この話は実話ですが、夢のようなことを書いているので創作と思って頂いてもいいかもしれません。

「この世に偶然はない」

芹沢文学の読者にはお馴染みの親様、中山みきの言葉です。実に簡単な言葉ですが、その意味は余りにも深く、ひととしてこの世に生きている限りでは、その意味を解き明かすのは難しそうです。ただ、理屈でなく経験としてそれを掴むことはできるかもしれません。これから記すのはそんな話になります。前半は講演会とは全く関係のないような話が続きますが、最後には繋がるので辛抱強くお読みいただければ幸いです。

管理人が「奇跡のひと」と担当の医師から呼ばれていることは月報に書いたことがあります。そう言われるのは、いのちを落としてもおかしくない大手術を何度も乗り越えているからですが、最初の話は世間がミレニアムに沸く2000年末、その医師でさえ「もう助からない」と言ったオペをも乗り越えた時のことになります。

このオペの少し前、初めて軽井沢を訪れました。死を覚悟して、最後に芹沢氏の山荘を見ておきたいと考えたのです。山荘はすぐにわかりました。誰もいなければ、外から写真だけ撮らせて頂いて帰るつもりでしたが、車が停まっていて、呼び鈴を押すと、中からAさんが出てこられたのです。はじめてお目にかかることのできた芹沢氏のご家族でした。

「庭の写真を撮らせて頂きたい」とお願いしましたが、上がるようにとのお話です。そうは言われても、友人を伴っており、当然遠慮すべきでしたが、芹沢氏の山荘を見てみたい誘惑に負け、結局はお言葉に甘えることになりました。そこには作品で親しんだ家具たちがあり、これで思い残すこともないと感動して軽井沢を後にしたのです。

それから数ヶ月後、思いがけず一枚の葉書が届きます。お会いしたこともないBさんからのものでした。Bさんは芹沢氏の娘で、最初にお会いしたAさんのお母様です。葉書の内容はホームページに対するお礼でしたが、Aさんには一切その話はしていないがと思って文面を見ると、その少し前に我入道で愛好会の集いがあって、そこで名古屋のCさんからホームページのことを聞いたが、家に帰り、山荘の記録帳を見ていると、Cさんから聞いた名前を見つけ、それでお礼状をくださったということでした。

ここでCさんのことも書いておきたいと思います。Cさんは名古屋に住む芹沢愛好会の会員さんですが、知り合ったのは、このホームページに投稿してくださったからでした。ここを立ち上げた当時は、まだホームページというもの自体が世間に広く浸透する前で、パソコンの普及率も低かった頃ですから、芹沢氏のホームページはどこにも無く、沼津の文学館や愛好会のページさえありませんでした。

そういう芹沢文学愛読者の集いの場になればと開設したのですが、開設当初は物珍しさからか、多くの方が様々なご協力をくださいました。その中でもCさんは、初めて作品の提供をしてくださった方であり、芹沢文学の先輩でもありましたので、日頃から感謝していたのですが、ここでまた知らない内に、大変お世話になっていたのでした。

Bさんの葉書には、すぐにお礼状を書きましたが、Bさんにというより芹沢氏に書くのだという気持ちで、大病を抱えていることも隠さずに書きました。その手紙を投函した直後に倒れたのです。医師は手遅れだから手術は出来ないと言いました。ところが翌日になって「やはり手術しよう」と言います。不思議でしたが、僕は手術を受け、そして助かりました。

大手術ですから、目覚めるのに二週間かかりましたが、目覚めた後、父が一通の封書を届けてくれました。Bさんからで、中には病気に対する優しい気遣いの言葉と聖母教会のメダル、イエスとマリアが描かれたカードが入っていました。消印を見るとオペ当日です。それを見た時、医師の心変わりも、オペがうまくいった理由も、すべてわかった気がしました。

術後の話ですが、目覚めるまでの二週間、不思議な夢を見ていました。その夢に、天理教の二代目教祖と言われる井出クニが、鍛冶屋のご主人を伴って現れたことがありました。後で知ったことですが、Bさんは井出クニに会ったことがあると伺いました。Bさんのご縁で、井出クニに助けて頂いたのでしょうか。或いは、芹沢氏自身が助け船を出してくださったのかもしれません。

いのちの恩人のBさんにお会いできたのは、また少し後のことです。その前に、Dさんのことを書かなければなりません。DさんもBさんの娘ですが、いのちが助かった翌年の5月、はじめてホームページを見て、おたよりをくださったのでした。それもお母様から聞いたのではなく、ご自分で検索されて、沼津の記念館のページだと勘違いしてメールをくださったのでした。

そんなありがたい誤解から、親しくメールをやりとりしていただくようになりましたが、知り合って一年後、海外にお住まいのはずのDさんから突然お電話が入りました。「私がわかりますか」と明るい声で、軽井沢の山荘にいるから来ませんかと誘われたのです。ひとに迷惑をかけない、出過ぎた真似をしないと自らに課していますが、悩んだ末に、お会いしたい想いに負けて伺いました。それがBさん、Dさんとの初めての出会いでした。

山荘では、芹沢氏のお弟子さんである梶川敦子さんを呼んでお話を聞かせてくださったり、Dさんと想い出の場所を散策したりと夢のような時間で、大袈裟な言い方ですが、生きていて良かったと思ったものでした。そのいのちを与えられたのも、そこにおられるBさんと芹沢氏のお陰に違いありませんでしたが――。

それから3年後の秋、また一通の思いがけない封書が届きました。至文堂の編集長からで、国文学「解釈と鑑賞」への原稿依頼でした。「解釈と鑑賞」と言えば、過去に芹沢氏の特集も組まれたことがあって、持っていた本を確認してみましたが、立派な本で、とても僕が原稿を書くような本ではありません。編集長とも面識はなし、作家でも評論家でもないのに、なぜ依頼が来たのか不明でしたが、躊躇もなくお引き受けすることにしました。

それと言うのも先の手術で、目に見えない存在から「この世に偶然はない」ということを散々聞かされていたので、依頼されるからには理由があるのだろうと素直に考えたからでした。書き始めてみると、指定のタイトルが「野の花」ということで、このエッセイは読んでみればすぐわかりますが、ひととの出会いに偶然はないということが如実に表れた作品で、スイスイと文章が書けるのです。編集長は神の使いだろうかと思いましたが、そうではありませんでした。

話が戻りますが、その少し前にホームページに投稿がありました。Eさんという初めてのご婦人からでした。管理人の月報に共感しましたと、ありがたいおたよりで、その後、何度かメールをやりとりさせていただくようになりました。Eさんが何をされている方か、存じませんでしたが、何度目かのメールでF先生の奥様だと知ったのだと思います。F先生は大学で国文学を研究されている先生で、ホームページの初期にリンクを依頼されたことがあり、また教え子の方とも交流があって、旧知でしたから、ご夫妻でホームページを見て頂いていたことに、恐縮したり喜んだりしたのでした。

「解釈と鑑賞」は翌年の5月1日に発売され、わが家にも送られてきましたが、編集者を見て、自分の迂闊さに気づきました。F先生ご夫妻だったのです。奥様のE先生がご指名くださったのに違いなく、天の使いは編集長ではなくE先生なのでした。

「解釈と鑑賞」が発売された3日後は芹沢氏の誕生日ですが、その日、愛好会のGさんがサロン・マグノリアで講演を行うのに、家人が行きたいと主張して、困りました。と言うのは、芹沢氏の家にはそれまでに二度行ったことがありますが、一度目は玄関先でお手伝いの婦人とお話しただけで、二度目は芹沢氏が天に帰ったことを知り、何の考えもなく駆けつけて、門の前をウロウロし、お孫さんであろう少女が家に入るのに出くわしたくらいで、近づきがたい聖地との想いが強かったからでした。

一人ならば、とても行けませんが、家人が行きたいのなら、ついていくもよしと腹を据えて申し込みましたが、参加してみると、一番前の席にF先生ご夫妻が座っておられたのです。それを知った時、喜びよりも、家人も神の使いだったかと驚いたのですが、芹沢氏が用意してくれたのに違いありませんでした。講演が終わるとE先生がいらして、一緒に写真を撮ってくださったが、4人の上には芹沢氏が微笑んでいて、その写真は今では家宝になっています。

その会で、芹沢氏の娘さんであるHさんとIさんにも初めてお目にかかりましたが、それから2年後の春、また思いがけないおたよりを頂きました。Iさんからで、芹沢氏の誕生日に講演をしてほしいという依頼でした。実はその時、入院中で、とてもお引き受けできる状態ではなかったのですが、担当の医師は、3年前なら助からない状態だが、今は新しい治療法が出来て、簡単な手術だから、君は運が良いと言うのです。

これは医師の後ろで、芹沢氏が「準備はしたから、後は働きたまえ」と笑っているようで、引き受けるしかないのだろうと観念しましたが、喉の神経が麻痺して小さい声しか出ないことをどうしようかと考えていると、Iさんは家人が代読するスタイルでも良いと言います。もうお引き受けするしかありませんでした。

実際、手術は嘘のように簡単に済み、昼過ぎから始まって、夕方にはもう面会の家人と話しているというほどで、一週間後にはもうベッドの上で誕生記念講演の原稿を書き始めていました。3年前ならばいのちを落としていたのに、今だから簡単だったということが、全くよくわかりませんが、天が動くと、こんな不思議なことがあるのかと、ただただ驚いたのでした。

講演会は無事に終了しましたが、終わってしばらく後、またどういった計らいからか、Iさんから講演録を冊子にしたいとお申し出がありました。その冊子を作って頂く際、講演で話した序章と終章がここに書いたような話でしたが、芹沢氏の誕生記念講演録に載せるということが恐れ多くて、その2つは削除させて頂きました。すべて芹沢氏の計らいですから、それで良かったのです。

12年前、天に帰るはずだったベッドの上で、見えない存在から「偶然はない」「不安はいらない」と教えられ、それ以来ただ素直にそれを信じて生きてきましたが、そういう目で見ると、世の中というのは実に単純な世界で、いのちを大切にして、不安を持たず、ただ天に感謝して生きているだけで、こころに争いもなく、優しい想いが胸に溢れてくることに気づいたのです。

生きていれば、辛いことは多々あって、いっそ死んだ方が楽だろうと思うこともありましたが、あの日々以来、そんな辛いこともなくなって、かなりボロを纏った身体ですが、穏やかな一日を天に感謝して生きているところに、久しぶりのF先生の講演会ということで、そうは言っても沼津は遠いなあと悩んだのですが、また神の使いの家人に尻を叩かれ、重い腰を上げて参加することにしました。

ただF先生、E先生にお会いできれば良かったのですが、会場には講演を依頼してくださったIさん、いのちの恩人のBさんがいらっしゃって、初めて聞くF先生の講演も楽しく、来て良かったと喜びのうちに質問コーナーに入りました。どんな方が質問されるだろうと興味を持って見ていると、最初に手を挙げられたのが、あの名古屋のCさんではないですか。喜びで家人と顔を見合わせましたが、その後の質問者はわが家のひとつ後ろの席に座っておられた年輩の紳士で、それがJさんで、またまた驚いたのでした。

Jさんは、芹沢氏の「人間の幸福」にも登場する人物で、やはりホームページを立ち上げた初期の頃、義理の娘さんからの投稿があり、Jさんが自費出版している芹沢氏との書簡集を無料で提供してくださるという投稿でしたが、ここでもその書簡集を頂いて、記事を掲載させて頂きました。そしてその心意気に打たれて、手に入りにくい芹沢文学を、まだ読んだことのない方に無料で差し上げるという試みを始めたのでした。

会が終わり、Cさんに長年のお礼を伝え、固い握手を交わしましたが、そこにはBさんもいて、いのちの恩人に囲まれて、ただただ芹沢氏と天に感謝したのです。「偶然はない」と言いますが、これが偶然でないならば、芹沢氏が用意してくださったのに違いなかったからです。ただ意気地が無くて、Jさんには挨拶も出来ませんでしたが、ひと目、拝見できただけで良かったのです。生きていれば、こんなありがたいことがある。ああ、生きていて良かったと思えたのですから。

最後にE先生、F先生に挨拶して帰路に着きましたが、疲れ切って帰る道でおかしなことがありました。沼津駅で、もう3分前に発車しているはずの電車が待っているのです。掲示板はすでに次の電車を表示していますが、確かにその前の電車です。「これはどうもお疲れ様ということらしいね」そう家人に笑いかけましたが、その後の乗り換えは全てスムーズで、思ったより疲れもなく家に帰れたのでした。

「この世に偶然はない」というのは、「この世に起こることには、すべて天の計らいがある」ということなのかもしれません。誰しも天に与えられた使命(仕事)を果たし、不安を持たず、天に感謝して生きていれば、この世は天国のようになって、幸福に生きられるというだけのことなのかもしれません。

思い返せば、支えて頂くばかりで、何の恩返しもできない自分が情けないばかりです。自分に何ができるか、そう考えた時に、思い浮かぶことは一つだけで――それは、いついのちを落としてもおかしくないような大変な時代だからこそ、何が起ころうと悔いのないような日々を、与えられたいのちを大切にして過ごすことではないでしょうか。それだけが皆さんやこのいのちを与えてくれたものに対する唯一の恩返しのように思えて。

――最後までお読みいただき、ありがとうございました――

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