大伽藍『人間の運命』を書き上げた作者は、その附属建築である2作をこの時期に続けて書いています。それにより作家生活の総仕上げを終えましたが、なおペンは休まず、書き下ろし小説や随想集を発表しています。(掲載作品数:90)

タイトル 初出日 初 出 初刊日 初 刊 本 入手可能本
備 考 / 書 評
天才詩人 1970/春 ひろば45 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 中野重治が野間文学賞に決定し、ペン会長の作者は祝辞に頭を悩ませる――。
 帰国して最初に住んだ上落合の借家が中野の近所であった。だが、会えないままに1年半後に東中野の新居に移ったが、太平洋戦争の末期になって、同じ改造の2等で当選したKが中野を伴って訪ねてきた。執筆禁止で困っているので、岳父に仕事を頼んでほしいという依頼だった。それで岳父に転向作家を雇ってほしいと頼んだが、拒否して、序でに危険思想から守る名目で、それまで作家を嫌って原稿料を自分が買うから発表するなと送っていた毎月の送金を止めた。中野にはKを通じて断ったが、送金が止まって生活が苦しくなったことは言わなかった。その後、中野が参議院に当選した際、病床の岳父は昔雇うように頼んだ日とではないかと聞いたが、小説家になったことも認めて逝った。
おじいさま、おばあさま きんぴらごぼう 1970/4 婦人之友      
 高校3年になる美子は、祖母のアルバイトで洗濯係を任される。画家の祖父は気難しくて、祖母は見苦しく、結婚しない叔父とおかしな3人の家庭で、金色の靴を発見して――。
 美子がベルリンの豊田耕二に相談して、高校を出たらバイオリン留学をしたいと考えている辺りは、音楽好きな作者ならではの話だ。
落葉松の林を秋風がわたって 1970/秋 ひろば47 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 沼津に文学館が建設され、そこに展示する品を探すのに戦後焼け残った書庫を探していて、義母が残した紙包みを見つける。その中には、洋行中の作者が義母に送った数百枚の絵葉書が納められていた。
 数百枚と言うことは、2、3日に1度は出していた計算だが、文章を書くのが好きでなければ、出来ない技だろう。
ある質問に 1970/10 ノーベル賞文学全集9 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『ノーベル賞文学全集』の月報「文学者の生き方について」と出版社がタイトルを付けていた。
 なぜ小説を書くのか、小説家になるにはどうしたら、そんな質問を受け続けて、わが人生を振り返る。5歳の頃、隣家の清吉について寺に通い漢文と仮名を学んだ。そのお陰で小学校では優等生となった。4年生の時、害虫駆除のお礼にクラスで少年雑誌を取ることになり、教科書以外の読書を知った。祖母はまた語り女のように先祖の話を聞かせてくれた。それが小説の肥やしとなったかは知らないと結んでいる。
文学と天才教育 1970/11 ノーベル賞文学全集12 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 小説家志望の子供が多いのを見て、作者は義父を思い出す。小説家になることを最後まで反対したが、死の病床で「君は先見の明があった」と認めた。母親達は音楽のように天才教育が必要ではないかと聞くが、小説に天才教育はなくて、自分が幼い頃、神を求めるように、こころに詩心を養ったように、自然に置くことだと答えている。
作家と生活 1970/12 ノーベル賞文学全集2 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 友人の娘の原稿を読んでくれと頼まれて断り続けたが、娘が勝手に押しかけてきて――。
 作者は手っ取り早く『文学を志す若い人々へ』を読ませたかったようだが、手元に無かったらしい。それで散々話して聞かせたが、娘は最後に「楽団の不正に許せないことが多くて、それを将来小説にするのだ」と帰った。自分の話が馬耳東風のように無駄になった嘆きが伝わってくる。
文学志望 1971/1 ノーベル賞文学全集16 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 小説は天才でなければできないほど困難な仕事である。だから、男性の場合、天才でなければ、他の仕事を勧める。創作する努力をもってすれば、どんな仕事でも成功するからである。
 安易に小説を書こうとするひとたちに対する忠告のようだ。
不幸であるから小説を書くのか 1971/2 ノーベル賞文学全集8 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 タイトルからはずれているが、一高で最初に書いた短編数作を兄から恥辱だと酷評されたこと、2年になって文芸委員になり、「失恋者の手紙」を発表したこと、石川先生からメリメの共訳を申し込まれたこと、文学部に進むように諭されたことなどが書いてある。
 祖母の話として聞いた先祖の話が面白い。「桓武天皇の第何皇子かが帝の名を受けて関東へ下り、武蔵国に土着したが、戦国時代に武田氏を援助して甲州に移り、武田が滅びた後、駿河に移動した」ということで、少年光治良は自分も天皇の子孫だと考えて励んだようだ。
私の胸の奥には 1971/3 ノーベル賞文学全集10 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 経済学部に進んだが、作者の胸にはまだ創作の火がくすぶっていた。石丸氏と出会い、「ジャン・クリストフ」を買ってもらい、創作を勧められたが、その機も逃した。失恋して洋行し、あるサロンでポーブル・ヴァレリーに、創作をしたい苦悩を打ち明けたが、時をたよるよう忠告され、また文学を選ばなかった――。
ポール・ヴァレリーも私の恩人であった 1971/4 ノーベル賞文学全集8 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 留学時、作者はベレソールに連れてこられたサロンで大詩人ポール・ヴァレリーを紹介された。1957年の東京でのペン大会で、エドメ・ド・ラ・ロシュフコー侯爵夫人がヴァレリーの講演をした。2年後、フランクフルトのペン大会の帰途フランスによって、侯爵夫人のサロンに招かれた。サロンの階段を登りながら、30年前ベレソールに連れてこられた日を思い出して――。
 まるでお伽噺のようなサロン光景が印象的なエッセイ。ヴァレリーの忠告は、そのまま経済学を学んだ作者にフランスの芸術・文化を充分満喫させ、そして倒れてからは、忍耐することを教えてくれた。
書くことは生きることです 1971/5 ノーベル賞文学全集7 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 沢山ある才能の中から、作者は経済学を選んで役人になった。そのまま出世すれば安泰だったが、その安住を嫌ってフランスに留学した。留学しても経済学を学んだが、結核に倒れて、その全ての才能を失ったと思ったとき、無言の行で療養する空に光る文字が飛んだ。その文字をノートに書くと、初めて詩のようなものができた。まだ才能は1つ残っていた。光の鎖が降りてきたのである。それからは作者にとって、書くことが生きることとなった。
外国語で小説が書けるか 1971/6 ノーベル賞文学全集11 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 宙に浮かぶ文字を文章にし始めたが、妻は子供を伴って帰国するという。作者はフランスに一人残って生きていく道を考え始めた。オートヴィルを出て、フランスに1ヶ月過ごし、再びスイスに行って闘病を始めた。そこでフーベル夫人と知りあい、フランス文を添削してもらった。また友人のケッセルに紹介され、フランスで小説を書くという考えが芽生え始めた。
あの二人は健在であろうか 1971/夏 ひろば50 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 51年の渡欧の際に出会ったロンドンの傘職人と、林芙美子が亡くなった知らせを聞いた日に登ったエッフェル塔の売店の婦人を、天皇の外遊と絡めて思い出す。
 同じカメンスキー夫人のアパートに止宿した諏訪根自子が、セーヌの流れを見て、流れさる人生に、果てのない音楽をする惑いを感じた話に、共感した作者のこころが見える。
それでも母国語で書くべきではなかろうか 1971/7 ノーベル賞文学全集6 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 娘の留学時の知人である田中が、ミネカイヅカとしてフランスで小説を出版する。帰国した田中は年1回フランスの小説を発表したいと希望を持ったが、作者は日本に住むならば、日本語出す方が良いと忠告した。
 フランスの出版事情の困難さを伝える新人プルーストのデビュー秘話が面白い。
創作は疲れるものだ 1971/8 ノーベル賞文学全集18 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 日本人が仏語と日本語で小説を書くことについて、フランスに造詣の深い東大の前田教授に会って話を聞き、母国語で書くべきだという確信を得る。
 それよりも意義深いのは平賀老人の話であろう。戦前、沓掛で野菜の行商をしていた平賀老人は、芹沢家と親しくした。老人は間もなく隠居したが、疎開者が多くなり、その人達のために再び農耕を始める。芹沢氏も老人から開墾を勧められて、それで飢えを凌いだ。その老人が「何事ももとが大切です」と言った言葉が芹沢氏のこころに残って、後に『神の微笑(ほほえみ)』へとつながっていくのである。(参考:「あの日この日」を読んで
思いがけない場所で 1971/秋 ひろば51 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 皇居での午餐に出席して、芸術院賞を受けるピアニストの園田に対面する。園田は、作者、砂原美智子(プリマドンナ)の後にラチモフ夫人の宿に止宿した後輩だった。その数日後、外交官萩原のパーティで池島に会う。池島もまた同じ宿(カメンスキー夫人)に止宿した仲だった。
 同じ頃に、同じパリの思い出を共有する人たちに会えたというのも、天からのプレゼントのようだが。
書斎の中に大理石の素材を持ちこんでいるのだが―― 1971/9 ノーベル賞文学全集15 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 義父も妻も作家を呑気な仕事だと考えるが、実は見えない大理石を持ちこんで、コツコツとノミを入れる彫刻家のように苦労しているのだと、ロダンとリルケの挿話から説明している。
 最後には愚痴っぽくなったと謝っているところに、作者のひとのよさが香っている。
私は帝国大学に再入学しようとした 1971/10 ノーベル賞文学全集23 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『ブルジョア』を発表した3年後の昭和8年、帝国大学の文学部に入学願書を出した。『明日を逐うて』を1本にまとめる際、その文章がタブローになっていないことに気づいたからだ。入学はマスコミに取り上げられ、それを見た国文学の博士が、入学しても得るところはないからと、個人的な指導を申し出てくれる。
文章をさがして 1971/11 ノーベル賞文学全集14 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 一高の同級生である批評家、谷川徹三が訪ねてきて、文章にリズムがあるのが欠点だと指摘する。そう注意すると、短いセンテンスに気取りがあるのが留学した影響だとして、フランスの知人たちに手紙を書くのさえやめた。日支事変を視察し、健康にも自信を持った頃には文章も確立した。戦前、創作ができない時期に、日本語とは何かを考えたが、学生が西田哲学の難解なことを嘆くのを聞き、フランスの西田文学であるベルグソンが、誰にでもわかる言葉で哲学を唱えることを思った。
手紙 1971/冬 ひろば52 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『生きた石ころや盆栽のたのしみ』に書いた歌人が亡くなった知らせを受け、作者のこころに冬を運んでくる。
 読者から貰う手紙に返事を出さないでいるが、それは自分が書いた小説への返事であると思って、自らを慰めているという作者らしい反省が温かい。
私は孤独だった 1971/12 ノーベル賞文学全集17 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 西田博士の「善の研究」が学生達に何も訴えないことを、自分の学生時代と重ね合わせて同情した作者は、日本語の創作に日本文学ではなく、フランス文学を基本にしようと考える。それは論理的であること、明白であること、誰にもわかるようにすることの3つを柱に文章を組み立てることであった。その結果、文壇から無視され、孤独になったが――。
 この事こそ芹沢文学の神髄『死者との対話』のテーマである。
私は敗戦前こんな態度で創作した 1971/12 ノーベル賞文学全集22 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 デュアメル、ジード、シャルドンヌを愛した作者は、その仕事ぶりが「言葉を持たない神の意思に、言葉を与えているように」感じた。それ以来、神について考え、創作を発表してからも、神に向かって仕事する態度を崩すまいとした。だが、ある日創作を喜べない自分を発見して、そのスタイルに疑問を持ち、客観的でなく、自己を告発する小説を書こうとした。そうして生まれた作品が『孤絶』であり、『離愁』である。
 作者が「無言の神に言葉を与え」はじめた理由を述べた貴重な随筆。
遠ざかった明日 1972/1/10 新潮社 1972/1/10 『遠ざかった明日』新潮社 『芹沢光治良文学館3』新潮社
 『人間の運命』終章。次郎はローザンヌで開かれる国際ペン大会に出席するため、戦争の傷跡を残すアジアの国々を経由しながら、四半世紀ぶりのヨーロッパを訪れる。戦争を挟んでヨーロッパの人々がどう変わったか、あの旧友たちは今――
 本作と関わりのある作品は多い。作中に執筆される『再び「ブルジョア」の日に』『新しいパリ』やフランスでの初の刊行が決まる『巴里に死す』のほかにも、姉妹作のような『パリの日本料理店』『夢枕』など。こちらに写真を掲載しています。
バルザックは私の師匠 1972/2 ノーベル賞文学全集13 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 留学時、下宿先のベレソールがバルザックの崇拝家で影響を受けたが、敗戦後の社会革命の中で、やはり自分はバルザックを手本として小説を書こうと思い立つ。バルザック風に書くと言うことは、無私に徹底して対象に没入することであるが、それには神のように高い次元にあり、広い視野を持ち、深い愛を必要とする。それだけに常に謙虚でなければならない。そうして書いた作品が『再び「ブルジョア」の日に』であり、『新しいパリ』である。その次には大河小説を書きたい野望を持つが――。
大河小説の計画を放棄した 1972/3 ノーベル賞文学全集5 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 バルザック的手法を試みるようになって、大河小説を書こうと思ったが、その主人公を明治天皇に絞った。だが、明治天皇は困難なテーマで、3年筆を持てなかったが、終いには明治天皇がテーマでは出版できないこともわかり、断念した。その代わり、フランスで『巴里に死す』が好評だったのを受けて、第2作として広島を舞台にした長編小説をバルザック的手法で書くことにした。その主人公を選ぶのにまた苦労した。
初恋の人 1972/春 ひろば53 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 文学館が出来て、友の会に出席した作者は、石山つるという老婦人に「ご記憶でしょうか」と話しかけられる。つるは3歳下の幼なじみだった。
 同様に幼なじみの婦人を扱った随筆に『野の花』がある。
小説とはやくざの業か 1972/4 ノーベル賞文学全集20 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 親しい青年から「戦前と戦後で創作手法が変わったのは、作家としての生き方が変わったからではないですか」と問われて、それを説明しなければいけなかったと思いつく。貧しい幼年時代を送った作者は、世の中を裨益する人間になろうという精神で作品を書き始めたが、そのために芹沢家の書斎には、左翼の作家たちが入り浸るようになる。義父や社会からはやくざの業として見られ、肩身の狭い思いで創作する。そんな中で日華事変が起こり、作者は支那への旅を決意した。
闘病生活をすてた日 1972/5 ノーベル賞文学全集1 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 改造の水島記者が手配してくれて、支那に行けることになった。健康を気遣って兄が同行を申し出る。そうしてやって来た北京では、目的の一つであったジャックに会えなかった。日本への示威行為だった。ジャックだけではなくパリの仲間は皆姿を隠していた。帰国しても、戦争の非を書くことはできなかったが、仲間たちに恥ずかしくない態度でささやかに創作した。しかし、太平洋戦争後、警察に拘留されて、百武閣下の名を出して放免を願った。
作家は書けなければ死に等しい 1972/6 ノーベル賞文学全集19 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 警察は釈放されたが、陸軍、海軍と立て続けに宣撫班として招集される。そのどちらも結核のお陰で免除されたが、それを兄は非難し、荒木は危険思想の蔵書が危ないからと、大切にしていた川端康成の「自由主義者芹沢光治良」まで持ち去ってしまう。それよりも辛いのは、小説が書けないことであった。
虱になやんだ日々 1972/7 ノーベル賞文学全集21 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 昭和19年春、三木清が自宅に来て疎開を勧める。秋には百武閣下が来て、やはり疎開を勧めた。『懺悔記』を書いて、養徳社の岡島社長に保管を頼んだが、永久に発表できない恐れがあるからと天理時報に掲載を続けた。閣下が訪ねた数日後に、東京に第1回目の空襲があり、女中も皆いなくなり、翌年3月の大空襲で妻と下の娘2人が疎開した。5月25日の空襲で家が焼け、遂に全員疎開した。沓掛の生活は困難だったが、静かで聖書やキリスト伝を真剣に読み、娘たちに思い出を語って気持を引き立てた。ただ虱が増えて悩まされたが。
川端さんの死について 1972/8 ノーベル賞文学全集24 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 1972年4月16日、川端康成は自殺した。だが、それは京都で日本文化研究国際会議を開くために、川端会長が率先して忙しく働いている最中であったために、作者はその死に疑問を持った。そして川端の作品を、交流のあった彼を胸に思い描く内に、その死が事故死であったと確信する。
 最後の「川端さんは日本風な天才で、その生活には、作家と生活というようなことが問題にならなかったようだ」という表現は、持論を曲げて、川端への敬意を表しているのだろう。この話は、その後書かれた『川端康成氏の死について』に詳しい。
老齢か 1972/秋 ひろば55 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 日本文化研究国際会議の準備で11日間渡欧したが、いつもは元気になるパリで、逆に熱を出して帰国する。それが老齢のせいだろうかとため息している。
佳き晩年を 1972/9 ノーベル賞文学全集3 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 川端に代わって渡仏した際に会った作家は、ロマンシェ(小説家)とエクリバン(作家・文学者)ということを問題にして、エクリバンが自殺してはいけないと憤る。作者はバルザックかヴァレリーに、川端の死について聞いてみたくて、ロダン美術館に行く。ロダンのバルザックは「作家はあくまでも貪欲に生きるんだよ」と作者の背をどやしつけた。帰りの自動車で、ジードが今の自分と同じ75歳に、佳き晩年を迎えることの難しさを語っていたことを思い出して――。
 ここにも「言葉のない無言の神に、言葉を与えるのが、文学者の仕事だ」の一文がある。
四十五年ぶりのパリの春 1973/春 ひろば57 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 戦後4回夏のパリに来たが、今回45年ぶりにマロニエの咲き誇る春のパリを訪れた。そこで川端、立野信之、伊藤整、百武長官と亡くなった人たちを思い出して――。
 その旅で、娘たちが世話になった離婚したラフォン夫人と再会している。
舞子は生きた観音様です 1973/夏 ひろば58 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 日本文化研究国際会議で華やかな会場を抜け、日本食の店に逃げたが、そこで出会った若いジャパノロジストが舞子に会いたいと希望しているのを知り、自分の代役で宴に招待する。ジャパノロジストは「舞子は生きた観音様ですね」と感動する。
前章で終わらなかった 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 これ以下6編は、個別の発表ではなく、『文学者の運命』発行の際に加筆された作品。
 明治天皇を主題にした大河小説を諦めたが、大河を書くこと自体は諦められなくて、柴田徳衛の書いてくれた年表を元に、その時代を生きた人物の伝記を漁るうちに、自分を主人公にしたらと思いついた。丁度その頃西ドイツのペン大会があり、フランスにも寄り、ラフォン社長にその構想を話した。帰国すると中国の作家、老舎、巴金が自宅を訪れたが、巴金はフランスでルクリュの元で会った旧友で、二人にも構想を話した。それから間もなく肺癌の疑いで検査したが、異常なく、死ぬ前にジャーナリズムで死ぬ覚悟をして、大河を書かなければと思い切る。巴金は自分に宛てた随筆を発表し、それに答えるようにまず『愛と知と悲しみと』を書き、『人間の運命』に取りかかった。
小説家の運 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 小説家の運について書けと言われ、中学の先輩で外交官の市河彦太郎に紹介された林芙美子を思い出す。家も近所で夫婦共に仲良くなって、お互いの家に行き来したが、いつも文学の話しかしなかった。林が渡仏した際は、恋文のような手紙を何通も寄こしたが、帰国してからもその事に触れなかった。その林がよく小説家の運、不運について語っていたが。
小説家の不運 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 林芙美子は作者が文壇付き合いをしないのが見ていられなくて、長谷川へ伴って、横光と井伏に会わせようとしたり、文壇を支配する文藝春秋社か新潮社の何れかに近づかなくてはと、荒木巍と計って、今日出海の家に連れて行き、そこから文藝春秋派の久米正雄に紹介しようとした。荒木もまた同じように世話好きで、武田麟太郎を伴ったりしていたが、作者は出版社に媚びたり、酒や麻雀で文壇付き合いをすることに興味がなかった。
 ブルジョアで世に出た際、川端康成がお祝いの手紙を送ってくれたことが書いてある。
改造友の会の頃 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 「改造」の当選者が10人位になった頃、友の会が結成された。作者も努めて顔を出したが、その会員で未だに作品を出しているのは、大谷藤子くらいのものだった。第1回の当選者Rは、一時モダニズムの旗手のように活躍したが、「遺言」という作品を遺して文壇を去り、再び書いた作品は評判も上がらず、廃業したようだった。
わが書斎の珈琲はうまかった 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 戦前芹沢家を訪れた作家志願者との交流を描いている。タイトルの言葉を言った伊藤整も、その伊藤と「ユリシーズ」を共訳した永松定も、創作のために見合いをしたと言った荒木巍も、その荒木が引き合わせた島木健作も、どのひとも皆、戦後に病で死んでしまった。
他人の原稿を読んで 1973/6/10 主婦の友社 1973/6/10 『文学者の運命』主婦の友社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 昭和6年、まだ女子大生の阿部光子の原稿を読んでから、大勢の作家志望の原稿を読まされたが、常に出版社に紹介しないこと、添削しないことを条件とした。その事で思い出す人にNがあるが、Nは年に150回は自宅に珈琲を飲みに現れ、荒木巍から、あんな男と交際するなと忠告までされたが、疎開時には近くに疎開していて、食料を世話してくれたりした。東京に戻ってから現れなくなったが、67年になって手紙が届き、世話をしてくれなかったことに恨みを持って絶交したが、それが誤りで、お詫びしたいと書いてあって、その気持に気づかなかったことを後悔した。
静かな人生のたそがれ 1973/秋 ひろば59 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 日本文化研究国際会議で2年半仕事ができなかったが、やっと『狭き門より』に取りかかったところに、ジャック・ファブリジュという未知の画家から水彩画が届く。それはフランスの詩人協会会長のボネティが『巴里に死す』を絶賛したので読んだところ感動して書いたものだという。作者はボネティが死んだものと決めていたことを恥じて――。
もうスイスの高原に雪が降ると言う 1973/冬 ひろば60 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 ソウルからジュネーブに転任した4女夫婦から、スイスでは雪が降り始めたと手紙が届く。同時に届いたスイスからの便りは、デュマレ博士の息子マルセルからで、博士が97歳の生涯を閉じたという悲しい知らせだった。
海に鳴る碑 1974/2/15 新潮社 1974/2/15 『芹沢光治良作品集第7巻』新潮社 『芹沢光治良文学館3』新潮社
 『人間の運命』序章。明治の終わり、沼津の漁村としては裕福な網元の森家に主人公次郎が誕生し、その貧しい村の漁師になるという慣例を破って学問をする希望を幼い胸に抱くまでを書いている。
 本書は次郎の貧しい幼年期を描くとともに、貧しさの元凶となった次郎の父である常蔵の信仰にも触れている。ただ信仰に盲目になって教団に従うのではなく、信仰とは何か教団とは何か、また神とは――と悩んだ常蔵の生涯は、果たして次郎の運命にどんな影響を与えていくのか。
「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」 1974/2/15 芹沢光治良作品集7 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 1974年に発行された芹沢光治良作品集の月報。
 『海に鳴る碑』『人間の運命』の序章であり、「神と少年」と出版社が名前を付けそうなところを、今では廃物と化した「海になる文学碑」を小説に留めようと、このタイトルに変えてもらった。『愛と知と悲しみと』は、『人間の運命』の執筆にかかってすぐに、中国の作家、巴金との交流の中で書かれた。ここでは、主人公のジャックのその後の消息を伝えている。
たんぽぽ 1974/春 ひろば61 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 たんぽぽにまつわる思い出。戦後、家を新築した際、戦前の庭師の息子が戻って、庭の手入れを始めた。庭師は一時病気になり、1年間来なかったが、その間に庭の芝生にたんぽぽが大量に咲いた。庭師が復活しても、たんぽぽは見事なのでそのままがいいと言って、刈らずにそのままにした。
 中学の1年先輩の外交官、市河彦太郎と「たんぽぽ文庫」の思い出も描かれている。
青春小説 1974/3/15 芹沢光治良作品集1 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集1の月報。
 『産まれた土地』は、戦前芹沢家に珈琲を飲みに来た一人、長崎謙二郎が戦後、長野の出版社一聯社に働いている頃に、請われて書いた。しかし、それは記憶違いで、実は戦前に書いたものを渡したようだ。長崎については『他人の原稿を読んで』のNと同一人物と思われる。『麓の景色』『きいろい地球』と共に、孫に書いた作品のようだと言っているが、後に、青春小説としては『春の谷間』『パリ留学生』が適していると考えたようだ。
パリで死んだ二人の女主人公 1974/4/15 芹沢光治良作品集5 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集5の月報。
 『巴里に死す』は婦人公論の湯川編集長が命をかけて出版し、その為に前線で亡くなったが、そのお陰で本作は世界に羽ばたく文学となった。『巴里夫人』は、51年の渡仏で知り合った浅田夫人に頼まれて書いた。2作品とも仏訳されている。女流作家Yが本作を盗作した事件は有名だが、作者は彼女の心ない行動の方に胸を痛めている。
人生をテーマの小説 1974/5/15 芹沢光治良作品集2 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集2の月報。
 『未完の告白』は一高の後輩が出版社を作る際に求められて書き下ろした。『花束』は作者のタイトルセンスの無さに業を煮やした林芙美子が贈ったものだが、林が亡くなったので、それを弔うつもりで付けた。『女にうまれて』は娘たちを主人公に借りた作品だが、長女が3年前に急死し、その霊に捧げている。
梅雨の頃をスイスで過ごしたい 1974/夏 ひろば62 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 次女の娘の尚子が、高校を出たばかりにパリに留学したが、妹の裕子もやはりヴァイオリンで留学することになって、作者も4女夫婦に招かれたスイスに休暇を過ごしに行って、幼い孫娘にこころのホコリを洗ってもらおうと計画する。
宗教をテーマの作品だというけれど 1974/6/15 芹沢光治良作品集3 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 『懺悔紀』『孤絶』『離愁』の3作について。この3作が宗教がテーマではなく、自分が無宗教であること、父の信仰を清浄であったと認めていることを述べている。他にも、帰国直前にミケランジェロの美術館で偶然会ったプザンソン博士に「人間は長生きしなければ、仕事らしい仕事もできないし、人生の歓びも知らないだろう」と言われたことや、ケッセルが「離愁」の2年後に文学大賞を受賞したことなども。
 作者は無神論者でなく、私の神があるが、それはいつか書くと述べている段が印象的。それを果たしたのが『神の微笑』以降の作品群となるだろう。
仏訳された小説 1974/7/15 芹沢光治良作品集4 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 『愛と死の書』を書いた後も、主人公の若子がいつもそばにあって、苦しい戦時を生き抜いた。その経験が後年、『愛と死の蔭に』に繋がっている。『サムライの末裔』は戦後2回広島を訪れ、その後ローザンヌのペン大会に出席した際、書くことにしたが、帰国後、被爆した娘たちの世話をしたことで、その不幸を共にした。娘の先生である安川加寿子の紹介で青木和子大使夫人が翻訳を引き受けてくれて仏訳された。
「われに背くとも」と「遠ざかった明日」」との余韻 1974/8/15 芹沢光治良作品集6 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 『われに背くとも』が12年ぶりの新聞小説だが、楽しく書けたことや、アメリカの娘を寺社に詣らせるシーンを書かなかったことを悩んだことに触れている。『遠ざかった明日』は「人間の運命」の終章だが、「人間の運命」に直に組み入れるには色合いが違うとも考えた。作中「新しいフランス」と書いてあるが『新しいパリ』のことであろう。
ミケランジェロと語った日 1974/秋 ひろば63 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 漸く結核が治って日本に帰国する前、作者はミケランジェロ美術館に寄って、奴隷像と対面した。奴隷像からはミケランジェロの苦悩が伝わって、自分の苦悩など小さなものに思えて、作者を励ました。その美術館でプザンソン博士と再会したことは、人生で最も印象的な再開のひとつだろう。
短編小説について 1974/9/15 芹沢光治良作品集8 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 『歴史物語』にまつわる二人の軍人との交流を書いている。歳を取って、長編を書く気力が無くなったら、短編を書きたいと最後に書いているが、作者は最後まで長編を書き続けたために、短編は読むことができなかったのは残念だ。欲深いであろうか。
川端康成氏の死について 1974/10/15 新潮社 1974/10/15 『芹沢光治良作品集第9巻』新潮社 『芹沢光治良文学館3』新潮社
 京都で開催される日本文化研究国際会議の出席を要請するため、パリのアンドレ・マルローを訪ねたが、同行するはずだった川端康成の突然の自殺で、マルローに川端の死について問われるものと、その死について考えた。そこで気がついたのは川端の創作の秘密についてであった。
 川端から唯一聞いた『雪国』の創作秘話など、川端との思い出を通してその創作の秘密について考察していく。川端の念願だった会議では、雷となって会場に現れる一幕も。
随想について 1974/10/15 芹沢光治良作品集9 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 横光利一に作家は随筆を書いてはいけないと忠告されたが、随筆を日記のように好んで書いた。他にもアンドレ・マルローのこと、ジャン・ジャック・ルソーのこと、ユラ高原で偶然見つけたファーブルの家など。
「人間の運命」のモデルについて 1974/11/15 芹沢光治良作品集10 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 石田家のモデルとなった植松家との関わりについて書いている。作品を書く際、人物のモデルは作らないが、場所や時代背景などは現実からそのまま借りるという作者の長年の創作秘話を明かしている。
ポール・ジャルダン 1974/冬 ひろば64 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 タイトルは「気の毒な我が庭」という意味らしいが、その庭の変遷について書いている。
 戦前、義父が名古屋から連れてきた庭師が東京の庭師と協力して、作者の希望を聞いて芝生のある庭を造ったが、それが戦火で焼けて、新築する際、前の庭師の息子が庭を造らせてくれとやって来る。
親と子との関係について 1974/12/15 芹沢光治良作品集11 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 ペールと呼んで慕った田部氏(石丸氏)との関係について書いている。幼年の出会いから再会への流れは、縁というものを感じさせずにおかない。
次郎の厄介になった叔父夫婦 1975/1/15 芹沢光治良作品集12 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 平作(元は三吉)叔父とお千賀叔母について。叔父については他の作品でも何度も触れているが、叔母についてここまで詳しく書いてある作品は珍しい。長生きした叔父と違い、短命だった不幸な叔母を思い出すのが辛かったのかもしれない。
私の裡に棲む鬼 1975/2/15 芹沢光治良作品集13 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 神の代弁者たろうとして作品を書いた作者だが、この頃には、自分に作品を書かせるのは神ではなく鬼だろうと考えたようだ。鬼であるか神であるかは言葉の違いだけで、その様な存在が胸の裡にあったということが大切なようだ。
ソルボンヌ大学で 1975/3/15 芹沢光治良作品集14 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 4女一家とソルボンヌ大学を訪れて、世話になった4人の教授やブラン書店の思い出を振り返る。作者はスイスの高原で己を無にして闘病できたのは、シミアン教授の教室で自己を無にすることを体得したお陰だと述べている。
役所時代のこと 1975/4/15 芹沢光治良作品集15 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 石黒局長、小平室長、そして坂田技師、武智技師との思い出と共に、巻末にはこころに残るエピソードを紹介している。
著作集の読者へ 1975/5/15 芹沢光治良作品集16 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 芹沢光治良作品集の月報。
 芹沢光治良作品集に収録されなかった作品たちの思い出について。作者は「命ある日」が最も宗教的な美を感じさせる作品であるとしている。「人間の運命」について序章と終章を加え16巻にすべきだろうとも書いており、このことは何度か考えを変えているようだ。
レマン湖畔の夏 1975/夏 ひろば66 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 74年の春、隣家の桜が落ちてきて、作者はやがて来る死の準備をすべきだと気づく。それにはまず産まれて間もない孫娘に自分の思い出を残そうと考え、ジュネーブに赴任している4女一家を訪ねて、生涯に一回のような休暇を楽しんだ。
 作者は幼児の汚れない心に触れてルソーの「エミール」を思い出し、自らもそうあるべきだと奮い立ったようだ。
人生の秋 1975/秋 ひろば67 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 若い頃、仲の良い老夫婦の姿を見て欧州の夫婦のあり方に感心したが、自分が年をとってまた欧州に来てみると、友人たちが離婚して「人生の秋」を楽しんでいた。
 芹沢氏自身が夫人と良き晩年を送っていたことを考えると、巻末で作者に訪れた胸の熱さは「寂しさ」だったのではないだろうか。
レマン湖のほとり 1975/11/20 新潮社 1975/11/20 『レマン湖のほとり』新潮社  
 作者の四女は外交官の夫の任地ジュネーブで暮らしていたが、そこへ呼ばれて暫く滞在した間の出来事を、半世紀前に欧州で過ごした記憶と共に書いている。『烏賊と落花生』という章はそのタイトルといい仄々とした雰囲気といい、『林檎とビスケット』を彷彿とさせる他、『こころの窓』にも出てくるペイザン嬢も登場する。他にジュネーブ市民であったジャン・ジャック・ルソーがジュネーブでは嫌われていることや、会長をしていた日本ペンクラブでの様々な出来事や人間関係について等。尚、この書は親友菊池勇夫に捧げられている。
 旧友の息子である元村にルソーの『エミール』に書かれている信仰告白が一番感銘を受けたと語る部分があるが、その神の定義は芹沢氏と同様であるに違いない。
長い旅路の伴侶 1975/冬 ひろば68 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 人生を旅にたとえ、その伴侶であった菊地勇夫の死に触れ、その思い出を綴っている。
 一高に一番違いで入学したこと、共に弁論部に所属したこと、高等文官試験を受けるために寺に籠もったこと、発表までの伊豆への旅行、九大教授となった菊地との交流、渡仏時の友好など。
義兄弟の契り 1976/夏 ひろば70 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『人間の運命』に黒井閣下で登場する百武源吾との思い出について。
 作者は朝日新聞の夕刊で百武の死を知る。義兄として充分すぎるほどの誠を尽くしてくれたが、自分は何も孝養できないままに彼岸に送ってしまった悲しみが溢れ、義兄の望んだ仕事をして、天で胸を張って再会したいと結んでいる。
狭き門より 1976/8/20 新潮社 1976/8/20 『狭き門より』新潮社  
 美子は専心していた絵を捨てて夫に仕えてきたが、子供を欲しがらない夫に対する不満が、初めて夫の本質を覗く機会になる。仕事は神の代弁者のような熱意で生涯をかけて取り組むべきだという作者の理想が全編に現れている作品。美子は異性を見る目を持たなかった為に、不幸な結婚生活を送ったが、結婚こそ生涯をかけて創り上げる作品で、相手を選ぶ慎重さ、結婚すると決めたからには、どんな困難にも耐えて添い遂げるという覚悟が無かった。だがそれは、この作品のテーマとは外れるので、とりあえず美子の新しい出発を祝福しよう。作者としても、自らは実践しなかった離婚をこの作品でやり遂げたのだから。
 作品中、登場人物の持岡の台詞に「ベルグソンが『老年になると固有名詞、普通名詞、形容詞、動詞という順に度忘れするが、動詞を忘れる時には知的活動をやめなければ』と書いているが、自分は時々名詞を度忘れするくらいで、動詞を忘れるまでには20年かかるそうだが、その時には筆をすてるが、筆をすてれば僕のいのちはないから、僕には老年がない」という内容のものがある。作者は実際にその死の直前まで筆を持って、老年のなかったことを証明したが、そのように幸せな生を全うする人が世の中にどれくらいあるだろうか。
赤い服 1976/秋 ひろば71 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 来年には喜寿を迎える年で、医者に健康になったからと赤い服で還暦を祝うよう勧められたが、その二日後に岡野喜一郎から赤いチョッキを贈りたいと電話を受ける――
 大自然は時々こんな出来過ぎた采配をふるうのではないだろうか。この年には村八分もとけて、いよいよ最後の一仕事への用意が調いつつあるようにも感じられる。
生きること書くこと 1976/9/30 大和出版 1976/9/30 『生きること書くこと』大和出版  
 『文学者の運命』『こころの旅』『こころの窓』『人生について・結婚について』のそれぞれから抜粋したものに、書き下ろしの『私はまだ普通名詞を胴忘れしないから』を加えた随筆集。
天寿の金銭 1976/冬 ひろば72 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 同僚の舟橋聖一が作者の原稿料に対する欲の無さを見かねて忠告したが、作者は生きてさえいれば金はついてくると無頓着だった。
 娘二人を留学させて、いよいよ金銭に困った時に、リヨン銀行の支店長がフィガロの記事を見ただけで100万フランを用立ててくれる。
この道を生きた歌人     1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 歌人、五島美代子について。
 57年秋のペンの国際大会で知り合ってから、歌集を贈られるようになった。その20年前に親しくした岡本かの子と比べて、同質の歌人だが、わが人生の宝になったと評している。
「これも純粋ですか」     1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 白山丸で同乗した兄の佑正からマルセーユで紹介された佐伯祐三との交流について。
 芹沢氏に初めてできた日本人芸術家の友ではないだろうか。学んでいた経済学に疑問を持って、作家を志すかも知れないことを漏らしている。結核で亡くなる頃の話は余りに悲しい。
三岸節子さんと宮坂勝君     1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 宮坂はパリで知り合ったが、帰国した芹沢氏の元に現れて、交流を深めた。三岸の絵について論議したこともあるが、宮坂はその画業を完成させずに若死にしてしまう。
 巻末の宮坂へのストレートな呼びかけが、個人主義の作者には珍しい。それだけに宮坂への友情を感じる随想である。
ある創作の秘密     1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『狭き門より』の創作秘話。
 夢の中に女が現れて、自分を小説に書いてくれと懇願する。作者は何度も現れる女に根負けして作品を書いたが、出来上がってみると自分の作品で安心した。
童女 1977/夏 ひろば74 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 作者は軽井沢でいきなり童女に話しかけられたが、山荘の隣人、広田先生の曾孫だった。作者は童女に、若き日の長女万里子を思い出す。
この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは 1977/秋 ひろば75 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 作者は50年ぶりにマドレーヌ・ルノーの芝居を見に、国立劇場に足を運んだ。変わらないルノーの姿に、自らも若返ったようで、翌日には原稿を注文したのだった。
この冬に向って、三通のよろこばしい知らせ 1977/冬 ひろば76 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 フランスの田舎で暮らしている三岸節子、パリの彫刻家水井康雄、次女の長女尚子からの3通である。
 三岸は「花より花らしく」という36万の随筆集を贈ってきて、水井は『こころの広場』に感動したと、自分のパリの作品を見てくれと勧める。尚子はパリの3大オーケストラのひとつパドルーの代理コンサートマスターを務めて喝采を浴び、第一ヴァイオリンに迎えられた。作者は80だなどと言っていられないと気を若くする。
新年は私にはないが 1978/春 ひろば77 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 パリでの二つの新年の思い出。
 ボングラン邸での初めての新年で、若くて金髪の女中エリーゼが新年の挨拶と共にキスをして去っていった。4度目の正月はオートヴィルの療養所で、コルトーを聴いて感動して部屋に戻ったが、隣室の物音に淋しい別れを知った。
私はソ連でデカンショを唄った 1978/夏 ひろば78 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 大岡昇平と共にソ連の作家同盟に招待され、コルホーズという農村で歓迎を受けた。農民に理由を聞くと、旅人を労うと神が喜ぶからと言う答えに驚いて、二人はお礼にデカンショを歌った。
アメリカと信じてブラジルへ移住した村の人々 1978/秋 ひろば79 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 ブラジル日本移民70周年記念式典を見て、アメリカと信じてブラジルに連れて行かれた故郷の人々を思い出す。
死の扉の前で 1978/11/25 新潮社 1978/11/25 『死の扉の前で』新潮社  
 神の代理者として崇められながら、近親者からも理解されることなく孤独のうちに逝った天理教真柱との交友を、真柱を父親と思い込む青年を絡めて、賀川という信者を仲介者に設定して語り聞かせる。交友のあった時期が『教祖様』の執筆期間とダブるために、執筆の裏話やその後など興味深い挿話も多い。結局最後まで親様の信仰に目を開かなかった真柱だが、その友の死で作者は天理教から解放された。この書は一般人よりも宗教に携わる人が読んで、心を正すべき種類のものだと思うが、如何だろうか。
 ところで、タイトルの「死の扉」とは作者にとってガンの疑いがかかったことだが、精密検査の結果異常なしと診断される。精密検査を受ける間、作者はスイスでやった無言の行を濃縮して行ったが、実際は在ったガンが無くなったのか、元から無かったのかは神のみぞ知るところである。
春の来ない冬と春の来る冬 1978/冬 ひろば80 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 闘病と戦争を春の来る冬、老齢を春の来ない冬と例えている。
 軽井沢に訪れた二人の老婦人を引き比べて、老年の過ごし方をも説いている。
年の瀬 1978/冬   1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 『死の扉の前で』を書き上げて、老齢になった自分に慌てたが、同じ軽井沢で交流のある三岸節子や小山敬三を思って、80にして還暦を祝った自分も頑張らねばと励むのだった。
C伯爵夫人はどうしているか 1979/春 ひろば81 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 C伯爵夫人とラコンブという二人の富裕な読者との交流。
 ロスチャイルド家に招待されたが、辞退した思い出なども語っている。
喪服を着た貴婦人 1979/秋 ひろば83 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 マッセ姉妹との思い出。
 芹沢夫妻は妹のエリーズにフランス語を習ったが、ある日、お茶の席にエリーズが不在して、マルトが事情を説明する。エリーズは元ハプスブルグ家の姫に仕えた女官だった。敗戦後、フィガロの記事を見たマルセル夫人が伯母の家で会った方ではないかと手紙をくれたが、夫人の元には戦時中になくなった姉妹の思い出の品が遺されていた。
飛行機について 1979/冬 ひろば84 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 結核療養中、まだ飛行機がなくて、飛行機が飛ぶことを夢見たが、敗戦後、その飛行機の故障のお陰でエルサレムに立ち寄って、神の恩寵だと感謝した。
 ここでは帰りにオランダ便でも故障があって、イスラエルに不時着したことが書かれている。

タイトルバックが金・銀のものは当館推薦作品です。ぜひ一度お読みになってみてください。
初出順ですが、初出が不明なものは初刊本の日付を参考にしています。
各空欄はデータ不明です。タイトルの後に※のついたものは資料無しです。作品をお持ちの方からの貸出・提供をお待ちしています。
初出の『 』内は初出時のタイトルです。(タイトルと違う場合のみ)

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