創作の転機となる『孤絶』『離愁』を含め、著者のスタイルが確立した戦前・戦後の10年間の作品です。戦場で多くの若い芽が失われる中、直接戦争に触れなくても、あらゆる形で生命の尊さを訴えています。後半は戦後の混乱の記録や、そんな冬の時代から少しずつ春を迎える気配を長女の結婚を祝う連作などに見ることができます。(掲載作品数:170【その1:82,その2:88】)

タイトル 初出日 初 出 初刊日 初 刊 本 入手可能本
備 考 / 書 評
希望記 1940/1 『希望の書』婦女界 1940/9/20 『希望の書』婦女界社
 代用教員をして学費を貯めていた杉田は、一高にパスして意気揚々と上京するが、そこに親しんでいたひとから実父だと名乗られて――
 作者が代用教員をしていた時期から、帝大で文官試験を受けた頃までの軌跡が背景に描かれている。途中で恋愛相手が登場するが、本作のテーマが貧しく不遇な環境に育った主人公の成長にあるので、恋人との事をもっと掘り下げて書きたいとの思いが、『未完の告白』に続いていくのではないだろうか。
私の小説勉強 1940/4 文芸 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 デュアメルの「自分の作品の良さは、かつての貧しさに依る」という言葉から、自分の小説勉強を半生と友に振り返って、可能性を信じることだと結んでいる。
 ここでは伊藤公の国葬の日の先生は「白鳥」になっている。芹沢氏はこれまでに13編の長編を書いたと述べているが、愛読者ならわかるだろうか。正解はこちら
黒髪に霜もおかで 1940/5 オール読物 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房
 従姉妹の仲子の元に、仲子の結婚以来連絡の無かった双子の妹美代子が突然訪ねてきて、これから一緒に住んで、子供を育てるのに協力すると宣言する。仲子は戦死した夫と美代子の関係を疑うが――
 作中で美代子が気にするように、女2人の子育て、しかも1人は未婚では、世間体は良くなかろう。しかしそんな事を微塵も感じさせないほど、ふたりの幸福な様子を描ききっている。
櫻咲く蔭に 『櫻花』 1940/5/21 『愛すべき娘たち』鱒書房
 女学校5年の由利は、慰問品を送ったことから中田伍長と知り合う。伍長は写真を送ってきて、由利の写真を求めたが、父はそれに反対した。だがそれ以来、伍長からの音信は途絶えて――。
 少女の淡い初恋を綴ったものだが、背景が戦争であるために、純粋なロマンスとならずに、傷痍軍人の慰安となるような内容になっている。
卒業の前 1940/5/21 『愛すべき娘たち』鱒書房
 文官試験には通ったが、官になるのではなく、満州鉄道で働きたいと希望する学生の独白と、田舎で兄を誇りに思い、自分も兄に負けないように社会の役に立つ人間になりたいと夢見る妹の手紙で構成された短編。
 兄も妹も不幸で、見ていられないような兄妹だが、作者の伝えたかったことがいまひとつ伝わってこない。
上陸一歩 1940/5/21 『愛すべき娘たち』鱒書房
 名前は変わっているが、内容は『女の海』の続編である。北京に上陸した春枝は、つる子に夫を紹介されて、頼る者の無いような孤独を感じるのだった。
門出 1940/5/21 『愛すべき娘たち』鱒書房
 許婚の謙三が出征することになり、前から反対だった父は婚約を解消しろと言う。まつ子は動揺したが、「どんなことがあっても君は僕の妻だ」という謙三の言葉を信じて、その門出を見送る。
命ある日 1940/5/31 新潮社 1940/5/31 『命ある日』新潮社 『芹沢光治良文学館1』新潮社
 学生と下足番をする女の恋愛小説。女の父が元牧師であったことから、信仰についても触れている。相手を一目見て結婚を考えるような恋愛は今の時代には少ないが、男女の恋愛観の違いは今と共通のものだろう。女が負う貧困と結核という二つの苦難は、作者の写し鏡でもあるから、当然その描写は自然だ。幸福とは与えるものでも与えられるものでもなく自ら産むものだと知ったとき、このヒロインはもっと楽に男を愛せるようになるだろう。
 作中、御殿場の寺が登場するが、実際作者は学生時代に友人と二人で高文の受験準備に合宿をしている。寺の清冽な気の中で修行僧のように勉強をする姿を羨ましく読んだが、それも僕が日本人だということだろうか。
男の生涯 1940/7 新女苑 1941/7/23 『男の生涯』実業之日本社 『芹沢光治良文学館4』新潮社
 1941/4まで連載。作者が生まれてから初めての洋行をするまでの半生を綴った自伝。作者は自分によく似た境遇の作品を多く書いているが、どんなに似ていようとそれはあくまでも物語である。物語とは、神がこの宇宙を創造したように、芹沢光治良が神の力を得て想像した宇宙であるから現実には存在しない。だが、この作品は唯一作者の自伝である。作者を知る意味で非常に興味深い。また、この自伝には2代目親様である井出クニが2度登場するが、2度目には作者が自ら進んで会いに行って、親様の行いを渡仏時の励みにしていることも特筆すべきことだろう。
冬の旅 1940/9 竹村書房 1944/4/15 『冬の旅』万里閣 『芹沢光治良文学館1』新潮社
 学生の時に文学を志して私の元に通っていた男が、久しぶりに訪れて妻の不貞を訴える。
 この作品は精神病の夫とそれを支える妻の物語だが、『冬の旅』というあっさりとしたタイトルからは想像できないほど重い内容だ。この夫婦のように、どちらかが病になった場合の原因は本人だけではなく、相手にもあると思って間違いない。この妻は苦しみの中で自己を改革して病原を絶つことに成功しているが、実際自分が病んだ場合、この妻のような自己変革を行えば、病気が治るという奇跡も起こるようだ。
情愛の距離 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房
 戦地で医師をする夫へ、フランスで世話になったルネ夫人の手紙を添えて便りを送る。ルネ夫人は、パリで出産の際、自分が胸を病んだ夫の望まない子を産んだ希望や嘆きを打ち明けて励ましてくれた親友であった。
 日本人とフランス人、2人の女の友情を描いた、小さな『巴里に死す』と言えるような佳作。
霧海 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房
 作者の別荘番の爺さんが、若き日に霧の中で、道に迷った外国の女に出会ったロマンスを語った。  
若き女の告白 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房
 姉妹が27歳と24歳になっても婚期が訪れないのは、父に愛人があるために、母が自分たちを手放すのを畏れるからだと考えたれん子は、大学教授の家に女中に出て、両親に反省を求めようと決心するのだった。
遙かなる祈り 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 美代の家では、2人の兄が応召した。残された家族は戦地の2人を思うことで、気持ちが一つにつながって――。
 戦争の不幸を通して、人の心が良い方向に変わっていくという戦争のもう一つの側面を、家族や隣近所との絆という面から描いている。逆説的な見方をすれば、人々が苦難を味わって成長した心の状態を戦前に持っていたなら、戦争というものは起こらないのだろうか。
まごころ 1940/10/20 『若き女の告白』河出書房
 大学教授の家の女中として働いていたよねは、末っ子を自分の子のように可愛がって、自分も家族の一員となった気がしていたが、末っ子が成長して、よねを女中扱いし始めると、よねは自分の居場所が無くなったように感じて、30を前にこぶつきの男との結婚を考えるのだった。
 結婚生活は普通でも大変であるが、再婚では尚苦労がある。だが今の時代、女は男より強くなって、こんな結婚をするくらいなら、1人で生きていくという女性しか考えられないが。
稲をつくるの詩 1940/11/1 文藝 1941/3/28 『鎮魂歌』実業之日本社
 作者の知り合いの女教師が、生徒と共に稲を作った記録を通して、子どもたちこそ自分の稲であると告げる。
 この作品を書いた背景は容易に想像できる。戦前の貧しい生活の中で、児童を育てる教師たちへの作者からの希望であろう。作者自身の教師体験も、わが娘たちの成長もそこには刻まれているに違いない。
椿のある家 1940/11/20 『沈黙の薔薇』萬里閣
 漁村で買われた徳三郎は漁師となり、梅と結婚するが、産まれるのは女ばかり6人。男しか価値のない漁村で、梅は徳三郎を詰り、その娘達は1人2人と街へ売られていく。やがて娘達はそれぞれの人生を歩き始めるが、梅の愚痴はやまなかった。
 この物語では、売られた娘たちも不幸だが、一番不幸なのは徳三郎だろう。本が好きで性格の穏やかな徳三郎が、梅のような鬼嫁に生涯を呪われ続けるのだから、善人が不幸な話ほど悲しいものはない。
パリ日記 1940/11/20 『沈黙の薔薇』萬里閣
 春子は異邦の地で初めてのお産をすることに不安を持った。夫はフランス人と同様に、若くして子を身ごもったことを責めるような口ぶりである。しかし、産まれてみると、そんなことはもうどうでもよくなった。
コナン大尉 1940/11/20 『沈黙の薔薇』萬里閣
 おわりに「この作品は1935年のゴングール賞、ヴェルセル氏のコナン大尉をモチーフにした短編小説である」とある。主人公はコナン大尉ではなく、ノルベル中尉なのだが、文学者というところが作者の気に入ったのだろうか。
沈黙の薔薇 1940/11/20 『沈黙の薔薇』萬里閣
 落合老人のひとり息子命男は、結婚もせずに戦地へ行ったが、老人はただその事が気がかりで、知人の娘律子を嫁にと考えていた。しかし、命男には鈴子という恋人がいて、子供まで出来ていたことを母は知り、父に相談できずにいたが、ある日命男の戦友が家を訪れて。
 作者の作品には、心情を推し量りがたい子供と、それにこころを砕く親という図式が多くある。本作などその最たるもので、母の最後の憂鬱が笑えるほどにもどかしくよくわかる。
鎮魂歌 1940/12 改造 1941/3/28 『鎮魂歌』実業之日本社 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 作者が凱旋した二人の弟に捧げるつもりで書いた作品。凱旋した弟が、母の死を機会に今までの自分の人生を振り返り、それを兄へ独白するという形式で書かれている。戦争という体験の中で自分の生き様を探ってきた青年が、母の信じた信仰に対する自分なりの答えを、自分のこれからの生活に見てほしいと告げる信仰の書でもある。その答えとは、秩序ある生活、平凡な生活であるが。無宗教による神への信仰は作者の一貫した姿勢である。
心の地図 1940? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 天気予報が心に大陸の地図を作ることから始まって、支那事変(日中戦争)で作家が中国に渡り、心に中国の地図を作ったという話であるが、地図とするか、財産とするかで、同じ植民地でも違うというのは、作者ならではの僅かな懺悔であるかも知れない。
迎春 1940? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 義母の喪で、久しぶりに名古屋での正月を迎える作者は、義父に創作を理解させられなかった後悔と、母のストイックな生涯を語る。
支那の民衆 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 作家に支那に行くように勧めている。自分が見てきた戦地の悲惨な状況を伝えたかったのだろう。
活字の魅力 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 戦地で新聞が発行されたことを喜ぶと共に、戦時だからと文化を圧迫せずに、逆に守っていこうと訴えている。
協力の求め方 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 作家を戦争の宣伝に使うことに異を唱え、もっと作家の志を生かせる協力の求め方が出来ないかと訴えている。
母性的智慧を動員して 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 母達に銃後を守る心構えについて説いている。
塵溜の大きい日本 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 日本が世界的にもゴミ箱が大きいことを、家庭の婦人達がものを大事にしないことに結びつけて、ものを大事にするように説いている。
おおどかな精神 1940-41? 朝日 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 京都に詣り、御所や桂離宮のおおどかな建築精神を持つべきだと、圧迫される時局に抗している。
『支那の民衆』から本作までは、朝日への連載であるようだが、短い文章の中に何とか時局に逆らわずに民衆に訴えたいという思いが隠れているようだ。
憩いの日 1941/1 婦人朝日 1942/2/20 『憩いの日』博文館
 8月まで連載。気象台の職員鶴見は戦地で結核にかかり、清瀬の療養所に送られた。婚約者の不二子は結核を畏れて鶴見に近づかなかったが、病院を見学に来た友人妹の倫子と再会して、お互いに学問について刺激し合ううちに愛情が芽生えた。
 付き合いを解消するというのはいつでも大変だが、それが結婚前であったなら幸いである。ましてこの不二子のように我が儘なお嬢様が、それによって謙虚な気持ちになれるのなら、却って解消したことは幸福であっただろう。
雪空 1941/1/5・12 サンデー毎日 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 主人公唐木の友人中尾が気まぐれで見合いをした節子と、数年後に唐木はばったり再会する。節子は他の男性と結婚していて、夫を戦争で亡くしていたが、中尾もまた戦死していた。次に唐木が節子に会ったとき、節子は中尾の妻を伴って――
 戦時中の苦難の中、女性の逞しさに奮起を促す激励の書であるが、雪空の翌日の青天とでも題したいような結末である。
林檎とビスケット 1941/2 文芸 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 作者の幼年期、日露戦争の際、ロシア人の捕虜が町に来たこと、牛臥山の中で妖精のような婦人に出会ったこと、の二つは特に大切な思い出らしい。その二つの事件を、食物をキーワードに、貧しさの中で中学に行くことを決意する少年の物語として仕上げている。また、この物語には神の使者のような小学校の先生が登場して、少年の心に文学への興味と進学という新たな道を植え付ける。これらの話は後に作者の作品にはいろいろな形で何度も登場するが、それ程作者の人生を運命づけた大きな節であった。
老年 1941/5 文学界 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 妻を亡くした画家と義父との心の交流を、義父が健康のために始めたゴルフを通じて深めていく様子を描いている。実際作者も妻の父を垣の外の人間のように感じていたので、その壁を取り払おうと努力したのだろう。それぞれが双方を思いやる温かい愛情が感じられる。また、主人公は病んだ身体を持っているが、病んだ者が日頃どのように生活を考え、行動しているかという細かい描写があるので、それが良い悪いは別にして、健康人は日頃経験しない病んだ者の繊細な心理を知る良い機会だろう。
女教師 1941/6 婦人公論 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 女教師を主人公に創作しようと、女教師達に会ったが、天職ではなく職業として働く彼女たちに、思い描いた女教師像は崩れていって――。
 子供好きを自自称する作者の教育論は読み応えがある。僕には二人の女教師の友人がいるが、ここに書かれている教育を学ぶより雑事が多い等の現状は、現在にも当てはまるのようだ。教育の廃退は進んでいる一方に思えるが、何とかならないものだろうか。伊藤公の国葬の日の先生は、ここでは「西山」先生である。
夢のかよいじ 1941/7 むらさき 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 文学部へ進学する希望を、母の意思で理工学部へ変更した兄に、妹は物書きになる決意を手紙に書く。好きなことを仕事にするべきだというのが作者の持論だが、作者の作品に登場する女たちはどれも逞しくて、戦前と言うより現代の女性達のようである。
お化粧 1941/9/6 『魚眼』博文館
 すみ子は母が死んだ男所帯の一家を切り盛りすべく、女教師になる夢を捨て、師範学校を退学する。兄は出征し、父は中学の教頭を退職したので、弟を立派に育てようと化粧も忘れて働くのだった。
街の灯 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 東京市の小滝川を舞台に、下宿住まいの役人と結核者を抱えた姉弟の交流を描いている。冬の銭湯という情景が、田舎の温泉街のような侘びしい情緒を生んでいる。
 女手一つで一家4人を支える姉に、近所に住む役人が温かい手を差し伸べ、仄かな希望の灯がともるのだが――。
海の人 1941/9/6 『魚眼』博文館 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 漁村出の海を描かない画家が、初めて漁師を描いて恩人の叔父に報いる物語。作者自身は作家になった第2作で『我入道』という青年時代の仲間だった故郷の漁師たちを主題に書いた作品があるが、この作品は自分を育ててくれた漁師の叔父に捧げた作品ではないだろうか。
愛すべき哉(薔薇は生きてる) 1941/9 実業之日本社 1947/5/1 『薔薇は生きてる』偕成社
 『薔薇は生きている』と改題して1947年に単行本化されている。
 富士山の観測所で働く父を持つ哲子は、学校で汚いために嫌われているしづ子から「学校をやめるかもしれない」と相談される。哲子は仲の良い光子と哲子の力になろうと努力するが、光子がチフスに倒れて――。
 境遇による差別は、貧しい環境で育った作者には、子供達に一番言いたいことだったろう。初めての少女小説だが、光子の死の瞬間に、哲子が光子の夢を見たり、ピアノの天才である光子のこころが、その音楽の修練のために澄んでいたり、しづ子が貧しいために薄情に見えるが、実はこころの美しい努力家であったりと、作者らしさが随所に出ている。
秘蹟-母の肖像- 1941/10 文藝春秋 1942/5/20 『女の運命』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 両親が信仰した宗教を批判する小説を書く弟へ、ずっと両親のそばにあった姉から手紙が届く。
 副題の通り、作者の母の信仰に捧げた生涯を元に描いている。そこには、母と言うより、作者自身の信仰感が見える。作者はこの母と父に捨てられ、親子らしい感情も知らずに育っているが、この作品を読む限り、縁が薄かったとは思えない母親への愛情を感じるのだが。
高原 1941/10 中央公論 1942/8/1 『春の記録』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 霧深い高原で山辺は20年ぶりに学生時代の友人とその息子に会う。息子は山辺が文学で表現した理想を、現実の生活で表現するのだと情熱的に語る――。作者は、老いて山辺を羨ましがる父親の若い日を、息子の傲慢さに見るのであろうか。とまれ、その若さの逞しさに、将来を期待しているようにも思えるが。
孤絶 1941/10 文学界 1943/10/20 『孤絶』創元社 『芹沢光治良文学館2』新潮社
 1942/12まで12回にわたり掲載。フランスで当時日本では死病と怖れられた結核にかかった男が、身近に迫った死を本能で感じることにより、研究していた経済学に興味を無くし、生への熱情を文学で表現したいと考えるに至る。
 病は嫌がおうにも精神の変革を求める。それが死を覚悟させるほどの大病であればあるほど。病とは何か、死とは、生とは――。生命の尊厳に正面から取り組んだ意欲作。
野菊 1941/10 オール読物 1942/8/1 『春の記録』全国書房
 岡島つえ子という未知の女性から『命ある日』の希望寮のことを教えてくれと手紙が来る。話を聞くと、つえ子の兄の戦友野木が結核になって、その対応に苦慮していることがわかる。作者は野木に会いに行くが――
 保母を辞めて、授産所で働くというつえ子は『秋箋』の照子とも似ている。つえ子と野木の関係が恋とも友情とも取れるラストは、恋愛のことは他人の出る幕でないという作者のこころの現れのようだ。
1941? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 御所と桂離宮のおおどかな美しさに圧倒されて、創作も手に着かない作者は、好きなことだけを書くべきだと反省する。裏を返せば、この頃は好きではないことも書いていたのだろう。芹沢氏には意外な感があるが。
 この感嘆は『おおどかな精神』にも書かれている。
わが意図 1941? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 神の祭壇に登りながら、つまり神として作品を生む際に起こる傲慢を、いかに無くすかという難しい問題を語っている。
 作中、その試作として書いているという小説は『男の生涯』に違いないが、そういった見方で読んでみると面白いだろう。
水車小屋と炭焼 1941? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 戦時下の統制で、電気を自由に使えない米屋が、米を碾くのに水車を修理したという話と、バス会社の社長が、石油の統制で、バスを木炭車に変えたが、今度は木炭不足になって、社員を田舎に炭焼きに送るという苦労談を取り上げて、戦時統制のおかしなことを笑おうとしたのだろうか。
早春に遠き人を想う 1941? 1941/12/11 『随筆 収穫』東峰書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 フランスから帰国して12年目に、シミアン教授の下で共に学んだメルシェ君からの結婚通知に、ケッセルやベレソールに励まされたこと、オートヴィルを降りてユリアージュ温泉に滞在した日を思う。
女の運命 1941/12 全国書房 1942/5/20 『女の運命』全国書房 『芹沢光治良文学館1』新潮社
 主人公は27歳の娘節子であるが、戦争で男不足のこともあり婚期を逃した。父の不倫がきっかけで家を出るが、その後苦難の道を歩む。
 節子はどこにいても不幸で、どこかに幸福が香ってくれればと今読む僕は感じるが、当時は、これだけ不幸でも頑張っているのだからと同じように不幸な者を勇気づけたのだろう。節子そのものに関して言えば、幸不幸は自分の気の持ち方一つで決まるのであり、それに気づくこころの変化が生まれれば、この後幸せになれるはずだが。
巴里に死す 1942/1/1 婦人公論 1943/8/5 巴里に死す』中央公論社 『芹沢光治良文学館7』新潮社
 1942/12/1まで連載、作者初の仏訳された作品。フランスでこどもを産み、結核で亡くなるまでの短い結婚生活を綴った女、伸子の手記を柱にしている。終章では、この手記を結婚後に父親から受け取った当のフランス生まれの娘が、母のような愚かな生き方でなく、父が望み母が理想とした生き方をしたいと希望を述べる部分があるが、その母の愚かな生き方が、多くのフランスの女性読者に受け入れられ、深い感銘を残しているのだから面白い。
 本作は『孤絶』と表裏をなす作品である。共に第二次大戦末期の最も凄惨な状況において書かれており、主題が生命の尊厳であることは言うまでもない。作者はこの作品によって、ノーベル賞関係者からも注目を引くほど世界の舞台に踊り出た。
冬のはじめ 1942/1 改造 1942/8/1 『春の記録』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 山辺は娘と箱根への旅に出た。そこで妻の面影を娘に見て――。『高原』の連作。
 大作を数編書いている時期の短編の連作は、それらの大作と比較して読むと、当時の作者の気持ちにより近づける感がある。
けなげな娘達
(乙女の日)
(牧師館の少女)
1942/1 少女の友 1943/2/25 『けなげな娘達』偕成社
 「少女の友」に1年間連載した後、書き換えて単行本化した。連載中に起こった太平洋戦争の影響だったが、主人公にフランス人、中国人が含まれることでも、作者の平和の願いが聞こえてくるようで、少女に向けたこころ優しい内容と共に清々しい。後に『乙女の日』『牧師館の少女』と2回改題。
 父を戦争でなくした美子は、7人の子供を抱えて経済が不如意になった母に連れられて田舎に移り住む。親友の律子や先生と離れることは辛かったが、田舎の生活の中に戦時の行き方を探ろうと努力する。
鶯の手紙 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 女学校4年になる信子は、戦死した父の想い出のある沼津を母と旅して、父への手紙を書く。
月光の曲 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 傷痍軍人の慰問の会で、誰もがピアノコンクールで2等をとった春代がピアノを弾くと思ったが、父から人前で弾くことを禁じられた春代は演奏を辞退した。しかし、盲目の軍人や身体の痛みを訴える軍人を目の前にして、春代は父に叱られても、この方達をお慰めしようと演壇に立つのだった。
 少女に向けた優しい文体なのだが、春代の演奏が聴こえてくるように魂を揺さぶられる。
山荘の道 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 女学校に入った晴子は、これでやっと姉の由紀子のようにイタリア人のルイズと遊んでもらえるのだと、ルイズに会える軽井沢に避暑に行くのを楽しみにしていた。しかし母は、父が戦地にあって、今年は行かないと宣言する。悲しむ晴子を見かねた由紀子は父に手紙を書くが、入れ違いに父から手紙が届いて――。
卒業のあとさき 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 つる子は仲良しの春子と山に登り、我が住む村を初めて見た。その想い出を胸に、春子は国民学校を卒業すると都会の女学校に転校してしまったが、つる子は父が戦地にあって貧乏な為に、女学校に通わせてもらえない。
緑の風 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 のぶ子は仲良しの春子が卒業と同時に北京に行ってしまい、悲しくて仕方がない。しかし、春子からは、北京が緑の街で「青い鳥」がいると手紙に書いてきた。
 青い鳥とは「幸福」と言うことだが、不幸が訪れるまえの幸福な時代だったと言えるだろう。
紫陽花 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 父が戦死して、母は女教師になろうかと百合子に相談した。百合子は何もできなかったが反対して、自分が女学校を出て女教師になろう、母と弟を支える父になろうと決意するのだった。
櫻花散りぬ 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 女学生のあぐりは、ある日国民学校6年の美代子と知り合う。美代子の家は父が戦地にあり、母は後妻で、兄妹もない為に、あぐりは美代子を母のような愛情で包むのだった。しかし、美代子は卒業に当たって、頭が悪い為に女学校への入学を断られてしまう。教師になる準備中だったあぐりは、女学校の校長に美代子を入れてくれと直訴するが、願いは冷たく退けられて――。
 本作は少女小説だが、内容は教育制度への訴えとなっている。
ミシンによりて 1942/4/1 『乙女の径』偕成社
 父が7人の子供を残して戦死して、母は女教師になろうと学校へ通い始める。長女の若子は女学校を退学して弟妹の面倒を見たが、ある日母が若子の希望する洋裁学校へ入学できると話を持ってきてくれた。
遠い国の近い話 1942/5/25 少年文学選
 父は若い頃、フランスの田舎の城で一夏過ごした経験を娘たちに語り聴かせる。そこには戦争で未亡人となったルネ夫人の子どもアンリとマドレヌとの想い出が――。
 本作は、作者には珍しい少年向け作品のひとつであるが、亀の卵という小道具を使って、生命について、戦争について、実にやさしく子どもたちに語り聴かせているような作品である。敵国を鬼畜と教え込むような時代に、フランス人も日本人も同じなのだよと、国ではなく人間を尊重した視点を見せてくれる作者の意図を、これを読んだ子どもたちは受け取っただろうか。
春の記録 1942/7 文芸 1942/8/1 『春の記録』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 山辺の元へ、息子のように可愛がっていた教え子の戦死の報が届いた。その時娘は――。『高原』の連作。
 光輝く若い魂が泡のように消えてしまう。戦争とは何か。若い希望や夢は、どこに行ってしまうのか。その叫びも銃弾と砲撃の爆音の中にかき消される終戦3年前の作品。
旅のあと 1942/8 オール読物 1942/8/1 『春の記録』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 山辺が人生でただ一度媒酌をした教え子夫婦のその後を描く。若い妻が戦争で夫を戦地に送ったことによって、夫に見合った自分に変わろうとする。この『高原』の連作シリーズでは、どの作品でも娘つゆ子が印象的な役割を果たしている。
夕顔 1942/8/1 『春の記録』全国書房
 女教師の野春は、卒業した転校生の初山に駅でばったり会ったことをきっかけに、その生徒との想い出を手紙に書こうと思い立つ。
 当時、年頃の娘たちがいた作者はこの頃多くの少女小説を書いているが、これは教師の側から見た少女小説とも言えるだろうか。
写真 1942/8/1 『春の記録』全国書房 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 子持ちの男と結婚した元女教師が、昔の同僚との再会で自分の生活を顧みる。タイトルである写真が実に効果的な使われ方をしている。
歴史物語 1942/10 改造 1974/9/15 『芹沢光治良作品集』新潮社 『芹沢光治良文学館9』新潮社
 主人公と同姓の若い画家が、高貴な血筋からしか良い芸術は生まれないと言って、画業も放り出して自分の先祖を調べ始める。妻はそんな夫の再起を辛抱強く待つが――。
 戦時中、天皇を神のように庶民に押しつける軍にあてつけて書いた著者唯一の風刺小説。結局軍の目には止まらず、1字の伏せ字もなく出版された。風刺小説と言っても、ちゃんとした作者の文学になっており、軍が気づかないのも当然だろう。
作家の秘密 1942/12/30 『文学と人生』全国書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 昭和15年の明治大学での講演。
 2年前に来日したデコブラが、作家は36種しかないテーマのどれかを選んで、それをどう味付けするかに工夫を凝らすだけだと言った話を持ち出して、日本の作家はそういった大衆小説ではなく、純文学を書いていると反論し、味付けに凝るのではなく、自らを高めるような努力で作品を書くのだと言っている。
何故小説を書くか 1942/12/30 『文学と人生』全国書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 東京での第1回銃後講演会。
 創作の中の主人公が、作者の精神の高さを超えないため、作家は日々自らの行いを磨いて、創作にかからねばならない。小説を書くとは、友を求めるように小説を求める読者に対して、こんな時代(戦時)に、いかに生きるべきか、いかに生活すべきかを表現することだと語っている。
現代日本文学 1942/12/30 『文学と人生』全国書房 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 昭和17年キリスト教女子青年会館での3日間にわたる講演。聞き手は、今風に言えばミッションスクール系の女子大生か卒業生といったところだろうが、果たして、その中の3%のひとが理解できただろうかという、作者には珍しく難しい内容を含んでいる。
 冒頭に「素材を提供して、皆さんにまとめてもらおう」と述べているとおり、作者の中にあった文学への理想、日本文学・世界文学の歴史と現在、自らの創作態度について、深く濃く話している。おそらく、時代の精神状態が、このテーマをまとめるのに適当でなかったのだろう。それだけに文学を考える人には、読み応えのある内容で、ぜひ一読をお勧めしたい。
離愁 1943/1 文学界 1945/12/15 『離愁』全国書房 『芹沢光治良文学館2』新潮社
 1943/6まで5回掲載後6~12章を書き足して単行本化。『孤絶』の続編。主人公はオートビルでいよいよ本格的な闘病に入る。ストイックな精神で驚くべき成果をあげて日本に帰れるまでになるが、郷愁を憂うまでに愛した欧州の地を去る日、最初に診断してくれたプザンソン博士に偶然出会う。その時主人公はどんな感慨で発病してから今日までの夢のような日々を思い返しただろう。
純情記 1943/1/6・13 婦人朝日 1943/8/20 『純情記』萬里閣
 1943/4/28まで連載。兄の親友を慕い文学を志す比呂子と従妹の茂子。二人は共に愛する人を戦地に送り出すが。
 この作品は、『みれん』『春のソナタ』と同じテーマを扱っているが、前者が戦没者の家族の悲しみ、後者が作家自身の悲しみを描いているのに対して、本作は残された女たちの悲しみを描いている。巻末の比呂子の憤怒の意味は重く深い。
十二月八日の日記 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 言わずと知れた太平洋戦争開戦、真珠湾攻撃の日の日記である。ラジオ放送を聞いた瞬間の芹沢夫妻の様子、学校から帰ってきた娘たちの様子、若い女中達の様子、街の様子など、在りし日がそのままに描かれている。
土地より他になし 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 フランスの作家ポール・モランがアジアの感想を「土地より他になし」と書いたことが、余程悲しかったのだろう。大東亜戦争を、アングロサクソン(英国文化)に搾取されたアジアの開放のためと位置づけているが、実際の作者は知人の政治家に「アメリカと戦争してはいけない」と強く説いていただけに、そう書くしかなかった作者の心理を慮るばかりである。
腕時計 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 「兵隊婆さん」と呼ばれた義母と出征兵達との交流を、その死後、手紙によって知った作者は、支那への旅でその一人に出会って――。
 芹沢氏の創作では、『写真』などタイトルが重要な役を演じる印象的な作品があるが、これもその一つ。腕時計のエピソードが義母の深い母性愛と共に涙を誘う。
円相場 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 「4、5年したら必ずお国へ参ります」そういって別れたフランスのひとたちが、戻ってこないかと事ある事に手紙をくれる。渡仏時とは円相場が逆転して不可能な作者の元に、シミアン博士、ガストンの友人ランス君などが訪れて、フランスへの郷愁を深くする。
男子の愛情 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 当時、日本男子の愛情が薄いことが世界的な常識になっていたが、欧米人にはわからない、相手を信ずるという愛し方もあるのだと述べている。
 今の時代の女性にこれを読ませたら、男の戯言よと一笑に付されることだろうが、フランスの小説に出てくる「男は神の栄光のために、女は男の栄光のために造られた」という言葉に抗して、女も神の栄光のために造られたと言えるようすることが男の愛情であろうと締める辺りが、作者らしい。
徳田秋声氏訪問 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 会いたかった大家3人、徳田秋声、正宗白鳥、島崎藤村のうち、仕事で秋声に会うことになり、その訪問記だが、父のような年令の秋声に「漸く小説がわかりかけてきた」と言われて、その意味を考えている。
 本人に読まれることを意識したのだろうが、作者がここまで敬愛の表現を使うのは珍しい。
人物と名前と創作 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 小説の人物に名前を付けるのに、親が子供に名前を付けるような苦労をして付けていることを告白している。
官庁の文章 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 農商務省時代の同僚に、写真帳の校正を頼まれて引き受ける。その文章はいわゆる官庁の文章で、わかりにくいものであるから、それを平易に直すのだが、序でのように官庁の在り方にもひとこと言っている。
巴里便り 1943/4/30 同文社 1943/4/30 『文芸手帖』同文社 『芹沢光治良文学館11』新潮社
 留学中に友人に書いた手紙で、フランスでの生活がそのままリアルに描かれている。佐伯祐三や三木清、大学の仲間たちや下宿の人々、ジャック・ルクリュなどとの友好が窺える。
懺悔紀 1943/6/6 天理時報 1946/9/20 『懺悔紀』養徳社 『芹沢光治良文学館4』新潮社
 1944/5/28まで連載。太平洋戦争末期、作者は病気を理由に従軍を拒否したが、その為に作品を発表することができなくなった。この時期作者はキリスト教や仏教を読み漁って真理を求めたが、書きたいという欲求は治まらなかった。そうして書き始めたのが本作である。
 作者と同様に天理教の土壌で育った男が、同胞のような作者に自分の生涯を懺悔する。舞台となる河南村の山の斜面に蜜柑畑が広がる景色が印象的。この作品は両親に献辞されているように、その生涯を信仰のみに捧げた両親に向けた作者の懺悔でもある。
乙女の誓※ 1943/12/11 偕成社 1943/12/11 『乙女の誓』偕成社
不律 1944/夏 1946/12/20 『愛情』文化書院
 小説家持岡の弟茂の同級生間島は、茂を介して持岡を知る。その生き方に共感し、心酔するが、持岡の自伝を読み、持岡が愛した女性は自分の母ではなかったかと疑う。
 この作品のタイトルは「ふりつ」ではなく「フリッツ」と読む。ドイツで生まれた間島の名前である。自伝とは『男の生涯』に当たるが、不律の母は「M子」ということになろう。この作品は物語であるから、事実を当てはめる訳にはいかないが、愛した人に息子を置き、その二人を主人公に書くきっかけが何だったのか、とても気になる所である。

タイトルバックが金・銀のものは当館推薦作品です。ぜひ一度お読みになってみてください。
初出順ですが、初出が不明なものは初刊本の日付を参考にしています。
各空欄はデータ不明です。タイトルの後に※のついたものは資料無しです。作品をお持ちの方からの貸出・提供をお待ちしています。
初出の『 』内は初出時のタイトルです。(タイトルと違う場合のみ)

▲ページTOPに戻る