『カンマを伴う分詞句について』(野島明 著)
第六章 開かれた世界へ

第5節 解読という誘惑


〔注6−46〕

   大江三郎『講座第五巻』の記述にまとわりついているこの不可思議には、カンマを伴う分詞句の一般的了解にまとわりついている不可思議が反映されている。カンマを伴う分詞句について単純に記述したものというより、日本の学校英文法の世界の「《分詞構文》という了解」に、CGELの記述に見えるような「苦闘」([6−6]参照)という「香辛料」を振りかけて味付けをした上で成立した記述とでもいえるかもしれない。

   『講座第五巻』の記述から感じ取れる(CGELの記述に感じる曖昧さとは別様の)一種無邪気な曖昧さには二つ原因がある。一つは、「形容詞的修飾句なのだが」(『講座第五巻』p.224)という記述が、次の太字体の箇所のいずれに相当するのか、「文脈」(言語的脈絡)を参考にしても、「言語外的な常識」(当該発話に関わる非言語的脈絡)を援用しても、推測し得るような気は全くしないということである。

   「分詞構文は、形容詞的修飾句なので/である場合は/であるのだけれども・であるとしても/である一方で/でありつつ、副詞節のように機能する。」

   ちなみに《分詞構文》と母節の関係の在り方は類推可能であるとされている。

「時」または「理由」を表わす分詞構文がふつうの型であるが、ある例がそのいずれを表わすかは多くの場合文脈とか、言語外的な常識による。(大江三郎『講座第五巻』p.224)
といった、《分詞構文》につきまとう「ある種の曖昧さ」は「文脈とか、言語外的な常識」に依拠すればある程度解消されることになっている([2−9]参照)。

   『講座第五巻』の記述を「Sは、Xなのだが、Yなのである」とでも図式化すると、「Xなのだが」という部分は、この筆者によれば、英語では《分詞構文》で表現されてしかるべきような箇所ということになるのかもしれない。しかし、「形容詞的修飾句なのだが」という記述は、他の部分との論理的関係を受け手が「文脈から推測する」(CGEL,15.60)には「過剰」なほどの曖昧さを許容し放置しているように見える。現に、私には、「文脈」を参考にしても、「言語外的な常識」を援用しても、「形容詞的修飾句なのだが」とそれに続く「副詞節のように機能する」との論理的つながりを解読できそうもない。およそ、曖昧さが許容されるべきではない重要な記述で、読み取り可能な意味合いがただ振幅するだけで、収斂不可能なまま放置されるとすれば、これは、記述の企ての放棄に、何も記述していないに等しい。(こうした私の感想には更に続きがあり、この記述者が「分詞構文は、形容詞的修飾句なので、副詞節のように機能する」と判断するのであればその合理的根拠を、「分詞構文は、形容詞的修飾句であるにもかかわらず、副詞節のように機能する」と判断するのであってもその合理的根拠を提示してもらう権利が受け手にはあると、あるいは、記述する側は提示する義務がある、と感じるのである。しかし、こんな感想をこれ以上連ねるのは儚いというのが心底からの思いだ。)

   もう一点(これは上述の点と区別されるべき点ではないかもしれない)は本章第5節で述べたように、分詞句の「文法的機能」と「意味上の働き」を意識的に区別しないことに起因する。『講座第五巻』の記述と同じように、CGELでも「位階」の異なる記述が混在してはいるが、CGELでは、いずこが「文法的機能」に関する記述であり、いずこが「意味上の働き」に関する記述であるのか、ある程度意識された上で記述が行われており、記述の「位階」の判別は可能であると感じられる(例えば、第二章第4節で引用し、本章第5節, でも引用してあるCGEL17.23中の記述)。

   「《分詞構文》という了解」にあくまでこだわるとすれば、『講座第五巻』の記述は次のように言い換えた方がその味加減をより適切に表わせることになるだろう。

   「分詞構文と呼ばれる構文は、基本的には文のある要素――殆どの場合主語――を修飾する形容詞的修飾句なのだが、……その独立性が強くなってしまっていると感じられる場合があり、文を修飾する副詞節のように機能すると感じ取れる場合がある。」

    ただ、明解さを増したこうした了解に至れば至ったで、それ相応の苦労がつきまとうことは、本稿のこれまでの記述が示すとおりである。

   カンマを伴う分詞句は名詞修飾的句であるが副詞要素のように機能する、という了解は余りにも粗略である。こうした判断は、では《分詞構文》は名詞修飾要素なのか、それとも副詞要素なのか、はっきりさせてくれ、という苛立ちを煽るばかりであるような気もする(はっきりさせてくれとは、合理的根拠を示した上ではっきりさせてくれ、ということだ)。とはいえ、第二章第5節[6−6]で紹介したようなCGELの記述にもまた同じような苛立ちを感じて不思議はないはずではある。

(〔注6−46〕 了)

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