チャイコフスキーのちょっと寄り道 〜その生涯と交響曲第4番、ピアノ協奏曲〜

2017年 7月 2日 初版作成
  2017年 7月 11日 「5.おまけ〜ロシア人の名前、そして会話での呼びかけ」追加
  2017年 8月 8日 「3.チャイコフスキーのちょっと寄り道」追加


 次の演奏会(第78回定期)で、チャイコフスキーをの交響曲第4番とピアノ協奏曲第1番を演奏します。

 チャイコフスキーって、とても有名でファンも多い作曲家ですが、意外にどんな人だったのかよく知られていないし、「交響曲」「協奏曲」「バレエ音楽」以外ってほとんど知らないのです。「ピアノ協奏曲」にしても、実は3曲あるのですが、第1番以外を聞くことはまずありません。

 そんな方のために、10分で分かるチャイコフスキーです。
 キーワードは「アントンおよびニコライ・ルービンシテイン兄弟」「結婚の失敗」「フォン・メック夫人」「ロシア5人組との関係」「謎の死因」あたりでしょうか。

ピョートル・イリーイチ・チャイコフスキー(1840〜1893)

Пётр Ильич Чайковский

 また、チャイコフスキーに限らず、ロシア音楽全般およびモスクワに関する記事やトピックスは、下記の記事もご参照ください。

モスクワ 2013  〜ロシアの音楽家の墓参り〜 
モスクワ 2013  〜モスクワの音楽ゆかりの場所〜 
モスクワ 2013  〜モスクワの美術館を少しだけ〜 
モスクワ 2013  〜モスクワのおみやげ〜 



1.チャイコフスキーの生涯

チャイコフスキーの生涯を、キーワードの即してざっと紹介しましょう。

全体はこんなところも参考に(Wikipediaは意外に情報が少ない)。  

■誕生、少年時代

 ピョートル・イリーイチ・チャイコフスキーは、1840年に、ロシアのウラル地方のヴォトキンスクで生まれました。
 父のイリヤは首都ペテルブルグから赴任してきた鉱山監督官で、裁判権なども持つ「県知事」のような存在だったようです。母はアレクサンドラで、7人兄弟の次男でした。

 1848年(8歳)のときに、父の仕事でペテルブルグに、そして翌1849年(9歳)にはウラル山脈を越えたアラパーエフスクという町に引っ越しますが、チャイコフスキーは1850年(10歳)からペテルブルグで法律を学ぶ上流階級の学校に通うために家族から離れます。このころに、ペテルブルグでグリンカ(1804〜1857)のオペラ「皇帝に捧げた命(イワン・スサーニン)」を見て感激したようです。
 家族は1852年(12歳)のときにペテルブルグに戻ってきて一緒に住むようになりますが、1854年(14歳)のときに、母がコレラで亡くなります(享年40歳)。これが、チャイコフスキーの女性観に大きく影響しているのかもしれません。  
 

■役人、ペテルブルグ音楽院時代

 1859年(19歳)で法律学校を卒業し、ペテルブルグで法務省の役人になります。ただ、子供のころから家庭教師にピアノを習っており、好きな音楽にも興味を持ち続けて音楽理論などの勉強を続けていました。
 そんな折、当時西欧で学んで巨匠的ピアニストとして成功したアントン・ルービンシテイン(1829〜1894)が、1860年に大公妃の支援のもとにペテルブルグに音楽教室を開設し、それが1862年にペテルブルグ音楽院に発展します。チャイコフスキーは音楽教室に通い、音楽院創設に伴って第1期生になります。ただし「私が役人ではなく芸術家であることを最終的に確認するまでは、勤めはやめません」と役人の仕事は続けたままでした。
 そして、1863年(23歳)のときに、音楽家として生きることを決意して役所を退職します。

アントン・グリゴーリェヴィチ・ルービンシテイン(1829〜1894)

(注)ルービンシテインは、おそらくドイツ系ロシア人で、ドイツ語的には「ルービンシュタイン」なのですが、ロシア読みで「ルービンシテイン」と表記します。    
 

■モスクワ時代

 1865年(25歳)で音楽院を卒業し、アントンの弟ニコライ・ルービンシテイン(1835〜1881)がモスクワに開設したモスクワ音楽院の教師として赴任します。住まいはニコライの邸宅に「下宿」(居候)でした。
 音楽院の教師としての仕事の傍ら、1866年(26歳)に交響曲第1番「冬の日の幻想」を完成させ、1868年にニコライの指揮で初演されます。(作品番号は13。このころは作曲順ではない)
 この時期の作品としては、幻想序曲「ロメオとジュリエット」(1870年ニコライの指揮で初演、作品番号なし、1880年に最終改訂)、弦楽四重奏曲第1番Op.11(1871)など。  なお、チャイコフスキーがニコライの家を出て独立するのは、1871年(31歳)になってからです。

 チャイコフスキーが教鞭をとったモスクワ音楽院の前には、チャイコフスキーの像があります。
 有名なチャイコフスキー国際コンクールは、この音楽院の大ホールで行われます。

チャイコフスキー像モスクワ音楽院の前のチャイコフスキー像

ニコライ・グリゴーリェヴィチ・ルービンシテイン(1835〜1881)

 そういえば、ニコライ・ルービンシテインさんは、お墓に詣でたことがあったのでした。 →こちらの記事「モスクワ 2013  〜ロシアの音楽家の墓参り〜」
 

■オペラ歌手との恋

 そんな中、1868年3月(チャイコフスキー27歳)にモスクワを訪れたイタリア歌劇団のなかにフランス人のメゾソプラノ歌手デジレ・アルトー(1835〜1907)がいました。チャイコフスキーは5歳年上の彼女に好意を持つようになり、12月に出版したピアノ曲「ロマンス」作品5を献呈するとともに、父に結婚の意志を伝えるまでになりました。
 しかし、ニコライや友人らは、チャイコフスキーが「花形歌手の亭主」(いわゆる「髪結いの亭主」)に成り下がることをおそれて結婚に反対し、結局何の約束もないまま彼女は翌1869年1月にモスクワを離れ、1月末には同じ歌劇団内のバリトン歌手と結婚してしまいます。この辺の事情は謎ですが、チャイコフスキーは20年後の1888年(チャイコフスキー48歳)にベルリンでこの「元カノ」に再会し、「6つのフランス語の歌曲」Op.65を献呈していますので、終生好意を持ち続けていたようです。

チャイコフスキー像チャイコフスキーが結婚まで考えた歌手デジレ・アルトー(1835〜1907)〜これは多分晩年の写真

 

■ロシア5人組との関係

 当時のロシアでは、ロシア独自の音楽を作ろうという気運が高まっていました。ロシア音楽の父と言われるグリンカ(1804〜1857)を信奉するバラキレフ(1837〜1910)を中心に集まった「力強い一団」がロシア国民学派を名乗り、西欧伝来のアカデミックな音楽を目指すアントン・ルービンシテインらの「音楽院派」と対立する構図でした。
 アントン、ニコライの小飼であるチャイコフスキーは、本来「音楽院派」側のはずなのですが、グリンカを尊敬していたこともあり、心情的には「国民学派」に近いところにいたようです。
 ペテルブルグ音楽院時代に作曲した『序曲「雷雨」』(1864年)はアントンに酷評されたようですし、1875年に作曲した「ピアノ協奏曲第1番」も、当初はアントンに「演奏不能」とダメ出しされたことから、チャイコフスキーの目指す音楽とルービンシテイン兄弟の音楽との間には大きな溝があったのでしょう。
 これを、1861年の「農奴解放」の前後で、ツルゲーネフの「父と子の確執」とみる見方があります。理想主義的な「父」と現実主義・唯物主義の「子」の確執、「子」は自らを「リアリスト」と呼び、父は子を「ニヒリスト」と呼ぶ。
 西欧で伝統的な音楽を学んだルービンシテインには、シューマンやメンデルスゾーンが規範であり、19世紀後半のチャイコフスキーらの「子」の世代には、マイヤベーア、ベルリオーズ、リスト、さらにはワーグナーが最先端でした。
 そういった時代の趨勢から、「音楽院派」対「国民学派」という構図はすぐに消滅します。1867年にアントン・ルービンシテインが「ロシア音楽協会」の会長職を辞任した後、この地位に就いたのはバラキレフでしたし、1871年にはリムスキー・コルサコフ(1844〜1908)がペテルブルグ音楽院の教授に就任しました。
 1872年(32歳)にチャイコフスキーはペテルブルグのリムスキー・コルサコフ(当時28歳)の夜会の出席し、そこで交響曲第2番をピアノで弾いて披露し、バラキレフなどの喝さいを浴びたそうです。これがそのときの絵のようです。(左から、座って拍手をしているムソルグスキー(1839〜1881)、ピアノの向こう側に立っているキュイ(1835〜1918)、ピアノの手前に立っているボロディン(1833〜1887)、チャイコフスキーの後ろにバラキレフ(1837〜1910)、チャイコフスキー本人、握手をしているリムスキー・コルサコフ(1844〜1908)。真ん中に座っているのがリムスキー・コルサコフ夫人)

チャイコフスキーとロシア五人組 (1872年のリムスキー・コルサコフ邸の夜会)


ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ(1837〜1910)


ツェーザリ・アントノーヴィチ・キュイ(1835〜1918)


モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー(1839〜1881)


アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(1833〜1887)


ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)

Николай Андреевич Римский-Корсаков


 

■ピアノ協奏曲第1番

 そんな新進作曲家チャイコフスキーは、親分である音楽院長のニコライの勧めで、ピアノ協奏曲を作曲します。完成する前の1874年クリスマスに、チャイコフスキーはニコライに弾いて聞かせますが、「演奏不能」と厳しい批判を受け、書き直すように指示されたことは有名です。
 しかしチャイコフスキーは自己主張を変えず、翌1875年に完成したピアノ協奏曲第1番Op.23をドイツの指揮者ハンス・フォン・ビューローに送り、その年の10月にアメリカのボストンでビューローのピアノで初演され、好評を博しました。この結果、この曲はビューローに献呈され、西欧でのチャイコフスキーの名前を一躍有名にしました。
 その後、ニコライも意見を変えて、この協奏曲を演奏するようになりました。

ピアノ協奏曲第1番を初演したハンス・フォン・ビューロー(1830〜1894)


   

■バイロイトへ

 おりしも、1876年夏(チャイコフスキー36歳)に、バイエルンのバイロイト祝祭劇場で、ワーグナーの四部作「ニーベルンクの指環」が上演されました。第1回のバイロイト音楽祭です。
 チャイコフスキーは、ロシアの新聞の特派員としてこの初演を聞きに行っています。新聞社に送った報告記事では、多くの「疑念」とともに「恐るべき才能とその技巧に対する感嘆」を伝えているそうです。
   

■フォン・メック夫人との出会い

 チャイコフスキーを語る上でのキーワードになるのが、フォン・メック夫人(1831〜1894)です。本名はナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック。
 チャイコフスキーよりも9歳年上で、貧乏地主の出身ながらモスクワ在住の鉄道王カール・フォン・メックと結婚し、1876年に夫が亡くなって多額の遺産を相続しました。そしてそのまま隠遁生活を送り、その遺産によって若い音楽家を支援しました。チャイコフスキーとの交際(文通)および資金援助はこの年1876年(チャイコフスキー36歳)に始まっています。1890年の突然の支援打ち切りまで、チャイコフスキーから760通、メック夫人から451通もの手紙が残されているそうです。
 ちなみに、チャイコフスキーの妹アレクサンドラの娘(チャイコフスキーの姪)ナターリがメック夫人の息子と結婚していますので、2人は縁浅からぬ間柄のはずなのですが、生涯直接会うことはなかったようです。
 交響曲第4番は1877年(37歳)に完成し、チャイコフスキーはメック夫人に献呈しようとしますが、夫人が固辞したため、献辞は「我が最良の友に捧げる」となっています。

 余談ですが、1880年にメック夫人が家族を連れて夏のヨーロッパ旅行をする際に、お抱えピアノ奏者兼子供のピアノ教師として、当時18歳のドビュッシーを雇い、7月から11月まで旅に同行させていました。よほど気に入ったのか、翌1881年にはモスクワにドビュッシーを呼び寄せ、フィレンツェ、ローマなどにも同行(8月〜11月)、さらには1882年もモスクワ〜ウィーンの旅行(9月〜11月)に同行させています。この時期に、ドビュッシーはメック夫人のもとにあったチャイコフスキーの交響曲第4番の楽譜などを見ています。また、夫人との連弾用に、「白鳥の湖」から何曲かの編曲も行っています。さらに、ドビュッシーのピアノ曲を、メック夫人はチャイコフスキーに送って見せたようです。
 ドビュッシーは、これだけ長期間にわたて付き合ったので、メック夫人の娘ソーニャとじっこんの中になり、それを理由に解雇されたようです。
 なお、ドビュッシーは、晩年の1913年(ドビュッシー51歳)にロシアに演奏旅行に行った折、モスクワでメック夫人の娘ソーニャと再会しています。(そのときには、既にロシア貴族の妻)

 こういった事実は、メック夫人の「若い音楽家育成」はロシアにとどまらず、かつその「鑑識眼」は相当なものだったことの証拠なのでしょう。

ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック(1831〜1894)


 

■不幸な結婚

 1876年12月にメック夫人との文通が始まり、オペラ「エフゲニ・オネーギン」の作曲を進めていた1877年7月に、37歳のチャイコフスキーは突然モスクワ音楽院の学生だったアントニーナ・ミリューコヴァ(1849〜1917)と結婚します。5月にミリューコヴァから熱烈なラブレターを受け取り、心を動かされたことによるようです。同時期に作曲が進んでいた「エフゲニ・オネーギン」の第2幕のタチヤーナの「手紙の場」への強い共感が影響していたともいわれています。(1970年制作のソ連映画「チャイコフスキー」では、そういう設定でした)
 7月6日に身内だけで結婚式を挙げ、父親に報告するため2人でペテルブルグに赴き、7月14日にはモスクワに戻ってきました。ところが、26日には1人でウクライナの妹夫婦のもとに行き、戻ったのは9月11日でした。そして、9月20日ごろにはモスクワ川で入水自殺を図ります・・・。
 命には全く影響はなかったものの、そこまで精神的に追い詰められていたチャイコフスキーは、家を出てペテルブルグに赴き、そのまま国外旅行に出て翌1878年4月までスイス、イタリアで過ごします(この間の資金はメック夫人の支援です)。
 ほとんど「結婚生活」もないままの破たんでしたが、チャイコフスキーは離婚することもせず(宗教上難しかったようです)、生涯仕送りを続けたようです。ミリューコヴァは私生児を3人もうけたようですが、チャイコフスキー姓を名乗ることはありませんでした。(女性なので、名乗ればチャイコフスカヤ)

アントニーナ・ミリューコヴァ(1849〜1917)とチャイコフスキー


 この不幸な結婚は、メック夫人と一度も会わなかったこと、「コレラ」とされる死因と並んでチャイコフスキーのミステリーの一つです。これらの状況証拠から「同性愛」疑惑がささやかれることとなっているようです・・・。
 

■放浪の旅、そして成功

 チャイコフスキーが名声を博すきっかけとなる交響曲第4番・作品36(1878年1月、イタリアで完成)、オペラ「エフゲニ・オネーギン」・作品24(1878年2月完成)、ヴァイオリン協奏曲・作品35(1878年3月完成)などの傑作は、まさしくこの「危機の時期」に作られています。作曲家に、一体に何が起こっていたのでしょうか。

 そして、チャイコフスキーは1878年10月(38歳)にモスクワ音楽院を退職し、名実ともに「放浪の旅」に出て、そんな生活が1884年(44歳)まで続きます(あいかわらず資金はメック夫人の支援)。
 この間に作曲された主要な曲は、「イタリア奇想曲」Op.45(1880年)、弦楽セレナーデOp.48(1880年)、序曲「1812年」Op.49(1880年)、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」Op.50(1882年)ぐらいでしょうか。
 1881年は、パリでニコライ・ルービンシテインが演奏旅行中に客死したこともあってかほとんど作曲していません。ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」は、ニコライを追悼して作曲されました。(追悼のためにピアノ三重奏曲を贈るのは、これ以降ロシアの伝統になりました。チャイコフスキーに対してはラフマニノフが、チェロ奏者ダヴィドフのためにアレンスキーが、友人の音楽学者ソレルチンスキーのためにショスタコーヴィチが)

 映画「チャイコフスキー」では、このときパリに駆けつけたチャイコフスキーが、パリで活動していたツルゲーネフ(1818〜1883)と一緒にセーヌ河畔を歩くシーンが出てきます。そこに流れる音楽が、交響曲第4番の第2楽章です。アコーディオンで、いかにもシャンソン風に。
 

■ロシアへの定住

 放浪の旅に終止符を打ち、チャイコフスキーがモスクワとペテルブルグの間にあるマイダノヴォに借りた別荘に腰を落ち着けるのは1885年(45歳)からです。
 ここで「マンフレッド交響曲」Op.58(1885)、組曲第4番「モツァルティアーナ」Op.61(1887)、交響曲第5番Op.64(1888)などが作曲されます。

 さらに、1888年(48歳)にはフロロフスコエ(ここもモスクワとペテルブルグの間)に移ります。ここでは、バレエ「眠りの森の美女」Op.66(1889)、オペラ「スペードの女王」Op.68(1890)、弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」Op.70(1890)、バレエ「くるみ割り人形」Op.71(1892)が作曲されています。
 なお、この間に、1890年9月(50歳)にはメック夫人から援助打ち切りの通告を受けています。打ち切り理由は不明ですが、ソ連映画「チャイコフスキー」では、メック夫人の娘婿で秘書も務めていたウラジスラフ・パフルスキー(チャイコフスキーの弟子でもあった)の差し金となっていました。才能あるチャイコフスキーに対する嫉妬と、すでにかなり目減りした財産を目の当たりにしていたのでしょうか。

 また、チャイコフスキーは1891年(51歳)にはアメリカ演奏旅行に、1892年1月には「エフゲニ・オネーギン」上演のためハンブルクに赴きますが、ハンブルクではドイツ語上演だったため指揮を歌劇場指揮者のグスタフ・マーラー(1860〜1911、当時31歳)に委ねています。「天才的な指揮者だ」と書き送っています。

 1892年(52歳)にモスクワ郊外のクリンに移ります(ここは、現在チャイコフスキー記念館になっている)。そこで、パリ芸術アカデミー会員(11月)、「くるみ割り人形」の初演(12月)といった名声の中、最後の年1893年を迎えます。
 

■最後の年と謎の死因

 この年1893年も、6月にロンドンで交響曲第4番を指揮して、ケンブリッジ大学より音楽名誉博士号を贈られ、8月には交響曲第6番「悲愴」Op.74を完成します。そして、「悲愴」を10月16日に自らの指揮で初演(ペテルブルグ)。その9日後の10月25日、チャイコフスキーはペテルブルグの弟モデストの家で亡くなります。享年53歳。(日付は当時のロシア歴)

 死因は「生水を飲んだことによりコレラに感染」したことによるとされていますが、周囲や弔問客に感染者がいないことなどから、死因については当時からいろいろと詮索されていたようです。「悲愴」がいかにも「自身の死を予測していた」と聞こえることもあるのでしょう。(ソ連映画「チャイコフスキー」も、最後の場面は「悲愴」第4楽章を指揮するチャイコフスキーで始まり、そのまま葬儀の映像、そしてタイトルロールが淡々と流れます)
 遺体はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー寺院の墓地に葬られました。
 
 

2.ソ連映画「チャイコフスキー」

 上の「生涯」でもところどころで引用しましたが、チャイコフスキーの半生を扱ったソ連映画に1970年制作の「チャイコフスキー」というものがあります。ご覧になった方もあるかも。

 監督:イーゴリ・タランキン
 製作総指揮、音楽:ディミトリ・ティオムキン
 指揮:ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー
    マルク・エルムレル
    ユーリ・テミルカーノフ
 演奏:ボリショイ劇場管弦楽団、レニングラード・フィル、他

 私は何と高校生のときに見ましたが、ふと思い立って中古のDVDを購入して再び見てみました。部分的に分からないまま見過ごしている部分がいくつかありましたが、再び見てみて「ああ、そういうことか」という部分がいくつかありました。
 「半生」といいながら、チャイコフスキーの人生のいくつかの部分を取り上げて描いたものです。当然ながら、背景に流れる音楽はすべてチャイコフスキーの曲です。
 また、ロシアの風景、特に白樺の林が美しい姿で何度も登場します。
 モスクワの場面、結婚式の場面では、クレムリンの中の教会が映像として流れ、この映画を見た当時にはその地に立つことなど夢にも考えられませんでした。

(1)プロローグ冒頭は交響曲第4番冒頭の運命のファンファーレで始まる。

(2)音楽への目覚め:小さいころ、夜中にそっとピアノを弾こうとして、頭の中に音楽が鳴り響いて母親の腕の中に飛び込む場面、チャイコフスキーの「マザー・コンプレックス」を象徴しているということでしょうか。次に短い「母親との別離」の場面。

(3)プロローグに続く第1部は、ピアノ協奏曲第1番の冒頭で華やかに始まります。1874年(チャイコフスキー34歳)クリスマスに、モスクワでピアノ協奏曲をアントン・ルービンシテインに拒否される場面です。アントンは「ピアノ協奏曲って、こう書くものだ」といってベートーヴェンの「皇帝」を弾きまくります。

(4)弟子のウラジスラフ・パフルスキーがメック夫人の家庭教師になり、メック夫人がチャイコフスキーを支援するきっかけとなる場面。メック夫人の豪邸と優雅な暮らしが印象的です。

(5)オペラ歌手デジレ・アルトーとの実らぬ恋
 デジレ・アルトーがリサイタルでチャイコフスキーの歌曲を歌います(「6つの歌」作品38から第3曲「騒がしい舞踏会の中で」)。そして、その歌を聞きながら、チャイコフスキーは仮面舞踏会で、彼女を探し求める光景が出てきます。この作品38は、1878年の作曲なので、実際にアルトーが歌ったわけではありませんが、映画としての演出でしょう。
 
  「さんざめく舞踏会の夜
   喧噪の渦の中で
   私はあなたを知った
   謎に包まれたあなたの顔
 
   ・・・・・
   あの人を愛しているのだろうか
   きっと愛しているに違いない」
 
 そのリサイタルの劇場出口で、チャイコフスキーとメック夫人はすぐ近くを交差します。帰りの馬車の中で、メック夫人は娘に「あの方はどうして彼女と結婚しなかったのかしら」と尋ねます。

(6)プーシキンの「エフゲニ・オネーギン」を読み漁り「手紙の場」の作曲に没入する様子、そしてアントニーナ・ミリューコヴァからの恋文をもらって、まるでタチヤーナから手紙をもらった気分になる場面。

(7)交響曲第4番の完成と、メック夫人への献呈の手紙。夫人は固辞するので「我が最良の友に捧げる」との献辞とした。
 交響曲第4番冒頭のファンファーレが鳴り響く中、アントニーナ・ミリューコヴァとの結婚式の場面。場所はクレムリンの中の教会の聖堂内部でしょうか。
 第1楽章最後の部分の音楽(迫り来る過酷な運命・・・)が流れる中、知らせを受けたメック夫人は、表面上は動じずに気丈に振る舞うが・・・。

(8)モスクワでの友人たちへの花嫁披露パーティ。ニコライたちがピアノで「エフゲニ・オネーギンのワルツ」を弾いている。そこでチャイコフスキーは妻に対して強い嫌悪感を抱く。音楽が全く浮かんで来ない・・・。そして入水自殺未遂・・。・
(ここまでが第1部、休憩が入る)

(9)フォン・メック夫人のもとを訪れたニコライが、ミリューコヴァとの手切れ金の支援を依頼し、メック夫人はこれに同意する。2人が別居することに安堵する様子がありありと。

(10)アントン・ルービンシテインが、弟子に対してチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を称賛する場面。これ以降アントンもこの曲を承認して演奏するようになる。
 そのピアノ協奏曲第1番の第1楽章が鳴り響く中、アントンがパリで客死した葬儀の場面となる。
 葬儀後、愛人を追ってパリで暮らしているイワン・ツルゲーネフ(1818〜1884)とセーヌ河畔を歩きながら話をする。この場面で流れるのが、交響曲第4番の第2楽章。シャンソン風にアコーディオンで。歩きながら、チャイコフスキーはロシアの世相を憂えるが、ツルゲーネフは「我々老人は柵の前で立ち止まっているが、若者たちには柵の向こうに何かが見えているのだ」と若者たちを支持する。(この年、1881年にはロシア皇帝アレクサンドル2世が革命主義者により暗殺されている)

(11)パリからどこかに移動中の列車の中で、オペラ「オルレアンの少女」初演を酷評する新聞記事を読み、自信喪失しているチャイコフスキーは、夢の中でメック夫人に会って会話する。おそらく、映画の中ではクライマックスとなるシーンなのでしょう。
 これをきっかけに、チャイコフスキーはロシアに戻る。

(12)おそらく、ロシアに居を構えたマイダノヴォかフロロフスコエでの生活。作曲をし、川で泳ぐという規則正しい生活。メック夫人ともニアミスするが、会うことはない・・・。
 おそらく作り話だが、会いたくなったメック夫人が、チャイコフスキーを別荘のパーティに招待する。そのパーティの「花火」の場面で流れるのが、交響曲第4番の第4楽章。
 ただ、チャイコフスキーはそこには現れず、夜逃げのようにまた放浪の旅に出る。失望するメック夫人・・・。

 メック夫人の秘書も務めていたパフルスキー(チャイコフスキーの弟子)が、メック夫人の娘と密かに結婚の約束をしていることがほのめかされ、チャイコフスキーに作品を送って見てもらったがよい評価が得られなかったこともほのめかされる。

(13)精神的に弱ったメック夫人は、すべての手紙のやり取りを秘書のパフルスキーに任せるようになり、パフルスキーはチャイコフスキーからの手紙をメック夫人に見せなくなる。そしてメック夫人の援助が打ち切られる。

 メック夫人は、屋敷をたたんで(破産?)どこかへ引っ越すことになる。
 メック夫人は、パフルスキーに「彼から手紙は来ていない?」と尋ねるが、パフルスキーは手紙を見せずに「成功したら手紙も来なくなった。そんな彼をまだ信じているのですか?」と答える。それに対してメック夫人は、「何年一緒にいても気持ちが分からない人もいるし、一度も会わなくとも気持ちが通じる人もいる」と暗にパフルスキーを非難する。

(14)オペラ「スペードの女王」の作曲と大成功。ここでの聴衆の大歓声は「悲愴」第3楽章に乗って流れ、おそらくロンドンでのケンブリッジ大学からの音楽名誉博士号授章式へと続く。栄光に包まれたチャイコフスキー。

(15)冬のペテルブルグで、チャイコフスキーはメック夫人の秘書のパフルスキーとすれ違う。どうしてメック夫人は手紙をくれないのか尋ねるが、パフルスキーはメック夫人を出世に利用しただけではないかとなじる。

(16)チャイコフスキーの指揮する「悲愴」第4楽章。そこから最後までは、もはや台詞はない。
 最後の葬列の場面に、映画冒頭の幼少時の「頭の中に音楽が鳴り響き、母親の腕の中に飛び込む」場面が象徴的に回想される。
 最後の映像は、圧倒的な白樺の林の中を歩くチャイコフスキーの姿。
 タイトルロールの流れる中、悲愴第4楽章が消え入るように終わる。

 全体として、チャイコフスキーの音楽の源泉を「母なる女性」への憧れと見た描き方のようです。幼くして死別した母への思慕、満たされない恋愛、現実の女性に対する幻滅、実際には会うことのなかった「理想化した女性」としてのフォン・メック夫人とのプラトニック・ラブなど。
 そして、最後の「死因」もメック夫人の「謝絶」による精神的ダメージに置いているような。
 少なくとも、一般に言われるような「同性愛」の気配は一切見せることのない作りです。
 国営の「ソ連映画」ですから、「ロシア音楽」の優位性を世界にアピールする最高峰の作曲家に対して、悪いイメージを持たせるような映画作りはしなかったのでしょう。
 
 

3.チャイコフスキーのちょっと寄り道

 チャイコフスキーは、交響曲とバレエ音楽が有名なので、華麗なオーケストラ曲の作曲家という印象が強いですね。でも、他にもいろいろありますよ。
 ざっと眺めてみましょう。

(1)交響曲

 ご存知のとおり、6曲の交響曲があります。

・第1番:ト短調「冬の日の幻想」Op.13
・第2番:ハ短調「小ロシア(ウクライナ)」OP.17
・第3番:ニ長調「ポーランド」Op.29
・第4番:ヘ短調 Op.36
・第5番:ホ短調 Op.64
・第6番:ロ短調「悲愴」Op.74

そして、これ以外にもう1曲、番号なしの標題交響曲
・「マンフレッド」交響曲 ロ短調 Op58
があります。

マンフレッド交響曲 

 あまり演奏される機会がなく、指揮者によって「駄作」と考える人(カラヤンやバーンスタイン)、傑作とみなす人(トスカニーニ、スヴェトラーノフなど)と意見が分かれるようです。
 確かに、交響曲というよりは「バレエ音楽」のような色彩感と躍動感で(ある意味では「軽さ」も)、第1楽章のコーダなどは「白鳥の湖」の雰囲気です。オルガンも使うので、コストパフォーマンスが悪いのでしょうね。
 でも、チャイコフスキーらしい「華麗で荘重で悲劇的」な曲ですので、もっと演奏されてもよさそうな気がします。

 交響曲第4番や第5番と同様に、序奏の冒頭に提示される悲劇的な「マンフレッドの主題」が、フィクス・イデー(固定観念、循環主題)として全楽章に顔を出します。

・第1楽章「アルプス山中を彷徨うマンフレッド」
・第2楽章「アルプスの妖精」〜スケルツォ楽章
・第3楽章「山人の生活」〜牧歌的緩徐楽章
・第4楽章「アリマネスの地下宮殿」〜華麗なフィナーレ楽章、コーダでオルガンが鳴り響く

 世の中に一部出回っている「交響曲第7番」については、次の項の「ピアノ協奏曲第3番」を参照ください。

(2)ピアノ協奏曲

 実は、ピアノ協奏曲は3曲あります。

ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op.23

 もっとも有名なもの。チャイコのPコンといえば通常これ。もう言うべきことはないでしょう。

ピアノ協奏曲第2番 ト長調 Op.44

 1879年から1880年にかけて作曲されました。不幸な結婚の後、1878年にモスクワ音楽院を退職し、フォン・メック夫人の援助でヨーロッパを放浪している時期の作品です。同じ時期には、「イタリア奇想曲」Op.45などが作曲されています。
 曲は、ニコライが初演することを前提に作られましたが、ニコライが1881年3月にパリで客死したため、初演はタネーエフのピアノ、アントンの指揮で1882年に行われています。曲はニコライに献呈されています。ピアニストのニコライとは、協奏曲に関しては「すれ違い」の宿命だったようです。
 なお、弟子のタネーエフは「第1楽章、第2楽章が長すぎる、第2楽章のヴァイオリン、チェロの独奏が長すぎる」と指摘して短縮版を提案し、作曲者の指示を受けた弟子のジロティが大幅にカットを加えて校訂した「ジロティ版」が1897年にされていて、古い演奏・録音はこれに基づくものが多いようです。これに対して、チャイコフスキーの自筆稿に基づく原典版(ゴリデンヴェイゼル校訂)が1955年に出版されており、最近はこちらに基づく演奏・録音が増えているようです。(ちなみに、我が家にあるエミール・ギレリスのピアノ、マゼール指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の1972年の録音は、「ジロティ版」によっています。)

・第1楽章:いきなりのテンションで、「舞踏会」を思わせるバレエ音楽のような華やかな開始。第1主題はロシア風。第2主題はバレエかオペラのよう。
・第2楽章:ほのぼのとした「小市民的幸せ」の雰囲気。後半は独奏ピアノに、独奏ヴァイオリン、独奏チェロが加わって「ピアノ・トリオ」風です。ジロティ版では大幅にカットされています。
・第3楽章:華やかな舞曲風。でも最後は静かに終わります。

カットを復元した「原典版」の演奏として、 ユジャ・ワンのピアノ、ユーリ・シモノフ指揮モスクワ・フィルの演奏がYouTubeにありました。

ピアノ協奏曲第3番 変ホ長調 Op.75

 これは、いろいろといわく付くきの曲のようです。
 1889年ごろ(48歳)、チャイコフスキーは、ロシアに居を構えて落ち着き、交響曲第5番やバレエ「眠りの森の美女」を完成させ、内外から一流作曲の名声を得ていました。そんな中、交響曲「人生」(ロシア語で「ジーズニ」Жизнь:英語の「Life」に相当し「生命、生活、人生」といった意味)の構想を持ちます。そして「第1楽章:仕事に対する情熱、第2楽章:愛、第3楽章:落胆、第4楽章:死」という構想で1892年12月ごろまでにはスケッチとほぼオーケストレーションも仕上げた第1楽章までを書き上げたようですが、突然気に入らずに中止します。
 その一部(「死」に関する部分?)は次の交響曲第6番「悲愴」にも反映されたようです。
 その後、1893年にロンドンでフランス人ピアニストのルイ・ディエメに会ったことからピアノ協奏曲の作曲にとりかかり、そこにこの見捨てた「人生交響曲」のスケッチを転用したようです。3楽章構成で作曲を進めたものの、第2、3楽章が気に入らず、第1楽章だけの「演奏会用アレグロ」とする考えなどもあったようですが、結局この「ピアノ協奏曲第3番」も未完のまま作曲者は亡くなります。

 作曲者の死後、完成していた第1楽章「アレグロ・ブリランテ」のみがピアノ協奏曲第3番・作品75として出版されました。
 しかし、残された遺稿をもとに、弟子のタネーエフが補筆・編集して、緩徐楽章と終楽章を完成させ「アンダンテとフィナーレ」作品79として出版します。なぜか第1楽章とは泣き別れでした。

 そこまでなら、「未完成の補筆完成」程度の話なのですが、ここからさらに「人生交響曲の復元」というおまけが付きます。
 もともとチャイコフスキー自身が途中で放棄したので、完成させることは本人の意図とは反するのですが、完成した「ピアノ協奏曲第3番」と、補筆完成された「アンダンテとフィナーレ」から、さらに「人生交響曲」を復元する試みが、1950年代のソビエトで行われました。
 これを行ったのが、ソビエトの作曲家セミヨン・ボガティレフ(1890〜1960)です。その結果は交響曲第7番とも呼ばれています。

 第1楽章:ピアノ協奏曲第3番を再編集
 第2楽章:「アンダンテとフィナーレ」から「アンダンテ」を再編集
 第3楽章:チャイコフスキーの「ピアノのための18の小品」作品72の第10曲「幻想的スケルツォ」を管弦楽編曲
 第4楽章:「アンダンテとフィナーレ」から「フィナーレ」を再編集

 これだけでもかなり「山師」の仕事なのですが、さらに21世紀になって、2005年にロシアのチャイコフスキー記念財団がこの曲の再編曲のプロジェクトを立ち上げ、同財団の委託を受けたロシアの作曲家ピョートル・クリモフ(1970〜 )が編曲を行っています。クリモフは「チャイコフスキーは4楽章を意図していた証拠がない」として3楽章構成として

 第1楽章:ピアノ協奏曲第3番を再編集
 第2楽章:「アンダンテとフィナーレ」から「アンダンテ」を再編集
 第3楽章:「アンダンテとフィナーレ」から「フィナーレ」を再編集

としています。(これって「3楽章を意図していた証拠がない」方がよほど正しそうですが)
 これは西本智実さんの指揮により日本で世界初演が行われ、未完成交響曲『ジーズニ』と名付けられて録音も行われています。何ともまあ、赤面する話です。「人生」だとちょっとダサいので、意味の分からない「ジーズニ」などと呼んで「素人受け」を目論んでいるところが、さらに胡散臭い。

 「チャイコフスキーもびっくり!」なお話でした。

(3)チャイコフスキーのピアノ曲、室内楽曲

 チャイコフスキーは、華麗なオーケストラ曲の作曲家というイメージで、ピアノ曲や室内楽曲はあまり知られていません。

 ピアノ曲では、シューマンのピアノ・ソナタ第3番 F-moll作品14、通称「グランド・ソナタ」を参考にしたといわれるピアノ・ソナタ G-dur 作品37通称「グランド・ソナタ」というものがありますが、まず演奏されることはありません。1878年という円熟期に書かれています(ヴァイオリン協奏曲が同じ年の作品35)。黙って聴けば「リストか?」と思うような華麗で情熱的。演奏効果は高いと思うのですが。
 ピアノ・ソナタとしては、若書きのピアノ・ソナタ Cis-moll 作品80というものもありますが、これはペテルブルグ音楽院を卒業した1865年に作曲されたものが没後に出版されたようです。第3楽章が「交響曲第1番・冬の日の幻想」(1866年、作品13)第3楽章の下書きになっています。
 ピアノ曲としては、このような大曲よりも、「四季」作品37bis の方が親しまれているかもしれません。月間雑誌の付録として、1月から12月までの12曲の小品からなります。6月「舟歌」、10月「秋の歌」、11月「トロイカ」あたりが有名でしょうか。

 想像通り、チャイコフスキーには室内楽曲が少ないです。
 弦楽四重奏曲が3曲、比較的若いころに、弦楽四重奏曲 第1番・作品11(1871年)、第2番・作品22(1874年)、そして第3番・作品30(1876年)が書かれています。特に「アンダンテ・カンタービレ」を第2楽章に持つ第1番が比較的有名でしょうか。
 それに、弦楽六重奏曲・作品70「フィレンツェの思い出」があります。
 室内楽の中で最も有名なのは、アントンの死を悼んで作られたピアノ三重奏曲 a-moll 作品50「偉大な芸術家の思い出」でしょうか。これは古今のピアノ三重奏曲の中でも出色のものだと思います。
 なお、チャイコフスキーは、ヴァイオリン・ソナタやチェロ・ソナタをはじめとする、特定の独奏楽器を使った室内楽を作曲していません。それに見合った演奏者がいなかったということでしょうか。

(4)チャイコフスキーのオペラ

 実は、チャイコフスキーはオペラを完成したものでも10曲作っています。未完、放棄したものも、これ以外に何曲かあります。
 つまり、チャイコフスキーが一番力を注いだのは、実はオペラだったということが言えそうです。
 当時のロシアでは、五人組のムソルグスキーは「ボリス・ゴドゥノフ」を、ボロディンは「イーゴリ公」を、そしてリムスキー・コルサコフは「雪娘」「サトコ」「皇帝の花嫁」「サルタン皇帝の物語」「金鶏」など実に15曲ものオペラを書いています。どうやら、この時代のロシアでは、オペラで成功することが作曲家としての最大の成功だったようです。

 とはいっても、現代では「ロシア語」という特質から、残念ながらロシアのオペラが上演される機会は非常に少ないのが現実です。チャイコフスキーのオペラの中では、「エフゲニ・オネーギン」がかろうじて上演される程度でしょうか。(私は、ウィーンで、当時音楽監督をしていた小澤征爾さんの指揮で「エフゲニ・オネーギン」を観ました)
 「エフゲニ・オネーギン」は、交響曲第4番とほぼ並行して1878年に完成させた傑作ですので、チャイコフスキーのファンなら一度は観ておくのがよいと思います。  
 

4.ソビエト時代の「ロシア音楽の伝統」

 ソビエト時代(1917〜1991年)には、人民に奉仕する芸術として「社会主義リアリズム」が提唱されていました。「形式においては民族的、内容においては社会主義的」と言いながら、その実態は極めて不明確なものでした。(批判されたショスタコーヴィチが「私が誠実に作曲し、ありのままに感じている限り、私の音楽が人民に「反する」ことなどあり得ません。私自身が・・・幾分かでも・・・人民の一部なのですから」と語っているように)

 この「社会主義リアリズム」という観点から、当時のソビエト音楽界、特にショスタコーヴィチらの作曲家たちが名指しで批判されたことが2回あり、その第1回目は1936年のプラウダ批判、第2回目が1948年のジダーノフ批判です。
 この第2回目のものは、1948年に開催された第1回ソビエト連邦作曲家同盟会議での共産党幹部アンドレイ・ジダーノフ(1896〜1948)の演説に基づくためにこのように呼ばれます。この演説の中でジダーノフは「正しいロシア音楽の伝統」として「グリンカ、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ」を列挙しています。

 そして、スターリン没後の1957年に開催された第2回ソビエトト連邦作曲家同盟会議で、共産党書記ドミートリー・シェピーロフがこの演説を引用したときの「リムスキー・コルサコフ」のアクセントの間違いを、ショスタコーヴィチが「形式主義的ラヨーク」の中で面白おかしくおちょくっています。(間違えたアクセントのまま、「グリンカ、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ」の歌詞を歌わせています)  詳しくはこちらの記事での「3.反形式主義的ラヨーク」を参照してください。
 
 

5.おまけ〜ロシア人の名前、そして会話での呼びかけ

 ロシアの映画を見たり、あるいはロシア文学を読んだりするときに、違和感を感じて頭が混乱するのが、人の名前、特に会話での呼びかけです。場面によっていろいろと変わり混乱することが多いのです。誰のことをいっているのか、この人とこの人は同じ人なのか? ということでわけが分からなくなって、途中で放棄したという経験も多いのではないでしょうか。(私も、これで「カラマーゾフの兄弟」を途中放棄しました)

 ということで、別にチャイコフスキーに限ったことではないのですが、ロシア人の名前についてのうんちくを。

(1)基本
 ロシア人の名前は、大きく3つの部分から成ります。「名前」「父称」「姓」です。西洋での「ミドルネーム」は「洗礼名」が多いですが、ロシアではそこが「父称」になります。

@「名前」:いわゆる「ファーストネーム」、「名前」です。ピョートル(英語のピーター)、ドミートリーなど。

A「父称」:お父さんの「名前」に「イッチ」を付けたもの(〜の、という形容詞形。つまり〜の子供、というような意味)。「ピョートル・イリーイチ」で「イリヤの子供ピョートル」ということになります。ロシアあるいはスラヴ特有のもののようです。
 日本風に言えば、「熊五郎んちの安兵衛」とか「新左エ門のせがれの甚五郎」みたいな感じ。

B「姓」:いわゆる「ファミリーネーム」、「苗字」です。ただし、これももともと「屋号」みたいなものが多かったせいか、形容詞形のものが多いのです。「チャイコフスクの」という意味の「チャイコフスキー」とか。これが最も「生粋のロシア人」の名前なのでしょう。
 そのせいで、男性に対しては男性名詞に対する形容詞形(〜スキイ、〜コフ、〜ノフなど)なのに対して、同じファミリーでも女性に対しては女性名詞に対する形容詞形(〜スカヤ、〜コヴァ、〜ノヴァなど)と変わります。姓が違うので別な家族と勘違いしないように。
・チャイコフスキー夫人 → チャイコフスカヤ
・イヴァノフ夫人 → イヴァノヴァ
・アンドロポフ夫人 → アンドロポーヴァ

 なお、ヨーロッパは陸続きなのでいろいろな出身の人がいて、西欧から来た人、グルジア(現在ではジョージア)やアルメニアなどのカフカス地方(コーカサス)やアジア(カザフスタンやタジキスタンとか)から来た人もいて、いろいろな姓が混在しています。これらの場合には、「男性形・女性形」に区別しないことも多いです。(たとえば、ショスタコーヴィチやプロコフィエフには男性形・女性形の区別なし)
 チャイコフスキーの恩師であるルービンシテイン兄弟などは明らかにドイツ系でしょう。ルービンシテイン家にも男性形・女性形の区別はありません。
 また、ベルリン・フィルの次期指揮者のキリル・ペトレンコ、リヴァプール・フィルのヴァシリー・ペトレンコなどの「〜コ(プルシェンコなど)」はウクライナ系、ヴァイオリンのバティアシヴィリやピアニストのカティア・ブニャティシヴィリなどの「〜シヴィリ」はグルジア系だそうです。

 ちなみに、「コルサコフ」がロシア人の姓ですが、これに「リムスキー」(「ローマの」という形容詞)が付いて「リムスキー・コルサコフ」という姓になったりもしています(このひと続きで姓。Rimsky-Korsakov、和名では「リムスキー=コルサコフ」と書かれることが多い)。この場合、女性が「リムスキー・コルサコヴァ」になるのかどうかは定かではありません。

(2)応用編
 基本は上に書いたように、3つに分かれるという点で、他の西欧と変わりありません。面倒なのはそこから先です。「人への呼びかけ、会話の中での呼び方」と「愛称」です。

@「呼びかけ」
 まずは、「人への呼びかけ、会話の中での呼び方」について。
 日本では「○○さん」(姓)で呼ぶのが普通、欧米では「親しい中ではファーストネームで呼ぶのが普通」です。そして、欧米でも、公式の場では「ミスター○○(姓)、ミズ△△(姓)」と姓を使います。
 これに対して、ロシアでは、親しい人には「ファーストネームの愛称」が普通で、やや公式な場では正式な「ファーストネーム」です。(愛称については後述)
 そして、完璧に公的な場での「ていねいな呼びかけ」は「ファーストネーム+父称」なのです。「おはようございます、ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ」というのが、公的な場での「プーチン大統領」への呼びかけです(ほぼ完ぺきに敬意をこめた呼びかけ。つまり「○○様、○○さん」というのが「ファーストネーム+父称」)。上に書いたように、ちょっと親しい人なら「おはよう、ヴラジーミル」(でも、ちょっとよそよそしい)もしくは「おはよう、ヴァロージャ」(親しげ)になります。

 では「姓」はどんなときに使うか、といえば、これは「役所」とか「戸籍」とか「手紙の宛先(封筒に書く)」とか、そういう「事務的、形式ばったところ」だけと考えてよいようです。「名前」ではあるが、通常の「会話」では使わない、ということです。

 ただし、ソヴィエト連邦の時代、共産党や政治の場では、さすがに「形式ばった」呼びかけをせざるを得なかったせいか、会議の場や演説の中では「同志○○(姓)」という言い方をしたようです。「タヴァーリッシ・プーチン」みたいな言い方です(タヴァーリッシ=同志、仲間)。ロシア人の感覚からすると、かなり「コチコチに形式ばったものの言い方」だったのでしょう。

A愛称
 ファーストネームの「親しい」呼び方です。通常の会話ではこれが一番多いので、ロシア文学では誰のことやらわからなくなることが多いのです。もとの名前と愛称とが、結構違っていたり、同じ名前でも愛称が複数あったりするところが、さらに面倒なところです。
 代表的なところでは、
 ・ピョートル → ペーチャ(映画「チャイコフスキー」でも「ペーチャ」と呼ばれる場面が多い)
 ・ニコライ → コーリャ (こりゃあ、わからん!)
 ・アントン → アントーシャ (これはわかるかも)
 ・セルゲイ → セリョージャ
 ・ヴラジーミル → ヴァロージャ
 ・ドミートリー → ジーマ、ジームカ
 ・タチヤーナ(女性) → ターニャ

 こんなロシアの「風習」「文化」を覚えておくと、映画や文学が少し理解しやすいかもしれません。

 
 



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