初めは3度目の渡欧での体験を元にした作品が並んでいますが、後はほとんど大作『人間の運命』のために費やされています。日本ペンクラブ会長就任、芸術院賞受賞など作品だけでなくプライベートにも大きな変動がありました。(掲載作品数:77)

タイトル 初出日 初 出 初刊日 初 刊 本 入手可能本
備 考 / 書 評
落葉の声 1960/1 オール読物 1973/2/10 『忘れがたき日々に』新潮社 『芹沢光治良文学館10』新潮社
 戦後2度目に渡仏した際の感慨を元に書かれた作品。戦後10年以上経てもなお人々の心に戦争が尾を引く欧州で、新しく生まれ変わって生きようとする未亡人を書いた。
フランスの友へ 1960/2? 朝日新聞 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 日仏会館の開館式にアンドレ・マルローが文科相として来日した際、その直前にフランスがサハラで核実験を行ったことに抗議する文書を書いた。この際に、作者はフランスから勲章を贈られる予定であったが、この文章を書いたために撤回されたようだ。
 この文章と共にイブ・ガンドンの返事が掲載されているが、その平和を愛する声明は力強い。
結婚のあとさき 1960/3/1 週間朝日・別冊
 一人娘の陽子が前触れもなく恋人を家に連れてきた。父吾一は落ち着いて迎えたが、母とみ子は養子でなければとうろたえて、陽子にくってかかる。
 陽子の相手健次は化学者で、新時代を象徴するような合理的人物に描かれ、陽子は古いものから新しいものへと移り変わる過渡期にいる女として描かれている。先進的な父と古典的な母と陽子が織りなす家族模様は、現代の家族形態への布石であるようにも読めて愉しい。
シャンゼリゼの賓客 1960/5/1 群像
 フランスで旧友のアンリの妹ジャンヌに会った作者は戦後の兄妹の不幸を知る。同じ学友のアンドレは二人と絶交していたが、レオの借金の件で世話になって――。
 本作は『告別』の元になっているエッセイだと思っていいのではないだろうか。『落葉の声』と共に読み比べるとより内容が分かるかもしれない。
姦通のあとさき※ 1960/6 小説新潮
苦悶の仏陀 1960/6/28 別冊・文藝春秋
 婚家から戻った安子は、父が写生旅行に出て三週間も戻らないことを知り、疑問を抱く。その数日後、父は別荘で死体で見つかり、そこには女の影が――。
 夫のこころを覗かない妻、それを不満に思う娘。この構図は芹沢作品にはよく見受けられる。古い女性と新しい女性の象徴、或いは本能的な女性と叡智ある女性の象徴でもあり、読み手にどちらの女性に共感するのかを尋ねているのであろう。ここでの父親は表題にもなっている小道具だが、人間的な苦悩の末に死を選ぶ様は、ある意味『人間の運命』の田部氏の死へと続いているのかもしれない。
告別 1960/12 中央公論社 1960/12 『告別』中央公論社
 この主人公は作者には珍しく金銭問題で悩んだ末に、あれほど愛したパリと告別する。金の貸し借りは友達を無くすと昔から言うが、貸すのではなくあげたものと思わなければ金銭の貸し借りはやめた方がいい。相手が親しければ親しいほど。
 この作品は、この年の初めに書かれた『落葉の声』と内容的に重なるところが多い。そのせいか読み終わったときにシモンヌやジャンに愛着を持っているので、あとがきの登場人物たちのその後の消息は胸に温かいものを通わせてくれる。
きいろい地球 1961/6 角川書店
 父の転勤を期に3人の兄妹がフランスを訪れる。そこに父の弟の息子という未知の青年が加わって、この世の天国のようなスイスへの旅に出る。
 この作品は、地球の美が作者の胸に起こした波紋をそのまま文字にしたような作品である。タイトルにもなっているアフリカの砂漠とその砂漠を緑のオアシスに変えようと努力するイスラエルの人々、それとは対照的に天国のような自然に囲まれたスイスの穏やかな生活、作者はその二つの世界に幸福の意味を探している。
海ぞいの道 1961/6/30 秋元書房 1961/6/30 秋元書房
 優秀な水泳部員の進太は将来オリンピックを嘱望されていたが、水泳にすべてを打ち込む青春に疑問を抱く――
 戦死した知人の高校生の息子に捧げられたものであるが、勉強と運動の狭間で揺れる主人公の姿は現代にはなくとも、進太と同じように自分の将来について悩む高校生はいるだろう。そんな若い人たちにも読んでもらいたい作品。
フランスの川魚 1961/7/1 あじくりげ
 食の雑誌に載せたエッセイ。
 音楽を学ぶ二人の娘と、ロアール河畔で夏休みを過ごした際の魚料理について。フランス人は川魚が好きではないようだという話。
愛と知と悲しみと 1961/11/20 新潮社 1961/11/20 『愛と知と悲しみと』新潮社 『芹沢光治良文学館3』新潮社
 中国の作家巴金氏に捧げられた作品。作者が初めての渡仏時に知り合った経済学者ジャック・ルクリュの家には若い中国人が多く集まった。ジャックはその後中国へと渡り、新中国の建設に尽力する。そのジャックを通して、中国と作者との関係を描いた。しかし、この作品の主人公はジャックよりもその妻であるコルネリッサン夫人に想いを寄せていたようだ。
わが小説※ 1962/7
ソ連を旅して 1962/8? 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 訪ソして、まずソチの温泉病院の吸入で喘息が治り、その後の旅行を楽しめた。モスクワ大学のリボーバア女史、通訳のミッシャと裁判所や精神病院を訪問し、ロシアの信仰が協会にはなくて、人間信仰であることに驚く。人々の幸せな様子を見たが、帰国して椿姫に嗚咽した民衆が気に掛かった。
人間の運命-父と子- 1962/7/30 新潮社 1962/7/30 『人間の運命第1部第1巻-父と子-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 本作の構想は1953年に遡る。パリの出版社から明治、大正、昭和と3代にわたる時代の記録のような大河小説を求められ、一時は明治天皇を主人公にという話も出たが、最終的には自分が育った故郷を舞台にして自分とよく似た境遇の男の半生を書くことにした。当時、作者に癌の疑いがかかったことが、全ての原稿を断り、ジャーナリズムの上で死んでまで、この書き下ろし大河小説に踏み切らせる原因となった。
 沼津の漁村で網元の家に生まれた主人公森次郎は、やがて父が全ての財産を捧げて信仰に身を投じたことから、貧困と信仰という二つの激流の中にのみ込まれていく。本作の書き出しは自然の美というテーマから始まるが、次には貧富の差、人種問題、天皇、信仰とまさに当時の日本の世相を扱いながら進んでいく。読み込む毎に行間ににじむ問いかけに感銘を深める必読の大河小説である。
 なお、この『人間の運命』という大伽藍には附属建築が付いている。『海に鳴る碑』『遠ざかった明日』である。どちらも本作の執筆中に創作を思い立って書かれた。
人間の運命-友情- 1963/2/15 新潮社 1963/2/15 『人間の運命第1部第2巻-友情-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 兄の一郎、幼なじみで地主の息子である石田、貧しい漁村を革命しようと希望して嵐の海に散った兄の遺志を継ぐ節三、吉原を足抜けして故郷に戻ってきたおさく、一高で友となったキリスト者の大塚、それに学費を援助してくれた内藤らと交わりながら、次郎の高校生活が始まる。貧困とは、信仰とは――前巻で提起された問題を受け継ぎながら、時代は新しいうねりへと次郎を押し流していく。
 この巻のタイトルは「友情」であるが、生活にしろ信仰にしろ、それぞれが裸になって疑問や希望をうちあけ、励まし合う姿は、現代の若い世代の目にはどのように映るのだろう。僕はそんな青年時代に恵まれなかったが、時代は変わり、環境は変わっても、友情と呼べるような関係が今なお残っていることを願う。
人間の運命-愛- 1963/7/20 新潮社 1963/7/20 『人間の運命第1部第3巻-愛-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 東大生になった次郎はふとしたきっかけからある女性と知り合い、文通を始める。この巻では、その初恋の女性加寿子と、次郎にとって本当の意味での父親となる田部を中心に物語が展開するが、中心となるテーマはやはり貧困と富の問題である。
 この巻の中程で、次郎が貸費生となり、経済的困窮から脱したにもかかわらず心が晴れないために、その原因を自己の心の内に問いかけていく場面がある。次郎は好んでこうした問いかけを行うが、実際、苦しみというものは正しくその原因を探ってつきとめることができれば、苦しみから解放されることが多い。悩み事で他人に相談するのも、人の口を借りて自分の心に悩みや苦しみの原因を探すに過ぎない。この真理を知れば、人はやがて苦しみのない生き方も可能なのだが。
人間の運命-出発- 1963/11/30 新潮社 1963/11/30 『人間の運命第1部第4巻-出発-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 次郎は帝大を卒業し、貧しい人々の力になるべく農商務省に就職する。その頃日本では革命の嵐が吹き始め、社会主義は極悪のように扱われたが、次郎にもその余波が降りかかる。愛する加寿子は自分たちに降りかかったその嵐を逃れるように欧州へと留学するが、それによって2人の愛は新たな転機を迎えた。そして関東大震災が東京を襲う――。
 次郎の就職先は幾らもあった。しかし、中でも地味な農商務省という職場を選んだのは、貧困という次郎の育った環境が大きく影響している。しかし、それは次郎にとっての天職ではなく、結局ただの腰掛けとなってしまう。この事から考えるのは、人は好きなことを仕事に選ぶべきではないだろうかという問題だ。どんな理由があれ、好きでもない仕事についても、うまくいかないか、天職である仕事に引き戻されるのではなかろうか。それならば最初から好きな仕事を選ぶことが、大自然に忠実な生き方だと思うのだが、どうだろう。
人間の運命-失われた人- 1964/5/30 新潮社 1964/5/30 『人間の運命第1部第5巻-失われた人-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 関東大震災は東京のほとんどを焼け野原にしたが、田部も会社を失い、次郎の欧州行きが困難になった。それが加寿子との愛を終わらせるきっかけになる。加寿子を忘れようと仕事に没頭する次郎は、その生真面目な性格がことごとく権力と衝突して、秋田へ飛ばされてしまう。
 人は生きているうちに運命というものがあると感じることがある。次郎の運命は加寿子と結ばれないさだめだっただろうか。天が用意した二つの扉の前で次郎と加寿子がその扉を開かなかっただけではないかと思えるのだが。人はいつでも二つの扉を用意されていて、その扉を選んでいくことこそ人生だと何気なく考えているのだけれど、そのどちらをとっても幸せになれるというような強い意志こそ必要なのだろう。
人間の運命-結婚- 1964/9/30 新潮社 1964/9/30 『人間の運命第1部第6巻-結婚-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 人間の運命といって、次郎の結婚ほどおかしな運命もないだろう。好き合った者同士が遠ざけられ、誰が無理強いするでもなく自らも望まない結婚が決まってしまうのだから。
 この巻は第1部の最終巻であり、その最終章で次郎は仏へと旅立つのだが、作者の心も第2部へと旅だってしまったのが、そのとりとめのない文章でよくわかる。寿命を全うする前に第1部を書き上げ、しかも危ぶんでいた第2部も出してくれるという出版社からの申し出も受け、感慨も大きかったのだろう。本巻のあとがきでは、第2部では文体も冒険をして1巻毎に読み切り小説のような挑戦をすると意気込んでいる。
人間の運命-孤独の道- 1965/6/25 新潮社 1965/6/25 『人間の運命第2部第1巻-孤独の道-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 この巻から第2部に入るが、第1部の終わりから4年の月日が流れて次郎が帰朝してからの生活を描いている。3時代にまたがった日本を書くという当初の計画であるからフランスでの生活を描かなかったのだろうが、第1部の最終章を考えても、この大河小説にはフランスが無い方が合っているようだ。
 帰国した次郎は仏と較べて日本の住み難さに閉口する。最初に落ち着いた名古屋の有田邸は、次郎が将来を真面目に考える時間も与えてはくれず、東京の田部邸へと逃げ出すが、そんな試行錯誤の中で雑誌懸賞に出した小説が一等に当選して、悩まずして小説家への道が開かれる。次郎が有田氏に「自分を誇りにするようになってもらうため」に小説家になると言っていることから、その時すでに確固たる意思をもっているのがわかるが、読者は次郎が有田氏の手伝いや中央大学の講師といった安定の道を捨てて小説家になる決意をした理由を、書かれていない欧州生活に推察しなければならない。
 次郎が落合の借家に移って近所の一郎宅を訪れる場面があるが、20坪足らずの平屋を見て、これで人間らしい生活ができるかと疑う。次郎の家は有田氏によって200坪の敷地に建てられようとしていたのだから。激貧の幼年期、華やかな渡欧生活、死病と畏れられた結核闘病、何不自由のない豪邸暮らし――そのどれもがただ一人の男の運命であるかと思うと呆れるが、それがすべて今後の次郎の作品の肥やしになっていくのだから。
人間の運命-嵐のまえ- 1965/11/30 新潮社 1965/11/30 『人間の運命第2部第2巻-嵐のまえ-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 有田氏が第2回の普選に立候補し当選する。その有田氏の話で次郎は腐敗した日本の政治の裏側を知るが、次郎の友人や弟たちはその堕落した政治に嫌気をさして共産主義運動へと走り、軍の若い将校達はファシズムの大河へと奔流されていく。また、帝大生のグループが魂の存在を実証するために、仲間の一人を自殺へと追いやる。
 この巻は「嵐の前」というタイトルだが、嵐とはファシズムだけにとどまらないだろう。若者は命をかけて地下運動に走り、同じような思想で自殺を図る。社会の動揺が本来は尊い生命の価値を軽く扱わせるのだろうが、現代にも同じことが起こっていないだろうか。現代人は生命の大切さをもっと認識するべきではないだろうか。
野の花 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 故郷の沼津で、記念祝典の際に市歌を募集した。作者は選者となって2作を選んだが、祝典に現れた2等の岡島はるは、驚いたことに小学校の同級生で――。
 一人の貧しい娘が勤勉に努力したために幸福な晩年を送れた話だが、作者と同郷だったために、光で結ばれる縁となったのだろうか。
フランス人の生活の知恵 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 一高2年(21歳)の正月から、作者は正月を実家で迎えていない。伊豆で1回、名古屋で3回、軽井沢で1回、ヨーロッパで5回、あとは東京である。ヨーロッパでは三ヶ日にチョコレートを持って目上の人を訪ねる習慣があって、老人たちは毎年苦心して違う話を聞かせる。
 フランス人がこうして語り部のように伝統を伝える習慣を、日本でも見習ってみないかと語りかけている。これこそ教育でないかと思うのだが。
自己を表現すること 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 化粧で自己を表現する女性が、もっと大事な自己表現――言葉――を磨いていないことに苦言を呈している。フランスでは学校教育の中に会話・作文の時間があるが、日本には無いから、日記を付けるのも一つの方法ではないかと提案している。
母と娘の幸福のために 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 卒業する女子学生に講演した際、就職する者は生涯の仕事と思って精進すること、進学する者は男子に負けないくらい勉学に励むことを話して感謝されたが、そのくらいのことが家庭や学校で教えられていないことに驚く。母親は娘を大人として扱い、もっと会話することで、娘の成長のためにも、自分の若返りにもなると教えている。
一日を生涯として生きる 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 煙草で肺癌になると発表されて、癌を恐れるひとが多いため、作者は自分の闘病生活を披露して、一日を生涯として充実して生きることで、死への怖れは克服できると説いている。
故郷について 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 フランスの友人は親しくなると必ず故郷に案内する。それは友情を示すというより、故郷を誇りたいからのようだ。フランスの友が日本を訪れた際、自分の故郷に案内して、その理由を聞いてみると、愛国心の現れだと言った。故郷を誇ることは国を愛することであり、自然を守ることであると。作者は自分の故郷の自然が壊されていることを嘆く。
相互理解について 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 フランスで日本が放送されることになって、パリにいる娘が、知人たちから「日本は文明国じゃないか」と声を掛けられる。それほど日本は未開国だと思われていたのだ。テレビ放送の発達によって、世界が隣人のようになり、相互理解が深まることで、平和が生まれるだろうと期待を込めている。
死の音 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 誕生日を間近に控えたある日、1年間治まっていた喘息の発作が起こった。意識を取り戻したとき、パリにいる4女を思って、死ななくてよかったと娘との関係を振り返る。
 蘇生したとき、外の景色が美しかったという表現は、私にもあるが、経験した者にしかわからないだろう。
ほんとうのしつけ 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 中学生の討論番組を見ていて、民主主義教育が根を下ろし、若者が自由に考え、発言できるのに感心したが、番組の前の態度を注意されると、弁解するばかりで謝る者のない姿に、ヨーロッパの厳しいしつけを思い出す。
 現代は当時の比ではない。すでにしつけというもの自体がないようだ。可哀想なのは、しつけられていない子供たち自身かも知れない。
オリンピック騒ぎ 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 帰国した友人がオリンピックの馬鹿騒ぎについて批判するので、オリンピックを戦争と考えればいいと作者は提案する。その為に、争闘欲求を満足して、平和が維持されるならありがたいことだと。
 東京オリンピックでは、道路が舗装され、トイレが水洗になりと、庶民文化の進歩が著しかったようだから、マイナス面よりプラス面が大きかっただろう。現代に当てはめれば、灰色のゴミ溜めのような都会の住宅事情が解消されて、自然を取り戻すような大きな変革が起こってくれないだろうかと願うところだが。
秋を待ちのぞんで 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 作家という特殊な職業であるために、夏を高原で2ヶ月も避暑できる身分と、自分の周りで奥さんや子供だけが秘書に来て、都会に一人残って働いている夫を見比べて、夫を大切にするよう家族に呼びかけているが、毒にも薬にもならない話だと自嘲している。
一足の靴の話 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 大正14年、渡欧する際に作った赤靴を昭和26年まで履いて、パリの下宿で捨てた。帰国して3月目に下宿のマダムに依頼してあった書物が届いたが、そこに赤靴が入っていた。手紙には「東方のソクラテスに物を粗末にするなと教訓を垂れる」とあった。その後10年、その靴は現役で頑張って――。
 文末に、この話から何を考えても自由だとあるが、懸命な読者は、良い仕事をする大切さ、物を大事にするこころを読み取るだろう。
真実の宝をのこす 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 作者が初めて原稿を読まされたA(阿部光子)が30年かかって、やっと真実の宝となるような作品『おそい目覚めながらも』を新潮に発表して、喜びの声を寄せている。
人生における人との出会い 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 農商務省に勤めていた頃の給仕に、息子の結婚式の祝辞を頼まれる。その給仕は、勤労学生だったが、進学について相談されて、派閥のない司法の道に進むことを勧め、雇員に採用されるように便宜を図った。戦後、三宿で侘びしい暮らしをしていた時に、救援物資を持って自動車で乗り付けて、頭を伏せて感謝したが、実業界で成功していた。
 作者自身が書いているとおり、若い人に目を掛けた作者よりも、当人たちの感謝と努力の成果だと知るべきだろう。その心根を自分のものとしたいものである。
フランス人Lさんの秘話 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 7、8年前にフランスのブルジョアが読者であると訪ねてきた。フランスと日本では作家と読者の関係が違う。フランスでは、尊敬する作家にはとことんまで接して、真心を開き、学ぼうとする。Lさんも来日する度に作者を訪れ、親交を深めたが、連れて行ったバーのホステスに恋して、失恋してしまう。
 最後にこの随筆を書いた理由は読者の判断に――とあるから推察すれば、外国人を手玉に取るようなホステスの誠のなさが悲しかったのだと思うが、いかがだろうか。
三十数年間大切にしたハンカチ 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 フィガロの記事を読んだ昔の知人が5人連絡をくれたが、そのうちの一人ベラン夫人は、フランス語の先生だったマッセ夫人の姪のジュヌビエーブだった。ベラン夫人は30年前に妻から貰ったという絹のハンカチとマッセ夫人から受け継いだ写真を大切に保管していた。フランスにいる頃、フランス人はケチだと言って、よく怒られたが、彼らは物を大切にするから文化が栄えるのだと反論した。
友達をつくつよろこび 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 フランクフルトのペン大会の際、レストランで相席したジャック・フェブリエというフランス人と友人となり、その後、4女が親戚関係を結ぶほどの仲になった。
 年を取って友人を作るという幸運はなかなか恵まれないから、こころの努力を怠らないようにしたいという辺りが作者らしい。
おいぼれ剃刀 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 洋行する際、石丸氏が高価な銀製の剃刀を送ってくれた。それを現在まで大事に使っているが、それには祖父が「どんな物にもいのちがあるから粗末にするな」としつけた影響が残っているらしい。フランスの友人と浅草に行った際、観相家に見てもらったが「物を大事にしてきたから長寿だ」と言われる。友人はそれを東洋の智慧だと感心したが、剃刀が一番大切な人の思い出だから、そう言われるのはたのしいことだと結んでいる。
素直に賞を喜ぶ心 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 林芙美子が「文学賞をもらいたいが、自分にはくれないだろうから、自分で賞を作って、第1回目を林芙美子にしたら」と面白い話をしたことから始まって、原稿を見ているA(阿部光子)が田村俊子賞をもらったことを喜んでいる。
書簡集と花嫁 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 友人Mの娘Y子が結婚することになり、夫人から本当の仲人は先生だと囁かれる。Y子はアメリカに留学時、家族に手紙を送り続けたが、それを書簡集として自費出版する際、作者は原稿を見たのだった。
ある人の死に 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 故郷の偉人、駿河銀行の創始者である岡野喜太郎の惜しむ随筆。喜太郎は幼い頃、友達の下駄の鼻緒が切れると、いつもひもを用意していてすげてやった。大人になって貧しい村に貯蓄組合を作ったが、村の人々の鼻緒をすげることだった。
 作者は岡野喜太郎伝も書いている。
ゆううつな朝夕 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 この年の4月から6月に悲しい事件があって、心労したが、ミケランジェロが10年かかって法王庁の壁画を造ったことを思い出して耐えた。前年春には、それまで苦しんだ喘息から解放されたが、その時死んだと思うことにしたが、まだ悲しみで憤る自分を反省した。そうやって落ちついてきたところに、古い友人が原稿を読んでくれと500枚の原稿を机上に置いて――。
 「しんどい」と締める作者に、ごくろうさまですと苦笑するばかりだ。
生きた石ころや盆栽のたのしみ 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 作者の友人には旅先で石を拾ってきて大事にしたり、盆栽を楽しんだりする者があるが、作者には生きた盆栽がある。それは毎月送られてくる短歌雑誌の歌人で、もう20年近く、その読者として婦人を見守っている。
「母の語る歌」とはこんなものなのか 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 幼年時代、祖母が語り女のように話してくれた先祖の話で、作者は困難の中でも諦めずに中学へ進学できた。母の無かった作者は、この祖母の話こそ「母の語る歌」だったろうと結んでいる。
或る投書の教えたもの 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 作者が10年前に書いた「女性は結婚前に何か一つ専門にして、その道で幸福になる努力をすべきだ」という随筆に励まされた女性が、礼状を送ってきた。また、NHKの番組で代用教員時代の教え子に、先生の言葉で日本一の八百屋になろうとしたとお礼を言われ、自分の知らない間に、自分の文章・言葉が善と悪の種子を蒔いているのを感じて、言葉を慎まなければという思いを深くする。
 言葉は本当に大事だ。だが現代では、ブログなどと言って、面と向かっては言えないことまで文字にして表現しようとする時代だ。この時代の流れをどうしたらこころある方向へ向けられるか――今の文学者、教育者の務めであるように思うのだが。
オルレアンの白い水車 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 1962年9月18日、作者は3女と大使館を訪ねたが、そこで朝日の記者にアンリが会いたがっていると教えられる。アンリはベレソールの妹マルセル夫人の息子で作者のフランス語の先生だった。二人は再会して、家族に会ってくれと自宅に招かれる。
 芹沢文学に親しんだ者は、郷愁を誘うような作品ではないだろうか。あのアンリが3人の子の父親になって――。
遠来の客 主婦と生活 1966/1/10 『こころの窓』新潮社
 フランス人ビリアールが来日する際、奥さんに頼まれたと作者に会いに来る。氏は飛行機の中で奥さんに持たされた2冊の著書を読んで感動したと、作者に会えたことを喜んだ。同じ日にペイザン嬢から飛行便を受け取ったが、彼女も読者で、一昨年パリで自宅に招かれて楽しい時を過ごした仲だった。彼女は小説家志望であったが、美人でも金持ちでもないため文壇にデビューできなかったが、最近になってゴングール賞の候補に選ばれた。ビリアールにその話をすると、ではフランスで祝いましょうということになって――。
 遠いフランスの地で読者の輪が広がって、作家としての歓びだったろう。
人間の運命-愛と死- 1966/5/30 新潮社 1966/5/30 『人間の運命第2部第3巻-愛と死-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 石田の家では孝三ばかりでなく妹の末子までが思想犯として検挙される。次郎の弟の五郎も学生時代にガリ版刷りに関わったとして拘留されるが、そんな若い世代が信仰のような想いで、命をかけて差別と貧困のない共産主義世界を創りだそうとする姿を通して、次郎は歪んでいく社会への危惧を深めていく。
 末子は共産主義を神だとする恋人への愛に殉じて、キリシタン弾圧の踏絵を拒んだ信徒のように死んでいくが、その愛する姿が美しいだけに、その死を惜しむ気持ちが強くなる。その愛をもう一段飛躍させたならば、もっと命を大事にしただろうにと。
人間の運命-夫婦の絆- 1966/10/30 新潮社 1966/10/30 『人間の運命第2部第4巻-夫婦の絆-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 田部氏がスイスの荘厳な雪山に抱かれて亡くなり、実父と共に信仰に生涯を捧げたと信じていた実母は「神さんはありますか」と驚くべきことを次郎に問いかけて、本当の信仰というものを掴んで天に帰り、兵隊婆さんと呼ばれて善の限りを尽くして生きた義母もひっそりとこの世を去った。
 この3組の夫婦には次郎が夫婦だと感ずる絆が見えなかった(唯一実父には実母に対する細やかな愛情が感じられるのだが)から、夫婦の絆というタイトルなのだろうが、それよりも田部氏の自己を見つめる行動、実母の信仰告白、義母の仏のような生き様が鮮烈で、人の生とは何かを考えさせずにおかない。次郎もその衝撃を受けたようで、その後の作品に変化が現れているが、中でも『孤絶』にはそれが一番よく出ているだろう。
 また、この母の生涯に興味を抱いた人は『秘蹟』を読むといい。この作品は作者が実母を失う前後の感慨がそのまま現れている。
 作品中、妻がパセドー氏病にかかり、2代目親様に治してもらう場面があるが、次郎は自分が多年努力しても変えることができなかった妻の悪癖を、親様の一言で取り除かれたことについて妻に不満を持つが、逆に信仰が何故そんなに簡単に人の心を変えることができるのかという観点で見るとおもしろいのではないだろうか。
人生について・結婚について 1967/5/25 『人生について・結婚について』新潮社
 『若い人々へ』『結婚について』『幸福について』『私の青春時代』の4章から成る。
 1章では、若者の進学、就職、母の問題を扱っているが、ここで問題とされている若者が目的意識もなく大学に進学する状態は今でも変わらない。若いうちに何かひとつ生涯の仕事として見つけることこそ、学生時代になすことではないだろうか。2章は『幸福への招待』の結婚新書と同一。3章も旧い文章で、戦後初めて渡欧した際の見聞を柱に幸せについて考えている。4章では、作者の生い立ちから現在までを簡単に振り返っている。
人間の運命-戦野にたつ- 1967/7/10 新潮社 1967/7/10 『人間の運命第2部第5巻-戦野にたつ-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 次郎は義母との約束を果たすため、また仏に住む大塚の疑問に答えるために支那へと旅立つ。そこでは、内地での報道とは全く違った現実が展開されていた。
 この巻では、ただ事実を描写するのではなく、常識とは角度を異にした視点から物事を表現し、その奥に潜むものを推し量らせるという作者のスタイルが一番明らかに感じられる。戦争をこのように描ける技術と精神が素晴らしい。
人間の運命-暗い日々- 1967/11/30 新潮社 1967/11/30 『人間の運命第2部第6巻-暗い日々-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 次郎はA新聞の朝刊小説を時局に沿わないからと断られる。それは後に『巴里に死す』というタイトルで世界に出る名作なのだが。次郎たち作家が仕事の場を奪われるようになった頃には、若者たちが哲学に信仰に神を求め、人生の意味を知ろうと焦りながら、次郎に「自分たちに代わって文化の灯を守ってください」と言い残して戦地へと送られていく。中国では紅卍字会という宗教団体ができて、神の啓示の中に戦争の暴風をやり過ごしているが、次郎は信州の田舎で有名なキリスト教者の婦人が、教会から追放になってまでして女霊媒を招いて、戦死者の声を遺族に伝えているのに立ち会った。戦死者もまた戦争の悪を説いたが。そんな間にも、次代を担う尊いいのちは南洋の海に次々に消えていった――
 隣の仲間である中国に敵の無いような戦争を仕掛けて、「神国無敗」だと増長した日本がそのまま勝ち続けたらどんな傲慢な心になったかと思うと、戦争に負けて良かったと、戦争を知らない今の世代の多くはそう感じるのではないだろうか。日本人はもう二度と戦争などという愚かな過ちを繰り返さないだろうが、今もまだ世界から戦争は消えてはいない。
ノーベル賞候補者夫人 1968? 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 スウェーデンのアカデミーからノーベル文学賞を推薦する任を受け、ボーチェ夫人を思い出す。スイスで療養していた頃、ボーチェ氏は大学サナトリウムを造って話題になっていた。その後51年に渡欧した際、ノーベル賞の候補に推薦されるまでになっていたが、再会して、夫人がトルコ・コーヒーを入れてくれた。また時が流れて、東京でペン大会が開催されたが、結核に特効薬が発見されて、スイスではボーチェ博士も運動を捨てたと聞いた。次のフランクフルトの大会で、クラランに隠棲しているボーチェ博士に再会したが、人類が結核から解放されてノーベル賞を貰うよりも嬉しいと話した。その時も夫人がコーヒーを入れてくれた。その後、訪ソの際、また会おうとしたが、息子のジャックが事故で会えないで、博士はその心労か翌年亡くなった。博士の仕事を夫人が引き継いだが、その便りもなくなって――。
人間の運命-夜明け- 1968/6/30 新潮社 1968/6/30 『人間の運命第3部第1巻-夜明け-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 戦火の渦はついに東京の空にも舞い、次郎の家でもまず節子と2人の娘が沓掛に疎開し、市民と共に最後まで苦しみを分かつつもりだった次郎もB29の激しい爆撃にあおられて疎開する。間もなく5月の大空襲で東京の家も被災したが、その頃には誰もが家を失い、却って清々したと言うほど戦争に苦しんでいた。疎開地では食物もなく、山羊が食べる雑草を食べたが、8月になると親様の予言したように広島と長崎に原爆が落ちて、日本の無条件降伏で戦争は終わった。沓掛の別荘には早くも喜びと悲しみの便りが次郎の元に舞い込んだが。
 次郎はこの間創作が出来なかったが、戦争が終わると共に帰らぬ人となった学生との心の対話を『死者との対話』という作品に込めて創作を開始し、その後は「文化の灯を守る」かのように次々と創作していく。
人間の運命-再会- 1968/11/30 新潮社 1968/11/30 『人間の運命第3部第2巻-再会-』新潮社 『人間の運命-全3部14巻-』新潮社
 戦場から帰還した学生達が大学に戻り、次郎一家も敗戦後の東京に戻って、三宿の借家でアメリカの占領下の都会生活を始めた。人々は貧困の中で精神を荒廃させていたが、次郎はそれと闘うように創作にPTAの活動にと励んだ。そんな戦後の混乱の中で、実父が、井出クニが、石田が次々とその生涯を閉じ、兄貴と慕った黒井閣下は姿を消した。次郎は実父の遺言に従って天理教真柱中山正善の友人となり、教祖伝『教祖様』を書き始める。
 次郎が東京に戻る際の経緯を読むと、戦時中の描写よりも心が痛むのはなぜだろうか。この巻には他にPTAのインテリお母さんのように心ない人と心ある人の両方がはっきり登場する。混乱の中では人間性がそのどちらかにデフォルメされて浮かび上がるのだろう。
 当初は第3部も6巻までの予定であったが、作者は現実に生きたい欲求から2巻までで完結させてしまった。最終巻の足早にまとめた最終章を読めばそれがよくわかる。『人間の運命』は作者にとっては記憶の整理であり、現実に置いて行かれるような焦慮を感じたのもうなずけるが、読者としては6巻まで読みたかった。
 この作品の執筆には8年の歳月が費やされているが、この巻の最後で次郎が書き始める『教祖様』もやはり8年の歳月がかかっていることを思うと、『教祖様』がいかに労作であったかがわかる。どちらの作品を読んでも、読後の感想はご苦労様でしたの第一声である。
唖者に語るこころ 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 芹沢文学を少しでもかじったものならタイトルからわかるように『死者との対話』と同じテーマを扱っている。20年以上も、この小説を失念していたが、66年に文学全集を出版する編集者が、この作品の名前を挙げて、読んでみて初めて思い出した。そうして再びこの大切なテーマに触れた作者は、同じ随筆を個々に繰り返すこととなったのだろう。
記憶について 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 前章『唖者に語るこころ』を書いたきっかけを語り、ベルグソンに思いを馳せる。
 62年に訪ソ後、パリに滞在した際、偶然通りかかった47番地で「アンリ・ベルグソンここで没す」の銅板を見つける。アパートに上がると、何もかも30数年前のままで、あのジャーヌ嬢が老女になって、奇声を発していた。時の流れに打たれた作者は、ラバスールを訪ねたが留守で、一昨年ジャーヌ嬢も亡くなったとラバスールからの便りがあった。
風に鳴る碑 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 四女が帰国して、沼津に行きたいと言う。『故郷について』で沼津に案内した友人が、フランスで娘と家族付き合いをしていて、写真や映写を見せたが、故郷を訪れたことがないという娘に驚いて、帰国したらまず故郷を訪ねるように忠告したという。
偶然と恩寵 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 51年の渡欧の際、PTA会長をしていた関係で、小学校の図画と作文をララ物資のお礼にローマ法王に渡してくれと託される。パリからの帰途、ローマに寄った作者は、現地のクリスチャン金山に連れられて法王に個人謁見した。法王はなぜ帰依しないかと問うが、恩恵がないからと答えた。その後、59年の渡欧の際、二人の娘と散歩していて、ベルナデッドの僧院にぶつかる。僧院には日本人の尼がいて、僧院長と豊かなひとときを持った。
 タイトルの意義は深い。『必然と恩寵』という小論を書いてみました。
約束と偶然 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 6月下旬に故郷で講演を行う約束をしたが、直前に喘息の発作に襲われた。主催者は今更変更できないからと来ることを強要し、喘ぎながら会場へ向かった。めまいで倒れそうな中を「人生の偶然について」という演目で話し始めたが、身体が辛いと十字架のイエスを思って堪えている習慣で、イエスを思い出して、偶然のことからエルサレムを訪ねた日のことを話し出した。講演が終わると、死人のようになって家に帰ったが、それから数週間、死を思った時に、突然喘息から救われた。
良く年老いる 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 ジードの日記に「良く死ぬことはたやすかろうが、良く年老いることはむずかしい」とあるのを思い出して、『人間の運命』もあと残り2巻に迫ったが、それを妨げる喘息の苦しみを正にそうだと思った。
 作者は有島とジードの二人が文学の師と言い、有島が早世したために苦しい時に答えてくれないが、ジードは長寿であったから、答えてくれると喜んでいる。
リンゴとビスケット 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 山荘にリンゴを売りに来たが、青くて小さいのに思いのほか美味くて、家族とリンゴの話題になり、初めてリンゴを食べた日を思い出す。小学3年生の時、日露戦争の戦利品の船が見せ物として日本各地を回ったが、そこから降りてきた紳士がリンゴを一つ、聖書の逸話をしながら叔父にくれた。同じ頃、牛臥山に松葉かきに行って、妖精のような婦人からビスケットを貰った。
 タイトルからわかるとおり『林檎とビスケット』と同じ内容を扱っているが、ビスケットの方しか小説に書いたと言っていないから、その小説の存在を忘れていたのかも知れない。この二つの思い出はセットになっているのだろう。
日本文学は海外でどのように読まれているか 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 1968年9月に表題の討論会があり、「日本に現代小説があるのか」と驚かれた51年の渡欧を思い出す。同時に留学時に有島武郎の「或る女」がフランスで出版されたことを思い出した。
 日本文学の海外での出版は相変わらず困難であったが、その努力は無駄ではないと締めている。
パリで会った天才画家 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 佐伯祐三の死後40年の遺作展が東京セントラル美術館で開かれ、次女と孫と3人で見に行く。満員電車のように混雑する会場で、佐伯を思い出して――。
 作者は1925年6月、佐伯の兄と同船して、マルセイユに迎えに来た佐伯夫妻と知り合った。9月になってサロン・ドートンヌで佐伯の「靴屋」と米子夫人の「アルルのはね橋」が初入選したのを見て、アトリエを訪ねた。古いアパートの4階屋根裏部屋で、3階の洗濯屋のモーターがうるさい中に陶器のストーブを置いて画業に励んでいた。それ以来頻繁にアトリエを訪ねるようになったが、ゴッホに傾倒した佐伯は日本を見るのだと12月に帰国した。その際も旅費の借金を申し出て、代わりに2枚の絵を置いていった。28年の6月レーザンからパリに戻ると、椎名其二に佐伯が結核だと知らされ、モンパルナスのアトリエを訪ねた。その後娘と共に亡くなったが、帰国した夫人は預けておいた二点の絵と広告の絵を加えて届けに来た。
 51年にパリで出会った画家、金山康喜のことも書かれており、芸術家は長寿を全うしなければ負けだと早世の2人の画家を惜しんでいる。
パリで会った三木清 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 三木は一高の2年先輩で、兄の学友であった関係で、渡仏して2ヶ月後にパリで訪ねた。古いアパートの2階で妻と住んでいたが、窓の一つしかないくらい部屋で、外にはマロニエが迫って、見晴らしもなかった。無口で何も話さなかったが、二日後訪ねてきて、サンクルーの丘のカフェで、研究の終わったばかりの「パスカルにおける人間の研究」について夢中で語った。帰宅すると下宿のマダムが三木の野蛮なことを注意したが、それがきっかけで3週間後に下宿を変わった。三木はその後頻繁に散歩に誘ったが、芸術も人付き合いも好まなかった。或る夕、帰国する荷物を送るのに2ヶ月分の家賃相当の借金を申し出て、借用証書を書いて写真と共に渡した。岩波から送金があり次第返すということであったが、そのまま帰国して便りもなかった。そのお陰で苦しい正月を迎えたが、その後、兄から「三木が友人にブルジョアに金を出させてやったと自慢話した」と手紙が来て、妻と喧嘩になった。
 三木は結局借金を返さず、作者との友好を続けたようだが、不思議な関係だ。
歳月 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 イタリアで会った日本の漁師に仲間内の食堂に案内される。彼らは釣った魚を缶詰にして、ヨーロッパ市場で売っていたが、「先生の時代の人は武力で他国を征服しようとしたが、僕らの世代は魚や電気製品、絵画や音楽で世界を征服していますよ」と話した。その言葉に、歳月がいかに人類を進歩させたかを見た。
親孝行 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 作者は時々ふと訪ソの際、通訳をしてくれたミッシャを思い出す。唯物論者だが、23歳にして父となったために、長生きをしたくなったと言って、長生きの方法は「親孝行」であると、およそ唯物論者らしくないことを言った。実際ロシアの青年は皆、親孝行を大事にしているらしく、電車でも老人が立っているのを見なかった。
 その後、68年の夏に通訳として来日したミッシャは作者に電話をかけてきたようだ。だが、ソビエトのチェコ侵入があったために自粛して、二人の再会は叶わなかった。
人間の寿命 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 70歳を越えて、文芸家協会に理事の定年策定を申し出たが、平均が58だから、まだ若いと一蹴される。
 自らの欲(正しい願望)を満足させようと何事も乗り越えてきたが、乗り越えたために、「あの時は出来たのだから」とまた次の励みになって、次の山も越えることができたという人生だろう。「ただ生きていることだけで、周囲の者に安らぎを与えるような老年を迎えたい」という願望を最後まで果たして。
九年ぶりにパリから帰って来た娘 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 4女が帰国して、そのピアノ人生を振り返る。
 安川加寿子に4年間ピアノを見てもらうのに毎回付き添い、フランスに滞在中はロアール河畔のプーグ・レ・ゾーで夏休暇を共に過ごし、そこでもジャン・ドアイアンの指導に付き添った。訪ソの際は帰りに寄ったが、映画の出演依頼が来て、友人たちはスタインウェーが買えるほどの出演料で受けるべきだと勧めたが、本人がピアノに専念したいと断った。その旅で3女を連れ帰ったが、一人になってからもピアノに精進して、3女が再び半年間渡仏する際、代わりに母の希望で4女を呼び寄せたのだった。
明日を逐うて 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 帰国したばかりの小山敬三が『明日を逐うて』の挿絵を描いてくれたが、その後に開いた個展に、そのうちの何点かを出品してあり、独立した絵となっていることに感動する。
鳩と凧 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 安川定男の「有島武郎論」の出版記念会で、鴎外の研究所を出しているHに声を掛けられる。Hは書斎に集まった鳩の一人だった。
「人間の運命」を書き終えて 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 『人間の運命』を書き終え、その執筆の秘話を綴っている。
 風呂に入っていて、自分を主人公にしようと思いついたこと、書いている間は精神に変化がない8年で早く過ぎ、準備をした3年の方が長かったこと、不健康で、最後まで書き続けられるか心配したこと、書き始めても心許なくて、バルザックがハンカス夫人に宛てた手紙を読んで慰めたこと、喘息で書けない日もあったが、3年目からは1日4枚書くことをノルマにして実行したこと、5年目位からは学生が勉強で使うと訪ねてくるようになったこと、書き終えた時には読者の手紙が2千通にもなったこと、最終巻が発売されてからは、続行を臨む手紙が無数に届いたこと。作者もこれには戸惑ったようだ。
海外旅行記を読むには 1969/5/20 『こころの旅』新潮社
 旅行記を書くには、現地の言語を理解することが必要だと言っているから、読む人たちにも言葉のわかるひとの旅行記を読むように勧めるのだろう。
われに背くとも 1969/8/20 『幕あい』日本経済新聞 1970/6/15 『われに背くとも』新潮社
 1969/12/31まで連載。『人間の運命』後半を執筆中に喘息を患い、もう死への準備に就こうとしたが、なんとか快復し、約束していた新聞連載の仕事だけでは済ませようと書き上げた。
 翻訳家の山辺省三は、芸術院賞受賞の会で中学の後輩土屋から、過去の恋人万寿子の夫が亡くなったと知らされる。山辺の娘清子はフランスでのピアノ修行を終え、8年ぶりに帰国するが、会いたかった母は亡くなっていた。万寿子は夫を亡くし、娘の比呂子と暮らし始めるが――
 『人間の運命』のその後とも言える作品。生き甲斐となる仕事と家庭の両立ができないだろうかと模索する二人の娘は、作者の望む妻像でもあるようだ。構成としては、章ごとに場面が変わり、飽きさせない。
牡丹と記念切手 1969/夏 ひろば42 1982/10/15 『こころの波』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 二人の読者との交流を書いた。東大のAは、新潟の父が読者で、牡丹を届けるようにと託されて、作者の庭に植えていく。それが3年続いて、4年目は学生闘争で来れなかったが、その後『人間の運命』を読んだから伺いますと言ってきた。もう一人は畳職の青年で、畳が将来無くなることはないだろうかと相談してきたが、自分への返事に使ってくれと記念切手を同封してあった。将来、家庭から畳が消えることがあっても、国宝の寺院などでは必要だから、国宝を請け負うという気概で頑張るように励ました。
 作者は素朴な青年にこころ和むと同時に、こころを重くしている。それは青年の将来について、責任を感じるからだろう。
冬の空 1969/冬 ひろば44 1977/4/15 『こころの広場』新潮社 『芹沢光治良文学館12』新潮社
 癌の疑いが出て、癌になったら看取ってくれると約束したデュマレ博士に便りを出し、スイスに行く準備をしたが、癌ではないとわかり、かねてから懸案の『人間の運命』にかかった。書き終えた時には肺気腫になって、酸素ボンベの世話になったが、4女に漢方医を薦められて試したところ、健康になって冬の空のような澄んだこころで毎日を過ごしている。

タイトルバックが金・銀のものは当館推薦作品です。ぜひ一度お読みになってみてください。
初出順ですが、初出が不明なものは初刊本の日付を参考にしています。
各空欄はデータ不明です。タイトルの後に※のついたものは資料無しです。作品をお持ちの方からの貸出・提供をお待ちしています。
初出の『 』内は初出時のタイトルです。(タイトルと違う場合のみ)

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