「WALTZ WITH BASHIR」
(「バシャールとワルツを踊る」、 邦題「戦場でワルツを」)

(メールマガジン2010年3月から)

「WALTZ WITH BASHIR」(直訳「バシャールとワルツを踊る」、邦題「戦場でワルツを」)
(脚本・監督・製作:アリ・フォルマン、2009.11)http://www.waltz-wo.jp
イスラエル問題、サブラ、シャティーラの虐殺をイスラエル人の監督が描く、 既知の事実が彼らには発見

 米国大統領バラク・オバマが就任(2009.1)直後から目指したイスラエル問題の和平仲介は、彼の意思を示したに止まり何の成果も上げませんでした。
 イスラエルが和平交渉の妨げだと言う「ロケット飛来」「自爆テロ」は口実に過ぎず、パレスチナの抵抗力を解体することを目標にしている、イスラエルの強固な意思を知らず、それを突き崩す何らの方策を持たないままの交渉の当然の帰結です。
 しかし米国がユダヤ・ロビーという国内政治の力関係から離れて、普遍的な原理に依って交渉しようとした意義は大きく、今後ともイスラエルの非を繰り返し指摘することによって、同国内の世論が、他国・他民族を抑圧することによって成り立つ自国の在り方の矛盾に気付くように促していくことは必要です。
 世界をより良く変えられるか?それは鏡の中の貴方、私次第(man in the mirror)

 (以下、引用は映画パンフレットから)
1 どんな映画?
(1)監督は、1962年イスラエル生まれ。両親はホロコーストを生き延びたポーランド人。彼の両親がアウシュビッツに居たことは、彼の存在の原点であり、映画監督・映像製作の中心課題でもある。
 この場合、ユダヤ人は被害者だが、イスラエルはパレスチナに対して加害者である。ナチスによるユダヤ人抹殺政策に先立って、欧州ではユダヤ人排斥のポグロムが広くあった。この罪悪感から?欧米はイスラエル建国を支持し、パレスチナ人の抵抗運動、民族解放闘争を、行為の理由・前提を抜きにしてテロ・テロリストと呼んで非難・攻撃してきた。
(もしこれと同じ言い方をするならば、ナチス・ドイツに対するフランス・レジスタンスもテロ・テロリストだろう。)
 イスラエルはもとより、ユダヤ・ロビーを国内に抱える米国は、国連が公平に判断・活動して、パレスチナを助けることを阻んできた。イスラエルが占領地で行っている、テロリスト捜索を口実にする民間家屋解体、急病人をも長時間通行止めにする検問他、全て国際法違反である。
 イスラエル政権は、この被害者と加害者という矛盾を、紀元前11世紀の「古代イスラエル王国」を持ち出して正当化する。しかし、国民・住民が虚心に事実に向き合えば、矛盾に気が付き対処しなければならなくなるはずだが、向き合わないからイスラエル問題の未解決がある。
(2)監督・脚本・製作のアリ・フォルマンは、1991年「COMFORTABLY NUMB」(湾岸戦争、イラク軍のミサイルが飛び交うテルアビブで、不安発作になりそうな友人達のドキュメンタリー)、1991-1996年に主に占領地区についてのテレビ用ドキュメンタリー、2001年「MADE IN ISRAEL」(ナチ残党を追及する近未来ファンタジー)等を製作し、イスラエル・アカデミー賞、ベルリン国際映画祭等で複数回受賞している。
 本作「WALTZ WITH BASHIR」は構想から4年、2008年完成。同時にアニメーション・イラストをGRAPHIC NOVEL「WALTZ WITH BASHIR - A LEBANON WAR STORY」として出版している。
(3)監督アリ・フォルマンは、1982年6月のレバノン侵攻に同年齢の友人達と従軍している、19歳だった。そして24年後に振り返り、2008年本作を完成させている、45歳になっている。
 イスラエルは国民皆兵制で、男女全員が18歳で徴兵されて、男3年(18歳19歳20歳)、女21月(1年9か月)、軍務に就く。男は予備役があり45歳まで(27年間)毎年、年間最高35日間任務に就く。徴兵時に戦争が起きていれば、すぐに(即ち18歳の素人が)前線に送られることがある。
 十代の若者が突然生死を分かつ戦場に投入されて、侵略者「敵」として「敵」に囲まれる。監督は述べている「よく映画で描かれるような友愛も団結も勇気も戦場には存在しない、そこが何処なのか何故送られて来たのか検討もつかない若者の一団が、状況を理解できずに周りから孤立しているだけ」。
 更に「イラクに従軍した兵士がオクラホマに帰るには6日かかるが、レバノンからイスラエルまで20分、休暇で故郷に戻るために軍のへりを降りる浜辺には、戦闘のために上陸したレバノンの浜辺と同じ海、砂、空がある、戦場と市民生活との距離の近さは暴力的だった」。
(4)イスラエル問題、サブラ、シャティーラの虐殺をイスラエル人の監督が描く、既知の事実が彼らには発見。

2 サブラ、シャティーラの虐殺
(1)レバノンは、1975年から続く内戦のために国家として破綻状態で、1982年当時は、南レバノンでPLO(パレスチナ解放機構)が勢力を拡げていた。
 イスラエルは、国境に近いパレスチナ・ゲリラの拠点を壊滅するために、同年6月、南レバノンに侵攻した。とりわけ当時の国防相シャロンは、首都ベイルートまで軍を進めて、親イスラエルであるキリスト教マロン派民兵、ファランヘ党(ファランジスト)の指導者バシールを大統領にする政権樹立を意図した攻勢をかけて、パレスチナ武装勢力をチュニジアへ撤退させる。
 他方、9月14日にファランヘ党の本部ビルが爆破されて、バシールが死亡する。ファランヘ党民兵は、報復のために、サブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプに、16日から3日間入る。足掛け3日間、銃撃音が響いて一方的な虐殺が行われた。
 ところがこの難民キャンプをイスラエル軍が包囲していて、出入り口を固め、キャンプ内が見えるビルの屋上に前線基地を設けていた。更に、異常事態を目にした前線の兵士が報告を上げ、国防相シャロンにも届いたが、虐殺を阻止する行動は取らなかった。
 即ち、この虐殺はイスラエルの承認、幇助(ファランヘ党をキャンプ内に入れた)の下に行われた。犠牲者は3千人を超えるという(老人、子供、男、女を問わず)。
(2)シャロンは、虐殺の1982年から17年後の、1999年に右派政党リクード党首になり、2001年から2006年まで首相だった。
(3)レバノンでは、キリスト教、イスラム教など宗教等を基盤にした勢力が、周辺諸国からの武器供給によって武装した民兵になり、1975年以降、内戦があった。
(4)パレスチナ難民は、元々現在のイスラエルの地域に住んでいたアラブ人で、イスラエル建国により追い出されて、周辺諸国に住むことを余儀なくされ、イスラエル地域への帰郷を望んでいる。
 ちなみにイスラエルは普通選挙を行っているが、反対派(パレスチナ難民)を追い出した上でのことであり、反対派(クルド人やシーア派)を国内に抱えたまま独裁を行ったイラクのフセインよりも悪質である。

3 「俺にはレバノン侵攻時の記憶がまったく無い」
(1)ストーリーは監督の実体験、欠落した記憶を辿る
 1982年6月、19歳のときのレバノン侵攻。その24年後の2006年、45歳のときに、共に従軍した旧友から繰り返し見る夢の相談を受ける。監督は当時を振り返るが、自分自身にレバノン侵攻時の記憶が無いことに気が付く。
 やはり友人である精神科医の薦めに従い、欠落した記憶を捜して他の旧友を訪ねて行く。PTSD専門家は、記憶が無いのは自己防衛の一種だと言う。記憶は次第に甦るが、「サブラ、シャティーラの虐殺」の日の記憶だけが無いまま。
 友人である精神科医は、「両親がアウシュビッツに居たことを知ったときの幼い日の恐怖心」と「サブラ、シャティーラの虐殺の恐怖」が、記憶を変容させたと分析した。そこで当時の関係者に聞き取りの範囲を拡げて、難民キャンプでファランヘ党の進軍援護を命令された戦車隊指揮官や当日に取材していたジャーナリストに詳細を聞く。
 詳細が明らかになったときに、監督の記憶も甦る。当時19歳の彼は、虐殺の実行者ではなかったが、虐殺の現場の目撃者だった。
(2)アニメーションという製作方法
(ア) 内容が監督の実体験であり、登場する証言者は実際の友人である。
 製作手順は、まず事前調査に「第一次レバノン戦争の証言を求む」という募集広告を行い、「1982年の3か月」について寄せられたエピソードと監督自身の体験を基に脚本をまとめた。
 この脚本をスタジオ撮影して実写ビデオ版を作った。これを試写してドキュメンタリー映画の専門家等の意見で出来を検証した。
 この上でアニメーション版に作り直す。画コンテを描いて、更に最小限の動きのビデオボードを作り、試写を行い、修正。これを基に最終的なアニメーションを作った。
(イ) 監督は、この映画を実写ビデオでは作りたくなかったと言う。中年男たちが、25年前の暗い過去を取材し語る内容を、実録映像も無く作れば、ひどく退屈なものになる。そこで、イラストレーターによるアニメーション、爆撃音等の効果音、80年代のヒット曲、ショパン、バッハの楽曲等のBGMを重ねた、記憶の旅を描いた。
(3)すべての戦争は愚かで無意味
 イスラエルは1948年の人工的な建国以来、それを既成事実にするために、中東で戦争を繰り返している。
 1948年第一次中東戦争、1956年第二次中東戦争、1967年第三次中東戦争、1973年第四次中東戦争、1982年レバノン侵攻、1991年湾岸戦争、2002年パレスチナ自治区侵攻、2003年イラク戦争、2006年レバノン攻撃、2008年ガザ攻撃
 「すべての戦争は愚かで無意味」「次の紛争を阻止する義務がある」
(4)イスラエル国内の無?反響
(ア) この映画は、イスラエル国内で人口740万人のうち12万人が見た。危惧した政治的批判は無く、遂にゴールデン・グローブ受賞に沸いたあげく、右派もオスカーを期待した。
 映画の含意をスルーする加害者の軽さ。
(イ) 他方、パレスチナ難民は、1948年追放から60年間、本作のレバノン侵攻から26年間と、なおこれからも相当期間、難民で有り続け、帰還の見通しが無い。

4 (参考、補足)引用者のWebサイト
(ア) 「短歌連作」(1991年湾岸戦争)
 19910527 君はパレスチナを知っているか、西欧の排外主義繰り返し
 19910601 パレスチナ独立宣言日本では、空気のようにある平和主義
(イ) 「究極の目標」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-kyuukyokunomokuhyou.htm
(ウ) 「米を食う虫、美しい明日」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-utukushiiasu.htm

ここも見てね[引用]友情とお金
ここも見てね[随想]映画「若者たち」三部作上映会

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