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第六章 短い帰国

 昭和十八年を迎え、入隊して四年目の正月となる。四月八日には現地満期除隊となるが、昭和十八年の日記は、持ち帰ることもできなかったので、手元に残っていない。兵隊も四年兵で最古参兵となり、定められた勤務以外はのんびりと過ごし、誰彼となく依頼して送ってもらって、いろいろの本を
読んだり、病院の医学図書などを持ち出して、読んだりして過ごす日が多かったようだ。
 書庫の医学図書は専門的で難解ではあったが、退屈しのぎにはよかった。満期後一年程経て召集令状を受け取り、船舶工兵隊付衛生下士官として横浜港出港、サイパン島をめざしたものの、陥落したので、小笠原の父島で終戦を迎えることになるが、軍医の配属されない独立中隊なので、衛生部員は下士官一、兵二名のみである。看護学で学んだ知識より、このときの読書が結果的に大いに役立ったことになる。
 五月頃になると、新しく初年兵が入隊することだし、前例から考えても満期除隊になるだろうと噂していた。戦争も順調に勝ち進んでいる(と思っていた)のだし、満期に備えて先輩に習って佳木斯に靴とか土産など買いに外出しようなど話し合って実行した。杏樹より三十キロ位北方で、白系露人が多く、勃利や杏樹より格段賑やかな街であった。
 四月頃に満期命令が出るのではなど噂され出したのは、三月に入った頃かと記憶するが、当時流行した歌にもあったように、迎春花が咲き出し、広い草原に散在する凍った畑のあちらこちらで、緑の葉葱が凍土を割って芽吹くようになった四月八日、突然満期現地除隊の命令が発表された。躍り出したい程うれしかった。反面、途中で満期中止になりはしないかなど不安もあった。戦況次第で満期延期という例は、私たちが入隊した頃に例がある。当時の三年兵殿は満期命令が取り消されて居残った結果の三年兵と聞かされていた。
 大戦最中のこととて心配したものの、四月八日、予測通り自由な体となり、杏樹陸軍病院の営門に別れを告げて、杏樹駅に同年兵一同列車の人となった。昭和十五年二月、入隊の時と逆コースで、勃利、林口、牡丹江、圖們(トモン)と、朝鮮との国境まで南下したが、羅津(ラシン)より海上に出ないで、そのまま列車で北鮮に入り、羅南、感興、元山、京城、天安、大邱を経て釜山まで、北鮮より南鮮の東海岸沿いに二日がかりで故郷をめざしたのである。
 入隊の時は貨車であったが、今度は兎も角も客車であった。北鮮を通過したのは四月十日頃だったと思うが、まだ冬枯れの最中、桜はまだ固い莟が寒風に晒されていた。昼、午後、夕方に近づくに従って、窓の外は一時間刻み位に見る度急変してゆくのに驚いた。テレビ等で、長時間かけて撮影した草花が、見る間に茎を伸ばし、開花してゆく映像を見ることがあるが、朝の間は固かった桜の莟は、段々とふくらみ、色づき、夕方までにはぼつぼつと開花を始めたのである。翌朝は、窓より見る景色も山こそ禿山ばかり多かったものの、松の緑、立木の青さ、日本の景色とさほど変わることがない。
 更に驚いたことに桜は満開であった。列車の進行とともに満開の桜も散ってゆき、やがて葉桜に変わってしまったのである。もう南鮮の京城、大邱、釜山も間近くなっていた。季節が移るのではなく人間の方で移る景色を眺めるので、このような自然の変化は初めての体験であった。(地名は当時の呼称のままに記入)
 昭和十五年三月一日、三江省勃利の独立守備隊に入隊し、同十八年四月八日、杏樹陸軍病院より現地除隊まで満三年一カ月間は、直接外敵と交戦することはなかったが、軍隊そのものに全く知識もなきまま突如として入隊し、しかも酷寒の地での体験は、或る意味では地獄であり、極楽でもあったと思い返す。
 戦闘訓練、学習の厳しさは、覚悟を越えたものであっても、そのための兵役であり、国のためという自意識によって我慢ができた。しかし内務班の初年兵教育(現実には初年兵苛め、私的制裁) については、理屈では理解されるものの、受ける立場で考えると、我慢の限界を越えるものであったと思われる。もちろん、二年兵として私たちも初年兵を教育する立場に立ち、初年兵教育を行ったのであるが、蝉の真似や公用外出や同年兵同士の殴り合い、その他、記録できないような苛酷な教育は行わなかったと自負している。数十人を素手で殴ると、自分の手の方が一度で腫れ上がってしまうので、上靴などで殴ったことも確かであるが、自分たちが受けた屈辱的な制裁は行わなかった。
 初年兵時代に殴られて教育が終わり、自分が二年兵となって殴った兵隊と話し合ってみれば、鬼のように思われた人も暖かい心の持ち主であることに気づいたものであるが、現実の社会にも善人ばかりいるものではない。「あの二年兵の野郎、戦争になったら後ろから射ち殺してやる」 皆でそう囁いたこともある。
一日でも早く軍隊の飯を食っただけで、星一つの差で絶対服従せねばならぬ軍隊であるが故に、同年代の者同士教育せねばならぬ者と、されねばならぬ者との立場に立たされて、実力のない人間が自分以上である者も混じる人間を教育せねばならぬ、それが軍隊なのである。
 初年兵の苛酷な教育(私的制裁) によって死に至る事例もあった。一般に私的制裁は行ってはならないと、軍全体に伝達されてより、年々緩和され、私たちが初年兵頃がピークとなり、後に (昭和十九年)徴集された現役の兵隊と接した機会があったが、これで戦争になって大丈夫かなと思われる位、上官に対する態度が馴れ馴れしく、節度に欠ける印象を受けたことを思うと、私的制裁など行われなくなったかと推察される反面、軍人精神に欠けるものがあるようにも思われ、これでは実戦で役に立つだろうかと心配であった。軍隊の教育の困難さを改めて思い返している。
 昭和十四年の徴集兵であった私たちが、満州現地満期をしたのは結果的には最後となった。その後の太平洋戦争は、日本軍の敗退に転じていたことも知らされず、私たちが教育した十五年徴集兵達は終戦まで居残ってソ連へ連行されてしまったと、後程聞かされた。
 前記したと思うが、本部(庶務室)勤務となり、楽な勤務をした私は、兵舎の班長達に点数がなく外科室に勤務替えされたお陰で、野戦病院編成の選抜より免れ、南方戦線に行かず除隊ができたこと、また、死にも勝るソ連邦行を免れる結果となったことなどを思い返すと、人の運、不運は神のみぞ知るで、結果的には幸運であったというべきである。
釜山より下関までの海上で、敵潜水艦が出没するという噂で、救命胴衣の装着教育を受け、身近に備えたりしたが、無事下関上陸、四年振りに見る日本。蘇生した想いであった。
 満期後翌五月、高木静子と結婚して鳥取市に住むことになるのであるが、綾女正雄先生が河北校(河北高校) に勤めておられ、挨拶に出向いたところ、結婚の世話をしようと言われた。結婚はもう終わったと話したら、では就職の世話をしようということになった。婿養子で鳥取に住むと話したところ、幸い郡是製糸の鳥取工場の工場長の娘さんが、この河北校の同僚であるから頼んでやる、ということで話がまとまり、実現して鳥取工場の労務係兼衛生係として就職した。陸軍病院勤務が役に立ったのである。
 六月、高木静子と結婚はしたものの、現在と異なり戦時下である。結婚の式も新婚旅行など思いも及ばない。近所によろしくと挨拶に廻った。それだけであった。
 九月十日、突然鳥取大地震が起こった。被災して家(借家) は倒壊したが、幸い姑と親子三人(否三・五人か、家内のお腹には長女靖子がいた)命だけは助かった。しばらくは郡是工業(製糸より、落下傘製造に転換) で避難生活を送った末、綾部の本工場に引き揚げることとなったが、姑の意志により、単身赴任することになった。
 翌年五月二十五日、再び召集令状を受け、船舶工兵隊付衛生下士官としてサイパン島へ向け出発することになった。当時生まれて八十五日目を迎える、長女靖子とも死別の覚悟で出発したのである。

召さるれば訣れときめてひとときを惜しむならずや妻のふるまい (結婚)

倒壊の家に埋れて命あり意識のありて妻をおもひぬ (鳥取大地震)

義母の手を妻の手をわが握りしむにぎりしめつつよくぞ生きたり

倒れたるわが家にやがておよぶべき火勢知りつつ術のなかりき