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第三章 日記抄-昭和十六年-

 私の手元に、偶然残された二冊の日記は、昭和十六年と十七年のものである。初年兵時代の経験こそ、記録にとどめておきたかったと今になって思うが、初年兵には日記を書く時間などなかった。
 軍隊生活がようやく落ち着きはじめた二年目から書き始めた日記であるが、種々の制約、検閲等もあり、本音は書けなかった。また、たびたび同様の記事を繰り返し転書しても、読む方で退屈で無益と思うので、できる限り重複的記録は省略に努めて抄出する。
 転書しながら気付いたことは、庶務室勤務期間中は毎日軍事郵便所へ通ったので、営門の近くに気象観測所があり、そこを通過する度に当日の気温と天候を記録していたが、病室勤務となった期間及び、十七年の日記には気温の記録を殆どしていない。
一月一日 (水曜日) 曇
 紀元二千六百一年の元旦、今年の目標は何をめざそうか。
  一、『国民文学』に休詠しないこと
  二、人の反対をしないこと
  三、癇癪を起こさないこと
 幾ら定めても守らなければ何もならない。上の三つを今年は実行をめざしたい。遥拝式後、午後一時過ぎに皆と外出。本田(淀江町出身、現在健在) と二人で写真を写した。
 一月四日 (土曜日) 曇
 昨日で正月も終った。今日から病室の週番だ。(斉下上等兵殿と) 長い間待っていた父よりの小包が届いた。でも箱がこわれていて、スルメしか残っていなかった。年賀状が五枚届いた。
 一月五日 (日曜日)曇
 今日は娯楽室で恤兵部慰問映画が上映され、患者を引率して観る。「皇道日本」「魔像」「キャラコサン」「ニュース」もう五日だから短歌を纏めなくてはならない。
  一月九日 (木曜日) 晴
 弟から小包が届いた。病室で皆と一緒に食べた。兵舎にも週番上等兵殿に持って帰って貰った。矢張り兵舎で皆と一緒に食べた方が愉快だと思った。二時間程調剤室勤務、教育当時を思い出す。伊藤がアッペで突然入院、手術を受ける。
   一月十一日 (土曜日) 晴
 一週間ぶりで兵舎に帰った。整った内務班、戦友の顔、矢張り兵舎はいいなあ。綾女先生より『太藺(フトイ)』一月号届く。前田寿明さんも入会した。前田佐智雄さんは召集されたらしい。
  一月十三日 (月曜日) 晴
 氷採取作業が今日より始まった。夏季に氷など入手出来ないので、地下を貯蔵庫として、冬の間に水を張り、氷を作って切り取り、地下貯蔵するのだ。

切断の氷片散らふに朝の光(カゲ)乗せて採氷作業つづくる

ひと魂(クレ)の此の氷片に病兵の生命(イノチ)をつなぐ力にひかる

  一月十六日 (水曜日) 晴
 氷庫の中で、人間を凍らせ、幾十年、否、幾百年先に蘇生出来たらどうなるかな。そんな事を皆で話した。氷庫は七十バーセント位詰まった。
一月十七日 (金曜日) 晴
 今日は暖かい。屋根のつららが解けそめて滴をたらしていた。気温計を見たら零下四度。暖かくなったものだ。六日振りで病室勤務。
一月二十三日 (金曜日) 晴
 今日はどんな風の吹き廻しか、兄貴(正義) と弟(三郎) と妹(節子)、義兄(岡崎) の四人より便りが来た。兄貴の分には写真が一枚入っていた。子供(美雪) と二人で写っていた。
一月二十四日 (金曜日)晴 (-)二十九度
 人間は学問さえ出来れば、それで立派な人間だと言えるだろうか。どれ程学問が出来、どれ程頭が良くとも、誘惑に勝てる人間でなくては駄目である。ためしにこれらの者に女を与えて見よ。金を与えて見よ。必ず之に心をひかれるであろう。如何なる誘惑にも打ち勝ってこそ、本当の人間なのだ。
 何時か読んだ本の記事であるが、俺もやがて二年兵になる。二年兵になったらその日より初年兵を教育する程の資格が出来るだろうか。誘惑と初年兵教育。あまり関連は無いのに、今日はこんなことを思った。
一月二十五日 (土曜日)晴 (-)三十度
 今日から又、週番だ。(第四回目)
今度は患者も三倍だし相当忙しい。米田一等兵殿と二人だ。八名の氷枕、湿布、便、尿の取り替え。一通り終るのに二時間掛かる。ピューン、ピューン、外は物凄い風の音、零下三十度。ペーチカを幾ら焚いても患者は寒いさむいの連発で弱った。
一月二十八日 (火曜日) 晴

あらぬこと口走る病兵の声続く夜のくだち降る雪静かなり

三度目の開腹手術に耐へし兵不寝の看護(ミトリ)事なく終はる

死期既に覚悟の兵か声低く戦陣訓を口ずさみそむ

 紺色の空を飛行機が爽やかな音を立て、空中戦の演習をしている。空は寒いだろうなと思った。
(説明)杏樹は空軍基地で、爆撃撥、戦闘機が多数発着している。吾が陸軍病院は空軍基地のための病院である。
一月二十九日 (水曜日)晴
病室で患者の身体検査があった。ついでに計って見ると五八・四キロ。四日程前には五九・五キロ有った。二、三日風邪気味で体調が良くないせいかも知れない。身長一五九・七センチ。胸囲八五センチ。胸縮張差六・五センチ。
二月一日 (土曜日) 晴
とうとう二月になった。二月と云えば、昨年の二月二十二日は俺達が大阪で身体検査を受けてはるばる此の地へ来た月だ。もう二十日余り過ぎれば満一年になる。清水が派遣先より帰って来た。奴は良い処を見て帰ったと思う。病室の週番を下番して兵舎に帰った。明日は患者の慰問団が十三時に来る予定だ。
二月二日 (日曜日)晴
十三時より、患者と共に慰問演芸を見る。奇術、マジック、瓶を手で割ったり、硝子を食べたり・・・・・・・。
晩は紺野・鈴木班長殿の進級祝いで又呑んでしまった。一年振りで『はまなす』を受け取った。
二月三日 (月曜日)晴
今日は節分。二回目の寒積古、寒くて動いていないと凍傷になりそうだ。
二月五日 (水曜日)曇
今日は門衛勤務だ。どんより曇っているが、割合暖かい。昨年の今日は三徳村農業会を辞めた日だ。長瀬で旧正月を迎え、鳥取で一週間、長瀬で一週間、慌ただしく入営前の半月を経て、二月十九日朝
「吾が大君に召されたる・・・・・・・」村の人達に送られ、故国を離れて北満の此の地へ来た。長く、苦しい教育期間も過ぎてしまえば唯懐かしく早いものだ。
二月八日 (土曜日)曇 (-)二十四度
昨日戦友の高橋兵長殿より、庶務勤務に内定していると聞かされた。内科勤務となり四カ月程しか過ぎていない。外科も、病理室勤務も、調剤室も、皆経験しておきたいと思ったが、戦友殿が俺のため、折角骨を折って推薦して下さったのだ。意に従うことにする。
二月十日(月曜日)晴 (-)二十八度
今日戦友殿より庶務の申送りを受けた。とうとう庶務室勤務となる。戦友殿に負けないよう懸命に勤め、折角選ばれた期待(?) に背かぬよう頑張りたい。
二月十一日(火曜日)晴 (-)二十五度
紀元節だ。天気は晴朗なれど骨を射すような凍てた風が吹く。
高橋戦友殿外、三年兵殿が近く現地満期されるので、紺野班長殿(伍長) は下士官候補の教育を終了されてわが班の班長となられた。
二月十二日 (水曜日)曇 (-)二十七度
庶務室勤務の初登庁。庶務室は院長室に小田院長殿(中佐)、庶務主任滝沢大尉殿、山岸薬剤中尉殿、東准尉殿、経理主任殿、班長殿の顔ぶれ。外部隊より頻りに公用下士官等出入りされるので、其の度立ち上がり敬礼をする。仕事をする時間がこれでは堪らないと思っていたが、院長殿が見ておられたのか「仕事中はその度に敬礼しなくてもよい」 と言われて助かった。
戦友殿と共に郵便公用で野戦郵便局へ出掛けた。風速十メートル、気温零下二十七度で、四十度位の寒気を感じた。
二月十五日 (土曜日)晴 (-)二十三度
戦友殿が弥栄村へ牛乳受領に出張で、郵便公用は一人で行った。事務も大分馴れて来た。病室を離れ、事務を執っていると、今自分が軍隊に、しかも何百里離れた北満に居るという現実がうその様な錯覚を感じている。
二月十六日 (日曜日) (-)十三度
九時四十分頃より午前中、第五軍軍医部、松下軍医部長閣下の初度巡視あり。兵舎ではあまり質問はなかった。
二月二十日 (木曜日) 晴 ○度
おとといは気温(-)十三度。昨日は(+)五度。今日は○度。三寒四温というのか、毎日変動が激しい。
弥栄村へ牛乳受領に行った。倭肯(ワイコウ)の駅で、勃利時代の教育上等兵沢井さんに会って懐かしかった。警乗勤務なので、乗車中教育時の思い出話をした。
弥栄(イサヤカ)村は然程大きくはないが、杏樹に比べると余程奇麗な村だと思った。此処は日本の第一回武装移民団のある処で、共励組合と言って内地の産業組合に相当する組織が実在していて、連合組織も在るようだ。入植当時は治安も良くなかったので武装して自衛しながらの生活であった由、村の周囲は土塁に銃眼など付けて外敵と戦う配置となっているが、今では土塁も崩れたり、銃眼に草が生えたり、放置されている感じだが、それだけ治安が良くなった証とも言えよう。役場も、青年訓練所も見学させて貰った。訓練所の土間に大きな虎が死んでいた。農場に虎が三匹出没するので、其の中の一匹を銃で射殺したのだと聞かされて驚いた。加藤清正の朝鮮での虎退治は講談などで聞いてはいたが、まさか現実に、然も朝鮮よりはるか北の弥栄で本物の虎を見るなど想像しなかった。目の前に長ながと横たわる虎は、動物園で見る虎より大きい感じで、背筋が寒くなる想いで眺めた。あと二匹残っていて、何時、何処で襲われるか、そんな不安を残しながら農作業する移民団の人達は、私達兵隊に劣らない覚悟が必要なんだと心に深く感じた。
帰り道、汽車の中で五、六歳位の可愛らしい子供がいたので、持っていたキャラメルと、羊糞をやったら「謝謝(シャーシャー)」俺の顔を見ながら何度もお礼を言って喜んだ。其の小孩(ショウハイ)を故郷の妹節子と重ねて私は思っていた。汽車が遠ざかり、姿が見えなくなるまで、子供は手を振っていた。
二月二十四日(月曜日)晴 (-)十八度
暖かいと思ったのは二、三日。寒さが又戻った。空は満州晴である。今日は戦友高橋兵長殿と軽部古参兵殿(上等兵) が満期となって故郷に帰られる送別の意味で、兵舎の会食あり。
戦友殿が「心配するな、しっかりやれ」 言葉少なく言って肩を叩いてくれた。此の高橋戦友殿には語り尽くせぬほどの温情と庇護と指導を受けている。戦友とは文字通りであるが、昨日まで他人であった者同志、戦になれば骨を拾い合い、日常はお互い助け合う、然しそれ程生死を分かつ関係でありながら、一度満期ともなって別離してしまえば、再び会うことも思うに任せない。生死の別れともなる。
言葉に尽せぬ恩義、友情を思い、男らしくないけど、涙が出て止まらない。 
(検)国久曹長
二月二十八日 (金曜日)曇 (-)九度(体重五九・五キロ)
今朝小雪が降った。思い起こせば昨年の今日、勃利守備隊に入隊した日である。文字通り東西も分らぬ北満に数日がかりで到着し、何年か、或は此のまま此の地に骨を埋めるか。祖国の為という事ではるばるやって来た。今日で満一年になる。夜警勤務。
三月一日 (土曜日) 曇
突然、本田と梅田がハルピン第七三一部隊に派遣されることになった。本田は床を並べていたし、特に気性が合っていたので寂しくなる。
本日付を以て、俺と松井幾造、黒川歳雄、本田日出男、梅田、清水、浜田清寿の七名が上等兵に進級した。これで故郷に帰っても笑われないで済む。父と高木より便り届く。

上等兵始めて吾は呼ばれたり此の声この日ひと年待ちき

  三月五日(水曜日)晴 (-)二十一度
今朝は珍しく寒い。朝の銃剣術で面の鉄が吐く息で白く凍る。田中軍曹殿に基本の教授を受ける。
夜、国久曹長殿より、対戦車肉迫攻撃について教育あり。昨年勃利で肉迫攻撃の演習を死ぬ想いで繰り返した事を思い出す。ノモソハン事件で関東軍が敗退したのは主に戦車攻撃によるもので、その対抗肉弾作戦である。
三月十日 (月曜日)曇後雪 (-)十四度
今日は寒い。何時もの如く鞄をさげて野戦郵便所行き。陸軍記念日で加給品、煙草(ほまれ)一ケ、コップ一杯の酒の特配があった。
三月十三日(木曜日)快晴 (-)七度
随時検閲で、兵舎で軍装検査を受ける。今夜は月蝕。七時半頃より欠け初め、三分の一位が最高で九時過ぎ正常に戻った。
三月十七日 (月曜日)曇 (-)三度
病舎の不寝番。物療庫で仮眠していたが、兵舎で寝るよう指示された。病院の開院記念式が近くある由、当日兵隊で演芸をやる準備をするよう命令あり。陸軍病院歌を募集するから考えておくようにと言われた。
三月二十日(木曜日)曇 (-)七度
開院式が二十七日に行われる。その渦に巻き込まれて、生まれて初めて芝居に出演せねばならぬ。
『祖国のために』と題して其の父親を演じなければならぬ。泣きたい位だ。自分で作ったセリフを自分が演ずるとは……。
三月二十三日(日曜日)晴 (-)三度
午前の郵便公用に行かなくて済んだのでゆっくり出来た。浜田(境港市出身、現在健在) が同年兵で最初に患者搬送で牡丹江に出発した。俺は郵便公用があるから、番はやって来ないと思う。芝居の稽古で今日も忙しい。こんな芝居、人前でやれるだろうか。止めてしまいたい。
三月二十七日 (木曜日) 晴
創立開院記念日だ。十時より式。表彰式で大下運転手、下平、加藤の軍属三人が表彰された。兵舎で昼飯を食って午後、患者達の安来節、小原節外歌や踊りの出演があり、最後に俺達の劇『祖国のために』の出演である。営外居住家族の奥様方に化粧をして貰う。変った自分の顔、戦友の顔を見て驚いた。馬子にも化粧、女は化けるというが、男でも変る。無我夢中で芝居は終った。大好評で皆誉めてくれたので、言葉通りに受け取った。七時より宴会、そのあと夜警勤務。
三月二十八日(金曜日)晴 (-)一度
疲れた。昨日は閉院式後、病院長殿以下、患者全員の前で生まれて初めての芝居に出演。兎に角終った。夜は慰労の宴会で愉快に呑んだ。そして騒いだ。弟(三郎) に頼んでいた前田夕暮の『素猫』と『現代短歌』第七巻が届いた。また弟に無理を頼んだ。済まないと思うが他に頼む者がいない、弟よ許せ。今月の詠草はまだ出来ていない。
三月三十一日 (月曜日) 晴
俸給を貰った。十円十九銭だ。一円三十九銭多くなっているそうだ。俺は上等兵になったんだ。
四月一日(火曜日)晴 (-)二度
今日より銃剣術の練習が始まった。姉(豊子、在満中死亡) より手紙と写真が届いた。姉も男ばかりの世帯に嫁して苦労しているようだ。
四月二日(水曜日)晴 (+)六度
今日は暖かい。洗濯物を初めて干す。
防寒具は昨日で使用禁止になった。夜、滝沢大尉殿の精神教育あり。煩悶に勝て、健全なる頭脳を持て、勤務上のことで正しい煩悶をすることは、向上の第一歩であると……。
沢井上等兵殿より便りが有った。ピー(売春婦の意) とポンユウ (なかよし) にならぬよう、しつかりやれと。
四月四日(金曜日)曇 (+)五度
古い雑誌『キング』を読んでいたら松村英一先生の歌が載っていた。支那事変勃発当時の十一月号である。

北支出兵  松村英一

今日発(タ)てる軍(イクサ)の中のわが友のまじりてかあらむ隔(ヘダ)てておもふ

千人針をいくつか縫ひて来りしと帰りし妻は昂(タカ)ぶれるらし

  四月五日(土曜日)曇 (+)一度
『益良男』誌より 軍勝のこと
凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中と為し、十分を以て下となす。その故は五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ十分は驕りを生ずるが故なり。たとえ一戦に十分の勝を得るとも驕りを生ずれば次には必ず敗れるものなり。すべて戦に限らず世の中のこと此の心懸肝要なり(武田信玄)
新納軍曹殿(患者) より短歌を導えてくれと頼まれたが、手持の作品の批評をした。高木に胴巻とジャケットを送る。
四月七日 (月曜日) 曇
朝起きして見ると外は真っ白だ。世の中の一切の穢れも罪も雪の下に浄化されたようで気持ちがよい。四種混合予防注射をやって午後は寝てしまった。
四月十日 (木曜日)曇 (+)十五度
「書翰無いか?」
俺の顔を見ると誰もかれもが口を揃えて尋ねる。書翰を待つのは兵隊ばかりでなく、班長殿、山岸中尉殿、天野中尉殿も皆そうだ。今日は珍しく東准尉殿まで「無いか」と問われた。故郷の便りよ、沢山飛んでこい。
四月十五日(火曜日)曇小雪 (+)五度
今朝も雪で真っ白だ。一寸位も積もったようだが、午後には殆ど消えた。
四月十七日(木曜日)晴 (+)十一度
突然、斉下上等兵殿、三浦、河原三年兵殿が転属で虎林へゆかれる。斉下上等兵殿とは特に親しかった。請わるるままに一首書き贈る。

君が居し窓辺に立ちてしばらくは行く雲を見ぬ君の如くに

   四月十九日 (土曜日) 晴
郵便公用から帰ったら、東准尉殿より牡丹江に行けと命令された。毎日野戦局通いが有るので出張など諦めていたので嬉しかった。紺野班長殿に随行と聞いて尚更であるが、金の無いことが淋しい。まあ行くだけで我慢するか。
患者を○名連れて牡丹江行列車に乗る。途中勃利の高地、勃利神社等一年振りに眺められて嬉しかった。午後九時二十五分牡丹江到着。六六四部隊(牡丹江陸軍病院) の自動車が出迎えていた。病院の兵舎で就寝したのは十二時を過ぎていた。
四月二十日 (日曜日) 曇
牡丹江病院の内務班はうちと同様で変っていないが、うちの方が整頓は良い。用事が終ったので街に出たが、折角来たのに雪が降って来た。文字通りの牡丹江。戦友に土産をと思ったが金が無い。日曜日で百貨店も閉まっていた。内地の街を歩いている様な錯覚を覚える街だ。十時二十分、ぬかるみの道を駅まで歩き、佳木斯(チャムス)行の汽車に乗り、杏樹へ帰った。
四月二十七日 (日曜日) 晴 五度
久し振りの晴天。今日は衛生査閲。病室で質問を受けるとは予期していなかったのに質問を受けて、やられてしまった。娯楽室では慌てずに済む。
四月二十九日 (火曜日)快晴 十五度
今日は天長節、遥拝式後簡単な祝杯があり外出した。正月以来の外出だ。鳥越兵長殿以下六名、営外酒保で一本せしめて原っぱで呑んだ。何とも爽快。杏樹の街をぶらついて六時過ぎに帰隊した。
四月三十日 (水曜日)快晴 十七度
護国神社大祭で今日は休み。内地に戻れば外泊位出来るのだが遊び場もないが金もなく退屈だ。昨日郵便公用を休んだので、今日は二回通った。四時から不寝番だ。
五月二日 (金曜日) 晴 十五度
満期となって故郷に帰っていた。これは夢だろう。こんなに早く満期する筈はない。否、夢ではないぞ。手を抓った。痛い、ああうれしい。故郷に帰れた。幾年振りかの懐かしい山、川、人、母の顔…・・・。悦んだが結局目が覚めた。起床二分前。
五月三日 (土曜日) 晴 二十二度
空は青空、俺達は若い。唄いたいような好天気。鳥越上等兵殿と病院の南広場を皆で耕した畑に種蒔きだ。大根、人参、白菜、全部で七升位の種を蒔き終った。
五月四日 (日曜日)曇 二十二度
月末になると詠草に苦労するので、今日から一日一首、良否は別として作ることを心に決めた。何時まで続くかやって見る。
公用から帰って見ると皆外出していた。一人飯を食ったが味気ない。飯は矢張り皆で一緒に食うに限る。

上等兵俸給十円十九銭支給の貨幣手に握りしむ

   五月八日 (木曜日) 曇 十二度
今日、午後になって雨が降り出した。今年になって二度日の雨だ。五四六部隊の初年兵が、一生懸命銃剣術をやっている。
うちに来る初年兵も、勃利で今日が検閲と聞いている。勃利の南門での俺達が第一期の検閲を受けた日を思い出す。
近く転属して来る初年兵の教育の一部の責任を負わされているので悩んでいる。正直なところ自信がない。人間が人間を教育するなんて。然も年齢がたった一年早いだけで、何の人格も、経験もない。困ったものだ。
五月十l日 (日曜日) 晴 十二度
三時十七分の汽車で初年兵が到着した。
「初年兵は可愛いものだ」と聞かされていた。会って見ると本当に可愛く思える。二年兵、三年兵に一人宛初年兵が戦友として組合わされる。俺の戦友は福島房義二等兵。島根県隠岐出身と聞く。同じ隠岐出身で、小新は私の隣の三浦古兵殿の戦友となる。

おのもおのも便り書きゐる初年兵のさまたげせじと兵舎を出づる

   五月十二日 (日曜日) 曇 十四度
兵舎に時ならぬ大声が朝より轟く。「○〇二等兵参りました」「○〇二等兵厠に行って参ります」「戦友殿襦袢を洗います」初年兵が来て兵舎は大声と共に活気が溢れる。「上等兵殿」昨日まで初年兵だった俺も今日より二年兵の上等兵殿だ。九時復帰式、十二時会食。初年兵が来る迄に考えていた事が錯乱する。可愛い。然し、俺達が受けた様な教育を初年兵に行わねば、一人前の関東軍の強い兵隊に教育せねばならない。自信がない。でも実行せねば……。私達の背後には三年兵が控えておられるのだ。静かに…・・・もう少し静かに考えたい。
五月十三日 (火曜日) 曇 八度
昨夜より門衛で仮眠していたら、初年兵の大声で目が覚めた。外は雪が少し白く溜っていた。
五月十四日 (水曜日) 曇 十九度
点呼後、初年兵に初めて教育らしい教育をした。どうすれば一番初年兵の心に感動を与えて、憎しみの、嫌がらせの、姑が嫁をいびるような、単なる苛めと受け取られないよう、気持を損なうことなく、真意を伝えることが出来るか……。手ぬるくても、強すぎてもならない。私達が受けたから、初年兵にやり返すことであってはならない。いろいろ考える。一年早く兵隊になっただけで、人が人を教育する。実力の有無に係わらずやらねばならない立場に置かれている。教育を受ける初年兵より、教育をしなければならない俺達の方が心中は苦しい。三年兵が背後で見ぬふりをしてじっと見ている。
五月十六日 (金曜日) 曇 二十四度
今日は暖かい。最高二十六度を示していた。草木も大分青くなって来た。今日はささいな事で責任上初年兵の教育をした。
五月十七日 (土曜日) 曇 三十度
野戦局に今日は二度通う。まだ冬服なので汗だくだく。初年兵にはたのしい土曜日。不寝番は隔日勤務。毎晩の初年兵教育で眠い。俺の初年兵時代の教育と比べて、初年兵の気持を推察する。苦しむのだ、共に苦しめ。戦場での苦しさに耐え得る身体と心を養うために。
五月十八日 (日曜日) 曇 二十四度
午前公用。午後、東准尉殿の官舎に灘本(大栄町出身、昨年死亡) と行く予定だったが、滝沢大尉殿の官舎で止められ、五時頃まで黒川(小嶋出身、死亡) や、前山、佐々木上等兵殿と一緒に御馳走になった。

北国に生るる土筆を珍しみ一つを摘みて香りを愛でつ

珍しき兵舎の庭の土筆なり集へる戦友(トモ)の手に手に渡る

 五月二十日(火曜日)曇 二十二度
今夜も初年兵に内務の教育(躾と言った方が適当か)を行った。考えてみると昨年は既に満期した高橋戦友に、同じ場所で俺が同様な言葉で諭された事を思い出す。特に自分の戦友はかわいいものだ。
戦友のためなら死んでもよい。満期した戦友に対し、一時的な感情でなくそう思った。今俺の戦友、福島はどれほど俺の気持を理解してくれているだろうか。
五月二十三日 (金曜日) 曇雨 十四度
たまさかの雨。岡本と岡谷が他部隊に派遣されるので送別会が催された。岡本義雄は隣村の長江出身。名残り惜しいが仕方がない。今日も初年兵教育。方法はあまり感心しなかったかも知れないが、正しいと思ってやったことだが、どう受け取ったであろうか。
五月二十四日 (土曜日) 雨 十三度
雨というものは嫌なものだ。今日で三日目。乾けば石のように固まり、黄塵となって飛散する。雨となれば泥濘浮あくなきぬかるみの道と化す。
五月二十五日 (日曜日) 曇 十四度
午後一時より初年兵の演芸会を開いた。石原に加納はうまいと思った。小新(隠岐出身) も相当なものだ。(歌)石原は死んだ福中にそっくりだ。そっくりと言えば青山は農業試験場時代の浅川によく似ている。ふと「浅川」と青山に向かって呼びそうなときすらある。
(注)青山 巌(島根県出身)
五月二十八日 (水曜日)曇 十五度
曇った空の下で五、六歳位の子供を連れた若い母親であろう、道端のタソポポを摘んでいた。営外官舎の奥さんであろう。見ると身ごもっている様子。「タンポポと、母と兵隊」火野葦平なら、そんな小説でも作るかも知れない。

タンポポの花摘みやれる幼児の母北満の果てにみごもる

初年兵忘れましたをまず覚え

川柳になっているかな?
五月三十日 (土曜日) 晴 十五度
野原に花が咲き出した。スミレ、タンポポ、あやめ、野苺、鈴蘭、いろいろ咲いているが、名を知らぬものの方が多い。春が遅く、秋が早いので、春の花、夏の花が皆一度に咲く。
<満州の春よ飛んで来い……。間もなく暑い夏も飛んで来る>     (検)菅野
六月五日(木曜日) 雨 十五度
雨が降っている。此の雨には何等の感情がない。理性もない。若し人間が雨粒の様に、雲間より生まれ、風に委ねられて、何のこだわりもなく地に落ちて消えてゆけるものであれば……。
人の一生も地に落ちて消ゆる雨の様に儚いものであると思われてならない。
六月六日 (金曜日) 雨 十五度
持病、或は業病という言葉がある。治療しても全治する見込みのないと知りつつ (或は知らず) 治療を続けることの可否。死にゆく者の願いを叶えて早く死なせるのが可か。無駄と知りつつ治療を続けて、苦しむ患者を一層苦しめても、力の限りを尽くすのが良いのか。俺にはわからない。
六月十二日 (木曜日)晴 三十二度
昨夜郷土部隊より派遣された演芸団の慰問演芸があった。中に明本京静(作曲家) が居られた。「父よあなたは強かった」「暁に祈る」などの作曲家と承り、若き日は歌手でもあった由。僅かの休み時間に明本氏と対話することが出来た。それは兼ねて吾が部隊歌の募集があり、作詞していたものを見て貰いたかったからである。「纏っているが概念的すぎる。或る事柄をとり入れて此の部隊独自の感じを現す工夫をすれば良いと思う。初めてにしては良く出来ている」 の言葉を戴いた。参考にしたい。
六月十五日(日曜日)晴 二十七度
雨もからりと晴れた晴天、部隊対抗銃剣術大会だ。午前九時二十分集合。杏樹神社に参拝、十一時半頃帰隊。午後一時より各隊(大部隊、各十名宛の選手)勢揃い。神社に礼拝して試合開始。さすが本科の兵隊は強い。踊る心を抑えて試合に臨む。第一回戦は見事に勝った。相手は航空隊の伍長殿(二八四部隊)。第二回戦は負ける相手ではないと油断したせいかやられた。防具を脱いだ相手は士官であった。灘本は角カで優勝した。
本科を相手に互角に争ったのだからよく戦ったと思う。
六月十七日(火曜日)晴 二十四度
一カ月も前より待っていた三門順子一行の慰問団が来た。「三門順子」名声はよく承知していた。
見ると、小柄で平凡な印象を受けたが、歌声を聞いてさすがに驚き感激した。キングレコードのドル箱とか。
夕方廊下を伝って甘美なメロディーの歌声が流れて来る。レコードを慰問団の人達がかけているのかと思って病室より出て見ると、娯楽室で三門順子さんが一人で唄っている。無我となり、夕暮れ近づく病室で、歌声の終るまで聞きほれていた。

つくろひし靴下はきてはばからぬ慰問の娘らに親しみ易し

杏樹野の空ふるはせて唄ふこゑ三門順子は吾とま向かふ

  六月二十一日 (土曜日) 晴 二十度
吉岡、松田が上等兵に進級した(六月一日付)。全員で院内の畑に種を蒔く。

七升の量(カサ)はあるらむ白菜の種蒔き終へぬ広き院庭

兵業のひまひまに来て耕せる畑の広きに長きわが影

   七月二日 (水曜日) 雨 二十度
不寝番の明け番、梅雨のように毎日雨。貼付のスクラップは、綾女先生から届いたもの。自作部隊歌を見て貰うため送ったものが内地の新聞に発表されたらしくその切り抜きである。大袈裟なと思い……恥かしい。

 

戦場の詩情
中村 繁

目下北満○〇部隊にあって活躍中の元東伯郡三徳村農会技術員東伯郡長瀬村出身中村繁衛生上等兵は国民文学の誌友であり、はまなす会員として短歌道に精進する歌人勇士だが、この程同氏作詩の一扁が○○部隊歌として採用された喜びと、近作四首が河北農業学校綾女教諭宛送附して来たが、歌人勇士の健在はほゝえましい

部隊歌

     ◇
一、一億民が火と燃えて
世紀の御業進め行く
時十四年早春に
御勅かしこみ杏樹野を
屯となせる我部隊

     ◇
二、正義に起ちていたつきに
いたでになやむますらをを
昼夜わかたす看護来し
幾星霜は流れ来ぬ
誉は高し我部隊

     ◇
三、聖諭の誠身にまとひ
疫病猖獗何のその
弾雨の中を乗り越へて
救護任務の重ければ
かたき覚悟の我部隊

     ◇
四、剣持つ手に治療箱
繃帯嚢をたずさえて
真摯必治の心意気
すめらいくさの戦力を
いよよつよめる我部隊

     ◇
五、敵も味方もへだてなく
力協せて骨肉
情でつくす赤十字
中天高き日の丸と
共に榮ゆる我部隊

 

満洲の巻

営庭に野に春の息吹に満ちみちて楊柳の若葉の匂へる朝

         ×

芋焼きし香にむせつつも開墾をひたすら励む吾と吾が友

        ×

タンポポの花摘みてやる幼兒の母は大陸に来てみごもれる

         ×

満州に生ふる士筆をめづらしみ一つを取りて戦友に見せやる

 

   七月五日 (土曜日)曇雨 十六度
今日は戦線救護演習。六時より繃帯所設置。野戦勤務演習が行われた。俺は収容部勤務と戦線勤務。仮想敵だった。草叢の中にうずくまっている間蚊の大群の襲撃で、演習より蚊の攻撃に参ってしまった。今夜の雷鳴も物凄い。猛烈な雨の中で鳴く蛙の声さえ腹立たしい。
七月十一日 (金曜日) 曇 二十一度
在るがまま  ショーペンウエル (独)
地上には嘘をつく動物は唯一種しかいない。これは人間である。其の他の一切の生物は真実であり正直である。何となれば、彼等は在るが儘にさらけ出し、感ずるままに表出するからである。
意志力    フォッシュ元師(仏)
万智のあることは慥かに結構である。しかし乍ら何よりも必要なのは意志力である。迷うことなき確固たる意志力が大切である。  <読書の文中より>
七月十四日 (月曜日) 曇
八時より滝沢大尉般より精神教育あり。世界の情勢、我等の覚悟について。それから今後は故郷など便りを出すことを禁止すると命じられた。防諜のためであろう。他の部隊はずっと以前より禁止されていると聞いていた。緊張して勤務に邁進せねばならぬ。
七月十七日 (木曜日) 晴霧雨あり 二十二度
近衛内閣総辞職とのニュースを聞く。「汝は汝にして汝にあらず」滅私奉公あるのみ。
七月二十二日 (火曜日) 曇 十六度
戦陣訓の中の、「戦陣の嗜み」 に…・・・。
「後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整えて死後を清しくするの嗜みを肝要とす」とあり。又、「死生観」 に、「死生を貫くものは崇高なる献身の精神なり。生死を超越し、一意専心任務の完遂に邁進すべし。心身一切の力を費し従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」 とある。
切り結ぶ刃の下は地獄なり身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり (葉隠武士道より)
何もかも名言。深く感銘。覚悟せねばならぬ。悠久の大義に生きるのだ。
七月二十四日 (木曜日) 曇 二十七度
汽車が朝晩二回となったので、今日より郵便所公用は朝一回でよくなった。梅雨も上がって暑くなると思ったが案外涼しい。
明日は初年兵の第二期教育査閲。昨年の俺達の査閲が思い出される。長い間初年兵達よく頑張った。
七月二十五日 (金曜日) 晴 曇 二十六度
今日は初年兵の第二期査閲だ。午前中は公用、午後見学、夜は夜警勤務。
七月二十六日 (土曜日) 曇 二十六度
十四時より第四種混合予防接種、種痘を行う。笹倉上等兵殿外○名○○に派遣。吉岡も生田もみんな出てしまう。淋しいけど仕方がない。班長殿に許可を受けたので消灯後も別れてゆく戦友達と語り合った。

命なれば笑みつつ別るる戦友送るまた会へる日を心たのみて

相つぎて戦友いで往きし兵舎には主なき床並びて広し

   八月二日 (土曜日) 晴 二十九度
滝沢大尉殿が一日付で少佐に進級された。情深い大尉殿の進級は我が事のように喜ばしい。三郎から便りが来た。弟も孤独の生活を頻りに訴えている。
八月十三日 (水曜日) 曇
昨夜新しい兵隊が兵舎に加わった。召集された老兵ばかりである。「お父ちゃん」と呼びたいような兵隊ばかりで、鳥取県出身者が殆どで馴染み易いと思った。
(註)「関東特別大演習」 の名目で、日本の戦況は漸次防戦敗退に転ずる頃で、関東軍の精鋭部隊は南方へと漸次転進し、穴埋め的に老兵等による補充がなされ、関東軍特別大演習の名目により、ソ連の攻撃に備えたようである。(太平洋戦記より)
八月十四日 (木曜日) 晴
「お父ちゃん兵隊」 そう呼ぶことにした。なかなか話せる。暇があれば将棋や碁に熱中。故郷に残した妻子のおのろけ話。兵舎は朗らかで、明るい雰囲気が漂い、愉快な日が続く。
八月十九日 (火曜日) 曇 晴
昨日の雨で道は悪い。道の両側に黄色い花が咲いているが、名を知らない。
鈴蘭、タンポポ、スミレ、アヤメ、薊、桔梗、女郎花…・・・知っている花の名は少なく多彩である。春より夏の花まで一度に咲き出した感じである。
九月三日 (水曜日) 曇 雹
治ると思った風邪がまだ治らない。明日は診断を受けて見よう。雹が降って来た。昨年も此の頃だったと思う。
秋深み、薊の花が日差しに光り飛び交うのが目立つ。
点呼を終って、山岸中尉殿が、月が美しいぞと言われて空を仰ぐ。今日はうら盆十三日、故郷では墓参りをしている頃であろう。

戦友の指さす杏樹野の空に夜の虹見ゆ色沈みつつ

   九月九日 (火曜日) 曇 二十度
杏樹の電話局に故郷の三朝町出身の藤井さん。北条町出身の岩間さんが突然面会に来て驚いた。何処で調べたのか分らないが、はるばる北満の地で面会者など、夢の様な話。藤井さんは十六歳、岩間さんは十七歳とか。藤井さんは小学校の教師、藤井健一先生の姪とか。心暖まる日であった。
九月十三日 (土曜日) 晴
珍しく風邪を引き、数日兵舎で休養していたが、注射のため兵舎を出たら黒川に会った。
「おい、お目出とう。お前、進級したぞ」と言うので何の事か理解されず受け流した。
「本当だよ、兵長に進級だよ」と、重ねて言う。本当であった。同年兵で唯一人の兵長進級であった。朝、診断を受けて来週より出勤することにしたが、十日程休んだことになり、入隊以来初めての体験である。
九月十七日 (水曜日)曇雨 降雹
午後三時頃、雲行きが急にあやしくなり、凄惨な迄にはげしい雨となり、雹が降って来た。天気の良い日は野戦局まで自転車で行くが、雨が降ると道がぬかるみとなるので歩かねばならない、今日は雨で歩かされた。
九月二十日 (土曜日) 晴
今日より冬服着用。めっきり寒くなり、冬が近付いた感じ。重いと思う衣服も寒気と共に軽く感じることであろう。
九月二十三日(火曜日)晴 (-)二・五度
待望の秋季慰霊祭。公用の帰りに裏の部隊に寄り、伊勢兵長殿に会った。兵舎で加給品のビールを呑む、唄う、騒ぐ。掻然たるままに楽しい祭日。松田も呑むと愉快だ。

素枯れたる杏樹の空を四、五十羽渡る雁今朝又も見ゆ

   十月一日 (水曜日) 晴
十月と聞くだけで寒さを感じる。スケート場の使役が始まった。地面を均し、周囲に土を盛り、水道の水をホースで流して氷を張らせる作業だ。昨年は正月の酒を呑んで辷ったことを思い出した。
外出していたら、満人の家のそばで鶏が遊んでいた。悪戯心を出して石を投げた。三回目に鶏に命中。驚いたことに鶏の首が飛んでしまった。困ったと思ったが仕方がない。満人に気付かれぬうちに首の取れた鶏を持って帰れば気付かれずに済むと思って近付いたら、首の飛んだと思った鶏が突然「コケココケッコ」と鳴き出したから驚いた。本当に驚いた。五時五十分、起床十分前。夢から覚めた。
国久曹長殿より勤務替えを言い渡された。「本人の希望だから」 ということだが、私は庶務係を替りたいなど言った記憶はないし、希望を申し立てて通用する軍隊とも思っていない。命令は従うのみである。スケート場の使役進む。零下三度だ。
十月二日(木曜日) 晴 (-)二・五度
勤務替えの件で国久曹長殿が庶務室に来ておられたが人事と思っていたら俺も関係している。俺は
何も云った覚えはないのに 「本人の希望だから」 と云う事で勤務交代になるらしい。ずっと以前の「折角軍隊に来た以上は、各室共二、三カ月でも一廻りは廻って仕事を覚えておいた方が良い」「体が元気良くなるまで一、二カ月でも行ければ外科に行ってもいいと思う」と、何処かに替えてやろうと云われた時に云った事はあるが・・・。今の処、命令なれば……。それに事此処に至っては何と云っても仕方がないけど、今の処を動きたくなかった。
(註)このとき、日記に記せなかった事実は次のとおりである。
勤務替えの件で、国久曹長殿が庶務に来ておられたが、人事と思っていたら、俺のことであったようだ。あとで分かった事だが、東准尉殿に数人が病室勤務を強く望んでいるようだから、外科病室の方へ勤務替えをするという話らしい。兵舎の班長殿が、俺の良くない事柄(何かは知らぬ) を、東准尉殿に吹き込んでいたようだ (准尉殿よりあとで承った)。准尉殿は「何といっても、中村のことは自分が一番使っているのでよく承知していると主張されたと聞いたが、本人の希望だから、との言葉で承知したと話された。ずっと前に「折角軍隊に来たのだから、各室二、三カ月宛でも一通り廻って仕事を覚えておいた方が将来のためには良い」 そんな話を同年兵同士で話した記憶はあるが本意ではない。誰かが告げ口をしたのであろう。
それは兎も角、兵隊如きが、希望を言って希望通りに勤務先を変えてくれるなど現実にはあり得ない。上層の都合のよいように命令して定まることだ。東准尉殿が私をかばって庶務室勤務より外科室への移動に反対されたので、俺の私語を方便に利用されたことは間違いない。新しい班長殿の気に入らないのだから命令に従うのみ、意見などもっての外である。
突然、東准尉殿に林ロヘ出張を命じられた。日記には記せないので別記する。
この時の公用は、昭和十六年九月、同年兵中唯一人兵長に進級し、次に六カ月後(十七年三月)松井幾造君が兵長に進級した。私は兵長進級より一年経過しているので、伍長任官を上申する書類を上層部に届ける役であったから、そのうえ上申書を准尉殿に「どうせ分かることだ、お前が書け」と言われて、私が清書した公用文書を上申したのであるが、結果的に進級は早期にすぎる、次期に廻せとの回答だったから、今少し待てと准尉殿より聞かされていた。
次の上申は、驚いたことに、部隊内伍長任官者は、私でなく、半年遅れて進級した松井兵長であった。この度の上申書は、東准尉転属により、国久曹長に替わったので、私はもちろん関知しない間に上申書は松井兵長にすり替えられていた。私は上官に憎まれ、敬遠されていたのである。
滝沢(少佐)庶務主任による私の身上書に「時に傲岸なる態度になることあり」と記されていること。国久曹長、また兵舎の班長等にも「生意気な奴」 と思われていたにちがいない。上申責任者、事務責任者に点数がなくては、軍隊ならずとも仕方のないことと諦めるしかない。
「星が欲しくて軍隊に入隊したのではない」 との同年兵同士の発言も筒抜けになっていたとも思うが、口惜しかった。自分では気付かないが「傲岸である」と見られる態度は、軍隊時代に限らず、現在に至るまで、第三者の目には映っているようで、私の人生の中で、性格といってしまえばそれ迄であるが、自分で意識せぬのに随分損をしてきたと思う反面、結果的には軍隊で敬遠されていたため、滝沢少佐以下、点数のある兵隊を選抜して野戦病院を編成し、南方戦線に転属する(転属して編成された野戦病院はビルマ方面であったと思われる)員数より除外され、居残る結果となったので今生きておれることを思うと、感謝せねばならないかもしれない。「一つ軍人は要領を本分とすべし」軍隊にはこんな格言が誰からとなく言い伝えられている。私は要領の悪い兵隊であった。
十月六日 (月曜日)曇
外科勤務第一日。繃帯交換に病室を回ったが馴れていないので、勝手が分かるまで見物することにした。今度手術が有れば手洗いをやって見ろと高橋班長殿に言われた。昨日は中秋の名月。雲で駄目だったので今夜はと思ったが憎らしい、又雲。歌稿を早く纏めねばと思う。
十月十三日 (月曜日)曇 雪
「起床」 の声で目が覚めた。雨より霙・・・とうとう雪になってしまった。一寸以上積ったようだ。今年の初雪だ。

十月の初めに雪の降り積り兵舎明るく朝餉にぎはふ

   十月十五日 (水曜日) 晴
昨夜は余程寒かったのか外は凍って冬の景色だ。臨時入院の松岡、今朝は手術だ。
三十近い年齢で、術中痛い痛いと子供の様に坤吟する。終ったらヘルニアの手術。午後は後始末に雑務を終ったら臨時入院のアッペ。夕食を済ませて手術にかかる。班長殿より手洗いをして機械係をしてみろと言われて手を洗った。初めてだから機械係の補助員だ。まだまだ分からぬことが多い。内科よりやり甲斐がある。勉強せねば……。 (検)菅野
十月十六日 (木曜日)曇
臨時入院。これで三日連続。今日も手洗い。今日も班長殿が「俺が付いているから機械係をやって見ろ」と言われるので、やってみることにした。軍医殿の手術の進行に従って、「麻酔薬」「円刃力」「止血鉗子」「ガーゼ」言葉を待たないで自ら判断して差し出す迄には至らないが、並べられた外科器械の中より迅速に判断して手術に支障なく器具を軍医殿の手に渡す。
一度使用した器具は二度使用しないから、何を何本用意すれば足りるか、予め消毒して準備する器具の数の判断に至るまで、機械係の責任となる。
これからが勝負だ。誰にも負けないぞ。
十月十九日 (日曜日) 曇
日曜日だが、患者の西村が重態というので休むどころでない。浣腸・導尿・リンゲル注射・ビタカン注射・湿布・手術と大騒ぎ。兵舎に帰ったら十時五十分。生温い湯に入り、冷たい床に入ったが、疲れて何も思う間もなく眠ってしまった。
十月二十日 (月曜日)曇 (-)三度
点呼の時、手が千切れるように寒かった。気温計は零下三度。今日より防寒具を支給された。山口兵長殿が伍長に任官された。戦友だった高橋兵長般より来信。
十月二十八日 (火曜日)曇
午前中に三人の手術があった。ヘルニア二名。痔核一名。ヘルニアの機械係をやったが汗だくだく。
(検)菅野
十一月一日 (土曜日) 晴
十三夜の月が、暮れかかった大平原にほんのり弱い光を投げかけている。此の月は千年も万年も照り続けるであろう。でも此の月は何時かは壊れて仕舞う時が来ると聞いているが、遠い遠い先のこと。
それに比べると人間の生命は僅か五十年。平凡に過ごすことは罪悪の様にさえ思われる。静かに照らしている月の下で今宵も誰かが生まれ、痛み、苦しみ、そして戦死する者もいる。

千里離りよと想は一つ同じ夜空の月を見る

 勝太郎だったかな? レコードの唄を想い出す。父も母も稲刈りを終えて此の月を眺めておられるかも知れない。
十一月三日 (月曜日) 晴
今日は目出度い明治節。朝から兵舎は賑やかだ。「亜細亜の東日出づるところ・・・」誰からともなく唄い出した。満洲に菊が無くて残念。午後は外出。吉崎曹長殿の官舎で戦友達とビールを御馳走になる。帰隊六時半。
十一月四日 (火曜日) 晴
九時より勅諭奉読式あり。午前中アッペと痔の手術の予定が午後に変り、アッペは取り止め。坐骨神経痛と痔の手術。坐骨神経痛の手術は初めて立ち会った。
分家の愛子が養子を迎えた由、伯父の便り。
十一月七日 (金曜日) 晴
真夜中、班長殿の声で目を覚ました。「火事だ」 という声。窓より経理部の官舎が燃えだしているのが見える。「中村は外科で待機しろ」班長殿の命令で二人程初年兵を連れて待機。水の無い満州の悲しさ。見ていて丸焼けとなった。
十一月十一日(火曜日)晴 (-)六度
国久曹長殿より「努力と反省」 の課題で作文を提出するよう言われた。三十分で書いて出したが、もっと考えて書けばと後悔。
短歌雑誌『国原』創刊号が届く。『太藺』 『はまなす』外県下の短歌誌が統合させられた由。国内事情も段々厳しくなるようだ。
十一月十二日 (水曜日)晴 (-)五度
朝から数十機の戦闘機が雲霞のように轟音を立てていた。同じ空に幾百羽、否、幾千羽の雁がそれぞれ群れを作り飛んでいる。珍しい朝のひととき。

爆音をおそれぬ雁の編隊が茜の雲を機を越えてゆく

幾群か鳴きわたる雁忽ちに編隊の機に追ひ越されたり

訓練の吾が目を奪ふ編隊の雁と飛行機暁の空

 十一月十五日(土曜日)曇 (-)二度
午前中で週番勤務を下番、重荷を下ろした気持だ。鳥籠から鳥が放たれたように。
今日は昨日より暖かい気がする。昨年はもうスケート場の氷が張り初めていた頃だ。貯蔵庫の芋を選別していたら浜田が芋を焼くと言い出した。薪割りの処で焼いて二人で食べた。高木のおばさんの事を思い出した。二日続けて高木の夢を見たことも。
十一月十八日 (火曜日) 晴
十二月五日は開院式が行われる。当日の余興を兵舎が担当することになり、班長殿より又、劇を命じられた。昨年の開院式を想い出した。今年は初年兵にやらせよう。
十一月十九日(水曜日)晴 (-)十五度
劇に何をやるか、いろいろ苦心したが、結局陣中倶楽部の中の『妻君武勇伝』を脚色して初年兵にやらせることに決めた。今日一日中脚本書き……。初年兵に出演を申し渡した。練習や準備で急に兵舎が活気付いて賑やかになった。
十一月二十三日 (日曜日) 晴 (-)十七度
九時迄日直。午前中は繃帯交換。午後浜田と二人で写真を写す。久し振りだ。修正が出来たら引き伸ばしをしようと思う。演芸会の脚本を書いていたら、西尾・斎藤・国谷の三人下士候補者が、教育のために出発するので送別会をすると伝えて来た。当分、酒は呑まぬと心に決めていたが又、呑むことになってしまった。
十一月二十四日(月曜日)晴 (-)十五度
スケート場に水を入れてから二日になるが、凍る前に水が流れて仕舞って少しも凍らない。午前中、アッペ一名、痔核一名の機械係で、手術に二時間半かかった。昼飯が美味しい。
十一月二十六日 (水曜日) 晴
三日間連続水を張ったせいで漸く目に見えてスケート場の氷が張りそめた。黒川と岡本が一寸した事で争いとなったが、岡本は「済まぬ」と謝り、黒川は涙を流して言い過ぎた事を詫びていた。美しい姿だ。階級が何だ。名誉が何だ。之だけ信じ合い、尊敬し合う二人は幸福だ。俺にこれ程信じ合える戦友が幾人有るであろうか。
十一月二十八日 (金曜日) 曇
日米会談が相当激迫している様子だ。ルーズベルトの態度、所謂ABCD五国の出方次第で、日米開戦将に危機一髪の情勢と新聞・ラジオの報道が伝う。決戦態勢の言葉通り、俺達の任務は益々重要さを加えることになる。じつとして居られない気持だ。
十一月二十九日 (土曜日)曇 (-)七度
六時のニュースより。
日米会談は其の後表面的に著しい変化は無いが、戦わねばなるまい。然し乍ら、日米がどうしても戦わねばならないということはあるまい。米国が日本の真意を解することに依って平和的に解決出来得るものと思う。兎も角も日本としては、和戦両面を想定して対処せねばならないが、現在ことに国際的関係は好転の為し様がないと思われるから、充分なる覚悟を要する…・・・云々。
十二月一日 (月曜日)晴
綺麗な月夜だ。平和な月を仰ぐのも、何時まで続くのやら。日米関係は日に日に険悪となってゆく様だ。久し振りに写真の引き伸ばしをやった。家に、兄に、三郎に送ってやろう。

冬月を仰ぎ立哨つづくるに兵舎の消灯ラッパ響かふ

   十二月四日 (木曜日) 晴
スケート場当番で水を張っていたら、綺麗な満月が昇って来た。月を歌った歌は昔より多くあるが、月ほど物を想わすものも他に多くはあるまい。時代の移り、人の移り、故郷と戦地を結ぶのも月。千年も万年も先々の人びとも矢張り今夜の月を眺めるであろうか。それぞれの時、それぞれの人の心に依って変るが、変らぬのは月そのものであろう。
十二月六日 (土曜日)曇
不寝番の暁番。岡本は宵番で二人で久し振りに枕を並べ、故郷の話を交わした。岡本は隣村、長江の出身だ。親というものは本当に良いもんだ。大阪出発の際、一人でよいと言うのに、親父は一緒に来てくれて、伊勢・橿原神宮を参拝させてくれた。出発の日も雨の中を港の波止場までわざわざ見送ってくれた。妹も母の代理で便りをくれる。父の事、母の事、妹の事など思うと、精一杯頑張らねばと思う。
十二月七日(日曜日)晴 小雪
小雪が降って冬らしくなった。病室の不寝番が終り、兵舎に帰ったが眠れぬまま朝を迎えた。久し振りに二年兵ばかり六名で外出。興飯店で呑んだ。ラジオニュースを今日は聞かなかったが、日米交渉は決裂したらしい。今後どうなるであろう。いよいよ一大決心を定めねばならない時が到来したらしい。
十二月八日 (月曜日) 曇
本日十一時、我が国は英・米国に対し宣戦布告の報あり。布告と同時にハワイ、フィリピン方面に於て、相当なる戦果をおさめているようだ。
耐え得る限り忍んで来た日本。英米外の圧迫は三十年に及ぶもので、堪忍袋の緒が切れたのだ。いよいよ世界戦争だ。一億国民は今、感激の坩堝の中にいて、超非常時を乗り切らんとしている息吹が、電波に乗って伝うようだ。
天皇陛下万歳!!

宣戦の大認電波に伝ひ来る国民の声祖国の叫び

雪道の星を仰ぎて病室に来て大勝のラジオ聞きたり

繰返しくり返しつつ伝ふなり軍艦マーチ戦勝ニュース

開戦の布告伝ふる国境の冬の星空変ることなし

  十二月二十日 (土曜日)曇
待ちあぐねた開院式、午前十一時に式典、十一時半祝宴。十二時より余興。昨日予行演習をやったのでまあまあの出来。初年兵の『感激の裏町』 『戦陣訓』は二年兵、外に『人間地蔵』の寸劇。患者の舞踊、歌など……。俺も『戦陣訓』に出演した。酒を呑み舞台に出たものの夢中だったが、昨年よりはうまく出来たのではと思っている。晩は兵舎で祝宴。
十二月二十五日(木曜日)曇晴 (-)二十五度
今日は大正天皇祭。戦争中ながら北満にいて平常通り祭日を迎えられるのも、大君の御稜威であろう。今朝は寒い。昼はリンゴと蜜柑が出た。浜田と、松井と、川崎と俺の四人で一升の酒を呑んだ。
弟三郎より来信。徴兵検査のようだ。

インク瓶暖めて書く幾行の便りにインクまた凍りつく

 外は零下三十度、久々の夜警。
十二月三十一日 (水曜日)
皇紀二千六百一年は今日で終る。今年最後の日に兵舎日直勤務。
午後七時より年末の忘年会が兵舎で行われた。「俺は今年中断然禁酒するぞ、絶対に」班長の宣言だ。今年あと何時間ありや。
神国日本。皇道日本。栄光あれ。

衛生部精神
衛生部精神とは皇軍衛生勤務遂行上必携の軍人精神にして、誠心と本務学術研鑽とに依り培育せられ、惻隠必治の信念を以て使命の重責に膺り真摯精励積極的企図を以て人的戦力の増強に任じ砲煙弾雨の下疫病癘猖の間と雖も敢然自若として使命に赴き貫徹せざれば息まざるの気塊を言ふ。
(第四九三部隊)杏樹陸軍病院