未来に残したいアナログの記録はありませんか?こちら(タイムトンネルADC)へどうぞ。
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第8章 第9章 第10章 第11章
第七章 再び召集される

 「昭和十九年五月二十七日、広島連隊気付、船舶工兵隊付衛生下士官として召集する」
 だいたい右の要旨を書き入れた赤紙、いわゆる召集令状を受け取った。前年五月頃、・高木静子と結婚していたのであるが、この度は松江連隊よりの令状であった。当時の連隊区分は、千代川より西側は松江六十三連隊区、東側は鳥取四十連隊区に区分されていた。当時の軍籍は松江連隊区に在籍していたためかと思われる。
 たまたま当日、鳥取より長瀬に帰っていて、長瀬村役場の職員より直接受け取ったのであるが、赤紙を受け取って「船舶工兵隊付」 の文字を読んだ時、「ああ、これで俺は絶対戦死だな」 と内心思った。海軍なれば兎に角、海軍でもないのに船舶工兵隊など海上での物資の輸送で、武器も護衛もなく航行する任務につくのだから、命はいくつあっても足りないと思ったのである。


陸軍船舶工兵独立中隊市瀬隊衝生下士官として配属(中隊本部付を拝命)横浜本覚寺に駐屯

 昭和十九年五月二十七日、広島市因島に集合、即日夜行列車に乗車したが、翌二十八日に、横浜駅に到着するまで、どこへ行くのか何も知らされていなかった。
横浜駅裏の田舎染みた道(現在は横浜表通りとなっている) を東に数百メートル、高台に本覚寺という寺に駐屯と決まった。
本覚寺は、徳川幕府末期の黒船騒動の頃、ペルー一行が駐留していたと伝えられている寺である。
私たちの独立中隊は、市瀬中隊長(陸軍中尉) 以下八十五名(内主計下士官一、衛生下士官一、兵二) であった。鳥取県出身者は、上井町の花井上等兵と私の二人であった。
 本覚寺には他に百名余の兵隊が駐屯していた。
 横浜到着後は、隊長の命により兵隊は殆ど外出して帰って来る者、帰らぬ者入れ替っていた。私のほか衛生兵は二人いて、竹中衛生上等兵と伊与田一等兵、共に四国の高知県中村市出身と聞いていた。
召集兵だから別段教育とか病人さえなければ、毎日これといって仕事があるわけでなく、寺でのんびりしていたが、兵隊達は毎日東京湾を中心に主として三浦半島周辺、九十九里浜の漁場、銚子あたり迄、漁港、浜辺など物色し、手当たり次第漁船を見つけては徴用することが任務のようであった。
 寺に駐屯している兵隊達の話では、殆どが南方へ輸送中、敵潜水艦の攻撃で船を沈没させられ、運良く助けられ、寺で待機しているという兵が多く、魚雷攻撃を受けた時の恐怖、波間に沈んでしまっ
た戦友のことなど、戦争の悲惨と日本軍の無力を身震いしながら話してくれた。
 わが中隊以外の兵隊は、助けられて帰った兵隊が殆どのようで、なかには二度日の出港でまた沈められて救助され帰った兵隊もあり、三度日の命令を待っていると言っていたが、「思い出すと身震いがする。また出港せねばならぬかと思うと、逃げ出したい気持ちだ」と語る。
 浮遊物に縋って波間に浮いていると、鮫が泳いでいるのを見て生きている気がしなかったとも語る。鮫は血の匂いで集まる、自分より大きいと思わせるため、六尺褌を引いて泳ぐと鮫の攻撃から避けられる。褌は赤い色の方がさらによい。そんな話を聞いて、皆赤い褌を街から求めるようになった。
 本覚寺の私たちの部屋は、横浜駅北側に沿って数百メートル程東、窓を開けると、十メートル程目の下に鉄道線路が十本位並び、深夜の数時間を除き、連日休みなく轟音をたてて上下、通過していた。
寝ていると地震のように震動が全身に伝わって来て、夜など寝つかれず困ったが、数日経つと馴れてしまった。
 眠れないのは、電車の震動や音ではなく、昼間たびたび聞かされた、魚雷攻撃や出港した殆どの船が米潜水艦に沈められてしまうという話である。突然海に投げ出され、海の底へどんどん沈んでゆき、息苦しくなって目が覚める。そんな夢を何回も見る。逃亡して捕まり、監獄に入ってもよい。死ぬよりましだと思うこともある。昼間、魚雷攻撃を受け海上に浮遊していて助けられ、次の出港命令を待っているという兵隊の言葉を思い出して身震いをする。
 わが中隊の任務は、百隻の木造船を徴用することで、東奔西走しているが、集まって出港するとし
ても、護衛艦は望めないし、船に武装は全くない。中隊の武器といえば、重機関銃二挺小銃各兵一挺所持するのみで、敵艦船や航空機に対してはまさに無防備と言ってよい。それよりも気にかかることは、わが独立中隊の任務は、サイパン島までセメント及び軍用物資を木造船百隻で運搬することが任務らしい。

 サイパン島に向け横浜港出航

 六月十五日、米軍はサイパン島に上陸開始、既に島の重要地点は占領され、玉砕は時間の問題との情報が伝えられている。その島へどうして上陸し、たとえ上陸したとしても何ができるというのだ。
 現実には、島に上陸するまでもなく、日本の港を出ると果たして幾日、否何時間生きていられるやら、出港が最後と覚悟せねばならぬ。敵上陸中の島へなぜ無駄に死ぬことが明白な情況下で出港せねばならないのだろうか。きっと命令変更があるだろう。そんなことをひそかに期待したりしたが、変更もなく、六月二十七日朝、サイパン島へ向け、横浜港出港の命令が伝達された。
 何の為の出港か理解できないが命令である。愈々死ぬ日が近づいた。本覚寺での駐屯はちょうど一カ月間、毎日が「死」を予期しての明け暮れであった。「一度死ねば、二度と死ぬことはない」誰もが、幾度も考え、口にした言葉である。しかし現実に「死」が目前に迫って来ると、言い知れぬ恐怖心で眠れない。忠臣蔵の四十七士が本懐を遂げ、数十日間、「或いは」と生に対する一縷の望みを抱きながら、切腹の日を待って暮らした話を人ごとならず思い出す。昼間の兵隊が「監獄に入っても生きたい」と言った言葉を思い出す。でも、自分の命は、それで生き延びることができたとして、家族や親戚達はどうなるか。「逃亡」 そんな言葉が、脳裏をかすめては消え、眠れない日を繰り返し、そうこうしているうちに、出航の日が来た。
 結婚後約一年間、生まれて二カ月程で別れた長女の幼顔が目に浮かぶ。今度帰って会う時は靖国神社であろうか。そう思って名前を「靖子」と付けた。お国のため、否家族、お前達を護るため、俺は死ぬのだ。改めて心にそう言い聞かせることで心の安らぎを求める明け暮れであった。
 中隊が、下田港から銚子浜に至る海岸沿いをかけ巡り、一カ月間かけて徴用した木造船百隻が横浜港に集められ、六月二十七日朝、出港の命令を待っていた。中隊長以下入十五名の兵員が百隻の船に配置されたが、船の数より兵員の方が少ない。一船に二名宛乗船するのだから、兵隊の乗る船は四十数隻で、他は船とともに徴用された船員ばかり四、五名が乗船する。もちろん、護衛艦などなく、船団は十隻を単位とし、十船団、武装といえば、各兵隊の持つ小銃と百隻の船に重機関銃二挺のみである。
 積み荷はどこの船に何が積まれているか一切知らされていない。これで十五日上陸以来、占領されつつあるサイパン島に向けて出発せよというのである。出航したら最後、敵に発見されるまでの命と覚悟せざるを得ない。命令変更は遂になく、一斉にエンジンを掛けよと命令が伝えられて、港は騒々しくなった。
 ところが、予期せぬ驚くべき事態が起きたのである。約三分の一位の船のエンジンが掛からないのである。出発時間よりかなり経過したが、動かぬ船が数十隻あり、幸か不幸か私の船もいっこうに動かない。聞けば各船すべて修理を終わったものの、試運転する間もなく集められた由で、二度びっくり。「動かぬ船は動く船が曳航せよ」と命令が伝えられた。私の船は他の船に曳航されることになり、ロープが結ばれた。
 十隻で一船団を組み、約百隻の木造漁船団が兎に角横浜港を出港したのはお昼前頃であろうか、東京湾を出て、外洋に出るとかなりの波があった。突如、曳航されていた私の乗船した船のロープがプッツリ切れてしまった。曳いてくれる船が引き返し、ロープを繋いでくれてまた進む。その間に何事もない船は待ってくれない。取り残されて心細くなる。
 もともと船には、曳航用としてのロープなど用意してはいない。古くなった常備用のロープだから、波に逆らっての曳航など到底無理で、ましてサイパソ島まで数日間の曳航など思いも及ばぬとの船員の話である。繋いでは切れ、その度にまた繋ぐ。数回繰り返しているうち、遂にロープの切れたまま、先行の船は、私たちの船を見捨てて遠く南下してしまった。しばらくして海は夕日に染まり、太陽は海に沈まんとしているが、私たちの船は波間を漂流するしかすべなく、やがて不安な闇の海を漂うばかりである。
 翌朝気がつくと、幸運にも陸地近くを漂っていた。船員の話で三浦三崎だという。どうしてたどりついたのか確かな記憶はない。文字通り生き返った気持ちで三崎港に繋がれたが、またまた驚いたことに、私たちと同様に漂着した中隊の船が、五隻ばかり繋留されていることが判明した。

海軍の徴用除外の船ばかり集めし船舶工兵隊われら (横浜港出港)

息の出来ぬまま沈みゆくああ暗き海の底そこへ沈下する夢

百隻の船団といへ兵八十重機二小銃各一護衛艦なし

制海権なき海の上抵抗の武器なき船に出航を待つ

島々の硫黄船まで匂ひ来ぬ大洋(オオワダ)中に日の沈むとき

エンジン整備して再びサイパン島へ

 漂着した三浦三崎は、北原白秋で有名な城ケ島に近い漁港で、鮪、鰹の荷揚げが連日のように行われていた。漁船の修理工場もあると聞き、港に繋留したまま、船中に寝起きしてひたすらエンジン整備の完成を待った。
 幾日位経ったか明確な記憶はないが、十日位は経過していたかと思う。金もなく、見る程のところも知らず、毎日船中で退屈な毎日であった。船は木造二十トン位のカジキ船で、船員は四人。千葉県の銚子出身者で通称「ツキンボ船」 と呼ばれていてカジキ鮪を追って三メートル位のV型の手銛で遊泳しているカジキを突くという。
 船の修理が完了して三浦三崎港を出港、サイパン島を目指した日は七月上旬頃。大島、三宅島、八丈島、青島、鳥島、いわゆる伊豆七島沿いに二日間無事に航行したが、三日目より島影は見えなくなった。朝より晩まで、四方水平線の海上である。地球は確かにまるいなあと実感した。海面を見ると船は水を切って走っていると思われるが、何時間も同じところにとどまって動かないようにも思われる。船は時速八ノット位と船員らに聞いていたが、海流は二~五ノット位と聞くので、潮流に逆らう時は実質的にはあまり進まない勘定になる。朝通過した島影が半日航行しても後方にまだ近く見えていたりする。この状態ではサイパン島まで二十日位も航行せねば到着せぬ計算になると聞き、心細い限りである。
 航行中種々の魚達が集まっていて、三十メートル位の綱の先に太い毛針を付けて曳いていると必ずメジ (鮪の四、五キロのもの)、鰹などが釣れるので、食糧として捕った。広い海上にはいつでも数個のドラム缶が浮かんでいるのが眼に映る。空缶もあるが重油などが多く、輸送船が沈められて漂流しているドラム缶だと聞く。広い海でいつでも、どこでも拾えるほどのドラム缶が流れているということは、どれ程の船が血の一滴に相当するという貴重な燃料を、無駄にして海上に漂わせている現実。
 これが戦争なのかと心をゆする。お陰で片道燃料しか積んでいない私たちの船は、ドラム缶を拾い上げて万一の用心に備えることができた。
 私たちの船には、班長(伍長、氏名は忘却) と兵一名と私の三名に船長以下四名の計七名、同様に三崎で修理して同行する船が数隻行動を共にした。航行は各船の羅針盤のみで、経験による船長の勘が頼りである。三崎を出航して三日目、昨日より四方海ばかり見て航行していたが、船は同じところに停止しているような錯覚におちいる。船は確実に音を立てて進んでいる。
 突然、船の右側数百メートルあたりに「鯨だ」 という声、なる程一頭の鯨が絵で見たそのままの雄姿を波間に浮かべ、時折潮を吹きあげている。初めて見る鯨である。船員の話では、小笠原の父島には鯨油工場があり、その近海では多くの鯨が棲息しているそうだ。
数時間経て、また甲板が騒がしいので出てみると、今度は海豚(イルカ)の大群である。呼吸のためと聞くが、交互に海上に全身殆ど飛び上がっては沈みながら行動する。二、三十頭位で私たちの船と並行して泳ぎ、楽しませてくれたが、いつとなく姿を消していた。

 台風で引き返す

 三浦三崎港を出港して数日航行した頃より海は波が大きくうねり、雲行きがあやしくなった。船長は「時化るぞ、台風かもしれない」長年の経験で、予言通り翌日は暴風と共に大荒れで、小さな船だから木の葉のように荒波に翻弄され、その度に船はメキメキと音がして、今にも船は波に砕けて、海底深く沈むかと思われた。出港を待ちながら、本覚寺で見た夢のように、底知れぬ海の底へ底へと沈んで、このまま死ぬかもしれないという思いがよぎり、思わず船室の柱にしがみ付いていた。
 「風は東から吹く、両手を拡げて風の方向に真向かうと、右手の方向に台風の目がある。台風は父島の方向を進んでいる」と船長が言っていた。気象情報も何もない。船に備えられたコンパスと、これまでの船長の経験による勘に頼るのみである。他の船の姿もいつしか見当たらず、船長の話ではもう小笠原諸島のいずれかの島が前方に見えなければならぬという。海上の視界は数百メートル位しかなく、たとえ 島々が近くに存在しても見えるはずもなく、島に突入する程近寄らねば肉眼には確認出来ない状態である。
 この荒波での航海は、船が海流に流されて、進路が計算通り保たれている保証はないと船長が言う。
 船は全く方向を違えてしまっているかも知れない。一応目的地の父島も、或いは通り過ぎていることも考えられる。このまま進めば台風の目に突入することになり、そのうち船ごと海底に沈むかもしれない。船長の意見で、班長の決断、命令を待った。
 前進して島を探す困難に比べると、引き返して日本の島のどこかへ突き当たる公算の方が遥かに容易である。幸い拾い上げたドラム缶で燃料は大丈夫だ。引き返して台風圏を脱出しようということに決定した。船は折り返して日本列島を目指したのである。

 再び小笠原父島へ

 必死の思いで小笠原海域まで航行しながら、台風の海上を引き返してたどり着いた島が伊豆の大島であった。同行していた四、五隻の船も別々にたどり着いた。歌で有名な波浮の港である。直径三、四百メートル位の南向きに湾をなし、私たちの船のほか、漁船が繋留されていた。
 島では警備している兵隊を見掛けたが、島民にはあまり評判はよくなかったように感じられた。
 今度出港すれば失敗は許されない。毎日、空や海を眺めながら班長の命令を待ったが、情報によるとサイパン島は七月七日に玉砕したとのこと、幸か不幸か結果的には命拾いをしたことになる。先発のわが市瀬中隊は、父島に上陸して後続の私たちの到着を待っているとのことである。日本が勝つか負けるか、そんなことを考える前に、どうすれば安全に父島まで航行出来るか、それのみを考える日々であった。
 波浮港を出発したのは、班長の乗っている私たちの船のほか数隻が従うのみであったが、確実な記憶も記録も残っていない。今度の航海は穏やかで、敵の攻撃もなく、数日間昼夜の航海で父島に無事に到着できた。
 父島は北側に二見湾を有し、軍港として重要な良港で、本土より約千キロ余り離れているが、東京都に属し、小笠原支庁が大村に置かれていた。
 私たちは二見湾内の南岸、扇浦に上陸した。上陸するのを待ち兼ねたように、空襲警報が発令された。殆ど同時に爆音が聞こえてきた。初めて聞く敵機の爆音である。爆音は次第に近づき、上陸したばかりの私たち、否私のみをねらって接近するようにさえ感じられて怖かった。
 上陸したばかりで、退避する場所もさっぱりわからない。湾に沿って道路があり、ところどころに隧道が掘られていたのであわてて、そこに逃げ込んだ。敵機は私を追い詰めてきて、今にも目前に爆弾が落下するように思われた。飛行機、爆音、そんなものは、在満中、飛行隊基地の陸軍病院に勤務していたのだから馴れていて驚くことではなかったが、今日はまぎれもなくほんものの敵機の爆音であり、演習ではないのだ。
 上陸地より数百メートルのところに椰子の葉で作った民家が数戸あり、その一戸に市瀬中隊が本部として住み込んでいた。上陸は七月の下旬頃で、明確な期日は記録されていない。
 市瀬中隊長(陸軍中尉) と波多野曹長、主計伍長がいたが名前は思い出せない。私はその本部に属して行動することになった。横浜を出港したのが六月二十七日であったから約二カ月振りの再会で、兎に角「市瀬船舶工兵独立中隊」が殆ど欠けることなく父島に集結出来たのである。どうやら私たちの船団が最も遅れて到着したようで、出発時に数十隻はエンジン不調で船団を離れ、三崎、伊東、下田とそれぞれの港に漂着して、修理のうえひたすら敵上陸中のサイパン島に向け出発し、父島でサイパン島玉砕を聞き、皆踏み止まって後続船を待っていたのである。
 米軍は、六月十五日にはサイパン島に上陸を開始したと報道されていた。当時、東条大将は「サイパン島は、難攻不落である」 と豪語していたらしいが、実際には防衛態勢は十分でなく、私たちが横浜港を発った二十五日の段階で、既に組織的攻撃力を失い、島の北方マッピ岬へと敗走していたようだ。多数の都民を戦火に巻き込み、住民の犠牲を強要した。陸軍部隊最高指揮官斉藤義次中将が自刃した。それを聞いた海軍南雲忠一中将は、七月七日午前三時、全島将兵に玉砕の訓示を伝達し、最後の突撃を敢行すると、次の通信の最後で絶えたとされている。
 「今ヤ止マルモ死進ムモ死生死須ラクソノ時ヲ得テコソ帝国男児ノ真骨頂デアリ我ラハ今米軍ニ一撃ヲ加へ太平洋ノ防波堤トシテサイパン島二骨ヲ埋メントス」
 私たちの船舶工兵独立中隊の任務は、サイパン島を基地として、マリアナ諸島へ物資を輸送することであった。もし、順調に航行し、サイパン島へ向かっていたとしたら、わが船団は海上で撃沈される運命であったと考える。エンジンの不調な船まで寄せ集めてのボロ船団であったことが、逆に兵員、船員の命を救う結果となったのは皮肉なことである。
 当時の日本軍の戦況の記録をたどってみると、七月二十一日、米軍はグアム島に五万四千八百人が上陸した。サイパン島で思いのほか苦戦した米軍は、上陸前の三日間で実に千三百万トンの爆弾を投下したといわれている。このため、陸戦開始前に海岸地帯の各町は全焼していた由。
 陸戦では日本守備隊一万八千人が洞窟陣地で交戦したが、戦闘は火炎放射器に抗し得ず、八月十一日に玉砕している。テニアン島は七月二十四日より九日間の攻撃で一方的な敗北を喫しているが、四万二千人の米軍と日本軍九千人余で、数のうえでも兵器、物量のうえでも比較にならぬ戦闘であったと思う。