≪久能山の歴史≫
久能山は、推古天皇の頃(600年頃)久能忠仁が初めて山を開き、久能寺を建立した。
永録十一年(1568)駿府に進出した武田信玄が、久能寺を今の清水市に移し、この山頂に砦を造って久能城としたが、
武田氏の滅亡とともに徳川家のものとなった。
≪家康公薨去(こうきょ)≫
元和二年(1616)家康公は75歳で薨去、遺言によりここに葬られた。
「みまかりし後は、柩を久能山に納めて神に祀り、葬儀は江戸・増上寺、位牌は三河の大樹寺に・・・。
一周忌の後は、日光山に堂を建て我が霊をまねくべし。死して関東の鎮守とならん。」
5月3日、家康の神号を大明神にするか大権現にするかの論議が行われた。 秀吉公が大明神で豊臣家が滅びたため不吉として大権現となった。
秀忠の命令により、家康が埋葬されてわずか1年7ヶ月の短期間で久能山東照宮は造られた。
★☆ 見学して ☆★
一ノ鳥居から1159段の石段はとても長く、汗もあふれ出て辛かったが、
家康公の天下統一への長い道のりを感じながら歩いた。
灯篭や建物のいたるところに三つ葉葵の紋を見ることができた。
一番奥には家康のお墓があり、
とても静かで暗い中、僕は手を合わせた。
博物館には数々の宝物が展示されていた。
東照大権現画像、二代目将軍秀忠が奉納した国宝 太刀(銘 真恒)、
家康公使用のスペイン製枕時計(現存するゼンマイ式時計としては日本最古)など。
また徳川歴代将軍の武具類、家康や秀忠直筆の手紙も見ることができた。
秀忠は意外とたくさんの手紙を書いていたようだ。家康と比較すると字にも少し優しさがあるように見えた。