青年時代に友人に勧められて読んだ『懺悔記』からずっと魂の師として慕い続けた芹沢氏に、初めて立ち寄った芹沢文学館(現・芹沢光治良記念館)で、見えないものに導かれるように出会います。その日から、著者と芹沢氏の長く深いこころの交流が始まりました。

読者はわが子 このお二人の関係について、巻頭の芹沢氏次女、文子さんの原文をそのまま掲載させていただくのが最も適当なようです。(以下、青字は本文より)

昭和51年春、文学館での講話をすませ、私の車に乗りました父は、いつもは車に乗りますと、ひと仕事すませ、ホッとするせいか、ほとんど無言で帰郷するのでしたが、その日は、すぐ、
「眼光の鋭い紳士が最前列に座っていて、それはそれは、熱心に話を聞いてくれましてねえ。その人の熱い波動が伝わってきて、思いがけず長い時間、気持よく話をしてしまいましたよ」と申しました。――

その紳士こそ山本氏でした。以来、山本氏は芹沢氏宅を訪れるようになり、波動の合う二人はそれこそ本当の親子のように、親しく、それでいて礼節のある手紙のやりとりを続けることになったのです。

手紙の内容はプライベートな家族のことから作品の主題にまで及んでおり、作家芹沢光治良のある一端に触れられると共に、こころの低いお二人の言葉の端々に、教えられることが限りなく潜んでいます。

我入道で、先生のお話をうけたまわったその瞬間から、私の体内に変わったものが蠢くのを感じていましたが、四月二十四日、先生のお宅にお伺いした宵、自分の体内に何か温かいものが入り込んでいることを、はっきりと自覚しました。

これは、昭和51年5月1日の山本氏から芹沢氏に宛てた初めての書簡の一文ですが、芹沢氏が「波動が合う」と表現した感覚が、山本氏にはこのように感じられたのではないでしょうか。

私は、書いた作品がどんな影響を与えるか――ということは、あまり考えないんです。自分のために書くという風なことが多かった。だけど、自分の作品が、少なくとも、「読む人の魂を動かすこと」――それだけはしたい、と思っていた。ところが、奥さんが、そういう風に、「心を動かされることによって、私自身がこんなに幸せに生きて、そして主人を有り難く思い、感謝をしているのです……主人も、先生の本から得たもので、『自分が先生だったらどうなさるだろうか』という風にして、幸せな時に処しているんです」と、話して下さるのを見て、私は何か、自分に物を書く人の責任という風なことを感じて、これからの短い残った間の、読者が無くなっても、こういう人のために、まだ四、〇〇〇枚(原稿用紙)残っているんだから、何かを書いてこれが出版社が引き受けなくっても、何としてでも、生きていこうと――

昭和53年12月4日の書簡に、参考として掲載されている、同年11月5日の芹沢氏の芹沢文学館での講演要旨より抜粋。主人は山本氏、奥さんとは山本氏の夫人三代子さんですが、芹沢文学がお二人の魂に影響を与え、そのお二人のおこころが芹沢氏の魂に影響を与えている。そんな魂の共鳴の様子が感じられる一文です。『人間の幸福』の中では、このお二人をして、夫婦とは、妻は夫の言葉だけを聞いていれば幸せになり、夫は妻を半身として大切にすれば、仕事でも成功し、堂々とした人格を持てる見本だと書いています。

昨年十月十六日、三代子と参上いたしました時、「丁度、原稿を書き終わって、午前中、推敲もしました。久し振りに呻吟しました。書き出して二年もかかったというのは、これが初めてです……自分が書いているのではなくて、書かされているということを、初めて知りました。書こうと思っても筆をピタッととめられてしまうんですからネ。書かされている、なんていうと、世間の人や仲間の人はあれこれいうので言えませんが、本当に初めてわかりました」と、仰いました。三代子が何時頃出版されるのでしょうか、とお尋ねしましたところ、「来年の藤の花の咲く頃」とも仰いました。

十三章では、オートヴィルの友人をして先生の宗教観を浮き彫りにさせて下さいまして有難うございます。昨年七月二十三日上京の際、新谷主幹とお邪魔して、先生のサロンでジャックの言葉をお聞かせいただいて以来、私の生き方に基本的方向が示唆された、と信じています。

先生がこの御作品に呻吟され、途中筆を止められたのも、この十三章を書かしめるための大いなるものの配慮であった、と思えてなりません。

昭和56年5月3日の書簡より。この原稿とは、『愛の影は長く』であり、ここで書かれていることが、『神の微笑』へつながる序章となっています。

先生は腰痛がひどく、苦しんでおられた。

昭和57年10月23日の書簡より。

私もおかげで健康になりましたが、足が弱って、歩行練習を毎日しております。もとどおり何キロも歩けるまではなかなか日を要するが、食慾旺盛で、よくねむり、全身は健康で、勉強もできるので、喜んでいます。

昭和58年4月15日の書簡より。妻を永久に送り、気づいたときには腰痛に悩まされていた芹沢氏の様子と、オートヴィルの高原で行った絶対療養のお陰で、その腰痛から蘇生した様子が描かれています。この事は、『晩年の朝夕』に詳しく書かれています。

存命の親様が、十月九日の午後突然、私の前に現れ、若い宗教学者小平教授をまるで証人のように前にして、いろいろお話があって、九年間に書くように神の頼みだとて私の使命を説かれました。それを機会に、私の全身に生気がみなぎったように、元気になり、私もその使命を果たそうと決意しました。

昭和60年10月17日の書簡より。存命の親様とは伊藤青年を通じて話す天理教祖、中山みきのことですが、実証主義者の芹沢氏が、他人に話せば笑われそうな事を、山本氏には、この体験の8日後にはもう書いているというのは、山本氏への信頼の深さが窺えます。

また、この書簡の(注)にもありますが、芹沢氏はこの後、数えて9年目の平成5年に天に帰られています。その事を思うと、不思議な気持ちになります。芹沢氏はこの時、自身の死期を悟ったのではないしょうか。親様はなぜあえてそうわかるような発言をしたのでしょうか。「使命を果たそうと決意しました」という芹沢氏の言葉に、この件の重さを感じます。

第九章では、先生があらかじめ、
「今度は、実在していない二人の女性――しかも、基本的には、カトリックの信者で、大変幸せな女性を主人公にするように、と言われてねぇ――」
と、仰っていましたお言葉の具現を、拝読させていただきました。

平成元年8月18日の書簡より。二人の主人公とは『人間の幸福』に登場する須田ふみと中村英子ですが、山本氏は、芹沢氏の自宅サロンで、このように書いている最中の作品の裏話を聞くことも度々あったようです。蛇足ですが、ジャックについては、実在だ、架空だと読者の間で意見が分かれていますが、この部分を呼んだだけでも、実在したのではないかと思わせます。もしジャックが架空の人物であれば、英子やふみ以前に架空の人物を書いていたことになりますから、あえてここで架空の人物を登場させるように言われたと告白する必要がないからです。

「この体が、どうしてこんなに楽になっていくのだろうか」……山本さんが一言一言受け止めて下さるにつれ、いつしか背筋が伸び、肩の凝りも無くなりました。ここ数年、体調が悪いため、何度も入院を繰り返し……省略……長年の悶々としていたものが、スッキリと消えてしまいました。

平成3年1月25日の書簡より。これは、ある夫人が山本氏に会った時の感想を、電話で山本氏に伝えた内容ですが、先に書いたように、山本氏も芹沢氏に初めて会った日に、同じような不思議な力を感じています。この事は、山本氏が芹沢氏から影響を受け、またご自身の弛まぬ努力の結果、芹沢氏と同様に自ら光り輝く存在になられたことを現しているのではないでしょうか。

この山本氏は、他にも『母のぬくもり』『失ったもの得たもの』『生かされて日々』『こころは大丈夫よ』『こころ豊かに美しく』という5冊の著書を自費出版で出されています。芹沢氏に早くから「何か書いてみては」と勧められていたという山本氏の文章は、どれも飾りが無く、こころを打つものばかりですが、そのお人柄ゆえか、交友関係も広く、瞬く間に1000部、2000部、……と多くの方々の手に渡って、読者を励まし続けているようです。

当サイトも、その恩恵を受けた一人であり、ここに雑文を掲載させて頂くと共に、厚くお礼申し上げます。

――最後までお読みいただき、ありがとうございました――

▲ページTOPに戻る