名古屋城

≪信長が生まれた那古野城≫
大永初期に今川氏により築かれた那古野城は、 天文元年(1532)織田信長の父信秀が奪いここを居城として、信長が生まれた。
信長が清須城(今は清洲)に移ると那古野城は廃城となった。  

慶長五年関ヶ原の合戦の功績で、家康四男松平忠吉が清須城六十二万石の城主となる。
慶長十二年三月忠吉死去、続いて四月には次男結城秀康も死去した。
「せめて秀康の武勇と、忠吉の智略が、秀忠に備わっておればのう・・・」と家康は嘆き悲しみ呟いた。

≪尾張徳川の名古屋城≫
忠吉の後は九男義直が城主となるが、家康は徳川家が清須城ではふさわしくないと思い、 信長生誕の地に新たな名古屋城の構築を決意した。
明けて慶長十五年(1610)、豊臣家恩顧の加藤清正・福島正則・前田利光らに命じて工事が始まり、 その動員数は20万人をも超えた。
五重の天守閣の頂きには輝く金鯱、尾張徳川の名古屋城天守閣は慶長十七年(1610)にほぼ完成した。

 

★☆ 見学して ☆★

正門をくぐると広い敷地内が見えた。

右手に西南隅櫓を見ながら天守閣を目指した。
他に東南隅櫓、西北隅櫓などもあり、 当時は東北隅櫓も有り四方からの敵に備えて強固な警備を張っていたのだろう。
(全て重要文化財)
 

内堀を渡り表二ノ門をくぐっていくと本丸の後があり、その向こうには天守閣が全形を現わした。

天守閣の中は7階建てになっていて、色々な展示物があった。
三英傑(信長・秀吉・家康)の説明があり、歴史的な人物三人が同じ地方に生まれたのがすごいと思った。

 

 

 

石垣には所々色々な印が付いていた。それは大名が功績を残すための家紋を付けたのだった。
 


 

清正石

石塁の構築を命じられた加藤清正は、巨石を運ぶため自ら音頭を取って民衆と共に運んだと伝えられる。
実際の石塁の施工大名は黒田長政だったので作り話だとも伝えられている。 

 


金鯱の構造

木を荒削りして芯木を造りその上に鉛板、黄銅板でおおいさらに小判を伸ばした金板を貼り付けている。
使用された金は、軽佻小判に換算して一万七千九百七十五両に及んだと伝えられている。
金鯱はオス、メスで大小が見分けられる。 


 


目次 岡崎城 浜松城 小牧城 関ヶ原の合戦 駿府城 名古屋城 久能山東照宮