この時期は、馬公から七美島行きの定期船は1日1往復ある。ホテルに港まで送っていただくように頼んだ。恒安壹號(馬公9:10発 七美島11:30着)に乗ることにしていた。南海遊客中心の横にある小さな小屋がチケット売り場だった。302元だった。思ったより小さな船だった。船内の真ん中あたりに小さい箱があり、離島への届け物を入れておくようにしているようだった。乗客でもない人が船に乗り込み、そこに封筒などを入れて行った。船は時間通りに出航し、途中、望安島に立ち寄り、20分遅れで七美島に到着した。
私は、宿に11:30に到着するから迎えに来てくれるように頼んでいた。おばちゃんが近づいてきた。私の名前の中国語読みを言ったが「??」で、「日本人ですよね」と言われて、初めて宿の人だとわかった。私の名前の中国語読み、かなり訛ってました。たぶん。というか、ずっとメールでやり取りしていて、顔文字を入れてのメールの返信をしてくれていたので、若い人かと勘違いしていました。この人がメールのやり取りをしていた人かわからなかったのですが・・・。私は、港近くの「七美漁村民宿・餐廳」に連れていかれ、「日本語が話せる人が来るから、もうちょっと待ってて」と言われてしまいました。その日本語がわかるおじさんと携帯電話で話したのですが、私は島内を自転車で回りたかったのですが、おじさん曰く、自転車は危ないと言う。仕方がないので、原チャリに乗ることにしました。後でわかったことですが、このおじさんはこの日泊まる民宿のオーナーで、このレストランは、奥さんが経営されていていた(レストランが旦那様のほうだったかも)。原チャリに乗りましたが、教習で乗って以来約15年ぶりの運転。運転の仕方をすっかり忘れてしまっていました。おばさんの後をゆっくり、運転して、宿まで到着しました。慣れない・・・。
■大嶼民宿
宿の予約は、この宿を逃すと、もう適当な宿が見つかりそうになかったので、英語と中国で予約を入れましたが、中国語で返事が来たので、その後、中国語でやりとりをしました。予約には前金を振り込んでおかないといけないのですが、日本に住んでいるために振り込めない旨も最初から書いておきましたが、OKの返事が来ました。まあ、閑散期だったからでしょう。
宿はHPで見た通りのきれいな宿でした。廊下には、いつでもお茶を飲めるようにティーバックがありました。夜になると、オーナーはいなくなります。朝食は付いていません。お部屋のPCはテレビと切り替えができる優れものでした。この日、インターネットで、豚インフルエンザの警戒レベルがフェーズ5になったことを知りました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
港の七美漁村餐廳に戻り、昼食をそこで取るように薦められました。しかし、そこ以外にちょっと見たかったので、他の食堂も覗きましたが、結局、七美漁村でいただくことにしました。この島の名物の九孔麺線(トコブシ入りのそうめん 200元)を食べました。油っこくなく、まずまずの味でした。少しすると日本語が話せるおじさんがやってきて、「やっぱり自転車で観光したい」旨伝えると、どこからかボロイ自転車を持ってきてくれました。そして、観光がようやく開始したのです。
![]() |
![]() |
![]() |
■七美人塚
港から10分もしないところにある第一番目の観光名所に到着しました。この分だと、結構、回れそう。この場所には悲話がある。明国時代、島に盗賊たちがやって来た時、島の男達は漁に出かけ、残っていた女達が賊に襲われ、屈辱を受けるくらいならと七人の女性が井戸に身を投じたそうです。その後、井戸を埋めたところから、7本の木が生えてきたそうです。1949年に澎湖第四代県長である劉燕夫氏が「七美人」のエピソードに感動し、「七美島」と改められたのだそう。
![]() |
![]() |
![]() |
■七美燈台と望夫石
望夫石は、昔、漁に出たっきりの夫の帰りを待って、妻が毎日この海辺に来て、最後に海を守る望夫石になったという物語があるところです。
お天気もまずまずで、自転車の旅は爽快でした。
![]() |
![]() |
![]() |
■月鯉港
ここは、七美島唯一のビーチ。ダイビングなどができます。ダイビングする人がいないためか、スタッフが星の砂の選り分け作業をしてました。のんびりしていました。団体ツアーバスの乗客が降りてきて、早々に退散した。この辺りの道は、黒ヤギが道を横切ったりしてのんびりした雰囲気が味わえました。「子羊出没」の看板がありましたが、たぶんあれは山羊だと思う・・・。
![]() |
![]() |
![]() |
■大獅風景区
この地域のポイントは、石獅と龍埕海岸だったようだ。獅子の形がしている岩があったようだ。全然、気がつかなかったです。龍埕海岸(写真真ん中)は、龍の身体や龍の頭に見える海岸。海蝕が進み、台地になっていました。案内板の手前の海岸には、獅子の像が・・・。
![]() |
![]() |
![]() |
七美島は清朝康煕年間には「南嶼(嶼は島のこと)」、次に「南大嶼」と呼ばれ、清朝末期には「大嶼」となり、戦後間もない頃まではこの呼称が用いられていました。1949年に「七美」となりました。そう言えば宿のおじさんが「昔、この島は、オオシマと言われたんだよ」と言っていたのは、そういうことだったのか~。