ここでは、芹沢文学を愛する皆様による作品の読後感、芹沢文学との出会い、芹沢氏に関する思い出など、皆様と芹沢文学の触れ合いをお寄せ頂いています。芹沢文学はこころの文学。皆様方一人一人のこころの交流の場となれば幸いです(投稿は新着順です)。原稿募集中です。投稿フォームより、芹沢氏、芹沢文学との思い出をお送りください。

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[40] 「芹沢光治良文学愛好会 創立25周年を祝う会」の報告     2003.6.9

『2003/5 創立25周年を祝う会の報告』
日時:2003年5月31日~6月1日
会場:IPC生産性国際交流センター(神奈川県三浦郡葉山町湘南国際村)
参加者: 53名
(感想)
(5/31)
(1)講演  芹沢光治良文学愛好会 代表:鈴木春雄氏「愛好会25年の歩み」

  1. 愛好会25年の歴史をパソコンを駆使してビジュアル的に分かり易く楽しい紹介と芹沢光治良先生に纏わるエピソードが紹介された。
  2. 25年の歴史を、代表自身の25年前の少年を感じさせる若々しい姿と現在の重厚な人柄の写真。 又、芹沢文子様の25年前の若くて美しい笑顔の姿と美しく年輪を重ねてこられた現在のしとやかな写真の対比は、各自が心に持っている芹沢文学への歴史を思い起されたのではないでしょうか?
(2)文芸講演 作家 小谷瑞穂子氏 「二十世紀における芹沢光治良文学の思想」
  1. 「教祖様」より、中山みきの生きた明治の時代。
  2. 「人間の運命」より、日本が明治維新による封建制度の崩壊から辿らなければならない歴史を忠実に描いた作品であることを、小谷先生は明治・大正・昭和の歴史を分かり易く具体的にお話いただきました。
  3. 「芹沢光治良の神思想」に影響与えた思想として以下のことをお話になった。
    1. デュルケーム学派による社会思想
      実証主義者である先生は、思想の自由を確保しながら、大自然(神)の存在を否定しないで、火、水、風などに神の存在を感じる立場で作品を書いている。
    2. ベルグソン哲学によるエレン・ビタールと呼ばれる「生の哲学と愛の哲学」との合体。
    3. キリスト教のカトリックの神秘思想と天理教の神懸かりとの合一。

私は、先生の神思想に関しては、最も興味ある内容です。今後、本講演を手掛かりに勉強しないと思います。小谷先生が最後に言われた「芹沢光治良文学の思想は、唯心論(心)と唯物論(体)を愛で融合し合体したものである。」 そのため、暗い夜の文学ではなく、明るい光の文学である。 が印象に残っています。

(6/1)
(1)読書会
①「風迹」 ②『再び「ブルジョア」の日に』 ③「おじいさま、おばあさま きんぴらごぼう」
に分かれ行われました。
私は「風迹」に参加しました。

  1. この作品で、昭和10年の作品で、「橋の手前」の続編の作品として書かれている。
      「橋の手前」では、妻(芳枝)が、夫(杉野)が橋を渡っていくのではないかと、夫を監視し心の落ち着くことがない妻を描いている。この「風迹」では、弟の「民三」が検挙されるが、「橋の手前」の芳枝とは、違って、落着いた態度に、杉野には、奇蹟にも感じた。この思想の風迹(風の足跡)に残ったものは妻の落着きである。
  2. なぜ、「橋の手前」の芳枝が、このように落ち着いた態度でいられたのか?
    夫が、もう「橋を渡る」ことを考えなくなったと、女の感で悟り、また、弟の「民三」の検挙についても、この時代の若者の一過性の風潮として捉えられていたので、特別に問題にする必要はないと、女の独特の世渡り感覚で、落着いた態度がとれたのではないか。 などの意見が出された。
(2)朗読
『戯曲「家」(三幕)』 1927年(昭和2年)フランスで創作した作品。
会員の方が、1ヶ月前より練習されて、音響にも、先生の作品に関連する曲と効果音もとり入れられ、シリアスに見ごたえ、聴き応えのある朗読でした。

(3)ビデオ鑑賞
  1. 沼津の文学館での「文芸講演」
  2. NHK スタジオ102「訪問インタビュー」
  3. NHL 銀河テレビ小説 「春の谷間」最終回(昭和52年3月4日)

台風で始った、創立25周年を祝う会も閉会する頃は、残念ながら富士山は見えませんでしたが、青空が顔を出し、芹沢光治良先生からのお祝いをいただきました。
これからも創立50年を目指した頑張りたいと思います。

(神奈川県横浜市 池田三省様)


[39] 自分をみつめる心になれますね。     2003.5.18

最近、ブロードバンドにつなぎ、ホームページを開いてみました。
 今から20年ほど前、新聞配達をしながら4年間の学生生活を東京でおくりました。正直に言って辛かった、迷った苦しんだ…。そんな学生生活の中で、読んだ『人間の運命』 こころのひだのひとつひとつに刻み込まれ、勇気や慰めや希望のようなものを受け取りました。必死に読みつづけ、耐えることの先に自分を待っているものがあることを信じ、読み続けた日々が想い出されます。

(鹿児島県姶良郡 薩たろう様)


[38] 「芹沢光治良氏のこと」     2003.5.7

限られた在庫の、巴里にある日本語図書館にて、遠藤周作著『なつかしき人々』なる1冊を手にしました。私が本を選ぶ際には、冒頭部分を読んだり、目次に目を通したり、これは読むに価するとの選択に時間をかけます。

 何気なく目次を繰りましたら「芹沢光治良氏のこと」なるページがありました。早速の立ち読みです。ある1行、これは私の読解力に問題があるのかと数回読み返した部分以外は、たった4ページ半の文章でしたが、起承転結の明確な、しかも人物に対する洞察の深い内容であると、素直に頷きました。

 偶然にも、巴里滞在の長い彫刻家の方にも出会い、長話をしてきました。「芸術というのは、分野が美術であれ、音楽であれ、コツコツと築かなければいけないのですね」という結論に至りました。この彫刻家には、芹沢と、ある長老でおられた画家との接点を確かめるのに、是非、仲介していただきたいと、お願いしたことがありました。この長老は、大使館などの集いで、遠くよりお見かけしていました。しかしタイミングの皮肉、死の病におられまして、真相を確認するに至りませんでした。残念です。

 その長老画家は関口さんです。フランスにおける第二次大戦中の邦人の動きについて復習した時に出てきた人物は、芹沢の作品の登場人物ではなかろうかとの疑問があったからでした(大塚という友人画家ではありません)。

 祖父は食卓で、小説に現れる人物について、歴史の裏側について、父を相手に、しばしば話をしておりました。幼かった為に聞き流していたことが多くて、悔恨の念にかられます。

(フランス・パリ 野沢尚子様)


[37] はじめまして     2003.5.5

ほぼ10年前、知人に薦められて芹沢先生の作品を読みました。「神の微笑」から「大自然の夢」までの7冊でした。その当時、芹沢先生がお亡くなりになったことも、新聞で知りました。

 あれから、10年。ここ2週間ほど前から、なぜか本棚に手が届き、もう一度読み返しておりました。で、今日、読み終えた7冊の本をもう一度本棚に戻し、ネットにてこちらのHPを知りました。

 大変びっくりしたことに(というか、私が勉強不足で、大変失礼な話なのですが)昨日は、芹沢先生のお誕生日だったのですね。そして、さらに失礼なのですが、私の中では「大自然の夢」が最後の執筆だと思っていた。何かの勘違いだったのか、買い忘れていたのか……。あの頃、あれほど必死に読んではずなのに。そして、もうすでに絶版になっているなんて、少しショックも受けました。

 ただ、今日、こちらのHPで「天の調べ」のことを知ることができ、よかったです。早速ネットで注文しました。なんとなく、私は、今、まさに今、この作品を読まなくてはいけないような気がしました。なんとなく、そんな神の計画があるような……。

 芹沢先生の作品との再会にご縁を結んでくださってありがとうございます。

 PS、今、おぼろげに、記憶のかなたで、「天の調べ」を前にお財布の中身がなくて買わなかったような記憶があるような……。

(京都府京都市 逢河光乃様)


[36] 偲ぶ会と尚子様の演奏の思い出     2003.4.27

四月六日の偲ぶ会に参加しました。先生の没後10周年記念として、墓参と文化センターでの「朗読と音楽で綴る芹沢光治良の世界」が開催され、もちろん楽しみにしていましたが、それに加えて楽しみだったのが、前日の斎藤博子様が主催されている「人間の運命」を読む会への参加と斎藤邸でのお泊まり会でした。

 雨の降る中、名古屋の前田様方三人と共に出席した読書会は、親子関係、特に父性愛について丹念に議論され少人数ならではの密度の濃い会で大変勉強になりました。お泊まり会もその流れでいつまでも話が尽きず、温泉の気持ちよさも加わり楽しい一夜を過ごさせていただきました。

 翌日は朝から気持ちの良い晴天で、まさに芹沢晴れです(先生のイベントはいつも晴れます)。私は始めて沼津墓地に行きましたが、先生のお墓の立派さに驚きました。当初お墓を作る際、いい墓地が見つからずに困っていたところ、ここで良ければと沼津墓地の水場を紹介され、寸法的にもぴったりだったので決められたそうですが、お水を配っていたご縁かもしれないと言うお話に不思議な物を感じました。尚子様のバイオリン演奏が荘厳な雰囲気を醸しだし、敬虔な気持ちで白いカーネーションを墓前に献花すると、先生にお会い出来たような感動を覚えます。その後、尚子様と数名で文学館に車を走らせ、朗読会が始まるまでの間二時間ほど、文学館での尚子様のバイオリン演奏をビデオ撮影しました。尚子様が先生のお写真の前で演奏するのが夢だったとおっしやるほど、思いを込めた演奏だったからでしょう、バッハのシャコンヌに音楽に疎い私も魂まで揺さぶられ、今までに経験のない程感動を覚えました。また、先生のお写真がにこやかに微笑まれ、先生が尚子様の演奏を私達と一緒に喜ばれていることを実感できました。私は先生の作品に感動して涙を流したりしますが、この日始めて文学も音楽も人の心を揺さぶり感動させる事に関しては同じなんだと気づき、なにか新しい世界をいただいた思いがします。

 その感動を胸に朗読会とピアノ演奏を堪能しました。「だせんだよー」とうら悲しく叫ぶ声とピアノの音色が切なく胸を打ち、感動の一時間でした。後日、尚子様と斎藤様を我が家にお招きして楽しい時間を過ごさせていただいたこともいい思い出です。只今、主人がビデオ編集に追われております。私としてはいいビデオが出来ますことを祈るばかりです。

(千葉県市川市 豊田節子様)


[35]  十周年を偲ぶ     2003.4.26

芹沢光治良先生が亡くなられて10年、この上ない晴天に恵まれた4月6日、先生の眠る沼津墓地に35人が集った。
 パリから一時帰国された野沢尚子様が奏でるバイオリンの音色(バッハの無伴奏ソナタ三番)が青空に吸い込まれていくようで、野沢朝子様の「今日、父は、このすぐ近くで、にこにこしながら見てくれていると思う」というお言葉が実感に迫る。文子先生の「父がいつまでも皆様の心の中に残っていて下さることを嬉しく思う」とのお言葉も嬉しく、一人一人、白いカーネーションを墓前に献花した後、うららかなそよ風に誘われて文化センターまで、およそ2キロの道を歩くことに。
 11時30分、会議室にて昼食の後、鈴木春雄さんの司会で、全員が自己紹介をし合う。芝川町にクリニックを開院されたばかりの青木先生は、今、自分たちの居るこの場所に沼津中学(現東高)があったと話され、同じ卒業生として、母校の校歌を歌って下さるなど和やかで有意義なひとときであった。

朗読と音楽で綴る芹沢光治良の世界  14時、ホールにて、いよいよ本日のビッグイベント「朗読と音楽で綴る芹沢光治良の世界」の開演である。
 舞台の正面に光治良先生の大きなお写真が飾られ、背面には、海と空とが溶け合ったような青(照明)が一面に広がっている。この青は、芹沢先生が在りし日に見つめた海だろうか。その青の中に浮かんだ先生の温顔に思いを馳せていると、ピアノの厳かな音が聞こえてきた。それを合図のように岩崎直氏の朗読が入る。フォーレのレクイエムの音楽と朗読に魅せられた1時間であった。

 この日の為に、台本作りからピアノ演奏までお一人で計画、実行された玲子先生の慧眼と推進力に感嘆すると共に、心からの感謝を捧げるものである。(撮影:多田三夫様)

(静岡県沼津市 斎藤博子様)


[34]  「巴里に死す」フランス版を探して     2003.4.25

BONJOUR
 MONSIEURと申します。以前、こちらの「こころの窓」へ投稿させていただいことがあります。

 現在、4月中旬から3ヶ月ほどの予定で巴里に滞在しています。この機会に「巴里に死す」フランス版を手に入れたいと思っています。芹沢先生がフランス語に堪能だったように、私も堪能であればよいのですが、何分未熟で日常生活でさえ苦労の毎日です。

 私が芹沢文学と出逢ったのが、軽井沢高原文庫で企画展を実施している際、そちらでアルバイトでお世話になったことがきっかけでした。それ以来、ずっとファンとなってしまいました。

 フランスへ訪れて(実は2度目となりますが)、やはり文化の違いを実感します。
 それが、芹沢先生が渡仏された当時では、今にも増して実感されたことなのではないでしょうか。
 芹沢先生の本から「人間として立派であること」ということを訴えていると私は思っております。
 フランスへ来ましたが、日本人として恥ずかしくない行動を心がけています。
 日本とフランスとの文化の違いがあっても、お互い尊敬できるところを見つけて帰りたいと思っています。

(東京都千代田区 MONSIER様)


[33] 私の沼津     2003.4.24

1963年のまだ肌寒い時期。祖父、両親、妹と東京を出発する時から雨模様だった。風に鳴る碑の除幕式に出席する前に、まだ木造だった沼津駅構内の食堂での昼食。祖父も私達も、魚フライなるものを食した記憶がある。我入道の海辺に到着した頃には、本降りになっていた。幼かった妹が除幕するのに、係の方に抱かれて、もう一人の方が傘をさしかけて、しかし、何かがひっかかって上手に幕を落とせなかった妹は、べそをかいていた。その後、井上靖氏の文学碑の除幕式に臨んだのではなかったか?
 これが私の初めての沼津であった。

 1970年、文学館オープンの式典には、団伊久麿氏が声楽とピアノ、そしてヴァイオリンとピアノの2曲を作曲してくださって、叔母2人と私が演奏する予定になった。開館祝典は土曜日。土曜日というのは、厳しい斉藤秀雄教授のオーケストラの練習日であり、彼のレッスンに遅刻する、欠席するとは、絶対に許されない事であった。仮病を使うか、しかし母に諭されて、斉藤教授の煙草の煙ムンムンの部屋に、特別許可をいただきに参上した。結果は勿論、否。

 泣く泣くの私と祖父母、母との一場面を思い出す。祖父は提案した。「記念のレコードには、ヴァイオリン演奏、野沢尚子としてもらいましょう。」かくして、その日の演奏、及び録音は、芸大のヴァイオリニストが受け持ってくださった。それ以来、文学館とは、私にとっての鬼門であった。

 その後、図らずも日本を離れての生活が長くなり、2回訪問した沼津は、あくまでもヴィジターとしてである。

 1993年4月6日、祖父には沢山の心の捧げ物を音楽に託した。その中には、祖父が嘆きの音楽であると評したシベリウスのVLコンチェルトの2楽章も入れた。そして当日、同じく参会した方が耳にしたであろう、マーラーのさすらい人の歌を、泣きながら弾いていた私であった。

 時のたつのは早い。2003年4月6日、文学館の入り口ロビーにある祖父の写真の前で演奏している自分を、どうして想定していたであろうか。その実現が可能になりそうだと決まったのは、3月も末になってからであったから。
 祖父の写真に対峙して「これが私です」と、正々堂々と主張できるまでに、30年が必要だった。

(フランス・パリ 野沢尚子様)


[32] 交流の喜び     2003.2.10

そうでしたか、どうして5年前の新聞記事を保管なさっていたのだろうかと驚嘆したのです。又、パトリスジュリアンファンという、隠れたファンの登場も感激しました。図書館に行っても、芹沢コーナーはなくなっているようですもの。若い世代の方には、芹沢という作家は、既に化石になっているのだろうと思っていました。
 こころの広場も、こころの窓のページも、打てば響くような反応があってこそ、生きた交流ができますね。ヴィジターのカウンターも、999999の次は?と心配になってきました。

(フランス 野沢尚子様)


[31] 7つの罪について の記事を保管している理由     2003.2.10

野沢様 早速のご返事恐縮です。
 5年程前の、コラム記事を私が持っているのは、実は芹沢文学と大きな関係があるのです。
 毎年、沼津の我入道で開かれる「芹沢文学愛好会」の読書会の司会を私にと依頼されました。97年秋のことでした。読書会は4時間余りの長丁場なので、テキスト以外で何か話題をと思っていたところ、この記事が目に入り、読書会で紹介しました。
 野沢様の書き込みを拝見して、当時を思い出した次第です。5年の歳月を経て、光治良先生のお孫の野沢様と、こうしたやりとりに結びつくとは……。

 ちなみに、このコラムの書き出しは、次のようでした。
「非暴力主義を貫き、50年前に暗殺されたインドの政治家マハトマ・ガンジーは、社会的罪として7つをあげた。まるで半世紀後の日本を見通していたかのようだ」

 PS.コラムの日付 先に99-10-23としましたが、97-が正しいです。

(愛知県豊橋市 後藤様)