第六章 開かれた世界へ
第5節 解読という誘惑

   カンマを伴う分詞句という形で展開されているのは、その暗黙の主辞の指示内容について語り得る(と話者に判断されている)ことがら、即ちその属性(であると話者に判断されていることがら)の一端であり、カンマを伴う分詞句はその暗黙の主辞を非制限的に修飾する要素である。このとき、カンマを伴う分詞句の暗黙の主辞の在り方は一様ではない。暗黙の主辞のこうした在り方が、受け手ごとに(また、基本的には話者ごとに)分詞句の受感の様々な在り方を誘うことになる。ただ、分詞句の受感のそうした多様さは、分詞句の文法的機能自体の多様性というよりむしろ、分詞句の暗黙の主辞の在り方の把握と相関的な「受感の在り方の多様性」であることは既に指摘してきた通りである。文頭の分詞句の場合に限らず、カンマを伴う分詞句とその「暗黙の主辞」との関係の方が優位であると感じられるか、それとも、カンマを伴う分詞句と母節全体との関係の方が優位であると感じられるか、言い換えると、カンマを伴う分詞句に感知しやすいのが「名詞修飾的勾配」の方なのか、「副詞的勾配」の方なのか、という違いは、受感の在り方の違いであり、さらに、そうした受感には程度の強弱が伴う([6−19], [6−27]参照)。したがって(と続けて不都合はないはずだ)、「違い」が語られる際、そこに「違い」が派生することの合理的根拠が示されることは稀である。語られているのは受感の在り方であり、時には話者の世界認識を背景にした認知の在り方であり、時には信念だからである。CGELは、カンマを伴う分詞句の機能を合理的に記述し得るための根拠の一端を分詞句の「可動性」(第二章第5節及び[2−19], [2−20]参照)に見出しもするが、可動性には有無があることを仄めかしながら、可動性に有無があることの根拠は示されない[6−36]。ただ、可動性の有無に関わる問題を別にしても、根拠が示されることのないのはCGELの場合に限らない[6−37]

   例えば、次の記述には、カンマを伴う分詞句に副詞的勾配を感じ取れることの「合理的根拠」は示されていない。

分詞構文(participial construction)と呼ばれる構文は、基本的には文のある要素――ほとんどの場合主語――を修飾する形容詞的修飾句なのだが、……その独立性が強くなってしまっていて、ふつう文を修飾する副詞節のように機能する
(大江三郎『講座・学校英文法の基礎 第五巻 動詞(U)』p.224)(下線は引用者。以後『講座第五巻』と略記)
   大江が「その独立性が強くなってしまっていて」と記す時、意識されているのは恐らく「独立性が強くなっている」と感じられるような数々の分詞句の事例(の体験)である(例えば、'She sat at the window sewing.'中の"sewing"については、「独立性が強くなっている」とは感じにくいのである([6−37]参照。「独立性」については更に[6−34]参照))。どのような場合に「独立性が強くなっている」と判定し得るのか、その判定基準は示されていない。「独立性が弱い」と判定し得る場合についても判定基準が示されることはない。大江が「ふつう」と記す時、意識されているのは恐らく「副詞節のように機能する(と感じられる)分詞句が普通である」といった体験であり印象である[6−38]。「ふつう」とはどの程度の頻度に相当するのかは具体的には示されない。「ふつう」という印象を揺るがしかねない具体的事例([1−13]参照])が、「ふつう」からの逸脱の程度などに関する記述とともに紹介されることもない。

   予備校講師が「カンマ+-ed分詞句+ピリオド」という視覚的形態の-ed分詞句について抱いている印象(「そのような-ed分詞句は概ね《分詞構文》である」)(第三章第2節参照)がそうであるように、印象は必ずしも合理的根拠に基づいて語られるわけではないのである。しかし、文頭の分詞句(《分詞構文》の代表的形態である)に副詞的勾配を感じ取れるという事態が必ずしも一般的(「ふつう」)ではないことは、例えばPEGの記述からも見て取れる。PEGに挙げられている文例と記述からは更に、「副詞的勾配を感じとる」ということがいかなることを示唆するのかも窺い取れる。PEG中に、日本の学校英文法の《分詞構文》に相当すると判断される-ing分詞句に関わる記述は二ヶ所に見られる。「276 A present participle phrase replacing a main clause[主節に代わる現在分詞句]」と「277 A present participle phrase replacing a subordinate clause[従位節に代わる現在分詞句]」(この場合の従位節はこの箇所で"as/since/because + subject + verb"と記されているように、副詞節である)の二ヶ所である。

   PEGの276節では、主辞を共有する二つの動詞(いずれも動態動詞。一つは母節の「動詞辞」、一つは「-ing分詞」)の表わす活動作用の関係の在り方を三通りに分類している。
   (1)二つの動詞の表わす活動作用が同時である場合
   (2)二つの動詞の表わす活動作用に時系列を見て取れる場合(二つの活動作用に時間的前後関係を指摘できる場合)、
   (3)第二の活動作用が、第一の活動作用の一部を構成する、あるいは第一の活動作用の結果である場合
の三通りである(こうした分析は「カンマを伴う分詞句」を論じるに当っては枝葉末節に属する点であることは既に幾度か述べてきた。第六章第4節「その五」参照)。いずれの場合の分詞句も、PEGの記述に従えば、「主節の代わりをする現在分詞句」[6−39]であって、副詞節に代わるものではない(「副詞節の代わりをする現在分詞句」については次節「277」で取り上げられることになる)。多分に、分詞句とその暗黙の主辞との関係の方が優位であると感じられており、分詞句はその暗黙の主辞の述部に相当すると見なされているのである。こうした了解は代替表現を添えて示されているその文例にはっきり見て取れる。

   以下は、(1)二つの動詞の表わす活動作用が同時である場合の文例である(PEGに挙げられているのは以下の二例のみ)。

(6―20)
He rode away. He whistled as he went.
= He rode away whistling. 〈彼は口笛を吹きながら馬で走り去った。〉
(6―21)
He holds the rope with one hand and stretches out the other to the boy in the water.
= Holding the rope with one hand, he stretches etc. 〈彼は片手で綱をつかみ、もう一方の手を水中の少年に差し伸べる。〉
(PEG, 276)(斜体・太字と下線は引用者)
   いずれの場合においても、分詞句を副詞節に対応させてはいない。(6―20)中の分詞"whistling"は、日本の学校英文法では「主格補語」に分類されることになろうが、PEGではこれも"The participle constructions[分詞構造]"(PEG, 276)の一部である(話者の視点からの「分詞句」については[6−3]参照。日本の学校英文法の《分詞構文[participial constructions]》については第一章第2節及び[1−12]参照)。従って、「主格補語」の例が挙げられていることは、この箇所の記述の趣旨に背くわけではない。

   以下は(2)二つの動詞の表わす活動作用に時系列を見て取れる場合の文例である(挙げられている四例中の一例だけを挙げる)。

(6―22)
She raised the trapdoor and pointed to a flight of steps.
= Raising the trapdoor she pointed to a flight of steps.
〈彼女は上げ蓋を引き上げ、下へと続く階段を指差した。〉
(PEG, 276)(斜体・太字と下線は引用者。分詞句の直後にカンマがないのは原文通り)
   ここでも、分詞句を副詞節に対応させてはいない。PEGの著者は二つの動作に時系列的関係を見出してはいるが、例えば、PEUの著者Swanが感じ取っているのと同じようには、分詞句に副詞的勾配を感じ取ってはいないように見える。PEUでSwanが挙げている次の文例は「副詞節に類似する」(PEU, 455)使われ方をしている分詞句の例であり、分詞句を副詞節に対応させている。
(6―23)
Putting down my newspaper, I walked over to the window and looked out.
( = After I had put down . . . )
〈私は読んでいた新聞を置き、窓のところまで歩いて、外を眺めた。〉
(PEU, 455)(斜体・太字と下線は引用者)
   PEUやPEGの記述と文例から見て取れるのは、分詞句には副詞的勾配が感じ取られることもあり、名詞修飾的勾配が感じ取られることもあるといった《揺れ》が生じるということであり、分詞句の受感の在り方は受け手ごとに相違し、一様ではない[6−40]ということである。既に述べたように、発話の受け手(そして話者)ごとに、分詞句の受感の在り方は相違し、受感の程度にも強弱が伴う。印象として語られるに過ぎない「違い」の合理的根拠が提示されるのを期待することは初めからできない相談である。

   以下は(3)第二の活動作用が、第一の活動作用の一部を構成する、あるいは第一の活動作用の結果である場合(PEG, 276)の文例である(文例(6―25)については[6−9]参照)。

(6―24)She went out, slamming the door. 〈彼女は出てゆき、ドアをばたんと閉めた。〉
(6―25)He fired, wounding one of the bandits. 〈彼は発砲し、(その結果)強盗団の一人が負傷した。〉
(6―26)I fell, striking my head against the door and cutting it. 〈私は倒れ、ドアに頭をぶつけて切ってしまった。〉
(PEG, 276)(斜体・太字と下線は引用者)
   分詞句の代替表現が示されていないことが注目に値する。これらの文例についても、二つの陳述(母節の表す陳述と分詞句の表す陳述)([6−34]参照)の関係の在り方が前もって解読されている。解読されるべき論理的関係が前もって、時系列や因果関係ではなくして「包含関係」と「結果的事態」であると指定されている。母節を陳述A、分詞句を陳述Bとでも置き換えて記述してみると、AとBの関係の在り方が考量解読され、AはBを包含する、Aの結果がBである、といった解読目標があらかじめ示されている。

   しかし、これらの例は(1)二つの動詞の表わす活動作用が同時である場合にも(2)二つの動詞の表わす活動作用に時系列を見て取れる場合にも含まれないとするPEGの判断の支えとなるような合理的根拠を見出すことは難しい。まず、(6―25)と(6―26)に時系列をまったく読み取らない振りをすることには無理がある。A(「発砲した」と「倒れた」)の方が、厳密に言えば、時間軸上でB(「負傷させた」と「ぶつけた」)より以前の時に属することは明瞭なのである。あるいは、包含関係の読み取りをおそらく求めている(6―24)の「出て行った」と「ドアをばたんと閉めた」はほぼ同時ではないのかという疑問を封じることも難しい。

   繰り返しになるが、受感の在り方や程度は受け手ごとに様々である。そして、二つの陳述の関係の在り方を解読することは、カンマを伴う分詞句を吟味するに際しての要諦というよりむしろ枝葉末節に属する付随的側面でしかない(そして、分詞句を副詞節に対応させるのではなく「主節に代わる現在分詞句」を語るPEGの記述も、こうした枝葉末節に足を踏み入れているという点で、既に「《分詞構文》という了解」を分有している。《分詞構文》という了解においては、二つの陳述の関係の在り方を解読するという手法を正当化するため、分詞句とその暗黙の主辞の関係より、分詞句と母節全体との関係の方に排他的地位があらかじめ与えられているのである。第二章第2節参照)。要諦は分詞句の暗黙の主辞の在り方を吟味することにある。この点に思い至らない場合、百花繚乱の読解が乱れ咲く。

   次に、「副詞的勾配を感じ取る」ということの内実を簡単に見ておきたい。

   PEGの「277 従位節に代わる現在分詞句」([6−39]参照)(既に記したようにここでの「従位節」は副詞節である)には文例が六例挙げてあり、分詞句の位置はすべて文頭である。なぜここで分詞句の位置はすべて文頭なのか。277節には「現在分詞[present participle]はその後に続く活動作用を説明する働きをすることがある」という記述がある。ここでも、分詞句はその暗黙の主辞と関わるにとどまらず母節の述辞とも関わると、つまり、暗黙の主辞との関係よりむしろ分詞句と母節全体との関係の方が優位であると感じられている。挙げられている文例中の分詞句の位置がすべて文頭であるのは、「その後に続く」(「その後に続く活動作用を説明する」)という条件を充たすためには、-ing分詞句に後続する位置に「活動作用を示す語句(母節の動詞辞)」が求められ、そのことから翻って、分詞句は母節の直前、文頭に位置する必要があるということなのであろうとでも推測しておくほかはない。

   (「その後に続く活動作用を説明する」というのではなくして)単に「活動作用を説明する」という条件を充たすためなら、分詞句は文末に位置しても差支えないように感じられもするのである[6−41]。さらに、文末に位置する分詞句の例が挙げられていないことはまだしも、母節の主辞の直後(この位置とて「活動作用を示す語句、即ち動詞辞」に先立つ位置である)に位置する-ing分詞句の例を挙げていないのはなぜか。挙げてある文例六例中五例で、母節の主辞は代名詞"he"であるという「技術的」事情[6−42]がその一因かとも推測し得るが、原因はそれに尽きるとは考えにくい。分詞句とその暗黙の主辞との適切な関係づけをもっとも誤りやすい([6−5]参照)ことに加え、副詞的勾配を最も感じ取りやすいのが文頭の分詞句である([6−1]参照)ことを想起すると、PEGにおいてもまた、分詞句のそうした位置が意図的に、ことによれば非意図的に選択されているのではないかという推測は捨て難い。ただし、副詞的勾配を感じ取りにくい文頭の分詞句もあることは既述の通りである(更に文例(6−19)第六章第4節「その五」及び[6−27]参照)。文頭という位置に加えて、動詞の種類にも選択の意思が働いているように見える。六例の分詞句に用いられている動詞の種類は、"knowing, fearing, being, being, realizing, knowing"であり、副詞的勾配を感じ取りやすい静態動詞が選ばれていることが分かる([6−40]参照)。

   以下は、PEG「277」にある文例の一つ。

(6―27)
Knowing that he wouldn't be able to buy food on his journey he took large supplies with him = As he knew etc.
〈旅の途中では食糧を購入できないことが彼には分かっていたので、多量の食糧を携えて行った。〉(PEG, 277)
(下線と斜体・太字は引用者。カンマがないのは原文通り)
   ここに示されているのは分詞句の文法的機能の記述ではなく、二つの陳述(分詞句の表す陳述と母節の表す陳述)の関係の在り方の解読結果である。つまり、先行する位置にある陳述が、それに続く位置にある陳述の説明をしているように感じ取れる場合には、先に位置する陳述は「理由を表わす副詞節」に代わる働きをする陳述であると、すなわち文例(6―27)について言えば、文頭の分詞句は「理由を表わす副詞節」に代わる働きをする分詞句であるという判断である。解読に基づくこうした判断が文法の記述ではないことは、例えば以下のような記述と文例から窺い取れるはずだ。その上、ある陳述に副詞的勾配を感じ取れるのはその陳述が「その後に続く活動作用を説明する」ように感じられる場合に限るわけではないことが、ある陳述がそれに「先立つ活動作用を説明する」ように感じられる場合にもその陳述に副詞的勾配を感じ取れるということが分かるはずだ。

   PEG「324 indirect speech[間接話法]」に次のような文例がある。

(6―28)
'You'd better wear a coat. It's very cold out,' he said. = He advised me to wear a coat as it was very cold out.
〈「コートを着たほうがいい。外はとても寒い(から)。」と彼は言った。〉 〈彼は私に、外は寒いのでコートを着るよう勧めた。〉(PEG, 324)(下線は引用者)
   こうした書き換えの「根拠」は次のように記述されている。
しかし、時に、最後の節が最初の節を説明する働きをする陳述[statement]である場合、二番目の導入動詞[introductory verb]の代わりに"as"を使用することがある。」(PEG, 324)[6−43]
   「最後の節」とは"It's very cold out."であり、「最初の節」とは"You'd better wear a coat."である。「最初の節」との関係の在り方を解読する場合、"It's very cold out."には「理由を表わす副詞節〈外はとても寒いから〉」に代わる働きを見出し得る。しかし、この文を"as it was very cold out"と書き換えられることを根拠に、《独立文の副詞的用法》を文法規則として記述することはできそうもない。

   なるほど「現在分詞句はその後に続く活動作用を説明する働きをすることがある」(PEG, 277)し、「最後の節が、最初の節を説明する働きをする」(PEG, 324)こともある。しかし、二つの陳述(分詞句の表す陳述と母節の表す陳述)の関係の在り方を吟味するに際してこのような解読という手法を用いることにすれば、ある「現在分詞句」が、ある受け手には「その現在分詞句はその後に続く活動作用を説明する働きをする」と感じられることもあろうし、別の受け手には「その現在分詞句はその後に続く活動作用を説明する働きをしない」と感じられることもあろう[6−44]。二つの陳述の関係の在り方をめぐって解読が行われる場合、解読主体(受け手)が異なれば、異なる感じ方がなされ異なる結果が示されることもある。

   「副詞的勾配を感じ取るということの内実」とは、二つの陳述の関係の在り方は、一つ一つの具体的事例ごとに、個々の受け手ごとに様々に受感されるという現実である。「カンマを伴う分詞句の働きや機能」といったものは、殆どの文法書で、二つの陳述の関係の在り方を解読した結果をもとにして語られることになる[6−45]。繰り返しになるが、そうした関係の在り方は、個々の発話ごとに、発話の受け手に応じて、様々に受感され、受感の程度にも強弱が伴う。同一の分詞句をめぐって、ある受け手はそこに名詞修飾的勾配を受感し、別の受け手はそこに副詞的勾配を受感することがあるといった「違い」が派生することの合理的根拠を見出そうとすること、つまり、そのような「違い」を分節する文法を記述しようとすることはそもそも詮なき業である。

   分詞句をどのような日本語(あるいは英語)に置き換え得ると感じるかは分詞句の文法的機能の判断とは別の問題である。先に引用した大江三郎『講座第五巻』の記述に見られる「《分詞構文》という了解」は、カンマを伴う分詞句からはその暗黙の主辞を非制限的に修飾しているという感じより、母節全体を修飾しているという感じの方を強く受けるという「印象」が整理されることなくそのまま記述されたものである。縮約すれば、カンマを伴う分詞句は名詞修飾要素である(「分詞句は構造的には主節の主語を修飾する句である。」『講座第五巻』p.227)けれども、「副詞節のように機能する」(ibid, p.224)、ということにもなる。理性的精神を納得させるに足る判断であるとは認められない。「副詞節のように機能する」という判断に至るまでの過程で、「その独立性が強くなってしまっていて」という、正直、「意味不明」であると評するほかはない「印象」が語られるに過ぎないのである。この「独立性が強くなってしまっていて」は「分詞構文が主節の主語を修飾する句であるとは感じにくく、その結果、分詞構文と主節の主語との結びつきは希薄であるように感じられて(あるいは、分詞構文は副詞要素的な修飾句であるように感じられて)」ということであろうと推測しても差支えなかろう。合理的論拠を提示せず、「その独立性が強くなってしまっていて」という「感じ」をひたすらの旗印にして分詞句の副詞要素的機能を語るということが行われている(本章第3節、及び[6−16], [6−19]参照)。この不可思議[6−46]は冷静な目で見つめればいつでもそこに露出していることに気づくはずのものであり、大袈裟に指摘するまでもなく誰の眼前にも現前しているはずだ。しかしながら、この不可思議は、不可思議にも、誰に言挙げされるでもない。かくして、《分詞構文》という了解は不可思議に包まれたまま偸安にひたり続けることになる。

   ある語(群) をどのような日本語(あるいは英語)に置き換え得ると感じるかはその語(群)の文法的機能の判断とは別の問題である。日本語に置き換えようとする際、それが副詞的修飾要素であるように感じ取れるのは《分詞構文》(の一部)ばかりではない。副詞的修飾関係の読み取りへの誘惑は至るところで待ち受けている。副詞要素的に読める関係詞節、副詞要素的に読める分詞句、副詞要素的に読める不定詞句、副詞要素的に読める名詞句、副詞要素的に読める形容詞句、副詞要素的に読める主辞、副詞要素的に読める文([2−12], [5−14], [7−28]、更に第七章第3節参照)。

   最後に、そこに「副詞的勾配」を感じ取れそうな句や節を含む文例を幾つか挙げておく。まず、非制限的関係詞節の例。英語を母語とする受け手(あるいは話者)も、英語を異言語とする日本の英語学習者と同じ体験をしているらしいことが見て取れる。

   以下は既に第二章第4節で引用したことのあるCGEL中の記述である。

非制限的関係は、意味の上では[semantically]、接続詞を伴う等位関係や接続詞を伴わない等位関係に、もしくは副詞的従位関係に非常に似ていることがしばしばある
(17.23)(下線は引用者)[2−11]
   非制限的関係詞節を副詞的に読める感じがすることがある([2−12]参照)、という指摘であることは既に述べた。

   「副詞節のように機能する」と感じ取れるような「非制限的関係詞節」を含む文例を日本の学習用文法書から既に第二章第4節でもあげたが、ここではCGELから別の文例を挙げる(更に[2−11]参照)。

My brother, who has lived in America since boyhood, can still speak fluent Italian. [5]
My brother can still speak fluent Italian, and he has lived in America since boyhood. [5a]
My brother can still speak fluent Italian although he has lived in America since boyhood. [5b]
〈私の兄[弟]は子供の頃からアメリカに住んでいるが、いまだにイタリア語を自由にしゃべれる。〉
(17.23)(下線は引用者)
   [5a]では「等位接続詞"and"を伴う等位関係」への、[5b]では副詞節への書き換え例が示されている。関係詞節の「意味上の働き」を考えた場合には、この書き換えが適切であるとしても、この関係詞節は副詞節ではなく、副詞節のように読むことも可能であるに過ぎず、あくまでも形容詞節である、とは蛇足になるか。

   文中のある語(群)は意味の上ではかくかくしかじかの働きをしているように感じ取れる、従ってその語(群)の文法的機能はかくかくしかじかであるといった判断が許容されたら、文法について記述することは不可能になる。

   更に例を挙げておく。

My failure in the exam killed my confidence. (『新編英和活用大辞典』)
〈試験に落ちたことで私は自信をなくした。〉(私訳。下線は引用者)
   "My failure in the exam"は統語的には文の主辞であるが、副詞要素的に解釈できるのでこれは副詞要素である、と言い出すことの愚は指摘するまでもあるまい[6−47]

War had killed 200,000 people in the region in 1998.
〈戦争が原因で1998年にはその地域で二十万人が死亡した。〉
(Poverty, war, AIDS force 100 million children to grow up alone, UNICEF says, CNN.com, February 23, 2000)

   上記のような文を日本語に置き換えようとする場合、その主辞"War"を副詞要素のように、他動詞"killed"を自動詞のように、目的辞"200,000 people"を主辞のように解釈し得ることはある。そのように訳出することもある。しかし、主辞が副詞要素の機能を果たしているわけでも、他動詞が自動詞の機能を、目的辞が主辞の機能を果たしているわけでもない。

A man like John would never do that. [20]
〈ジョンのような人なら、決してそういうことはしないであろうに。〉
(CGEL, 17.37[Note])(下線は引用者)
   このように主辞が条件節に近い働きをしている事例もある。 あるいは前置詞句"like John"を「人はジョンのようであれば、…」と条件節のように読むことも可能だ。とは言え、"like John"は名詞修飾要素であって、条件を表す副詞節ではないことは言うに及ぶまい。
Students who work hard pass their exams.
[‘If students work hard, they pass their exams.’]
〈熱心に勉強する学生は試験に通る。〔学生は熱心に勉強すれば、試験に通る。〕〉
(CGEL, 17.4)(下線は引用者) ([2−12]参照)
   制限用法の関係詞節を条件節のように読み取れる場合もある[6−48]。敢えて述べておくが、この関係詞節は形容詞節であって副詞節ではない。

   また、以下のto不定詞句"To be human"は条件を表わす副詞節であると記述し得るわけもない。

To be human is to err. ['If one is human, one will err.']〈人であれば過ちは冒す。〉 (CGEL, 15.11)
   更に、"I'm afraid our friends aren't too pleased by the meeting."(KRUISINGA & ERADES, An English Grammar, 104-5)中の"I'm afraid"という語句は「むしろ後続する部分の意味を修飾する働きをしている」(ibid)ように感じられるにせよ、「機能上は法性の副詞[adverb of modality]ないしは文修飾副詞[sentence-modifying adverb]に似ている[similar] 」(ibid)ように感じられるにせよ、「法性の副詞ないしは文修飾副詞である」わけではない([6−9]参照)。

   ある語(群)に感じ取れる意味合いとその語(群)の統語的分析との関係について、CGELは、"William’s conquest of England brought about a change in the status of English language."(14.5, NOTE)〈(ノルマンディー公)ウイリアムによるイングランド征服は英語の地位に変化をもたらした。〉(下線引用者)という一文を例に、次のような記述を残している。"William’s conquest of England"という句構造は、節構造"William conquered England"と同じように、

意味の上では[semantically]、動作主、動作、被動作主の連鎖であると説明され得る。しかし、意味上の根拠[semantic grounds]は統語的分析にとっては十分なものではない。我々は節だけを、主辞、動詞、目的辞の連鎖として統語的分析の対象とする。(ibid) (下線は引用者)。
   言うまでもなく、"William’s conquest of England"は節ではなく名詞句である。

   ある語(群)に読み取れる意味合いを考える(このことは、大半の英語学習者にとって、程度に差こそあれ、日本語に置き換えるという作業過程に等しい)という意識過程を経るとき、どんな事態が出来するのか。これまで繰り返し述べてきたように、「カンマを伴う分詞句」読解の要諦は分詞の暗黙の主辞の在り方の吟味、これに尽きる。これは分詞句の文法的機能の把握に通じる。日本語とは統語法の全く異なる異言語で表記された語(群)に読み取れる意味合いを把握する、カンマを伴う分詞句について言えば、母節と分詞句との関係の在り方を意味内容の水準で解読する、という視点から分詞句に接して文法(規則)の記述に手を染めたときから、ずれが蓄積していく。文法的機能と「そこに感じ取れる意味合い」を区別せず、その結果、その暗黙の主辞を非制限的に修飾する名詞修飾要素である「カンマを伴う分詞句」の文法的機能を棚上げし、その意味合いの解読を優先するという作業過程のどこかで、《分詞構文》という救いの手が差し伸べられる。「カンマを伴う分詞句」の意味合いを考えようとする際に体験することになる「いろいろな感じ」を「カンマを伴う分詞句」の文法的機能に優先させるとき、《分詞構文》という了解が成立する。解読という誘惑に抗しきれずに道を誤り、行きついた先に待っているのが、砂漠のオアシスとも見まがう《分詞構文》という了解である。

  

(第6章 第5節 了)

(第6章 了)


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© Nojima Akira