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第二章 杏樹陸軍病院に転属

 軍隊の教育も第二期になると、それぞれ専門の教育を受けるので、内務班での生活は楽になる。そんな甘い考えをしていたのであるが、病院に到着した翌日からの衛生二等兵としての教育は、第一期の野外戦闘訓練こそやらなくて済むが、衛生兵としての看護学は大変であった。日本赤十字社の正看護婦としての教育は、二年間と聞いているが、その二年間の学科を僅か半年余で終了せねばならない。
生理、衛生、人体構造から、按摩術まで、日曜日を除き毎日朝八時より午後五時まで学習の連続で、一週すぎると翌月曜日に前週の学科試験が行われる。学生に戻った以上の猛学習が続くのであるが、実は学習より更に筆舌に表し難い過酷な生活は、内務班、兵舎内の教育が待機していることである。
 六時起床点呼、七時~七時三十分朝食、八時~十二時、昼食をはさんで、また午後一時~午後五時まで学習、六時夕食、八時点呼、九時消灯。
 起床・点呼・消灯はラッパが合図で、朝起床より学習時間迄の二時間、午後五時に学習が終わって消灯までの四時間、計算すれば合計六時間の自由時間があるわけであるが、この間に食事、兵舎内外、
班長室の掃除、兵器(銃、帯剣等)、軍靴の手入れ、自分と戦友と二人分(当番時は班長と三人分)の襦袢、袴下、靴下、襟巻の洗濯と入浴は必ず毎日行わねばならない。
 朝の二時間は、食事と掃除で終わり、午後は五時に学科を終了して兵舎に帰っても、兵器の手入れ、食事、軍靴の手入れ、二人分の洗濯、兵舎掃除と時間が足りない。入浴は日曜日以外、タオルを濡らしただけでごまかすことが多かった。洗濯も戦友殿や班長殿のものが精一杯で、自分のものは「てんぷら」といって、水に濡らしただけで干して着る。そのために不潔となり虱がわく。腹に巻いて洗うことのない千人針の腹巻などは、振ると虱がぽろぽろとこぼれ落ちる有様……。
戦友、班長が同情して、「今日は襦袢は汚れてないから洗わんでよい」 と脱いでくれないので「助かった」 と思って済ますと、古参兵が見ていて、点呼後の呼び出しとなって跳ね返ってくる。
 点呼後に先輩から受ける指導は、「初年兵教育」 といわれていたが、その実は、「教育」 と呼べるようなものではなかった。軍隊生活のなかで最もつらく、耐えがたいものがこれであった。
 私は軍隊というものに対する知識は全くなかった。それ迄、親戚縁者に兵籍を持つ者が誰もいなかったせいもあるが、当時軍人の数はそれ程多くなかったことにもよる。ほとんど軍隊の予備知識を知らず、いきなり北満の地に運ばれて初年兵教育を受けたのである。教育の名のもとに、私的制裁を受けることなど、夢にも想像していなかった。
 演習の苦しさには、これが兵隊なのだ、これが戦争なのだ、これを乗り越えることが、天皇陛下のため国を守るためなのだと、自ら心に励まし、誇りに思って耐えしのぎ、自らの心を慰めていた。しかし、古参兵の教育と称する私的暴力、苛めには、我慢しがたい憤り、反発を感じた。だが、どうなるものではない。「上官の命は畏れ多くも天皇陛下の命令だ」と言われては、一言も答弁は許されない。
 私は性格的に「正しくない」と思われることを迫られると、拒絶反応を起こし、表情や態度に現われ、制御しがたくなることが一般の人より強く、随分損をした。それは現在に至るまで続いているが、反省を重ねながらどれ程修正されたであろうか。甚だ心もとなく慚愧に堪えないが、人生また複雑怪奇、その性格なるが故に損をすることの多い反面、それ故に死を免れたことも幾度か経験している不可思議もあり、「人間万事塞翁が馬」のたとえを思い出す。

 杏樹陸軍病院の衝生兵教育

 初年兵の一番苦しく辛いことは、学習や、行軍、演習或いは零下三十余度の寒気でもない。夕食、点呼後の兵舎内務教育にある。昼間の学習、演習は表の教育とすれば、裏の教育と呼ぶべきか。点呼後、消灯時間を無視して続く初年兵苛めがそれである。
 当時の初年兵は、現在でいえば成人式を終わったばかりの若者で、全国一斉に徴兵検査を経て、一定の基準を満たした体力保持者の中より、徴兵令という国の法律に従って強制的に徴集された者達で、当時の大学卒業者もあれば、やくざ者、前科者に至るまで、千差万別の人間の集まりである。これらの人間を「日本軍人」という統一した型に嵌め、上官の命令のため一致団結、あらゆる苦難に耐え、死を おそれず、死に勝る戦闘等の苦難に耐え得る不撓不屈の精神と体力を養わんがための教育をなすことである。
 軍隊では、一年(否一日でも) 早く入隊した者を古参兵と呼び、階級とは別に尊敬せねばならぬしきたりがある。
 一年早く入隊して教育を受けたから、初年兵を教育なし得る技能は得られたとしても、人間の精神、軍人としての人格や能力まで習得できるものではない。しかし軍隊では、できてもできなくても先任者は教育を行わされるのである。私たち二年兵の背後に三年兵が、班長がにらんでいて、初年兵教育の実行を迫られるからである。
 二年兵は、気持ちのうえでは温情を持ち、子弟を指導するつもりで教育していると思うが、指導する者とされる者との心情は、ちょうど嫁と姑の如く、教える気持ちは苛めとしか受け取れぬ場合が多く、親が子供を躾けする場合でも、愛情を越えた感情による折檻も珍しくない。まして一年早く入隊した先輩というだけで、同僚的人間が、人間を教育するなど出来るはずはない。力、或いは権力等に依存することはやむを得ぬものと思うのであるが、第三者の立場で、今だから言えることであろう。
 初年兵である当時の私たちにとって、それ程の理解力はないし、今考えても当時の「初年兵教育」とは、「苛め」 であり、「私的制裁」 であったと思われる。「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と歓呼の声で送られてきた。命を国に捧げるために故国をはるばる北満の地まで来たのに、これが軍隊なのか。何が皇軍だ。死んでたまるもんか。そんな想いで、日曜日を除く連日連夜の点呼後に受ける「兵舎教育」 に次年度の初年兵を迎えるまで一年三カ月間、歯を食いしばって耐えねばならなかった。
 私たちが受けた「初年兵教育」 を、次年度に入隊する「初年兵」 には、絶対やらないぞ、連日連夜二年兵より受ける初年兵教育に耐えながら、心にいつも思った。当時の「初年兵教育」 の実態を、五十年余過ぎて尚忘れぬ数々の一部を記録する。

 兵舎に於ける初年兵教育の実態

 夕食後、八時に週番士官殿が兵舎を巡回、班長が異常なきことを報告し、その日の命令を伝達する。連絡事項などがあれば申し渡して、班長室に引き上げたあと、二年兵(先任上等兵以下数名) の教育が始まるのである。
「初年兵は自分の編上靴(ヘンジョウカ)を持って来い」各自手に提げた靴を、一人ずつ二年兵が手に取って靴裏まで返してみて検査する。
「貴様この編上靴を手入れしたのか」「はい」「これで手入れしたと言えるか、嘗めてみろ」「はい」
「嘗めろ。命令だ」強制的に嘗めさせられる。
点呼が終わると「初年兵は一列に整列」と班内中央の廊下に並ぶ。「第一釦を外せ」 二年兵の声に、首に一番近い第一釦を外すと、二年兵が前に来て襟布を剥ぎ取り、取り替えの有無を検査する。誰か一人でも取り替えていない者がいると大変、「貴様達はたるんどる。一人ずつ前へ出ろ」牛草製上靴の爪先の方を持ってピシャリ、ピシヤリ。踵の固い皮が頬を打つ。次、ピシャリ、ピシャリ。次、眼鏡を外せ、ピシヤリ。
 「一人でも実行できない者のいるのは団結力が足りないからだ。次に金銭出納帳を出して見せろ。現金は」
また一人でも記帳していない者、記帳していても、帳尻と現金が一銭でも合わぬ者がいると、零下十数度の野外に全員立たされる。金額の合わぬ兵隊は、合うまで探せという。探して出るはずはないが探すふりをせねばならぬ、弁解は通じないからだ。外に立つ者は凍えそうで、ブルブル震う。三十分以上も立たされて入れてもらうが、九時の消灯時間はとっくに過ぎて、十時、十一時まで続く。
 廊下に整列させられて一人宛順番に、「軍人に与える勅語」 の暗誦をさせられる。二年兵は勅諭文を手に、暗誦を一字でも間違えると、「まて!! やり直せ」またもとに返り、終わり迄読むだけでも、十分間位かかる。間違ってやり直せば、一時間経っても終わらない。入 隊迄に暗誦できない者があるので、いつ迄も寝させてもらえない。私は幸い皆暗詞できたが、次の苛めが待っている。
 「皆手拭(タオルと言わない) を持って集まれ」いつものように点呼後に集合がかかる。五時に学科を終わり、夕食後、戦友殿と自分のと、当番の、時には班長殿の分と三人分の襦袢、袴下、襟布の洗濯、編上靴の手入れ、銃、帯剣、水筒、飯盒等の手入れを必ず毎日欠かせないので、入浴などする時間はめったに得られない。当然手拭いは乾いたままであるから (馴れてくると水に濡らして絞っておくのであるが)、うっかり乾いたままの者が一人でもいると大変、「入浴しないでは不潔で病気になる。何故しない」 言葉は親切だが、「団結心が足りない。二列に並べ、前列廻れ右、向かい合ったら前の奴を殴れ、次は代わって相手を殴れ、力一杯殴れ」
対抗ビンタである。「何だその殴り方はどけろ、こうして殴るのだ」 ビシリ、ビシリ、往復ビンタである。お互い同年兵だし、殴りたくない、殴られたくもないが、命令に逆らえない。「軽く殴れよ」とささやき合うが、軽く殴ったつもりでも、相手は痛い。俺はこんなに軽く殴っているのに、本気で殴るとは。負けるもんか、俺も力一杯殴ってやる。次第に本気で殴り合う。皆涙を流しながら、頬を腫らしながら……。
銃の手入れが済むと、各班の入口、廊下に沿って銃架があり、銃を立て掛けておく。銃の手入れは、毎日分解し、スピンドル油布で拭き、結合し、最後に引き鉄を「カチリ」引いておくのであるが、うっかり忘れることがある。例の如く点呼後、二年兵が銃架の銃の引き鉄を次々全部引いて廻る。引き忘れた銃があれば「カチリ」音がする。さあ大変だ。皆覚悟をする。今夜は何をやらされるのか。点呼が終わると直ちに整列、各自の銃を持って一列に並ばされる。
 「貴様達は、この三八式歩兵銃を何と心得る。気を付けい。畏くも天皇陛下の菊の御紋章が付いている、天皇陛下よりお預りしている大切な銃である。引き鉄を引き忘れて万一事故でも起きたらどうするか。全員捧げ銃(ツツ)をしろ、踵を上げろ。膝を半ば曲げろ。そのままの姿勢でいろ。勝手に姿勢を崩してはならぬ」
引き鉄を忘れた兵の前に二年兵が立った。「お前は銃に対し、申し訳ないことをしたから銃に詫びろ」と言う。「どう詫びるのですか」と聞くと、「言う通りに詫びろ」
 二年兵「三八式歩兵銃殿」、初年兵「三八式歩兵銃殿」、二年兵「陸軍衛生二等兵中村は」、初年兵「陸軍衛生二等兵中村は」、二年兵「三八式歩兵銃殿の手入れをした後、弛(タル)んでいて歩兵銃殿の引きま鉄を引くことを忘れました。誠に申し訳ありません。今後、このような過ちは、子や孫の代まで決して二度と致しません」、初年兵「三八式歩兵銃殿・・・・・・」
このようなことが延々と続くのであるが、笑い話といったなまやさしいものではない。誰もが何回も繰り返して唱えさせられたものである。
食事は当番を定め、交代で炊事より受領して配膳する。コーリャソと麦が半分以上混入し、稗まで混じった飯と、豚の油を浮かした若布汁と魚などの煮付けとお茶。アルミの食器に盛って配る。煮付けは毎日献立が変わるが、他は年中殆ど変わることはない。兵舎の寝台の前に長い幅広いテーブルがあり、両側に長椅子があり、テーブルに並べたアルマイトの食器に飯やお茶、味噌汁を配ってゆく。
定められた人員に飯やお汁を配るのであるが、足りなくても、余ってもならない。二年兵、三年兵は、初年兵のように働かないので、飯など全部食べることは殆どない。
 余った飯やお汁は、食缶バケツに戻し、残飯として炊事場へ返納し棄てられる。初年兵の私たちには、支給される食事量だけでは空腹でたまらないから、残飯として棄てられるのがもったいない。炊事場に食器と共に返納する途中、人目を避けて手掴みでよく食べた。
 兵舎で食事を配分する時、古参兵殿の食器にはいくらか軽く、初年兵の者にはいくらか多めに盛るためには、はじめ加減してひと通り盛り終わり、余った分を初年兵だけに追加して配る。いわゆるお手盛りというのであるが、或る日、古参兵に追加盛りの現場を見られてしまった。
 「貴様ら、自分だけ腹一杯食べれば、古参兵はどうでもよいのか、卑しい奴だ、許せぬ」自分達は食べ切れないで残飯で棄てるくせに、と思っても言葉には出せない。炊事当番兵は点呼を待たずに往復ビンタの連発で、倒れてしまった。すると他の古参兵が引き起こし、後ろで支え、前方でまた殴りつづけるが、素手でなく、履いていた革上靴(ジョウカ)で殴りつづける。「たわたわするな。貴様達の一人や二人死んでも、一銭五厘でいくらでも補充がつく、この馬鹿野郎」見兼ねても止めることなど許されない。
 そのうえ、点呼後になるとまた一同整列だ。「貴様達の卑しい根性を叩き直してやる」古参兵はそう言うと、竹刀を持ち出し一人宛「お面」力一杯叩かれる。手を触れると長い一筋の瘤が浮き上がっている。仕置はそれだけでは済まない。廊下に一列に並べ、「腕立て伏せ」をさせられる。何分過ぎてもそのままである。耐えきれないのを我慢している背中の上を、古参兵は遠慮なく右へ左へ踏みつけて廻る。まるで制裁を楽しんでいるようだ。「耐えきれない者は立ってよいぞ」と言われ、立った兵隊は「ここへ来い」別のところで更に苦しい制裁を受けることになる。うっかり立てないぞ。そう思うし、思わせる見せしめのためのようである。
 食事をする長いテーブルと長椅子の間に立たされ、片手をテーブルに、片手を椅子に置かされて宙に体を浮かばせる。足は自転車のペダルを踏むように、交互に廻せという。左右の手の高さに高低差があり、体を宙に浮かせているだけでも苦しいのに、両足を地に着けないままで回転運動をさせられる。「おい、上官殿が通るぞ、敬礼しろ、敬礼せぬと欠礼だぞ、どうした」右手を上げねば敬礼はできない。できるはずがない。両手で体を浮かせているのだから、無理を承知のうえでの苛めである。
 耐えきれなくなった兵の一人は、「お前は蝉だ、柱に登れ」と兵舎の柱に登らせる。「何故鳴かぬ、お前は蝉だぞ」言われて仕方なく「ミンミンミン」と声を出す。「声が低い。そうだ、もっと高く。
 その声は何だ。色気がないぞ、もっと色気を出して鳴け」色気のある声とはどんな声か、分かるはずもない。精一杯さまざまの声を出して答えようとするが、許すはずがない。苦難に打ち勝つための修練なのであろうが、初年兵を苦しめ、楽しんでいるとしか思えない。腕を立て、伏せたままで、耐えきれず立った者は次々に、記述できぬような仕置を強要されて、十時、十一時とつづくのであるが、班長室にも聞こえているはずなのに、班長は出てこない。黙認された、初年兵教育であるからである。
 書き並べると限りがないが、こうした教育は土曜日の晩、日曜、祭日を除き、次の初年兵が入隊して二年兵になる迄殆ど毎夜行われる。監獄の責め苦は知らないが、これ程の苦しい毎日がほかにもあるだろうか。これがお国のための軍隊というものなのか。ただ耐えるしかない、苦しいのは俺一人ではない。
 毎日の学科は病院の教室で行われる。午後三時の休憩で兵舎に忘れ物を取りに帰ってきた同年兵が、「兵舎は大地震だ」 と言う。地震というのは隠語である。兵舎には各人三尺位(約一メートル) の幅の範囲に、中に藁を包んだ寝台を毛布で包み、中段の桟に釘を打ち、帯剣、水筒、飯盒などを吊し並ベ、更に一尺位高い位置に棚が作られ、教典類、裁縫具、財布ほか限られた私物を入れるための小戸棚を置き、左横に背嚢とその同幅に、上装の軍衣袴、襦袢、袴下などの官給品を整頓しているのであるが、整頓の仕方が悪いといって全部班内に放り出される。まるで地震で散乱した様相を呈し、班内は足の踏み場もない状態である。平常でも五時の学科を終わり、兵器の手入れ、襦袢等の洗濯、兵舎内外の掃除等目の廻る程忙しいのに、そのうえ散らされた装具、衣類等の整頓が加重されることを考えると、奈落の底に落ち込まれる想いである。
 これが日本の軍隊なのか。これ程の苦難に耐えなければ、一人前の兵隊になれないものか、鉄砲玉が飛んで来ないだけ、有難いと思わなければならないのか。自問自答しては眠れない夜もある。消灯ラッパが鳴ると「新兵さんは可愛いやなーまた寝て泣くのかなー」 と聞き取れる。音階を文字で表示することは困難であるが、消灯ラッパの音は今でも耳朶より消えることはない。
 初年兵で、教育を受けている時点では、毎時、毎日、なぜこれ程の苦痛に耐えねばならぬのかと、恨めしい気持ちになるのであるが、班長及び、三年兵などに「初年兵は弛んどる、気合をかけろ」と命じられると、教育を直接担当する二年兵、特に先任者の立場に立てば、自分が耐えてきた初年兵時代を振り返り、少しでも苦しみを少なくしてやりたい心境になるのであるが、中間にあって二年兵の苦労も初年兵には理解しがたい。
 私の戦友は三年兵で、しかも兵舎最高右翼の兵長でもあった。戦友殿は直接教育する立場でなく、いつも黙って見ているのみであったが、消灯後、「辛抱しろよ」と言って慰めてくれるばかりか、羊羹、パンなどをそっと寝床の中の手に握らせてくれた。点呼後の教育に対しても、私の戦友殿が夜勤のない夜は、自分でも感じられる位、私に対する苛めは、私の戦友殿を遠慮して他の同年兵より軽かった。
 しかし反対に、戦友殿が夜勤でいない日の教育は反動的に苛酷であった。毎日洗わねばならぬ襦袢、袴下、襟布なども、「汚れていないから今日は洗わなくてよい」 と言って脱いでくれないので、洗う手間が省け、助かることもあるが、それを見ている古参兵がいて、戦友殿が夜勤でいない夜を待ち兼ねて、過重な仕置を受ける結果となる。その事実を戦友殿に告げることもできないで、我慢するしかなかった。
 こうして初年兵教育を終われば各々病院に配属されて勤務するのであるが、一番皆が望む庶務室(本部) 勤務に唯一人、戦友殿が推薦してくれたのは、後のことである。

 学  習

 陸軍病院に転属すると、早速衛生兵の看護学教育が始まった。学科は教官殿(滝沢軍医大尉殿、山岸薬剤中尉殿、天野軍医少尉殿他) による、それぞれ専門分野での授業が行われる。生理衛生学、看護学、人体構造学、外科手術、薬学、按摩術等、日本赤十字社の看護婦教育に準じた内容である旨、教官殿より承っていた。午前八時より十二時、午後一時より五時迄、日曜日を除く毎日で、その週に受けた学習は、翌週月曜日に学科試験が行われ、三カ月毎に成績順位の発表があり、二期を経て、三期目に至ると、内科、外科、薬室に交代でそれぞれ実習を受ける。三期末に総合成績が発表され、基本的にはその成績による序列は満期除隊迄変わることはないと聞かされていた。
 従って学習に対する態度は、皆真剣で、競争意識は相当激しいものであった。
 なにしろ、前記した如く、兵舎内務班では、兵器の手入れ、掃除、洗濯と、目の廻る程忙しいうえに、夜の点呼後の消灯までの短い時間を勉強したいのであるが、連日初年兵特別教育のため、勉強どころか、十時、十一時まで、眠る時間まで短縮される実態で、逆に寝不足と、肉体的疲労、精神的不安定により、授業中の居眠りを耐えるのも大変である。按摩術の実演など、二人一組で、お互いに交代で按摩を実習するので、良い気持ちになって居眠りどころか、一、二分の短い時間でも寝入ってしまって、相手に叩いて起こされることなど屡々であった。
 夜中に厠(カワヤ)(便所) に行くと、煙草の煙が立ち登ったり、隠れて教科書を手に勉強している者は珍しくなく、古参兵に見つかるとまた大変になる。不寝番の目をかすめて兵舎外に朝早く出て、草の繁みに隠れ、ひそかに勉強を競い合った。思えば初年兵教育は、勃利で歩兵の戦闘訓練の三カ月。杏樹での衛生兵教育の一カ年、次年度の初年兵が入隊して二年兵となる迄には、一年三カ月を我慢せねばならなかったのである。