限られ、その理解も質的に限られます。
限られても、それを超えて学び、よりよく生きることができます。
新知へ到達する毎に眺める世界は格別です。

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* は外部リンクを示します。
_fukahci.
2023.11.24