ここでは、芹沢文学を愛する皆様による作品の読後感、芹沢文学との出会い、芹沢氏に関する思い出など、皆様と芹沢文学の触れ合いをお寄せ頂いています。芹沢文学はこころの文学。皆様方一人一人のこころの交流の場となれば幸いです(投稿は新着順です)。原稿募集中です。投稿フォームより、芹沢氏、芹沢文学との思い出をお送りください。

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[30] 後藤様、ありがとうございます     2003.2.9

どなたからかお返事がいただけるかと、このところ連日、注目していました。
 私が見たのは、朝日新聞紙上でした。NGO あたりの広告だったのかなと思ったのですが、
 こんなに心にインプットされる内容は、高度ですね。

 あれこれ私が思いついたのは:
1)理念なき政治:http://www.mskj.or.jp/how/intro02.html
2)バブル、脱税、お金の力で動く世界。
3)陽気暮らしとは何か?
4)教育によって人間性や道徳を教えることは不可能であろうか。教育は一生の財産ですね。
5)戦いをせずに石油を手にいれるとか、相手を尊重して売り込むとか・・・
6)クローン人間、地球の温暖化、いろいろありますね。
7)宗教に属していないのに献身的な生き方をしている人に感慨をおぼえます。看護婦さん等。

(フランス 野沢尚子様)


[29] ガンジー 7つの罪について     2003.2.9

5年ほど前の毎日新聞のコラムの記事(99-10-23)を下記します。

 マハトマ・ガンディーの説く7つの社会的罪とは
1)理念なき政治
2)労働なき富
3)良心なき快楽
4)人格なき学識
5)道徳なき商業
6)人間性なき科学
7)献身なき宗教

について次のように書かれていました。

1)もはや選挙で当選することしか関心がない政治家たちは、なりふり構わず政党を渡り歩く。
2)バブルに浮かれた人々と、脱税にあれこれ知恵を働かせる不逞の輩(やから)
3)禁欲という言葉がいまの世の中、死語になってしまっている。
4)もはや説明するまでもない。文部省が「心の教育」に取り組むという悪い冗談のような計画で何かが変わると信じる人がいるだろうか。
5)「世間をお騒がせして申し訳ない」「報告を受けるまで知らなかった」という判でおしたようなトップの弁明を何度聞いたことか。
6)動燃(動力燃料開発)が繰り返すおそまつな事故や、温暖化ガスへの対応の鈍さのことか。
7)もちろん、他人を犠牲にする昨今の一部宗教ではなく、自己犠牲のことである。
  (私は信仰は自己犠牲がともなうものと解釈しました)

 最後にこのコラムは 次のように書かれていました。

「ガンジーがもし生きていたら、この日本を見て何と言うだろうか」

  以上参考になりますかどうか……

(愛知県豊橋市 後藤様)


[28] どなたか?     2003.1.25

どうも私は馬鹿正直でして、匿名の投書というものができません。先日は当地の掲示板において、現在、必死になってやっている政治運動について、2チャンネル族相手に奮闘させられました。責任の所在をはっきりさせる為に、本名で投稿していましたから、適当に答えられなかったのでした。
 つい最近、日本に滞在した時、新聞の一面広告に、このように出ていました。一体、何の広告かも思い出せません。どなたか、注目なさった方がおられたら教えてくださいませんか?

 マハトマ・ガンディーの説く7つの社会的罪とは
1)理念なき政治
2)労働なき富
3)良心なき快楽
4)人格なき学識
5)道徳なき商業
6)人間性なき科学
7)献身なき宗教
 インドのマハトマ・ガンディー記念館を訪問した時、展覧されていたイエス・キリストと仏陀と彼が手を取り合って聖天する稚拙な絵画を見て、脳裏に刻み込まれているのですが。
 どなたか、この広告によって何が意図されていたか助けてくださいませんか?

(1.26 追記)
 すみません、こうゆう情報を送ってくれた友人がありました。

 http://www.tsubosaka1300.or.jp/v/howa_04.html
 こんなHPに辿り着きました。
 住職さんの法話だそうですが。

一、節操なき政治
一、不労の富
一、道徳のない商売
一、徳を教えない教育
一、心に響がない喜悦
一、人間を忘れた科学
一、利己的な信心

 ここではこんな風に訳してありました。

(フランス国 野沢尚子様)


[27] お世話になりました     2003.1.5

2月に「国文学 解釈と鑑賞」芹沢光治良特集が出ますが、その中に駄文を掲載して戴いております。その文章を書く上で、こちらの作品一覧を活用させていただきました。ありがとうございました。もっと良いものが書ければ良かったのですが、なにぶん、しろうとなものですから、妙な論文になってしまいました。執筆終了後も引き続き、芹沢光治良氏の作品を読ませていただいていますが、当分、作品一覧を使いながら、読むことになると思います。

(東京杉並区 刑部憲暁様)


[26] バルセロナ/パリ旅日記     2002.12.21

御無沙汰しています。皆様、お元気でお過ごしの事と思います。
最近の私の旅日記です。長文でごめんなさい。

2002年12月7日(土)
 午前8時半に自宅を出る。AF275便、12:45分成田発パリ行きに搭乗。飛行機が離陸する瞬間はいつもワクワクする。心の中で「あっ飛んだっ!」と叫ぶ。ロシア上空から見下ろす風景は、流氷に覆われた極寒の世界。それが何百キロにも渡り、えんえんと続く。流氷の隙間からわずかに見える海面は、美しく淡いエメラルドグリーンに光っていた。
 18時10分、ド・ゴール空港に到着。タクシーでホテルへ。前に見えるのは、ソルボンヌ大学。エレベーターは手動で戸を開けるトラディショナルなスタイル。部屋に入ると、一人がやっと入れるほどの小さなシャワールームがあり、こじんまりとしたかわいらしい部屋だ。シャワーを浴びた後、外出。水と絵葉書を3枚買う。初めてユーロを使い感激!夜中のパリは、ぶあつい革ジャンを着ていても寒い。

12月8日(日)
 ホテルで朝食をとり、オランジェリー美術館へ。寒い中、倉庫のように荒れ果てた美術館のまわりをぐるぐる回り、入り口を探したが見つからない。それもそのはず、改装中で閉館していたのだ。2004年より新装オープンだ。モネの睡蓮で知られる美術館で、私は、4年前に見て、その豊かで薫りたつような色彩に圧倒され、だ円形のソファーに時を忘れ、いつまでもたたずんでいた。「睡蓮」は、モネが死後公開される事を望んでいた作品で、東洋に憧れていたモネは「睡蓮」を描く事で、死後の理想世界を夢見ていたのかもしれない。再び、その幽玄な世界を堪能しようと訪れたのだが、閉館中で残念だった。
 その後、ポンピドゥーセンターへ。Max Beckmannの大回顧展を見た。会場には、巨大なスクリーンがところどころに4つ用意され、戦争のあらゆるシーン、サーカスの踊子達などの映像が流されていた。絵は、21年前に何点か見て、知ってはいたが、それほど意識していた作家ではなかった。今回の展覧会を見て、黒くざっくりとふちどりされた人物や風景から、静かに伝わってくる狂気にも似た緊張感、人間のもつ潜在的な欲望がむき出しにされた画面からは殺気すら感じた。
 道に迷い、ホテルへ帰るのに一苦労。今晩は、バルセロナへ向う飛行機に乗らなければいけないので、迷子になったのは、冷や汗もの。ホテルの近くで偶然ド・ゴール空港へ向う仲間達が乗ったタクシーに呼び止められ、ほっとした。別な道に入っていれば、出会わなかった。何と運がいいというか、奇跡というか・・・。
20時10分パリ発、AF2148便、バルセロナ行きに搭乗。

12月9日(月)
 午前中、ギャラリーへ作品の飾り付けに。仲間4人で昼食。ビールがとてもおいしい。ご飯にソーセージと目玉焼き、野菜がついた料理を注文。ご飯は、しんのある炊けそこないのメシって感じで、まずかった。ホテルで一時間休憩し、再びギャラリーへ。夜は、主催者と二人でスパゲティーを食べる。主催者は、戦争経験者で、「俺達の時代に比べたら、今の不況など、どうってことはない。俺は何をやっても生きていける!」と力説。雑草のように強いというのは自他共に認めるところだ。
12月10日(火)
 みんなでホテルの朝食をとり、ピカソ美術館へ。今日は雨だ。21年前は、ごく普通のアパートが美術館になったような小さな造りだったのが、日本のギャラリー、一個分が10室以上もあるほど大きな美術館に変ぼうしており、ぶったまげた。バルセロナの街自体も大都会になり、せわしなく人々が行ききしている。現在、上野の美術館でピカソ展が開催されているため、作品の多くは、貸し出されていた。それにしても当時の何倍もの作品群は、天才ピカソを十分に物語っていた。観光客よろしく、ピカソの作品がプリントされた服やTシャツ、メモ帳などを買う。雨の中、ぶらぶらとバルセロナの街を散歩。途中に素晴らしい教会を発見!サンタマリア教会だ。260年の歴史があり、荘厳な雰囲気は、いやでも心が浄化されていく。椅子をちょっと動かしただけでも、楽器の中のような教会内では、その音が、カーーン!と高音で響き渡る。ステンドグラスがとても美しかった。昼は、パエリア。これは前回のご飯とは違い日本のご飯によく似ていておいしかった。美術館か教会のように重厚な様相をした郵便局に寄り、バルセロナ港を散歩し、ホテルへ。夜は、展覧会のパーティ-。20人前後の人達だったろうか、楽しく飲んだ。20代と思われる若い人達が多く来た。絵の説明を求められたが、スペイン語がまったくわからないのでコミュニケーションが出来ず、悔やまれた。バルセロナ在住の日本人作家やキューレーターもみえた。パーティーが終わり、みんなで中華料理店へ。タンメン、チャーハン、紹興酒等を注文。妙になじむ味に安心。夜、10時帰宅。

12月11日(水)
 ガウディーのカーサミラ、サグラダファミリアへ行く。カーサミラには、5組の家族が現在も住んでいる。屋上と他に何室か解放されていて見学する事が出来る。有機的な建築空間は、あたたかく住む人間を包み込んでいるようだった。遊び心が随所にあり、屋上の奇妙なオブジェには、ビンのかけらが無造作に埋め込まれ、独特な雰囲気をかもしだしていた。
 サクラダファミリアは、思ったよりも大きいとは感じなかった。最初に見たのは、受難のファサードだったからだろうか?磔刑されたキリスト、柱に縛られたキリスト、最後の晩さんなどの彫刻が施された門である。石もさほど古く汚れてはおらず、近年に出来たものであろうことは明らかだ。エレベーターで途中まで登り、あとは徒歩で回廊を上がる。人がやっとカニ歩きで2人通れるくらいの幅の階段を登っていく。壁には落書きがひどく、文化遺産を大切にしてほしいと思いながら、息を切らしながら登る。狭い螺旋階段のため目が回る。行き止まりまで上がり下を見下ろすと足がすくんだ。今度は生誕のファサード側へ行く。ここからの眺めの方が壮観だった。生き物の腹わたのような驚くべきデザインは「神の意志」によるものとアントーニ・ガウディ-が述べる通りの様相を呈していた。また、中へ入るとその強烈なガウディ-の個性があますところなく造型に結晶していた。ここの塔に上るには、すべて徒歩で上らなければならない。しんどかったが、最上階まで上った。途中に二本の塔を結ぶ通路がある、ここから見るバルセロナの風景は、碁盤の目に建物が整然と並び、すばらしかった。すぐ目の前には、糸杉をモチーフにした「生命の木」が見える。白い鳩の彫刻がむらがっている。頭には赤いりぼんがデザインされていてクリスマスツリーのようだ。
 この日は、バルセロナ現代美術センターも行ったが、サグラダファミリアを見てしまっては、現代美術なんぞ、とうふのかすにしか見えなかった。欲しかった皮ジャンを買い、画廊へ。日本領事館の方がみえていた。ZARAで衣類を買う。夜は、また同じ中華料理店へ。スーツケースの亀裂発見。

12月12日(木)
 9:30分バルセロナ発AF1149便、パリ行きに搭乗。空港でスーツケースを買う。11:30分ド・ゴール空港着。昼食は、ガチョウの肉、カキ、赤ワイン等。腹を満たし、オルセー美術館へ。ゴッホの自画像が何といっても、ゆらゆらと煮えたぎりあたりを鋭い視線で見据えていた。ホテルに帰る道すがら、ギャラリーめぐりをする。あちらこちらでオープニングパーティーをやっている。

12月13日(金)
 オペラ座へ初めて行く。入り口の丸い窓から、リハーサル風景をのぞき見る事が出来た。昼はオムレツを食べ、知り合いの小金君の個展を見にサンジェルマンデプレへ。和風な作品が会場の荒削りな白い壁によくなじんでいた。後から、バルセロナ現代美術展の主催者もアシスタントの女性と来廊。ぐったりと肩を落としている。「すられた!」と一言。小さな黒いバッグを右手に低くぶらさげ、混雑したメトロに乗っていたところをやられたらしい。複数による巧妙な手口で、バッグのファスナーを開けられてもまったく気がつかなかったという。財布と航空券をそっくりやられたようだ。ほんとにお気の毒。明日はもう帰国するというのに。
 夜は、知り合いの舞踏家、有科珠々さんのお宅へ。お目にかかるのは、4年前、私のパリでの個展に来て下さって以来。フランス人の御主人と4歳になる男の子と3人暮らし。御主人はオペラ座で役者の仕事もこなし、ピアニストでもある。彼女の舞台でもピアノを演奏。フランスの舞台のビデオを見せていただき、より洗練されて、深くなっているのを感じた。舞台以外では、パリで一番古いダンス・スクールで舞踏を教えていらっしゃるそう。フランスの家庭料理のフルコースとでもいいますか、心よりのおもてなしでうれしかった。鳥の丸焼がとてもおいしかった。

12月14日(土)
 モジリアニ展を見に行く。途中公園をゆったりと散歩し、パリの空気を胸いっぱいに吸い込んで、美術館にたどりついた時にはすでに30人ほどの行列が出来ていた。待っているうちに、どんどん行列は長くなっていく。この待列をいち早く見つけた大道芸人がフルートを奏で始めた。パリらしい光景だ。早くホテルを出てラッキー。中もすごい人でごったがえしていた。作品は、宝石のように輝いていた。優れた芸術作品の持つ霊気に満ち、純粋で繊細なモジリアニの感性を全身で受け止めた。映画にもなった彼の人生は、今でもその作品とともに語り継がれ、人々を感動させてやまない。旅の最後なのでフランス料理のフルコースを食べる。日本よりはるかに安いのでうれしい。
 昼食後、モナリザに会いにルーブル美術館へ。今では、あちこちに道順を示すプレートが貼ってあるのでモナリザの展示室に行くのに、まったく迷わず行ける。モナリザの前は、いつものように人だかり。50人ほどが、バシャバシャと写真を撮っている。フラッシュの放光がまぶしい。さながら超一流のモデルのようだ。21年前は、せいぜい10人前後の人が、柵もガラスばりもないモナリザを見ていた。もう10回ほど見ただろうか?何度見ても生きている。不思議な微笑。何を考えているのだろうか?確かにそこに一人の婦人がいて、こちらを見ている。「神の手」と言われたレオナルド・ダ・ビンチの傑作は500年近く経った今もなお私達を魅了し続けている。
それにしてもルーブルはだだっぴろいので疲れる。
 異国の文化は、多くの刺激を与えてくれます。元気なうちに、いろんな文化を吸収し、独自の作風と生き方に反映させていきたいと思う。

 23:25分パリ発、AF274便で成田へ。

(東京港区 イチロー様)


[25] 第305回芹沢文学愛好会月例読書会報告     2002.12.17

 12月の月例読書会(”文学を志す若い人々へ”)の報告をさせていただきます。
 今回のテキストは、短いわりの多くの切り口があるようで、いろいろなご意見が出ました。読書会でのご意見の一部をご紹介させていただきます。

・簡単な作品ではない。手紙は魂の交流。芹沢氏の真摯な考えが述べられている。
・三人に対する書簡は創作として読んだ。
 高校生への手紙-叔母との魂のつながりに感動して高校生に手紙を書いている。魂のふれあいを感じさせる手紙。
 大学生への手紙-芹沢文学精神としてとらえた。
 若い婦人への手紙-文学を通じて人間的に成長していると認めている。
・P.199下段”私達は謙虚な心で自己より大きなものの一部分として、その大きなものの将来を信じてそのものに自己を捧げる生き方を意義のあるものとしなければならないことです。”の自己より大きなものに対する解釈に関して議論した。
 解釈1:大きな組織の一部分として生きる意義を見つける。
 解釈2:大きなもの=神 として人類、地球、自然に対して貢献していくという生き方。
 解釈3:”大きなものの将来を信じて”というのは、戦争という時代的なものが影響しているのではないか。
・P.189下段”創作の上の富になるものは、生活体験ではないようです。”に対して以下のように賛否両論あった。
 1.いろいろな人生経験が創作の上でさまざまな人間の個性を表現できる助けとなる。
 2.必ずしも経験が創作の富になっていないというのは、芹沢氏だからこそで、人生には無駄がないので、一般の人には創作の富となるだろう。
 3.生活体験が全てではないというのは、創作したいという人への助言としては、大切な言葉である。
 4.書きたいという心の叫びは、生活経験と関係なく湧き上がってくるものである。
・仕事は、人間が神の理想を実現するために人間の器を磨くものであるから、これしかないと思ったときに道が開けてくる。
 どんな小さな仕事でも一生懸命やることが大切であり、それが違うものであれば神が別のチャンスを与えてくれる。
・高校生は、自分で判断したくない気持ちから作家に手紙を送っている。それに対してこの作家は、高校生を対等に話し相手としている。自分と相手の位置を同じにする姿勢がでている。人を指導するのではなくその人の成長を待っている。
・どんな仕事の人々にもあてはまる作品。心から希求するものをつきつめれば成功するというメッセージを与えている。精進していれば神(大いなるもの)が道をつけてくれる。
・語りかける年代、性別、どれだけ相手を知っているかによって、文体が違っている。自然の風景、植物の名前から小さな命の大切さを知ることができる。
・作家からの手紙だけで、作家に送った手紙がかかれていないのは、実際の手紙ではなくエッセイの手法、創作だからである。
・叔母の病気を見舞うところは、愛の奇跡である。叔母の一生は誠実に生きている。まわりの人々に誠実に対応することが必要と感じた。
・戦前の文学作品で、”電話”という言葉が出てくるのは、芹沢作品である。戦前から電話を持っていた作家は珍しい。
・作家の才能は他人に評価してもらうものではない。才能が身につく教育は難しい。
・婦人の書いた「清泉」という作品をぜひ読んでみたい。
・仕事のことが厳しくかかれているが、価値観の多様化した現代では、打ち込むものが趣味や家庭であってもよいのではないか。
・作品で述べられている仕事に対する考えは理想であるが、現実には生活のためということが大きい。
・芹沢文学精神が美しい文章でつづられている。

 とりとめなく、ご意見を列挙させていただきました。
 愛好会月例読書会の雰囲気が、少しでも伝わればと思います。
 ご興味のある方は、ぜひご入会ください。本HPでもご紹介いただいております。尚、読書会終了後には、忘年会で盛り上がり、楽しいお酒となりました。

(神奈川県川崎市 河原崎徳之様)


[24] 感謝     2002.12.13

こちらのHPにはじめて伺いました。情報が広くて深いのに驚いちゃいました。そしてナビゲーションが丁寧で優しいですね。すっごいですね・・・・ありがとうございます。
 芹沢先生のファンで、知りたいことが一杯でしたが、世間に出てる情報が少ないと思い込んでましたので探した事もなかったのですが、ここにこんなすばらしい情報が発信されてて、本当に感謝感激です。
 高校生の時から芹沢先生の本を読み始めてましたが、最近久しぶりに(10年ぶりくらいです)芹沢先生の本を読み返して感動して、ふとインターネットで検索してみた次第です。
 全国的に読書会をされてるみたいですね、ちょっと怖い感じもしますが、参加してみたいです。
 神戸で縁遠いと思っていましたのに、とっても素敵な出会いです。ありがとうございます。

(兵庫県神戸市 RICH FIELD様)


[23] 夏の思い出(『ブルジョア』の文体を借りて)     2002.7.1

二人の少女はお揃いのワンピースに麦藁帽子、ヴァイオリンのケースを手に。両親に連れられて駅に向かう。小説家と呼ばれる人も、そこに向かっている。少女達にとっては優しくて、それでもちょっと煙たいただのおじいちゃんでしかないけれども。
 若い父親は畏敬の念をもって、岳父に話し掛ける。しかし構内に汽車がはいってきて、真っ先に飛び乗るのは彼である。4人分の座席を確保する為に。
 発車。今度パパに会える日を数えて少々涙ぐむ少女。「でもこれから2ヶ月、ヴァイオリンのお稽古でママに叱られても、いつでも隣にいるおじいちゃんが助けにきてくれる。」そのママは、大好きな「お父様」と一緒にいられるのが嬉しいらしい。
 信越線は横川で、しばしの休憩をする。10分か15分か?碓井峠を越すにはアプト式という技術が必要だから。小説家は信州手打ち蕎麦の立ち食いに走る。衛生観念にうるさい人なはずなのに・・・・
 ゆっくり峠を登って行く汽車、車窓はしっかり閉めなければいけない。トンネルの中、煤煙で顔も着ているものも真っ黒になってしまうから。26だろうか、トンネルを数えると軽井沢。窓をあけるとひんやりした空気が。思わず皆で深呼吸。そろそろ下車の準備、荷物を脇に、軽井沢駅で降りていく人達を眺める。さあ、あと5分で到着!!
 そして最終目的地は星野23号。

(フランス・パリ 野沢尚子様)


[22] 人形師の涙を読んで     2002.4.19

1955年に初版された作品、すばらしい短編小説と思いました。
 戦後、大切にしていた八重垣姫を、焼け残った書庫から助け出し、著者が、東中野から三宿まで抱えて電車に乗る、という箇所で、ふと思った事柄がありました。芹沢光治良は母方の祖父に当たりますが、大昔、講談社よりの依頼で、シンデレラ姫の絵本の監修をしたものでした。美しいカラーの絵本が出来上がった時、一緒に大きなお人形が届きまして、それを見た時、私達姉妹は歓声をあげました。何しろ、私達と同じ位の大きさで、ブルーとピンクの素敵なドレスを着ており、ブロンドの髪がカールしていて、しかも当時には画期的なものでしたが、横にすると目をつぶるのでしたから。あのお人形を、一体どうやって、東中野から大塚の家まで運んだのであろうかと思った訳です。メリーと名付けて可愛がり、夏の2ヶ月を軽井沢で過ごす為に引越し荷物をつくる時には、大き過ぎて無理だという訳で、悲しかった。メリーちゃんは、今でも実家で大切にされています。彼女も共に年をとって、片目をつぶったウィンク症状になってしまいましたが。
 一方の八重垣姫は、真っ白なお顔で、妖怪な雰囲気があって、恐かった。一度、当時はまだお若かった桐竹紋十郎氏が(だったと思うのですが)、東京にいらして、人形の舞いを披露してくださいました。顔から下は空っぽだと知ったのだけれども、緋の地に紫色の桔梗、金糸の蔓模様というのでしょうか、あでやかな姿の後ろで操っておられる方が見えなくなる程、生きた表情にびっくりでした。作品を読んで、あの日の祖父母には、万感の想いがあったに違いないと思いました。

(フランス・パリ 匿名希望様)


[21] 私の出会いは「人間の運命」です     2002.3.31

こんにちは皆さん この素晴らしいHPを知り喜んでおります。
 夜間部学生だった私は昭和45年6月27日新宿区高田馬場の本屋さんで「人間の運命」第一部第一巻「父と子」を買いました。450円は一食分の食事代ほど高価でしたから第三部第二巻「再会」までの全巻読むのに一年かかりました。次の巻を買うまで二度三度読みしたものです。
 その後郷里に戻り愛蔵版と文庫版を買い求め三種類の「人間の運命」を完読しました。文学館へも一度伺いました、森次朗や加寿子も歩いた沼津駅から狩野川を渡り作品の中の一人一人を鮮明に想い巡らしながらの訪問は実に楽しかったです。先生の訃報は新聞で知り、ただ一人本箱の中の作品に合掌したのです。無宗教無信仰の私ですから素直な気持ちで「神の微笑」から「天の調べ」まで一気に完読出来ました。
 私は旨く文章に表せませんが、芹沢光治良先生の作品に出会えて本当に良かったと心から感謝している一人です、手元にある作品は私にとって聖書であります。

(新潟県新発田市 佐藤様)