芹沢氏の生涯を簡単に年代順で追っています。作品とも相互リンクしていますので参考にしてください。

西暦 和暦 月日 年齢 記事
1896年 明治29 5月4日 0歳 静岡県沼津市我入道の網元の家に、父常蔵(後に常晴と改名)、母はる(旧姓有馬)の次男光治良(みつじろう)として誕生。『人間の運命』の序章とも言うべき『海に鳴る碑』にこの頃の様子が描かれている。『小さい運命』には幼少時代のエピソードも。生まれた頃は裕福な家庭であった。
1900年 明治33   4歳 両親が子どものうち光治良だけを祖父母の家に残して、無所有の生活に入る。
1901年 明治34   5歳 三吉叔父が同居して、祖父母と光治良の面倒を見る。後にペールと慕うことになる石丸助三郎に養子テストで会う。物心ついたこの頃からのことは『男の生涯』に詳しい。
1904年 明治37 4月 7歳 楊原小学校に入学。
1909年 明治42 11月 13歳 伊藤博文の国葬に際し、代用教員の西山先生から大学へ行くことを激励される。そのことが中学に行く決意をさせる(『林檎とビスケット』参照)。
1910年 明治43 4月 13歳 祖父の反対を押し切り、親戚から毎月3円の援助を得て沼津中学校に3番で入学。入学時から成績は1番をとり、2年の時、特待生になる。
1912年 明治45 15歳 中学2年。母であり、姉であったお千賀叔母が、産後の肥立ちが悪く天に帰する。このことにより信仰への疑惑が翳る。
1913年 大正2   17歳 中学4年。三吉叔父のところに新しい叔母が来る。叔母は気が荒く、家庭は地獄になった。乾性肋膜炎を患う。これを苦にして狩野川に飛び込もうとも考えた。我入道では発動機船が登場し村に革命を起こす。美術の前田先生から文学への道を開かれる。
1915年 大正4 3月 18歳 沼津中学を卒業。4月から砂川中学校長の口利きで1学期間だけ沼津町の男子小学校の代用教員になる。
1916年 大正5 9月 20歳 第一高等学校入学。北寮10番に入る。しかし、2学期に入ると親戚からの送金が止まり、砂川校長が家庭教師を世話してくれたが、そこも2年の時に出てしまう。
1917年 大正6   20歳 一高1年の春休み、緒明氏の貸費が決定。夏休み、祖母を連れて天理教本部を参詣。教祖のひ孫福井勘次郎が主人の福井屋に泊まり、その紹介で兵庫の2代目教祖井出クニに会う。文学上の唯一の師と慕う有島武郎の「草の葉会」に参加。2年の秋、安生鞠子と出会う。
1918年 大正7 2月 22歳 一高2年。文芸部委員として校友会雑誌に『失恋者の手紙』を掲載。3年の時、寮を出て兄らと共同生活。
1919年 大正8 7月 23歳 第一高等学校卒業。その前に兄と衝突して、広尾の石丸助三郎氏の自宅に下宿。9月、東京帝国大学経済学部入学。
1920年 大正9 23歳 外務省の臨時雇員として勤務。森戸事件により鞠子との面会ができなくなり、手紙での交際を始める。夏、安生夫人に思いを打ち明け、観相家の元に連れて行かれる。
1921年 大正10 4月 25歳 高等文官試験の試験準備に友人菊池勇夫と沼津の知人宅、三島の瀧沢寺、御殿場の青龍寺(『命ある日』参照)で合宿。試験終了後、伊豆へ旅行。菊池と共に高文に合格。
1922年 大正11 3月 26歳 東京帝国大学卒業。4月、農商務省山林局に勤務。同時に外国語学校で菊池と共にドイツ語を学ぶ。石黒農政課長の計らいで山林局から農務局農政課に移動。
1923年 大正12   27歳 鞠子がドイツに留学。7月、祖母くめ他界。有島武郎情死。9月には関東大震災が起こっている。冬、沼津で大火。実家が焼ける。
1924年 大正13   28歳 春、同期トップで事務官に任官、畜産局勤務。真面目な勤務ぶりが却って妨害に合い、秋、秋田営林局に左遷。同時期に鞠子の婚約を聞く。
1925年 大正14 4月 29歳 石丸の勧めで愛知電鉄社長藍川清成の次女金江と結婚。6月、白山丸にて渡仏。出航前に井出クニを訪ねる。白山丸では佐伯祐三の兄と同船し、マルセイユに迎えに来ていた佐伯と知り合う。フランスでは友人が用意してくれたホテルに泊まったが、そこで百武源吾に出会う。最初の下宿では三木清と交際。下宿のマダムに三木を侮辱されたことで、ボングラン邸に宿を移す。ソルボンヌ大学に入学し、シミアン教授の下で貨幣論を学ぶ。マルト婦人が家庭教師。
1926年 大正15   30歳 下宿先のアンドレ・ベレソールやシミアン門下の学友の伝で、ポール・ヴァレリー、ルイ・ジュウベ、ジード、ベルグソン、ジャック・ルクリュ等に触れ合う。
1927年 昭和2 1月 31歳 長女万里子誕生。3月、肺炎でプザンソン博士の下に入院、結核も発見。フランス・オートビルに送られ、ジャック、ジャン、モーリスの3人の学友に会う。その後デュマレ博士のスイス・レーザンで療養。ケッセルと親しむ。
1928年 昭和3   32歳 オートビルを再訪、帰国の許可を得る。帰国途中、上海に寄港。11月、神戸港に帰国。
1930年 昭和5 1月 34歳 次女朝子が誕生。4月、『ブルジョア』で改造社の懸賞小説に当選。作家デビューを果たす。中央大学に講師として勤務。
1931年 昭和6 5月 35歳 藍川が中野に新築した家に入居。第2作『我入道』が朝日新聞の部長の目にとまり、『明日を逐うて』を朝日新聞に連載。
1932年 昭和7 3月 36歳 『明日を逐うて』が問題となり、中央大学を辞任。8月、『ブルジョア』の賞金で軽井沢に別荘を建てる。『昼寝している夫』 『椅子を探す』
1933年 昭和8 7月 37歳 三女文子が誕生。『橋の手前』
1934年 昭和8 10月 38歳 『自己を語る』で初めての自伝的作品を出す。『グレシャムの法則』
1935年 昭和10   39歳 島崎藤村の要請で日本ペンクラブ会計主任に就任。『春箋』
1936年 昭和11 9月 40歳 母はる61歳で他界。『秘蹟』はその追悼作とも言える。『秋箋』
1937年 昭和12 10月 41歳 石丸助三郎他界。その衝撃が『この秋の記録』を生んだ。12月、義母藍川しむ他界。『菊の花章』
1938年 昭和13 4月 42歳 兄真一と中国を視察(『草笛』『南寺』参照)。『愛と死の書』の各章を次々に発表。7月、四女玲子が誕生。
1939年 昭和14   43歳 『眠られぬ夜 』『美しき秩序 』
1940年 昭和15   44歳 『命ある日』『男の生涯』
1941年 昭和16   45歳 『愛すべき哉(薔薇は生きてる)』『孤絶』
1942年 昭和17   46歳 陸海軍からの従軍要請を拒否(『懺悔紀』参照)。
1943年 昭和18   47歳 太平洋戦争末期で既に執筆活動はできなかったが、出版社の努力により『巴里に死す』など重要な作品が刊行される。
1944年 昭和19   48歳 この年の発表は『不律』のみか。
1945年 昭和20 5月25日 49歳 東京大空襲で家を焼失。先に疎開させておいた家族のいる軽井沢へ疎開。8月終戦。『離愁』

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