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第一話 天下の松下へ入社
私が就職活動を始めたのは1997年3月ごろ。就職協定が無くなった年でした。少林寺拳法部で主将をしていましたが、部員が少なくて危機的状態が続いていたので、就職活動は最短で終わらせたいところでした。(関学少林寺拳法部での苦労話は随筆「少林寺」で読めます!)
金融系のSE会社に一つ内定をもらったのですが、たまたまエントリーシートを出した松下電器にお呼びがかかり、リクルーター制で関学の先輩に引っ張られ、約3週間でスピード内定をもらって即決しました。
正直言うと、入社の動機は「たまたま受けて、運よく内定出たのが、超有名大企業でかっこよかったから」というお粗末なものでした。
松下電器への入社は、1998年4月。入社式のときにはマスコミが多数来ており、拳法部の後輩から「先輩、テレビに映っていましたよ!」と電話がかかってきたことを覚えています。
私は留年も浪人もすることなく、いい高校、いい大学、いい会社とストレートに進学コースを直進してきた、世間一般的に言うエリートでした。
そう・・・エリートのはずでした。
松下電器という超有名巨大企業に内定が出た当時は、「これで俺も人生の成功者。松下で働いていれば一生安泰。何も心配いらない。」と思っていたのですから・・・
超一流企業である松下電器で働いている人達はみんな一流のすごい人達なのだろうと勝手に思っていました。
しかし、滋賀県草津市のエアコン事業部に配属され、しばらく働いているとそうではないことがすぐに分かりました。
確かに仕事のできるすごい人達はいました。しかし・・・「主体的に自ら動いて、自ら判断できる、成長し続けている人と、上に言われるがまま動かされて、自ら何も判断ができない、成長が止まっている人との差は、果てしなく広がり続けている」ということに気づきました。
2週間の本社教育で学んだ崇高な経営理念と、現場の実態とのギャップが大きくてショッキングでした。
エアコン事業部は一昔前までは利益頭でしたが、今では業界自体がすっかり成熟期に入り、まったく利益が出ずにリストラに苦しんでいました。
お天気に左右されるギャンブル性が高い業界。なかなか思うようには業績も上向かず、事業部内は暗い雰囲気に包まれていました。仕事内容はトップへの報告資料づくりが中心でまったく面白くありませんでした。
いじけながらも、営業マンへの売上速報をメールマガジン風にして面白い情報を流したり、自主的に週報を書いて自分の意見をアピールしたりして、工夫することを続けていました。
「その仕事がおもしろくないときは、どうすればおもしろくなるのかを考えて工夫し続けること」が大事だと思います。
当時、先輩に飲み屋で言われたことは今でも覚えています。
「会社の中を見渡して、この人は上へ上がっていくやろうなと思う人と、何年経ってもこのまま止まっとるやろなという人がいるのが分かるやろ?入社して1,2年でその後の会社生活が決まるんや。お前はできる奴だと期待されてるからがんばれよ。」
出世できるできないは入社して1,2年のうちにレールに乗れるかどうかで決まってしまう。最初に与えられたつまらない仕事にいかに情熱を注げるかが肝心なのです。
自分を鼓舞しながらも、このまま草津で年をとれば、化石のような人になってしまうのではないか?このままではいかん!俺は駄目になる・・・そんな閉塞状態に陥っていました。とてもバラ色の会社生活とは言えないものでした。
Mr.childrenの「終わりなき旅」の歌詞の心境でした。
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