芹沢文学とは、人生そのものを考えさせてくれる学問であり、当館HPもその趣旨に添って制作していますが、このページはその趣旨からは外れるでしょう。ただ単に管理人の氏への愛情というか感傷から作った個人的な人間関係の情報なので、TOPページにはリンクしていません。芹沢氏がこういう方々に囲まれながら作品を創作したのだなと参考にしていただければと思います。また架空な方も含まれている可能性もあります。※存命の方でも敬称は略させていただきました。

                          

 
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藍川清成
妻の父。愛知電鉄社長。『選挙雑感』『巴里便り』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『物言わぬ神の意志に言葉を』『神の計画』『三人の天皇を送った』『これも純粋ですか』『文学と天才教育』『書斎の中に大理石の素材を持ちこんでいるのだが――』『小説とはやくざの業か』『虱になやんだ日々』『天才詩人』『ポール・ジャルダン』
藍川しむ
妻の母。妾の子を育て、戦時中は兵隊の母となって活動した。『捨て犬』『小説のモラル』『腕時計』『神の微笑』『ある創作の秘密』『落葉松の林を秋風がわたって』
青木和子
『サムライの末裔』の翻訳者。外交官夫人。後に自分で小説をパリで発表。『前章で終わらなかった』『仏訳された小説』
青山二郎
創元社から出版された『孤絶』の装釘者。『宗教をテーマの作品だというけれど』
青野李吉
芹沢氏に立候補を要請した文芸家協会会長。『立候補せざるの弁』
阿川
ペンクラブ会長時、専務理事として、川端亡き後の京都でのペンの国際大会を支えた。『レマン湖のほとり』『川端さんの死について』
芥川龍之介
作家。『人物と名前と創作』
浅田夫人
51年の渡欧の際に知り合った日本料理店のマダム。『巴里夫人』のモデル。『パリで会った日本人』『パリで死んだ二人の女主人公』
安達博士
キュリー研究所でラジウムの研究をした。自然科学と学問に対する情熱を学んだ。『巴里便り』
アナトール・フランス
フランスの作家。『現代日本文学』
阿部知二
作家。ロンドンペン大会の後、パリに寄り、浅田夫人を短編に描いた。『現代日本文学』『世界人の表情』『立候補せざるの弁』『パリで死んだ二人の女主人公』
阿部光子
他人の原稿を読んだ最初。長い歳月を経て作家となる。彼女の紹介により自宅である牧師の講義を10年聴いたことが『われに背くとも』に現れている。『神の微笑』『神の慈愛』『真実の宝をのこす』『素直に賞を喜ぶ心』『他人の原稿を読んで』『「われに背くとも」と「遠ざかった明日」」との余韻』
アベール夫妻
ボングラン夫人の両親。鶏を飼った。『巴里便り』
荒井寛方
星野温泉で会った画家。『美しい朴の一葉がまた散った』
荒木巍
『改造』の懸賞作家。芹沢氏の文壇付き合いについて心配して、伊藤整武田麟太郎を連れてきたり、林芙美子と共に久米正雄に会わせようとした。『わが青春』『小説とはやくざの業か』『作家は書けなければ死に等しい』『小説家の不運』『改造友の会の頃』『わが書斎の珈琲はうまかった』『他人の原稿を読んで』
アラン
芹沢氏が学生に講義した「幸福論」の作者であるフランスの哲学者。『現代日本文学』
有島武郎
作家。芹沢氏に文学の師が3人あった。バルザックアンドレ・ジード、そして有島である。一高時代に有島がホイットマンの詩を講義する「草の葉会」に出席した。『コクトオと一晩』『私の小説勉強』『人物と名前と創作』『巴里便り』『私の読書遍歴』『良く年老いる』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『小説家の運』『わが青春』『神の微笑』
アルベル・ヘルマン
デコブラの話に出たフランスの代表作家。『作家の秘密』
アルマン・ピエラール
芹沢作品の仏語訂正者。『偶然と恩寵』『年の瀬』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』『前章で終わらなかった』『パリで死んだ二人の女主人公』『仏訳された小説』『ある創作の秘密』『神の微笑』『神の慈愛』
安生鞠子
中学校長の紹介で学費の面倒をみてもらった安生家の末娘。唯一の恋愛相手。『自己を語る』『巴里便り』『わが青春』『私の胸の奥には』『落葉松の林を秋風がわたって』
アンドレ・シャンソン
51年のペン大会で知り合ったアカデミー会員でフランスペンクラブ会長。パリで娘二人のリサイタルを開いてくれた。『世界ペン大会に出席して』『世界人の表情』『友好国際賞と娘』『九年ぶりにパリから帰って来た娘』『ある創作の秘密』『私はソ連でデカンショを唄った 』『前章で終わらなかった』『仏訳された小説』
アンドレ・ジード
作家。芹沢氏にとって3人の師のひとり。フランスのヴラン書店で初めてジードの名を知った。勧められた『狭き門』は仏語の教科書として読むのが苦痛で中途で挫折したが、スイスで闘病中『背徳者』を読んで、自分が変わるほどの感銘を受けた。叔父のシャルル・ジードの書斎で初見したが、緊張で満足に話すこともできなかった。『伯父さんの書斎で見たジード』『デコブラ会見記』『ルポルタージュについて』『支那の民衆』『作家の秘密』『何故小説を書くか』『現代日本文学』『パリの文壇の内部』『良く年老いる』『冬の空』『書くことは生きることです』『私は敗戦前こんな態度で創作した』『佳き晩年を』『随想について』『レマン湖のほとり』『ある創作の秘密』『わが青春』『「大自然の唯一の神」に支えられ』
アンドレ・ベレソール
後にアカデミー会員となった文芸批評家。ボングラン夫人の下宿で同宿した。芹沢氏が作家になったと知ったときには、自分の影響だろうと喜んだようだが、実際ベレソール氏のお陰で留学生活が豊かなものになった。『フランスで文壇に出るには』『春宵独語』『私の小説勉強』『作家の秘密』『現代日本文学』『円相場』『男子の愛情』『イエスの生誕について』『パリで会った日本人』『天国の創造は夢ではない』『ドゴールとマルロー』『オルレアンの白い水車』『良く年老いる』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『パリで会った三木清』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『三岸節子さんと宮坂勝君』『新年は私にはないが』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』『私は孤独だった』『バルザックは私の師匠』『パリで死んだ二人の女主人公』『私の裡に棲む鬼』『最後の『ひろば』に』
アンドレ・マルロー
フランスで最も偉大な作家。川端康成が京都の日本文化研究国際会議の目玉として出席依頼に行く予定が、川端の死で芹沢氏突如代役として会いに行った。『ドゴールとマルロー』『フランスの友へ』『レマン湖のほとり』『川端康成氏の死について』『川端さんの死について』『佳き晩年を』『四十五年ぶりのパリの春』『随想について』『老齢か』『静かな人生のたそがれ』
アンドレ・マンブレ
51年に渡欧した際のフランスペンクラブ代表。『世界ペン大会に出席して』『ヨーロッパ便り』
アンリ・ベルグソン
ラバスール君に連れられて会った。ノーベル文学賞も受賞している哲学者。芹沢氏は唖の娘に愛情を込めて指導しているベルグソンの様子を見て、西田哲学との相違を後に作品にした。『唖者に語るこころ』『記憶について』『宗教をテーマの作品だというけれど』
アンリ・マルセル
ベレソールの甥。ベレソールと別れた夫人の家で夏休暇を一緒に過ごし、芹沢氏の可愛いフランス語の先生となった。62年に再会。『オルレアンの白い水車』

 
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井口
九大助教授。芹沢氏がレーザンで療養中に、隣のボーチェ博士が建てた学生サナトリウムで療養していた。『平和の国』『ノーベル賞候補者夫人』
池島信平
文藝春秋社長。51年の渡欧の際の同行者。パリでは同じアパルトマンの5階桶谷教授と同宿した。当時、「身体の弱い貴方が元気でいることが読者の励みになるから長生きしてください」と氏を励ました。『世界ペン大会に出席して』『ヨーロッパ便り』『スイスの旅』『世界人の表情』『第三次世界戦争』『西欧の表情』『パリの表情』『パリ祭』『マチスに会う 』『組閣難』『パリでピアノに精進する日本娘』『パリで会った日本人』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『パリで会った天才画家』『あの二人は健在であろうか』『思いがけない場所で』『四十五年ぶりのパリの春』『小説家の不運』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』『「われに背くとも」と「遠ざかった明日」」との余韻』『レマン湖のほとり』『ノーベル賞候補者夫人』『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』
イサドラ・ダンカン
踊り手。ノーストッキングで世人から批判された。『西欧の表情』
石井
フランス駐在大使。『巴里便り』
石井好子
カメンスキー夫人の家に止宿した音楽家。『西欧文明の一つの灯』
石川剛
一高のフランス語教授。メリメの小説を共訳した。芹沢氏の才能を認めて熱心に文学部を勧めた。『私の小説勉強』『私の読書遍歴』『わが青春』『一高時代に書いた処女作の思い出』『神の計画』『不幸であるから小説を書くのか』『私の胸の奥には』
石川達三
作家。昭和8年、改造の懸賞に応募するとて、原稿を読んでほしいと芹沢宅を訪れたときからの付き合い。51年の渡欧に同行した。『世界ペン大会に出席して』『ヨーロッパ便り』『スイスの旅』『世界人の表情』『西欧の表情』『パリの表情』『パリ祭』『ルイ・ジュベの死』『マチスに会う 』『パリでピアノに精進する日本娘』『パリで会った日本人』『立候補せざるの弁』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』『パリで死んだ二人の女主人公』『レマン湖のほとり』『ノーベル賞候補者夫人』『心友・石川達三君の死』『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』
石黒忠篤
農商務省農政課長。パリから帰国した際、政策の変更で復職が認められず、中央大の講師を世話してくれた。『競馬官の頃』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』『小説とはやくざの業か』『役所時代のこと』
石丸助三郎
小学校に入る前年、下の叔母に連れられて養子の面接に石丸別邸を訪れた。石丸氏は気に入ったが、妾の邪魔などもあって養子の話は成立しなかった。帝大に入学前の冬休み、沼津から帰郷する電車で再会。家に下宿するように勧められ、帝大入学と同時に下宿する。1年の夏休みに沼津に誘われて初めて養子の時の石丸氏だと気づき、それからは実の親子になった。『巴里便り』『おいぼれ剃刀』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『神の計画』『私の胸の奥には』『落葉松の林を秋風がわたって』『親と子との関係について』
石山つる
我入道の幼なじみ。晩年、文学館で再会した。『初恋の人』
市河彦太郎
沼津中学の1年先輩。芹沢氏を『たんぽぽ』という同人雑誌に誘った。たんぽぽは学校の勧めで3号で廃刊した。後に外交官となり、赴任先の国々で日本文学書を寄贈し、表紙にたんぽぽ文庫と朱印を押した。有島の草の葉会や林芙美子を紹介した。『レマン湖のほとり』『小説家の運』『たんぽぽ』『「人間の運命」のモデルについて』『文学の胞子』
井出国子
播州の親さんと呼ばれた2代目天理教祖。天理教30年祭で神が表に現れると言われたとおりに、初代教祖中山みきの導きで教祖殿に座ったが、信者から引きずり出された。妻の金江はパセドー氏病で手術の直前、父藍川清成の運転手の紹介で井出に会って助けられた。『神の微笑』『神の慈愛』
井出局長
共に農商務省に就職し、最後まで残った。『競馬官の頃』
糸井教授
帝大経済学部教授。芹沢氏を研究室に誘ったが、渡欧先で急死。『私の読書遍歴』『良く年老いる』『わが青春』『神の計画』
伊藤整
戦前多くの作家が芹沢宅の珈琲を飲みに集まったが、そのひとり。ペンクラブでは副会長として共に活動した。『巴里便り』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『小説とはやくざの業か』『四十五年ぶりのパリの春』『小説家の不運』『わが書斎の珈琲はうまかった』『レマン湖のほとり』
伊藤幸長
親神がその身を預かり、天理教祖中山みきの教えを世に伝えている。後に親様の命で大徳寺昭輝に改名。『神の微笑』
猪熊弦一郎
『巴里に死す』の挿絵を描いた。『パリで死んだ二人の女主人公』
イブ・ガンドン
フランス・ペン会長。『フランスの友へ』『舞子は生きた観音様です』『老齢か』
岩崎先生
小学校5年の時の担任。生徒がうんかの最終でもらうお礼で少年雑誌を買って回覧させた。『自己を語る』『ある質問に』
岩見
フィリピンで便りを無くした学生。『ヨーロッパ便り』『鳩と凧』

 
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ウェドウッド
世界ペンで講演した女性作家。『世界ペン大会に出席して』
植松重雄
家庭教師の生徒。中学卒業後、高校の入学が9月で、それまでの間代用教員をすることになったが、中学の校長の紹介で植松家に家庭教師として厄介になった。飯に骨があるような生活から脱して、初めて家族の団らんを知った。『わが青春』『「人間の運命」のモデルについて』
植村甲午郎
役所時代の人事課長。作家になった芹沢氏を見守った。『役所時代のこと』
内田
家庭教師を世話してくれた帝大生。彼の失恋話を聞くうちに『失恋者の手紙』ができた。『わが青春』
内村鑑三
軽井沢に別荘を建てる前年、星野温泉の貸別荘で一夏過ごしたが、その時星野別館に滞在していた宗教的哲人に初めて会った。その後はよく温泉で一緒になった。『童女』『美しい朴の一葉がまた散った』
内村祐之
戦後星野の共同温泉がなくなって、室内浴場を利用したが、そこでの湯の友。『神の慈愛』『美しい朴の一葉がまた散った』
宇野千代
『巴里夫人』は彼女の発行する雑誌『スタイル』に掲載された。『巴里便り』『ヨーロッパ便り』『パリの表情』『パリで死んだ二人の女主人公』

 
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エドメ・ド・ラ・ロシュフコー公爵夫人
留学時、夫人のサロンでポール・ヴァレリーに会ったが、57年の東京のペン大会に夫人が出席し、59年の渡欧の際、ド・ベールの戯曲が上演された席でサロンへ再び招待された。『パリの文壇の内部』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』『もうスイスの高原に雪が降ると言う』
エドワール・エストニエ
留学時に知り合った作家。『巴里に死す』はこの人に捧げられている。『現代日本文学』『ヨーロッパ便り』『パリで死んだ二人の女主人公』『宗教をテーマの作品だというけれど』
エリオット
フランス詩人連盟から友好国際賞を受けた英ノーベル文学者。『友好国際賞と娘』
エリーズ
ボングラン夫人の下宿の金髪の女中。正月に下宿人たちをキスで起こして驚かせた。『新年は私にはないが』
エリーズ・マッセ
フランス留学の際、芹沢夫妻のフランス語の家庭教師をした。氏は10ヶ月で辞めたが、妻は3年以上続けた。オーストラリア革命前、ハプスブルグ王家の姫君の女官をしていたが、王家がスペイン亡命する直前に暇をとり帰国。経済的に困難なことも多く、家庭教師などして生計を立てた。大戦中に亡くなったが、姪のマルセル夫人に写真、名刺、手紙、日本製の絹ハンカチ、扇子、エリーズが赤筆を加えた『パリ散歩』という氏の仏語の作文を残した。姉はマルト・マッセ『神の微笑』『三十数年間大切にしたハンカチ』『偶然と恩寵』『喪服を着た貴婦人』

 
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大石
東大分院の耳鼻科医長。『原爆の娘を救え』
大内兵衛
帝大教授。『フランスの母と日本の母と』
大江健三郎
ノーベル賞作家。『神の微笑』
大岡昇平
作家。62年、ソ連の作家同盟から指名されて、芹沢氏と共に3週間ソ連に招待された。『ソ連を旅して』『私はソ連でデカンショを唄った』『親孝行について』『『椿姫』に嗚咽した民衆』『神の微笑』
大塩先生
沼津中学の国語教師。4年間、和歌の指導を受けた。『この道を生きた歌人』
大高正人
風に鳴る碑の設計者。『風に鳴る碑』
大谷藤子
改造友の会の小説家。阿部光子のことを頼んだ。『素直に賞を喜ぶ心』『改造友の会の頃』
大塚誠
一高の親友。『わが青春』
大畠
天理教真柱の学友。芹沢氏に「たねまき飛行」の選を依頼した。『「たねまき飛行」によせて』
大森義太郎
一高の同級生で「改造」の寄稿家だった経済学者。『小説家の運』『著作集の読者へ』
大山元帥(捨松)夫人
松葉かきの最中に出会った。『リンゴとビスケット』『わが青春』
岡島はる(仮名)
小学校時代の同級生。芹沢氏よりも勉強ができたが、貧しいために進学できなかった。だが、その後も苦労して勉強を続け、幸せな家庭を持ったが、晩年は周りの人に頼られるような立派な女性になった。『野の花』
岡島藤人(善次)
養徳社、天理時報社長。戦時中の出版が困難な時期に『懺悔記』の出版に協力した。『神の微笑』『虱になやんだ日々』『宗教をテーマの作品だというけれど』
岡野喜一郎
中学の5年後輩。駿河銀行頭取で芹沢文学館や記念碑の創立者。祖父は岡野喜太郎『ある人の死に』『風に鳴る碑』『晩年の朝夕』『神の微笑』『年の瀬』『ある質問に』『落葉松の林を秋風がわたって』『初恋の人』『赤い服』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』『或る女流歌人への手紙』
岡野喜太郎
沼津の偉人。駿河銀行創立者。101歳で他界する2年前に「離欲」の秘薬を授かる。『ある人の死に』『離欲』
岡本かの子
ペンクラブで知り合った。よく長電話を付き合わされた。『この道を生きた歌人』
小川先生
沼津中学5年の時の国語教師。4年の時、和歌と俳句が一等を得たが、先生は「他の才能を枯らすから俳句は若いうちはするな」と厳命した。『この道を生きた歌人』『或る女流歌人への手紙』
荻野綾子
古沢の先生。『パリで会った日本人』
小串
芹沢文学愛好会会員。『文学の胞子』
桶谷教授
東京工業大学教授。51年の渡欧の際のパリでの協力者で、止宿するアパルトマンに芹沢氏と『パリで会った日本人』『あの二人は健在であろうか』『思いがけない場所で』
大佛次郎
一高の1年先輩。『人生をテーマの小説』
お千賀叔母
三吉叔父の妻。千手観音のような働き手で、四人目の子で死産した優しい叔母。『自己を語る』『私の小説勉強』『水車小屋と炭焼』『巴里便り』『わが青春』『神の微笑』『神の慈愛』『次郎の厄介になった叔父夫婦 』
小野吉郎
フランス大使館員。「マダム・アイダ」を仏訳した。『パリで死んだ二人の女主人公』『仏訳された小説』
小野塚博士
シャルル・ジードと親しかった経済学者。『伯父さんの書斎で見たジード』
おまつ
息子が戦地フィリピンへ行く船で消えた小母(兄妹か)。『ヨーロッパ便り』
オルダス・ハックスレー
「作家と読者」という評論を書いた。『何故小説を書くか』
オールド
51年の世界ペン大会で開会の辞を述べた。『世界ペン大会に出席して』

 
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葛西善蔵
小説家。『人物と名前と創作』
風早八十二
留学の際の友。『パリで会った日本人』
ガストン
ソルボンヌ大学の同窓生。後にポアチエ大学助教授。『円相場』
片岡鉄兵
芹沢氏が作品を見ていたの原稿を誉めてくれた友人。『真実の宝をのこす』
片山敏彦
詩人。「聖女ベルナデッド伝」を贈られた。『偶然と恩寵』
勝田
畜産局時代の上司。宮内省の馬場で共に乗馬の練習をした。『役所時代のこと』
勝沼博士
名古屋医大教授。パリから帰国した芹沢氏を診察して、「これくらいなら日本では全快にするが、さすが人命を尊重するフランスだ」と日本で結核にかからなくて良かったと告げた。『選挙雑感』『わが青春』『神の微笑』
勝本清一郎
評論家。コクトオを接待した。『コクトオと一晩』
金山
戦時中ローマ法王に庇護された日本人。51年の渡欧の際、ローマ法王に謁見する際、世話になった。4女玲子が夫の任地ソウルに赴任した際の大使でもあった。『ヨーロッパ便り』『偶然と恩寵』『約束と偶然』『神の微笑』『神の慈愛』『ローマ法王のメダル』
金山康喜
若くして死んだ画家。『パリで会った天才画家』
金子洋文
議員になって文筆業を辞めた事例としてあげている。『立候補せざるの弁』
嘉村磯多
私小説家。デビュー当時文壇の外だった芹沢作品の支持者。この勧めで「不同調」という同人に参加した。『著作集の読者へ』
カメンスキー夫人
51年の渡欧の際、芹沢氏が止宿したサン・サーンス街17番のアパルトマンの5階に住む未亡人。氏がその2階のラチモフ夫人の部屋を宿にしたのは、カメンスキー夫人の部屋に止宿する桶谷教授の紹介であったが、そちらは同行の池島信平が同宿した。『ヨーロッパ便り』『西欧文明の一つの灯』『あの二人は健在であろうか』『思いがけない場所で』
カロッサ
リルケに傾倒した詩人。『現代日本文学』
河合栄次郎
帝大教授。『フランスの母と日本の母と』
川石
51年渡欧の際に会った柔道家。フランスに柔道を広めた。『パリでピアノに精進する日本娘』『パリで会った日本人』
川端康成
一高の1年後輩。作家としては先輩で、国際ペンクラブの副会長時、日本ペンクラブ会長の芹沢氏と共に日本文化研究国際会議を京都で開く準備に奔走したが、その途中で自殺する。氏はそれが事故死であると確信していた。『現代日本文学』『巴里便り』『立候補せざるの弁』『日本文学は海外でどのように読まれているか』『不幸であるから小説を書くのか』『ポール・ヴァレリーも私の恩人であった』『それでも母国語で書くべきではなかろうか』『私は帝国大学に再入学しようとした』『作家は書けなければ死に等しい』『川端さんの死について』『佳き晩年を』『老齢か』『四十五年ぶりのパリの春』『舞子は生きた観音様です』『小説家の不運』『改造友の会の頃』『「海に鳴る碑」と「愛と知と悲しみと」』『人生をテーマの小説』『仏訳された小説』『川端康成氏の死について』『著作集の読者へ』『レマン湖のほとり』『この道を生きた歌人』『ある創作の秘密』『一高時代に書いた処女作の思い出』
菅忠雄
『失恋者の手紙』は校外からも反響があった。その時手紙をくれ、交際が続いた。

 
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キキー
ソルボンヌ大学の同窓生。後に鉱山技師と結婚。『円相場』
菊竹清訓
沼津の文学館の設計者。『落葉松の林を秋風がわたって』『或る女流歌人への手紙』
菊池勇夫
帝大の親友であり生涯の友。高文官試験の勉強で共に合宿した。後に九州大学学長。『巴里便り』『パリで会った日本人』『レマン湖のほとり』『わが青春』『神の微笑』『小説とはやくざの業か』『長い旅路の伴侶』『「人間の運命」のモデルについて』
菊池寛
作家。『作家の秘密』『人物と名前と創作』『小説家の不運』
菊池武一
一高の2年先輩。留学する際、同窓生の三木清に会うように勧めた。『巴里便り』『パリで会った三木清』
菊池幽芳
小説家。『人物と名前と創作』
岸田國士
劇作家・小説家。コクトオを接待した。『コクトオと一晩』
岸田麗子
東中野の芹沢家の近くに喫茶店を出していた岸田画伯の令嬢。『小説とはやくざの業か』
岸辺福雄
童話家。軽井沢の山荘を建てた際の4人のうちの1人。『童女』
木島駒蔵
競馬官の頃の畜政課長。『競馬官の頃』
北本
51年の渡欧で会った結核の研究医である東大教授。『パリで会った日本人』『ノーベル賞候補者夫人』
木村健助
関西大学教授。パリのボングラン夫人の宿に新藤の後に入り、1年間同宿した。妻は新藤の妹。『巴里便り』『最後の『ひろば』に』
キュリー夫人
『男子の愛情』『結婚新書』
桐沢
東大分院の眼科医長。『原爆の娘を救え』

 
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楠瀬
広島県知事。『原爆の娘を救え』
久保田
農商務省農政課。法学士。『わが青春』
久保田万太郎
51年渡欧の行きの同行者。『ヨーロッパ便り』『神の微笑』『神の慈愛』
久米正雄
文学報国会会長。軍からの宣撫班の指令を伝えた。『作家は書けなければ死に等しい』『小説家の不運』
蔵川
渡仏する際、辞表を提出した局長。『自己を語る』
クローチェ
51年の世界ペン大会での会長(欠席)。『世界ペン大会に出席して』
クローデル
劇作家。『現代日本文学』
桑原武夫
京都大学教授。ペンクラブの理事会の後で木村健助の消息を教えてくれた。『最後の『ひろば』に』

 
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ケッセル
オートヴィルの療友の作家。共作を申し込んだ。『早春に遠き人を想う』『円相場』『明日を逐うて』『外国語で小説が書けるか』『私は孤独だった』『私は敗戦前こんな態度で創作した』『宗教をテーマの作品だというけれど』『この期に及んで五千枚の原稿用紙を作らせるとは』『神の微笑』
ゲーテ
ドイツの詩人。『現代日本文学』

 
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小池校長
小学校長。芹沢氏を中学にやるように祖父母に説いた。『わが青春』『神の微笑』
高野ヨーコ
コンセルバトアルでピアノの勉強をした知人の娘。51年渡欧の際に訪ねた。『ヨーロッパ便り』『パリでピアノに精進する日本娘』『パリで会った日本人』
児島喜久雄
学習院の西洋美術教師。一高時代、仏語の家庭教師をした。外務省のバイトをしたのは児島のアドバイスがあった。『試験雑感』『巴里便り』『「人間の運命」のモデルについて』
児島善三郎
何十年も楽しみに作品を見続けた画家。『毛利真美の絵』
小平教授
宗教学者で天理教教会長。伊藤幸長を自宅に連れてきた。『神の微笑』
小平権一
農商務省農政課室長。『わが青春』『役所時代のこと』
五島美代子
わが人生の宝となた歌人。『この道を生きた歌人』
小松清
翻訳家。コクトオを接待した。『コクトオと一晩』
小山敬三
軽井沢の別荘から4キロほど離れた旧軽に住む芹沢氏と同年の画家。『明日を逐うて』で生涯ただ一度の挿絵を描いた。長女がなついたマリルイズ夫人はその切り抜きを保存していて、夫人亡き後、小山氏はそれを芹沢氏に贈呈した。晩年高輪プリンスホテルの新館に浅間山の壁画を描くとき、誘われて激励に行った。『明日を逐うて』『年の瀬』『最後の『ひろば』に』『或る女流歌人への手紙』
コルトー
ピアニスト。オートヴィルで療養中のクリスマス、慈善音楽会でショパンを弾いたのを聴いた。51年に再会。『コルトーに会う』『新年は私にはないが』
コルネリッサン博士
最初の留学で親しんだ。妻はリリー『早春に遠き人を想う』『巴里便り』
今日出海
荒木巍林芙美子に久米正雄に会わせると連れて行かれた先がなぜか今の家だった。『小説家の不運』

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