「奪還 引き裂かれた二十四年」

2004.5.30

 拉致事件が起きた当時とその後、同時代の出来事でありながら、私は全く知らず、世界を認識・判断していた。その反省から、まず当事者の話に耳を傾けることが必要。

「奪還 引き裂かれた二十四年」(蓮池透、新潮社、2003.4、@1300)

1 それはどんな時代だったか
(1)巻末の年表によると、寺越さん失踪(漁船で操業中)は1963年だが、その後は13 年空いて1976年から1983年の8年間に失踪があり、このうち2002年10月に帰国した5人は 1978年に拉致されていた。そして1987年に大韓航空機爆破事件が起こる。
(2)この頃に、自分は何をしていたかを考えない訳にはいかない。
 1976年頃は、南側は「クーデターによって成り立った軍事政権であり、集会、結社の 自由は無かった」。これを批判する講演会があり聞いたことがある。一方で、反米愛国 の朝鮮映画を1本ぐらいは見たか、いや見ていないもっと後だろう。
{この頃の韓国、1973年金大中拉致事件、1979年朴大統領暗殺、1980年光州事件、全斗 煥大統領}
 1978年頃は、NHKが「ハングル講座」というのを始める頃で、「韓国語か朝鮮語か」 という話が出ていた中での折衷案だった。日本国内の団体は大韓民国居留民団と朝鮮総 連で、戦後長らく在日朝鮮人は日本の国内でも南北に引き裂かれてきたが、既に2世、 3世の時代になり日本に住み続けることを前提に「北でもない南でもない在日の独自の 立場を主張する」流れが出て来ていた。在日韓国・朝鮮人と表記した。

 この頃の私は、在日の人の私塾で韓国語を習い、在日外国人の生活上の諸権利の市民 運動に係わっていた。それは「外国人一般の基本的人権に基づく生活上の権利」で「国 際人権規約に基づく内外人平等」が基本原理だった。なぜそういう運動に係わるかとい うと、私の関心は日本、もっと言えば自分が居る所であり、その在り方だった。
朝鮮半島本国については付随的に関心はあるが、積極的に係わるものではなかった。 ただ朝鮮民族の独立国家を尊重する意味で「南を韓国、北を共和国」と呼んでいた。

 ぼちぼち韓国に観光旅行する人が出て来た頃で、1983年に行った。ソウルから釜山ま で電車、バスを乗り継いで回ったが、光州市に行くと以前の光州事件を警戒してか、ま だ交差点には銃撃戦に備えた土のうが積んであった。
 そう、上記(1)の1976年から1983年の8年間、こんなだった。
 それ以降は?仕事中心の生活だった。
(3)クーデター、金大中拉致事件、クーデター、光州事件。南と北はそれぞれ相手に 対応した国家体制だったということか。その後、南は文民政権に移ったが、北は親子で 政権移譲してより強権的になった。
(4)南北の分断、対立は冷戦の結果だが、その前段に「独立国家がない日本による植 民地支配の状態があった」ことを捨象して語ることはできない。

2 本の中から
(1)別離の終わりと始まり(P18)
 5人は家族や親戚、友人と再会したけれど、自分の子供とは生き別れになってしまっ ている。政治体制が阻んでいる。その状態が続いていることを忘れないようにしたい。  話が逸れるが、1983年に韓国に行ったときに、KBS韓国放送公社の前に「離散家族の 消息を尋ねる貼り紙がたくさんあった。朝鮮半島が朝鮮戦争で北と南に分かれたために 家族が生き別れになって未だに消息が分からなかったり行き来できない。もう50年にな り今も続いている。これも忘れてはいけない。
(2)まだ帰って来たのは一部(P23)
 「今日、われわれだけが帰ってきたのは申し訳ない」(P23)と被害者が言うように、 無念の中にいる被害者はまだ居るだろう。
 「他の生存者を知らないか」(P26)「(会見は)いやだ、自分たちだけ生きて帰った のが忍びない」(P26)「(帰国していない他の人の家族に会うのは)いやだ」(P26)
 (5人とも)「横田めぐみさんの情報以外、何も知りません」(P29)
(3)「お土産の購入」(P31-P39)
 政府間の事前交渉では「(北朝鮮への)帰国が前提」になっていた。「また次の二 十四年が始まる」(P38)
 (被害者は帰国を前提に朝鮮公民として発言するが)ここで補足すると、(P35)   「イラク戦争には独仏も反対であり、国際法を無視する行動はローマ帝国になぞらえら れる」のは、今や世界の常識だ。また(P33.P36)「朝鮮半島の統一は南北朝鮮の悲願で あり、負の歴史として日本人も無縁ではない」。
(4)「ビデオは家族限り」(P50)
 政府調査団が被害者を撮って持ち帰ったビデオで、「北朝鮮へ来てくれ」と言ってい るそうだが、同時に見せるのは家族限りとも言っていたそうだ。

3 失踪後
(1)1978年7月「ちょっと外出」したまま戻らない。「友人、知人に電話するが知ら ない」「駆け落ちも状況から有り得ない」「誘拐の身代金の要求もない」(P73-P80)
「非公開捜査で、家族が立ち寄りそうな所を尋ねて回る」「UFOか神隠しか」「事件直 後から無言電話が3か月」
(2)1980年「アベック3組ナゾの蒸発」「外国情報機関が関与?」「戸籍を入手して 工作に利用しようとしたのではないか」サンケイ新聞。想像を絶する話だが、記者に連 絡したが、それ以上の情報はなかった。(P88-P89)「後追い報道するメディアもなく、 否定はできないが100%信用する気にもなれなかった」
 テレビの家出人探し番組に出た。TBS.日本テレビ。「名古屋のパチンコ屋で働いてい るのを見た、山谷で見た」という情報に手分けして聞いて回った。
 興信所に調査依頼した。祖母は仏壇と神棚に祈った、占い師に行った「まだ生きてい るけれどすぐには会えない」。
 徒労感、陰膳をすえていたが、話題にすることがタブーになり、「何でだろう」答の ない疑問に戻り堂々巡り。(P92)ある時、部屋を片付けたが集めていたレコードは残し た。1976年から1986年、空白の10年が過ぎた。サンケイ新聞の報道(1980年)からも6年。
(3)1987年大韓航空機爆破事件。「容疑者の教育係は拉致された日本人、リウネ」。
 1976年の事件が注目を集め週刊誌の取材攻勢だが解決には繋がらず。しかしこのときか ら向かっていくべき対象(北朝鮮)が見えてきた。(P97)
(4)1988年参議院予算委員会で共産党議員が「行方不明者の家族の苦しみをどう考え ているのか」と質問し、国家公安委員長が「拉致の疑いが濃厚」、警察庁警備局長が 「そういった観点から捜査を行っている」と答弁。しかしほとんど報道されず、教えら れて議事録を見たのは何年も後。(P101)
(5)1990年から1992年、国交正常化交渉、「リウネの消息調査は持ち出したが他の行 方不明者には触れず」、決裂。「北朝鮮が強硬な態度を取り続けたから」か「日本側が 拉致問題の真相を究明し解決を図ろうという強い意志を示さなかったから」か大いに疑 問。(P103-P105)1995年コメ支援。
(6)1996年「現代コリア」朝日放送レポート、「亡命工作員の情報、拉致された13歳 少女の話」。1997年実名公開、産経新聞とアエラが報道。「疑惑」は「事実」に変化し た。(P106)テレビ朝日「元工作員のインタビュー放映」。
(7)1997年共産党(兵本)、産経新聞(阿部)、朝日放送(石高)、被害者家族(7名 の家族)が集まり、家族会を作る。翌日、外務省と警察庁に申し入れ。(P107-P111)

4 家族会の活動
(1)署名、地元や地方では関心が高いが、都心はビラを受け取る人も少なかった。
(P115-P119)「家族会」の他に「救う会」ができた。
(2)議員連盟、大勢が集まり期待したが、政治家から数え切れず聞いた「頑張る」は 「戦略も方法論も何も持たない、その場を取り繕う方便に過ぎなかった」。
また外相との面会は、コメ支援を行う上のガス抜きにすぎなかった。(P119-P122)
(3)1998年発足の中央大学の「中大生を救う会」は柔軟な発想で親身にサポートして くれた。
(4)1999年韓国で死刑判決を受けた工作員シンガンスが恩赦で釈放になった、警察庁 に取り調べるように要求したが動かなかった。また「捜査上の秘密」で何も情報をくれ なかった。(P125-P127)
(5)地方議会に「国に真相究明を求める決議」を要請したが、「疑惑」という理解で 効果はなかった。朝鮮総連が議決しないよう働き掛けていたが、それは「(ア)共和国はそ ういうことはしない、(イ)在日がいじめられるという心配」を挙げていた。
(6)署名は百万人(日本人の百人に1人の割合)集まったが結果として効果がなく落 胆した。やはり自国民を拉致されたレバノン政府が強い対応で釈放させたのと比べて、 日本政府は1997年2000年とコメ支援を繰り返した。「何の誠意も示さない相手に、一般 市民に届くか疑わしいコメを送るのは、相手に政府が拉致問題を重要視していないと受 け取られても仕方ないやり方」。(P129-P136)
(7)2001年国連人権委員会の「強制的失踪に関する作業部会」に申し立てる。
(8)2000年初めての交渉以外の方法、「座り込み」、外務省前、自民党本部前(P141- P144)
(9)米国政府に働き掛ける。(P144)(P167-P169)
(10)訪朝した政治家は北朝鮮の立場に豹変した。(P147-P152)「いったいどんな人 と会い、どんな話をしてきたのか」
(11)マスコミ、「なぜ国民を早く返せ」と主張しないか、朝日新聞、NHK(P153-P159)
(12)2001年5月、金正男が不法入国、みすみす返してしまう(小泉首相、田中外相)。 (P164-P167)
(13)2002年、官邸に拉致問題プロジェクトチーム、9月首相訪朝、「生死の宣告は、 相手の話を鵜のみに断定的に」これまでの外務省のやる気のなさを象徴。「このまま拉 致問題の終結を認めることは絶対にできない」。(P169-P181)

5 開かれた国益、協調的安全保障のために
(1)日本は特定国の利益や自国のみの利益でなく、「自他ともに利する開かれた国益」 を旨として、アジア及び世界での協調的安全保障の構築に努めなければならない。軍事 的には専守防衛が基本でそれ以外は取るべき道ではない。
 朝鮮半島の北朝鮮に国境を接する国は3か国ある。ロシア、中国、韓国。いずれも戦 争や急激な体制崩壊は、自国への影響から望んでいない。仮に北朝鮮が崩壊して韓国に 吸収された場合、ロシア、中国は米軍が駐留する国と地続きになる、それは望まない。
 であれば国際政治としては、「金正日が退陣して、より柔軟な集団指導体制になる」こ とが周辺国に受け入れられる目標になる。そのためには「どのようにして退陣に追い込 むか」「その間、軍備増強、暴発をさせないこと」が課題になる。
 「資金流入の阻止、国連物資の直接配布を認めさせる(軍に流用しないよう)、先端 技術の流入阻止、兵器輸出先をなくす、日本の防衛対処能力向上」。
(2)戦争をしてはいけない。その理由は、向こう側にもこちら側にも喜怒哀楽の中に 暮らす人々が居るから。傷付けてはいけない。だからこそ、拉致被害者とその家族の痛 みを解決しなければならないし、それなしに「東アジアにおける信頼醸成」もない。

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<補足>

北朝鮮による拉致被害者の家族はようやく一部が一緒に日本で暮らせるようになった。 全面解決ではないけれど、一歩前進。6か国協議で包括的な解決を続け ることが大切になる。

北朝鮮へどう対処するかは、日本外交の目下の課題だ。
このことが「米国によるイラク戦争」にどう対処するか、判断の制約になり、引きず られている(これと絡めて日本政府が「米国によるイラク戦争への対処」を判断し決め ていることを否定する人はいないだろう)。
しかし結論から言えば、日本外交が取るべき基本の幅から外れている。基本の幅の中 に戻すために、もっと良く考えなければならない。日本は特定国の利益や自国のみの利 益でなく、「自他ともに利する開かれた国益」を旨として、アジア及び世界での協調的 安全保障の構築に努める。軍事的には専守防衛が基本だ。

開かれた国益、協調的安全保障のために。
以前に書いた「読書雑感、3題」で改めて振り返る。

[1] 「GO」(金城一紀、講談社文庫、2003.3、@448)
[2] 「奪還 引き裂かれた二十四年」(蓮池透、新潮社、2003.4、@1300)
[3] 「マンガでわかった北朝鮮問題」(共著、マイウェイ出版、2003.7、@1300)
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ここも見てね[随想]「GO」

ここも見てね[随想]「マンガでわかった北朝鮮問題

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