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みかきもりの気ままに小倉百人一首

2020/03/14 風そよぐ

百人一首には100首中14首の風の歌があり、風の種別や出典となっている勅撰集及び
部立の分類【参考:表下の「風の歌14首の分類」】を見ると、定家はこの風の歌14首を
非常にバランスよく撰んでいると感じます。
そこには何か定家の想いが込められているのかもしれません。

No. 作者 出典・部立など コメント
12僧正遍昭天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
古今集 雑上872
(五節の舞/霜月/仲冬)
[みかきもり]
藤原定家(1162生-1241没)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の激動の時代を生きており、
朝廷と幕府の狭間で時代の風を読みながら家を発展させようと懸命だったと感じます。
百人一首12番、22番、32番、37番、48番、58番からは、その番号が定家の年齢と対応して、
承久の乱までの時代の風を感じます。

■出来事(年齢は藤原定家のもの)
----- 平清盛、武士で初めての太政大臣(1167年) -----
12歳(承安三年/1173年)
 前年、高倉天皇(後白河院の子)が平徳子(平清盛の娘)を中宮に迎える。
 (3月)宋へ返牒を出す。後白河院・平清盛が答進物を贈り、日宋貿易が本格化する。
----- 以仁王、平氏討伐の令旨(1180年) -----
22歳(寿永二年/1183年)
 (2月)正五位下に叙せられる。
 (7月)源義仲の入京で、平家一門に連れられて三種の神器とともに安徳天皇が西国に逃れる。
 (8月)後白河院は三種の神器が無いまま後鳥羽天皇を擁立する。
    寿永四年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が崩御するまで在位は重複。
 ※後白河院近臣の藤原季能の娘と結婚(建久五年頃離別)
----- 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡(1185年) -----
32歳(建久四年/1193年)
 前年(3月)後白河院が崩御。
 前年(7月)源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。
 (2月)母 美福門院加賀が没する。
 ※翌年、藤原実宗の娘と結婚
37歳(建久九年/1198年)
 (1月)後鳥羽院が土御門天皇に譲位して院政を敷く。
 ※為家が生まれる。(母は藤原実宗の娘)
 翌年(1月)源頼朝が亡くなる。
----- 源実朝(12歳)、第3代鎌倉幕府将軍となる(1203年) -----
48歳(承元三年/1209年)
 (7月)源実朝が藤原定家に和歌30首の評を請う。
 (8月)源実朝に「近代秀歌」を贈る。
 ※為家が東宮の昇殿を許される。
 ※翌年、順徳天皇が即位。為家が昇殿を許される。
58歳(承久元年/1219年)
 (1月)源実朝が暗殺される。後鳥羽院は鎌倉幕府との融和から対立に傾く。
----- 承久の乱で後鳥羽院が敗れる(1221年) -----

22文屋康秀吹くからに秋の草木のしをるれば
むべ山風をあらしといふらむ
古今集 秋下249
32春道列樹山川に風のかけたるしがらみは
流れもあへぬ紅葉なりけり
古今集 秋下303
37文屋朝康白露に風の吹きしく秋の野は
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける
後撰集 秋中308
48源重之風をいたみ岩うつ波のおのれのみ
くだけて物を思ふころかな
詞花集 恋上210
58大弐三位有馬山猪名の笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
後拾遺集 恋二709
69能因法師嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
龍田の川の錦なりけり
後拾遺集 秋下366 [みかきもり]
歌人にとって勅撰集の撰者になることは最高の栄誉でしょう。それが単独撰なら想いもひとしお
だと思います。しかしながら、承久の乱後の鎌倉幕府の監視の目や朝廷内の動向という政治を
気にしながらの勅撰集編纂は、自分の思うようにいかずに秋風も吹くだろうと思います。
そして出来上がった勅撰集は、周囲からそんな苦労は関係なく評価されるのでつらいですね。
百人一首69番、71番、74番、79番からは、「新勅撰集」に対するその時々の定家の気持ちや、
俊成撰「千載集」及び俊成の自賛歌を感じます。

藤原定家撰「新勅撰集」(9番目の勅撰集/後堀河天皇)
69歳(寛喜二年/1230年)
 (7月)道家から新しい勅撰集撰進の意見を求められる。
71歳(貞永元年/1232年)
 (1月)権中納言に任ぜられる。
 (6月)後堀河天皇より勅撰集撰進を下命される。
 (10月)新勅撰集の序文、目録を奏覧。(この翌々日10/4に後堀河天皇は譲位)
 (12月)権中納言を辞任する。
74歳(嘉禎元年/1235年)
 (3月)新勅撰集の清書20巻を道家に献ずる。
 ※武家の歌を多く撰んだ一方で、鎌倉幕府に遠慮して後鳥羽院・順徳院の歌を排除したことより、
  非難を込めて「宇治川集」といわれる。

藤原俊成撰「千載集」(7番目の勅撰集/後白河院)
・71番の源経信の意見が、藤原通俊撰「後拾遺集」(4番目の勅撰集/白河天皇)に影響。
 また源経信は詩歌・管絃に秀でて有職故実にも通じ、その多芸多才は藤原公任に比較された。
 花山院親撰といわれる「拾遺集」(3番目の勅撰集/花山院)は藤原公任「拾遺抄」が元とされる。
・74番の源俊頼撰「金葉集」(5番目の勅撰集/白河院)
・79番の藤原顕輔撰「詞花集」(6番目の勅撰集/崇徳院)
・勅撰集の3番目、4番目、5番目、6番目がイメージされたら、次は7番目の「千載集」とくるのは
 想像に難くありません。

俊成の自賛歌
・俊成の自賛歌は、『伊勢物語』で深草の里の女が「鶉(うづら)となりて」と言ったことを初めて
 踏まえて詠み、77番崇徳院からの叡感にあずかった次の歌です。

  夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉鳴くなり深草の里

 俊成にとって、きっととても大切に想っていた歌だったと思います。
 85番俊恵法師(74番源俊頼の子)に俊成の歌の中でどれが優れた歌かを聞かれ、俊成は
 この歌を言いますが、その歌を批判されることになって残念なことになりました。
 この歌も「秋風」の風の歌ですね。

71源経信夕されば門田の稲葉おとづれて
蘆のまろやに秋風ぞ吹く
金葉集 秋183
74源俊頼憂かりける人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
千載集 恋二707
79藤原顕輔秋風にたなびく雲の絶え間より
もれ出づる月の影のさやけさ
新古今集 秋上413
94藤原雅経み吉野の山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く衣うつなり
新古今集 秋下483 [みかきもり]
定家が和歌とともに生きた人生を振り返って総括しているように思います。
【94】窮乏し戦乱のあった平氏の時代
【96】和歌が華やかだった後鳥羽院・順徳院の時代
【97】承久の乱後の和歌が停滞した時代
【98】新たな勅撰集ができ、また和歌に目が向くようになった時代

96藤原公経花さそふ嵐の庭の雪ならで
ふりゆくものはわが身なりけり
新勅撰集 雑一1052
(桜/春)
97藤原定家来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ
新勅撰集 恋三849
98藤原家隆風そよぐならの小川の夕暮は
みそぎぞ夏のしるしなりける
新勅撰集 夏192
(六月祓/六月晦日)


■風の歌14首の分類
<風の種別>
風:5首、秋風:3首、嵐:2首、天つ風:1首、山おろし:1首、山風:1首、夕なぎ:1首
※「吹くからに」は「山風」に分類。

<出典別分類(括弧内は百人一首の撰歌数)>
古今集:3首(全24首)後撰集:1首(全7首)拾遺集:なし(全11首)後拾遺集:2首(全14首)
金葉集:1首(全5首)詞花集:1首(全5首)千載集:1首(全14首)新古今集:2首(全14首)
新勅撰集:3首(全4首)続後撰集:なし(全2首)
※拾遺集は「拾遺抄」が元といわれる、続後撰集は定家が亡くなった後の勅撰集。

<部立別分類(括弧内は百人一首の撰歌数)>
春:なし(全6首)夏:1首(全4首)秋:7首(全16首)冬:なし(全6首)
恋:4首(全43首)雑:2首(全20首)旅:なし(全4首)離別:なし(全1首)
※雑2首は春または冬の季節が感じられる歌。

■参考文献
・百人一首必携          久保田 淳・編(學燈社)
・定家明月記私抄続編       堀田 善衛(新潮社)
・百人一首 全訳注        有吉 保(講談社学術文庫)
・全訳古語辞典(第二版)     宮腰 賢、桜井 満(旺文社)

■参考URL
・Wikipedia 風Wikipedia 山谷風Wikipedia 海陸風Wikipedia 凪Wikipedia 後白河天皇Wikipedia 平清盛Wikipedia 高倉天皇Wikipedia 源義仲Wikipedia 安徳天皇Wikipedia 後鳥羽天皇Wikipedia 壇ノ浦の戦いWikipedia 源頼朝Wikipedia 源実朝Wikipedia 勅撰和歌集Wikipedia 後拾遺和歌集Wikipedia 新勅撰和歌集Wikipedia 源経信Wikipedia 藤原俊成Wikipedia 藤原定家風俗博物館/六条院四季の移ろい 霜月(十一月)トロントたきのおと会/定家略年譜砂子屋書房/一首鑑賞 日々のクオリア「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」

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