小牧城

本能寺の変の後、信長の後継者争いで天正十二年(1584)家康と秀吉が戦った。 この戦いを『小牧・長久手の戦い』と言う。
明智光秀を討ち、勢力を増した羽柴秀吉に不満を持った信長の二男信雄は家康と手を組んだ。
はじめ、小牧城の家康は、犬山城の秀吉とにらみ合っていたが、 秀吉軍は池田恒興の作戦により岡崎城を責めようとした。
しかし、その事を領民から聞いた家康軍はそれを長久手で阻止した。この時、池田恒興・森長可が戦死した。
さらに持久戦続いたが、信雄と秀吉が講和して戦う意味のなくなった家康も兵を引いて浜松城に帰った。 その後家康も講和に応じ、第二子於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子にした。
この戦いは決戦らしい決戦もなく、勝敗もはっきりしなかったが、 すでに天下をとったも同じ秀吉に対して、他の大名とちがい同格の強さを持っていることを見せつけた 家康の勝利と言ってもいいだろう。
 

★☆ 見学して ☆★

市役所の横の登り口を行くと博物館になっている天守閣に行くことができる。 中では小牧・長久手の戦いの様子をビデオと地図でわかりやすく教えてくれる。

一番上の展望台からは敵の本陣犬山城が見える。
家康と秀吉のにらみあい。
(たぬき vs さる)
 

小牧・長久手の戦い
東 軍 西 軍
とくがわ いえやす
徳川 家康
おだ のぶかつ
織田 信雄
はしば ひでよし
羽柴 秀吉
さかい ただつぐ
酒井 忠次
さかきばら やすまさ
榊原 康政
ほんだ ただかつ
本多 忠勝
いい なおまさ
井伊 直政
みよし ひでつぐ
三好 秀次
いけだ つねおき
池田 恒興
もり ながよし
森  長可
いけだ もとすけ
池田 元助
 

≪東軍の武将≫

織田 信雄1558〜1630
織田信長の次男。信長の死後、織田家の後継者を決める問題から、 秀吉の勢力が増したのに不満を持ち、徳川家と同盟を結び、 小牧山砦を中心に秀吉軍と戦い、家康の長久手追撃にも予備隊として出陣した。 信雄は家康・秀吉のどちらが勝者となっても、天下はとることは出来ず不運な存在であった。

"徳川四天王"〜家康の天下統一を支えた四人の勇将〜
酒井 忠次1527〜1596
本能寺の変の後、堺を見物中の家康を伊賀越えで無事帰国させた。 小牧・長久手の戦いでは森長可羽黒の八幡林でやぶり、家康が長久手に進む時小牧山本陣を守備した。
長男の家次は秀忠付きの家臣となり、越後高田(新潟県)十万石の大名となる。

榊原 康政1548〜1606
森長可の砦、羽黒の八幡林を攻め落とした。 その後、先遣隊となり岡崎攻めの三好隊を白山林で大敗させたが、檜ヶ根で敗れ敗走した。
家康関東入国後、上野国(群馬県)館林10万石の大名となる。

本多 忠勝1548〜1610
平八郎ともいわれ少年の頃から家康に従い、家康の長久手出陣後小牧の砦を守っていたが、 秀吉が西軍の敗退を知って出陣した時、その進路をさまたげた。
家康関東入国後、上総(千葉県)館林大多喜10万石、後に伊勢桑名10万石の大名となる。

井伊 直政1561〜1602
15歳から家康に仕え、長久手の戦いでは前衛隊として3000余騎を従え、武具・旌旗を 赤一色にして、「井伊の赤添え・赤夜叉」と称され、小牧・長久手の戦い後秀吉との 和睦成立を努めて、すぐれた政治性を示した。
関が原の合戦後、近江国(滋賀県)佐和山18万石の大名となる。

≪西軍の武将≫

三好 秀次1568〜1595
羽柴秀吉の姉の子。後に秀吉の後を継ぎ関白となった。家康郡の追撃から逃げ延びた。

池田 恒興1536〜1584
美濃大垣城主。戦術にすぐれた織田信長の有力な武将であった。
岡崎城攻めを計画したが、敗れ49歳で討死した。

森 長可1558〜1584
美濃兼山城主。池田恒興の娘婿。長久手の戦いで討死27歳。

池田 元助1559〜1584
美濃大垣城主。池田恒興の長男。父と共に岡崎攻撃隊に加わり26歳の若さで戦死。


目次 岡崎城 浜松城 小牧城 関ヶ原の合戦 駿府城 名古屋城 久能山東照宮