ここでは、芹沢文学を愛する皆様による作品の読後感、芹沢文学との出会い、芹沢氏に関する思い出など、皆様と芹沢文学の触れ合いをお寄せ頂いています。芹沢文学はこころの文学。皆様方一人一人のこころの交流の場となれば幸いです(投稿は新着順です)。原稿募集中です。投稿フォームより、芹沢氏、芹沢文学との思い出をお送りください。

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[20] 出会いは、巴里に死す。     2002.3.26

初めまして、なつかしい思いで書かせていただきます。私がまだ小学生の高学年だったと思います、その頃女子の間で流行っていた雑誌に週刊少女フレンドというマンガ本がありました。どなたの描かれた物なのかは忘れてしまったのですが、私としては別段何という事もなくただいつものように、『巴里に死す』という題のまんがを読んだのです、、、しかしそこには今迄読んだことのないマンガの世界がありました、私は小学生だというのに読み終えると、あまりにせつなくて、そしてやさしくて、色々な感情が心の芯まで入り込み、沸き上りベッドに突っ伏して泣きじゃくってしまいました。あの時の気持ちは今思いだしても鮮明に蘇ります、、、これが芹沢先生のことはまだ何も知らない頃の、でも今思えば初めてのであいでした。
 それから月日は流れて、そんなことなどすっかり忘れてしまった、高校3年のことでした。そのころ手紙のやりとりをしていた友人から、芹沢光治良という人の書いた『巴里に死す』という本を読んだらとてもいい本で涙が止まらなくなってしまった、是非読んでみて!、、という手紙をもらったのです、この時の私はまだ芹沢?だれ?という気持ちでしたので勧められたから、という感じで読み始めました。ところが読み進むうちに、あのマンガを読んだ頃のきもちが蘇ってきたのです、これってもしかして、ああやっぱりあの時のマンガ本の原作なんだ、そのことに気付くともう涙、涙でした。また巡り合えたことに感謝、友人に感謝でした。
 不思議なもので、この後も先生の本との出会いはいつも劇的でした、そして少しずつ大自然の神様を愛し始めた時、『神の微笑』等の本に巡りあったのです。
 なんだかなつかしくて、とりとめもないことを書いてしまいました。どんな時でも出会いは大切にしたいですね。

(茨城県古河市 3月の桜様)


[19] 3月23日を迎えるにあたって…     2002.3.13

高校生であった私のお気に入りスタイルは、長いスカーフを首に巻いて、風を切って歩くというものであった。
 それを見た祖父は言った。「昔、長いスカーフが車輪にからまって亡くなったダンサーがいた」と。後に知るそのダンサーとはイザベル.ダンカンである。1927年ニースでの事故を、祖父、芹沢光治良はフランス滞在中に知ったのであろうか。
 祖父母のヨーロッパ滞在期間とは、3年位のものであったらしい。その短い期間に多くの文化を吸収した様子は驚異であるが、当時の西洋文化が大輪の花の如く、華麗であったのも事実であった。80年たって、ヨーロッパは随分変化した。私自身が生活したこの30年でも、道徳価値観がすっかり変わってしまった。祖父のフランスへの憧憬を読む時、苦笑することもしばしばである。良くも悪くも変化していくのが人間の世界なのかもしれない。
 残された作品によって、著者が負わなければいけない責任というものがあるのであろうかと自問するこの頃です。

(フランス 匿名希望様)


[18] 祖父との再会     2002.2.8

ここでご縁のある方々とさまざまなやり取りをするうち、遠い土地の父ともメールのやり取りをし、いろいろ思い出し、考えするうちに、ずっと忘れていた子供の頃の祖父との不思議な問答を思い出しました。私はまだ中学生だったと思います。
「もといちにちって、なんだ」
「おかあちゃんのおなかのなか」
「もといちにちってのは、おまえがおぎゃあ、とうまれた、その日だ。」
 これ以上何も言わなかった盲目の祖父でしたが、真意を聞く間もなく亡くなってしまいました。
 今日になって突然その意味がわかったような気がして、めったに会うことのなかった祖父がそばに居るようで、「おじいちゃん」と呼びながらいっぱい涙が流れました。おやさま、父、母、祖父、祖母、曾祖父、曾祖母、とずっと私までつながっている何かを感じたのです。私の父の実家の教会は先だって天理教本部から独立しました。古い教会の歴史をたどるときが来たのを感じます。そして、親様の教えに帰るときが。物にとらわれすぎる私が自分の中にある天理教や日本のことを見つめなおすには、外国に出る必要があったのでしょう。親様から、私までずっとつながっている糸が感じられました。これからの自分にまた違った役目がやってくることを感じています。
 このきっかけをまず与えてくださった芹沢光治良先生への感謝の念をこの場をお借りしてささげさせていただきます。先生はまさに私の人生の師なのです。

(ドイツ・Koeln 四畳半主人様)


[17] 本に出会って 親様に出会った 本当だった!     2002.1.28

このページに出会えて良かった。管理人さんありがとう。芹沢先生がいつも見守ってくれますように。
 さて私初めてのおたよりで緊張しておりますが、私の芹沢先生との出会いをカキコミしたく思います。
 『神の微笑』が出版された当初、姉から面白いから読んでご覧と言われ、たんすの上に半年間そのままにしてありました。ある日の朝、目をあけると本が目の中に入り、こびり付いて離れません。気になったのでその日から読み始め、ぐんぐんと読み進んでいく中で、この本って本当の事を書いてあるんじゃないかなと思い、確かめる決心をしました。
 まず湯河原の市役所へ電話しました。どなたも分らずに最後に観光課に回され、何人目かで分る方がいて、駅から歩いてもタクシーでも行けるとの事。休みの日に行ってみました。ありました天命庵。どなたかに聞いたかは忘れましたが、8のつく日に行くと親様のお話が聞ける。18日は親様から個人的に話をしてもらえるらしい。意を決して18日に行ってきました。親様からの一言は『あなたは呼吸法と心の勉強をする事になってる』何で知ってるの? その頃には日暮里にある調和道丹田呼吸法の教室に通っていたので、これはしっかりやらなければと心したおぼえがあります。何回か行くうちに芹沢先生のご本に登場した事のある渡辺さんという方にお会いして、いろいろと教えてもらいました。芹沢先生のはるか後をすがるように追いかけてます。
 皆様ご機嫌よろしゅう。さようなら。

(神奈川県相模原市 やすじ様)


[16] 20年たちます。     2002.1.23

世の中には不思議な事があるものです。
 1982年2月5日、私の叔母を知っているという女性より電話がかかってきました。
「おばあ様がお亡くなりになった事についてお悔やみ申しあげます」
と。2人の祖母は病床にあったものの、どうして名前もおっしゃらない未知の方からこのような知らせがきたのか、一体どなたであったのか、20年たってもわかりません。
 当時体調をくずしていたもので、両親は異国にいる娘にショックを与えないようにと、あえて連絡を避けていたのでした。こうして、2月2日に父方の祖母を、2月4日に母方の祖母を失っていたと知りました。
 母方の祖母は芹沢金江です。小説を書いていた祖父の事を「お父さんは立派でいなされるから」と口癖のように言っていました。きれい好きな人で、春一番の頃には1日に何回も拭き掃除をしていました。そして心の掃除をもしていたのだと思います。出入りする御用聞きの人たちにあれこれと気を使い、孫を含めて遊びにくる子供達には、常におもちゃ等を用意していました。普段は質素な洋装で、近所への買い物以外は全く外出しませんでした。1度だけの例外は、叔母の帰国記念のコンサートへでかけた時。私達姉妹は「ワー、おばあちゃん綺麗ー」とその和服姿に歓声をあげたものでした。昔は印税の確認の為でしょうか、本の最後のページに著作者名の印鑑を押した小さなシールがついていたものです。桝目のひとつひとつに判子をおしていく作業をしている祖母を見て、やりたくて仕方なかった私でした。実に丁寧に、ひとこまずつ、心をこめて押していたのを覚えています。長い間、両親の賛成が得られずとどこおっていた私の結婚問題が解決して主人と帰国した際、祖母は一生懸命にフランス語で話しかけてくれたものでした。祖父はしばしばフランスの話をしてくれたものの、祖母の口からはフランスのフの字も聞いた事はなかったと、その時に気がつきました。
 あれこれ沢山の思い出があります。このような祖母がいたと、光栄に思います。

(フランス 匿名希望様)


[15] ドイツから     2002.1.16

ここを訪れて、パリやリヨンで芹沢文学を読んでおられる方がおられるのを知って嬉しく思い、ケルンからも書かせていただきます。
 私が芹沢文学に出会ったのはドイツに来てから。ちょうど芹沢先生のかつての恋人が去ってしまった国に来て、同じ年齢で、ちょうどさかさまの組み合わせで、私は私の日本においてきた恋人を失いました。人間の運命のそのくだりを読むとき、人事ではありませんでした。天理教の真っ只中に生まれ、疑問を持ちながらも天理教的発想から逃れられなかったという点もやはり他人事ではありませんでした。異国で暮らす中、自分の中のよくない日本人的特性とも、宗教背景とも対峙せざるを得なくなりました。そういうとき、かつて留学生活をした事のある人々の作品を探して読みました。そして出会った芹沢文学も数冊しか手に入らなかったので、「人間の意志」や「神の計画」など、何十遍も読みました。
 初めての一時帰国をして、実家でテレビを見ると芹沢先生の訃報でありました。当時家族とも分かり合えず悩んでいたこともあって、とり残されたような気持ちになりましたが、それから先生の著書でまだよく理解できなかったところがよくわかるまで何度も何度も読み返したことを思い出します。
 いずれは芹沢先生ゆかりの地を旅してみたいと思っています。せっかく隣の国にいるのですから。すばらしいサイトを作ってくださった管理人さまに感謝しております。

(ドイツ・Koeln 四畳半主人様)


[14] 寒く、暗い、悲しい季節です。     2001.12.16

長いヨーロッパの冬は辛い時期です。結核の療養に、寒気の中で過ごすというのがあったようですが、考えただけでもぞっとしてしまいます。もうすぐユーローになり、いままでのお金が使えなくなるという、精神的パニックのフランス人も多いようです。
 私がこちらに来たのは29年前になります。6月でしたが、その丁度1ヵ月前に祖父はパリに何日か過ごしました。お餞別として使い切れなっかった小銭が渡されましたが、硬貨は両替できなかったからでしょう。日本のお金にして、5円か10円といったものでしたが、いざ使おうとしたところ、古いフランスフランで使用できませんでした。
 今では国際電話も簡単にかけられるようにんなったし、インターネットですぐ日本のニュースもわかるし、和食にも不自由しないし、これが文明というなら、こんなにありがたいことはないと感謝してしてしまいます。日本からマルセイユまで、船旅40日でしたか、このような便利な時代になるとは、当時では考えられない事だったでしょう。しかも、この頃の留学生は、夏休みに、お正月にと、気楽に両国間行き来して驚いてしまいます。このページ、頻繁に 見ています。充実していて素晴らしいサイトです。
 皆様、良いお年を迎えられますように。

(Paris NOZAWA Naoko様)


[13] こんにちは。     2001.11.12

初めまして。私は今、慶應義塾大学の文学部に所属している者です。
 先日たまたま、近くの古本屋さんで芹沢氏の「愛と死の書」を手にしたのですが、その文章の優しさと表現の繊細さに感銘を受けました。続いて「巴里に死す」「春の谷間」「結婚」「命ある日」を読ませていただきまして、現在大長編「人間の運命」に挑戦中です。大学に入学後半年ほど経ちまして、これまで私なりに様々な小説を読んでまいりましたが、氏の小説ほど、登場人物一人一人に対しての目が優しく、それでいてメッセージ性のある文章には未だ出会えていません。特に現代の小説には、ショッキングな題材をテーマとするものが多く、芹沢氏の丁寧な語り口は逆に新鮮に感じられました。
 最近、「人間の運命」が母の学生時代の愛著であったことを知り、親子で共有できる名作のあることを嬉しく思っております。近所の古本屋さんに通いつめた末、氏の著書はあるかぎり買い占めてしまった次第ですので、文庫として他の作品も再出版されることを切に願っております。是非、文学館にもいつかお邪魔できたらと思います。

(千葉県柏市 田中多恵様)


[12] リヨン フランス tpk様     2001.8.8

オートヴィルをお訪ねになられたとの事、大変うれしく拝見致しました。只、作品の中だけで知るオートヴィルですが、いったいどんな所なのでしょう。先生の作品に登場します、療養仲間のジャックらと大自然の神に祈った『祈りの石』や、降り積もった雪を踏みながらあるいた散歩道、そして時々立ち寄った本屋、郵便局など当時を偲ばせるものは、皆無に近いと思いますが、読者にとりましては、是非とも訪ねてみたいところです。ホテル・レジナのサナトリュウムで毎日、空中に舞い降りてくる雪をキラキラ輝く活字にかえて、作家への道を決意されました。
 作品のみで知るオートヴィルですが、スイスのレーザンとともに、芹沢文学の友と一緒に先生の足跡をたどることが私の夢です。tpk様のふたたびの、オートヴィルのお話をたのしみにしております。

(愛知県 kesami様)


[11] オートヴィルをさがして     2001.7.31

はじめまして、10年ほど前から芹沢先生の作品を通じてその生き様の勉強をさせていただいております。
 私はフランスに住んで15年になりますが、数年前パリからリヨンに越してきました。リヨンはスイスにも近く、先生の作品に良く登場する地理に恵まれています。「オートヴィルの高原療養所」が以前から気になっておりまして、一度訪れてみたいと思っておりましたところ、なんとリヨンから車で1時間あまりのところにオートヴィルという地名が(地図上に)あるではありませんか。つい昨日の日曜日のことです。しかも地図で見ると計5箇所くらいに赤十字の病院マークが付いています。私はその発見にちょっと興奮して、しかし半信半疑で、早速妻を連れて出発しました。といいますのも、オートヴィルというのは「高所の町」という意味のフランス語で、仏語圏には結構あちこちに同名の地が存在するのです。車で旅行してそれらのオートヴィルを通る度に期待したのですが、今まではいずれもハズレでした。ちょうど今回は、リヨンの猛暑を逃げて、どこか山の涼しいところで夕食でも食べに行こうか、と妻と二人で地図を見ていたところだったのです。
 リヨンからですと途中、中世の城壁の街ぺルージュを通って、サンランベール・アン・ビュジェを抜けてしばらく牧草地帯を走ると左に山へ登る道があります。そこに「Hauteville Lompnes」への標識が出ていました。なだらかな登山道路の脇にはきれいな水の川が流れており、擬餌針を流れにのせる釣り人が多く見られました。獲物は鱒でしょう。今はすっかりスキー村になったオートヴィルには20分ほどその道を登って到着しました。今はスキーのオフシーズンですので、ひとけのない寂しい場所です。
 さて、肝心の療養所はといいますと、やはりありました、しかも比較的狭い範囲内に集中して建っています。でもその中のどれかに飛び込んで「日本の芹沢先生を知ってますか?」と聞くのも変ですし、一応頂上付近まで登ってから引き返してきました。リヨンから近いですから、またすぐに来れると思ったわけです。自宅に戻ってくると、早速先生の本からオートヴィルのことが載っている部分を探し出しました(本当はこれを持って行くべきでした!)。すると、
・「エーン県(実際にはアン県と発音します)」同じです!
・「スイスに近い」これも同じです!
・「ホテル療養所・レジーナ」がーん!同じ名前の療養所がありました!!道沿いに登って行くと一番先に左手に現れる非常に大きな敷地の療養所でした。しかし、次のところでちょっと引っかかっています。
・「標高1800メートル」私が行ったオートヴィルは標高1100メートル位なのです。その山をさらに登ればもっと標高の高いところに出るのですが、そこはもうオートヴィルではありません。これだけ色々な条件が一致しているのですから、ほぼ間違いはないと思うのですが、するとこの標高の不一致は先生の思い違いなのでしょうか?それとも創作上の処置?あるいはもっと別なオートヴィルがどこかにあるのでしょうか?どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけませんか?

(リヨン、フランス tpk様)