関ヶ原の合戦

慶長三年(1598)八月十八日、太閤秀吉が薨去した。 遺言により、家康は伏見城で秀頼の後見人として政治を任せられた。
五大老・五奉行の中で一番力があったのは内府殿と呼ばれた家康だった。
しかし、五大老・五奉行や他の大名の中でうちわもめになっていた。
これを押さえていた前田利家が薨去後、とうとう対立し次第に合戦へと進んでいった・・・。
慶長五年(1600)九月十五日戦いの火ぶたが切って落とされた。
@午前8時 開戦
待ち伏せする形で始まった西軍の中、濃霧のために東軍は最悪の形で進んでいった。
A午前9時〜10時 西軍有利
東軍福島隊と西軍宇喜多隊がぶつかり、戦いが始まった。初戦は西軍が有利だ。
B午前11時 家康危機
焦った家康は、突入を命じた。この時毛利秀元などが家康の後ろを攻めれば勝つと見た三成は、 総攻撃ののろしを上げた。だが毛利、小早川は動かなかった。
C正午〜午後1時 小早川の裏切り
小早川が東軍に寝返り大谷吉継隊に攻め込んだ。西軍は敗走した。


 

★☆ 見学して ☆★

市役所の横の登り口を行くと博物館になっている天守閣に行くことができる。 中では小牧・長久手の戦いの様子をビデオと地図でわかりやすく教えてくれる。

一番上の展望台からは敵の本陣犬山城が見える。
家康と秀吉のにらみあい。
<たぬき vs さる>
 

                    
東 軍 西 軍
とくがわ いえやす
徳川 家康

歯朶前立衝黒漆大頭巾兜
いしだ みつなり
石田 三成
まつだいら ただよし
松平 忠吉
しまづ よしひろ
島津 義弘
いい なおまさ
井伊 直政
もうり ひでもと
毛利 秀元
ほんだ ただかつ
本多 忠勝
おおたに よしつぐ
大谷 吉継
ふくしま まさのり
福島 正則
うきた ひでいえ
宇喜多 秀家
くろだ ながまさ
黒田 長政
こにし ゆきなが
小西 行長
ほそかわ ただおき
細川 忠興
きっかわ ひろいえ
吉川 広家
いけだ てるまさ
池田 輝政
あんこくじ えけい
安国寺 恵瓊
とうどう たかとら
藤堂 高虎
こばやかわ ひであき
小早川 秀秋
たけなか しげかど
竹中 重門
しま さこん
島 左近
 

                         

東 軍  軍勢 約9万

西 軍  軍勢 約8万
おもな武将 兵数戦前領地戦後領地 おもな武将 兵数戦前領地戦後領地
とくがわ いえやす
徳川 家康
30000武蔵江戸
242
武蔵江戸
400
いしだ みつなり
石田 三成
4820近江佐和山
19.4
斬首
まつだいら ただよし
松平 忠吉
3000武蔵忍
10
尾張清須
520
しまづ よしひろ
島津 義弘
30000武蔵江戸
242
武蔵江戸
400
 いい  なおまさ
井伊 直政
3600上野高崎
12
近江佐和山
18
もうり ひでもと
毛利 秀元
16000長門山口
20
長門ノ内
3.6
ほんだ ただかつ
本多 忠勝
500上総大多喜
10
伊勢桑名
10
おおたに よしつぐ
大谷 吉継
600越前敦賀
5
切腹
ふくしま まさのり
福島 正則
6000尾張清須
20
安芸広島
49.8
うきた ひでいえ
宇喜多 秀家
17220備前岡山
57.4
島流し
くろだ ながまさ
黒田 長政
5400豊前中津
18.1
筑前名島
52.3
こにし ゆきなが
小西 行長
6000肥後宇土
20
斬首
ほそかわ ただおき
細川 忠興
5100凡後宮津
18
豊前小倉
39.9
きっかわ ひろいえ
吉川 広家
3000出雲富田
14.2
周防岩国
6
いけだ てるまさ
池田 輝政
4560三河吉田
15.2
播磨姫路
52
あんこくじ えけい
安国寺 恵瓊
1800伊予ノ内
6
斬首
とうどう たかとら
藤堂 高虎
2490伊予板島
8
伊予今治
20
こばやかわ ひであき
小早川 秀秋
15675筑前名島
35.7
備前岡山
51
たけなか しげかど
竹中 重門
30000武蔵江戸
242
武蔵江戸
400
しま  さこん
島 左近
1000武蔵江戸
242
武蔵江戸
400

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