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第十章 最後の戦い

 父島玉砕を免れる

 硫黄島は昭和二十年三月十七日、栗林中将より、「最後の総攻撃を敢行す」との打電により、公式には玉砕と発表された。
 その数日後と記憶するので、たぶん三月二十日前後であったと思う。サイパン島周辺に米軍の艦船が約七、八百隻集結し、北上の気配ありとの情報が伝えられた。
 いよいよ来るものが近づいた。今度こそわが父島に対する上陸戦が始まる。皆そのように思った。
何ヵ月、交戦可能かわからないが、結果的には玉砕するしかないと覚悟を新しく戦友同士無言で顔を見合わせながら、心中互いに領き合った。
 その後、数日経過しても父島の海、空には格別の変化はなく、どうしたことかと訝しく過ごすうち、米軍の大艦船団は西北方をめざして航行中との情報が伝えられ、四月一日に至り、米軍は沖縄本島に上陸を開始せりとの報が伝えられた。正直に言って、張り詰めた心の糸が切れたようでガックリとしたが、一応これでまたひととき生き延びられるという安堵感が全身に蘇った。
 日本軍の予測では、サイパン、硫黄島は空軍の本土上陸時に対する重要拠点であり、父島は海軍基地として絶対必要な島であると伝えられていたのであるが、見事米軍に裏をかかれ、蛙飛び作戦とやらで沖縄へ横飛びしたのである。
 今にして考えてみると、父島は全島殆ど岩石の山で、硫黄島の何倍かの犠牲なくしては占領困難と私たち兵隊でも考えられるものの、制空権もなく、艦船も殆ど無に等しい。手足をもがれた蟹同様であり、放って置けば補給もなく自滅は明白であるから、見捨てられて当然であったのであるが、結果として幸運に私たちは生還することができたのである。

 硫黄島玉砕以後の父島

 硫黄島は、岩と砂浜で遮蔽物等殆どなく、攻撃を受けたら三、四日位で占領されるだろうと語られていたが、水際撃破戦術を転換し、洞窟ゲリラ作戦に作戦変更したため、実質的には一カ月余の抗戦が続き、米軍自ら大戦中最大の犠牲を払った苦しい戦いであったと認めている。
 次の攻撃目標は父島の上陸との予想であったが、見事はずれ、米軍は沖縄の攻撃に転じたので父島は見捨てられる結果となって、玉砕の覚悟は必要なくなったものの、今度は見捨てられた結果、孤立した島を如何に守備してゆくか、何より生活が大問題となってきた。孤立の島に食糧その他一切の補給は全く皆無である。硫黄島で手を焼いた米軍は、一兵も失わず兵糧攻めで孤立させる戦法を選んだことは敵ながらあっぱれと言いたい。神風などを信じて日本が勝つなどと考える者はいなかったが、早晩餓死の運命を誰もが予測し、暗い心になっていた。
空襲は日曜日を除き、毎日二回位定期的に大型機が爆弾を落として帰る。神経戦か、夜間数機で爆弾を投下したりすることも絶えなかったが、もう上陸してくるという心配だけは無用になったものの、食糧を得るため、島の兵達は一生懸命であった。バナナの幹の芯・根・その他いろいろの草や根を食糧に試した。岩場の石を返して沢蟹を取って食べたり、元住民が食用としていたと聞く「アメリカマイマイ」が野生化してジャングルに自然繁殖しているのに目をつけて獲ってきては煮て食べた。ヌルヌル泡立つので気味が悪かったが、賛沢は言っていられない。多い日は叺(カマス)で二つ位担って帰ったこともあるが、間もなく取りつくして繁殖が間に合わずめったに見かけなくなってしまった。或る日、断崖に山羊を見付けて射撃したが逃げられた。住民の飼っていた山羊が逃げて野生化したものと思われた。
 船舶司令部より食糧の保管をわが中隊が委任されて数百俵(臥入り)の白米を、山頂附近のジャングルに分散保管していた。命の綱……しかし命令がないと手が付けられない。ところが、この米を盗む泥棒が或る夜出現したことである。その泥棒はわが陣地北側の百五十メートル位下より断崖絶壁をどうして登ったのか、判官義経も顔負けで夜にまぎれて何俵か持ち去っていた。
 もちろん泥棒は日本兵しかいない島だからどこかの部隊の特攻兵(?) で、銃も持っているからめったに近寄れない。次の日より警戒を厳重にして再び事件は起きなかったものの、友軍といえども人間、生きるためには手段を選ばなくなるものであろう。責任、結末については我等兵卒は知るよしもない。
誰かが甘藷の蔓を持って帰った。僅かな土地を開墾して挿したが、二カ月位で芋がみのり、掘り起こし、そのあとの蔓をまた切って挿せば、それで芋がつく。年中暖かいので簡単に栽培できて食糧を得られた。僅かの土地があれば、どの陣地でも植えていたようだが、飢えを凌ぎ得る程の量には遠かった。
 生えている木の葉や、根や、雑草に至るまで、これは食べられないかと皆で試食したりした。食べた草で死んだという兵隊の話も聞いた。負けると分かっている戦争、逃げ出すことも敵に向かって死ぬこともできぬ孤島で、何時まで生き延び得るのか、迫る飢餓とたたかう私たちの身も心も一日毎に根気を失いつつあった。

 松浦軍曹と米軍捕虜のこと

 沖縄上陸戦の詳細は、父島の私たちにはあまり伝えられなかったが、本土、特に東京を中心とするB29による大空襲の、ラジオによる情報は知ることができた。米軍が上陸しないと予測される父島であるが、それでも忘れずに日曜日以外、大型機(ボーイングB25) の十機、二十機による水平爆撃は定期的に続行されていた。
 サイパン島玉砕以降、島に対する物資の補給は完全に途絶えていたので、如何にして餓死より免れ、生き延びるかに集中されていた。餓死を待つ位なら、ひと思いに弾に当たって死ぬ方がよい。そんなささやきも日常的に交わされるようになっていた。
 中隊で松浦軍曹が発病した。ひどく苦しむ。独立中隊だから軍医はいない。衛生伍長の私と竹中衛生上等兵と伊与田一等兵の三人で中隊の衛生業務はすべて遂行せねばならない。手持ちの薬品で処置したがよくならない。発熱と腹痛で、その苦しさは見るに耐えられぬ位で、本人も「高木伍長、一通りや二通りの苦しさでない。何とか助けてくれ」 と言う。結局、市瀬中隊長と相談して島の南方に設営されている野戦病院に入院させることに決定した。
 陣地から大村港まで下りて、二見湾に沿う道路を廻り、島の南方野戦病院まで十数キロはあった。手押しの担送車のような車で運んだと記憶するが、今考えても明らかに覚えていない。鮮明に記憶しているのは、その道中で他の部隊の兵隊二人が、若い米兵を後手に縄で縛り同じ道を行くのに出会ったことである。
 硫黄島攻略戦の折、朝夕となく連日米軍の艦載機が数百機の編隊で父島を攻撃していた頃、わが対空火器により撃墜された小型機の搭乗兵で、墜落機より脱出降下して捕虜となった一人であると、連行の兵隊より聞かされた。両手は縛られているものの捕虜の米兵は意 味の分からぬ英語で鼻歌を唄っていて明るい顔をしているのにまず驚いた。
 連行の兵の一人は英語が話せるようで、その兵の口より捕虜の話をいろいろ聞いていた。
 まず、日本軍には制空権、制海権も全くなく、対空火器は絶対当たらないと教育を受け、信じていた。(事実、日本軍最高の野戦高射砲は上空八千メートルしか射程距離がなく、一万メートル附近の上空より水平爆撃をする大型磯には二千メートルも届かぬ。高射砲の攻撃など問題でない)
 捕虜は小型機。急降下で攻撃して撃墜されたのであるが、「自分の搭乗機を撃墜した日本軍の名射手にお目にかかりたい」 と言っていた由。捕虜になって怖くないかと問うと、「日本は間もなく必ず負ける。捕虜になるまで戦った。私は名誉ある軍人として本国で迎えられる。カリフォルニアには恋人が待っている。帰れば結婚する予定だ」 そう言って胸のポケットを目で合図し、連行の兵隊がポケットを探ると、若い女の写真が入っていた。
 捕虜になれば、必ず拷問にかけられて、知る限りの情報を吐かされた末、殺される。私たちはそのように教育され、信じて疑わなかったから、米軍の若い捕虜の態度は不可解で、生きて帰れると思っている姿が「知らぬが仏」 で、あわれに思われた。
 お陰で長い道中、退屈しないで野戦病院に松浦軍曹を入院させ帰陣したが、数週間位後病死の通報があり、軍曹は生きて帰陣することはなかった。

 捕虜の処刑

 「捕虜が処刑されている」私たち百八十メートル高地の陣地前を通る兵隊が呟いて通った。本当かなと、好奇心も手伝って野次馬の兵の後に従った。わが陣地より西方四、五百メートル位、道路よりジャングルのなか、下方数十メートル位の位置で、米軍の捕虜と思われる軍服姿の兵一名が、血みどろで倒れて死んでいた。胸には数カ所、銃剣で突きたてたと思われる傷口が大きく空いていた。首には背後より日本刀と思われる切り口でザクリと切られ、胴からは離れていなかった。日本刀の試し切り、そんな感じの状況と察知された。
 衛生兵という立場で、陸軍病院・野戦でさまざまの負傷者、手術等に出合い、鮮血にまみれた兵を見ることは珍しくなかったが、鬼畜である米兵との先入観を以ても、無惨な米兵の姿に思わずたじろいだ。更に身震いを感じたことは、処刑した隊の指揮者か当人か、それに軍医と思われる将校が「肉は矢張り大腿部分がいいだろう」 そんな言葉が聞こえて……。
 メスで切り取って、盆のような器に盛り上げている。見るに耐えられなくなって、私はその場より逃れて陣地に帰った。
 復員後間もなく、新聞紙上で「父島における捕虜惨殺」「人肉を食す」などの罪状により、関係部隊の将兵等は軍法会議の末、死刑の執行が報じられた記事を読んだ。
 父島における米軍の捕虜は一人ではないが、私の出会った捕虜は、カリフォルニアに恋人が待つと語ってくれた十九歳の飛行士であった。が、あの捕虜はどうなったのであろうか。まさか人肉事件の兵であったとは思いたくないが、真実は私にはわからない。
 ただ言えることは、彼の捕虜も日本軍隊により処刑され、生還はできなかったであろうということは確かである。

 硫黄島玉砕(公式発表)彼の戦い

 父島に対する米軍の空海よりの銃砲爆撃、ロケット弾の発射攻撃は、振り返って思うと、二月十九日上陸開始前後十日が最も壮烈であったと思う。硫黄島の上陸が米軍にとっても予想外に苦戦で、特に上陸開始日以降四、五日間は日本守備軍が優勢に進められ、硫黄島攻略戦の米軍が受けた損害のうち半数近い損失をこの数日間に受けたと記録されている。更に米軍側の記述により想像すると、大本営が公式に玉砕と発表した三月十七日以降においても、別項の金井啓氏の記録にもある如く、四十日以上もゲリラ的攻撃が繰り返され、掃蕩戦が続いていたことは意外な事実であった。
 金井啓氏は、度重なる生命の危機を好運にも逃れて生還した体験を述べているが、死を顧みず戦って果てた将兵は、玉砕と発表された後も数千人に及ぶものと想像できる。特に無惨にして痛恨でならないのは、誤った軍隊教育によって米軍の降伏勧告を無視し、助かるべき命を敢えて捨てたり、手当てをすれば生存可能であったと思われる負傷者の大多数は、死に勝る戦傷の苦痛に何時間、否何日も耐えながら、死んで行ったことを思うと、言葉やぺンで表現できない悲しみと、憤りを感ずる。
 「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ、其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」 との軍人勅諭。「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し、一意任務の完遂に邁進すべし。身心の力を尽くし、従客として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」戦陣訓の死生観をひたすら教育され、悠久の大義に生きると信じさせられ悲惨な戦場で命を失った戦友たち、今から考えると、「天皇陛下の命」 を乱用して死地に追いやった国の最高指導者たちに限りない憤りを覚える。

 硫黄島玉砕に対するアメリカの反応と大本営の発表について

 硫黄島作戦は、アメリカ軍の厖大な人的、物的損失により、ラワタ島作戦以上のセンセーションを全米に巻き起こした。豆粒のような孤島を死守し、玉砕した日本軍とその最高指揮官栗林忠道陸軍中将は、アメリカ軍にとって敵将として憎悪されるよりは、むしろ希代の猛将として感嘆され、当時アメリカでは「硫黄島の砂」と題した映画までつくられて、アメリカ国民に忘れ難い深い印象を与えたようである。

 是に対し大本営の発表は次の通り。(昭和二十年三月二十一日十二時)
一、硫黄島の我部隊は敵上陸以来約一カ月に亘り健闘を継続し殊に三月十三日頃以降北部落及東山附近の複廊陣地に拠り凄絶なる奮戦を続行中なりしが、戦局遂に最後の関頭に直面し「十七日夜半を期し最高司令官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行す」との打電あり、爾後通信絶ゆ。
二、敵兵同島上陸以来、三月十六日迄に陸上に於て之に与えたる損害約三万三千名なり。

大本営発表(同年六月二十五日十四時三十分)
一、我航空部隊は引続き好機を捕捉し同島周辺の敵艦隊及び航空基地を攻撃すると共に地上の戦闘に協力しあり。
二、作戦開始以来敵に与えたる損害は地上に於ける人員殺傷約八万、列島線周辺に於ける敵艦船撃沈破約六百隻なり。

 開戦以来、軍艦マーチで始まる大本営発表は心より信頼し、期待し励まされたことである。しかし、その大本営発表は戦況が不利となるに従って、いつの間にか信じ難くなって来た気持ちをどうしても押さえることができなくなって何より悲しいことである。
 記録によると、硫黄島玉砕後、サイパン島あたりよりB29の爆撃機による東京を中心とする本土爆撃が連日のように繰り返されるようになった。米軍の電波妨害かどうか、ラジオ・無電の電波は乱れて聞き取り難いが、情報によると本土を爆撃した飛行機は、伊豆諸島を経て小笠原諸島伝いに硫黄島、サイパンの飛行場へと帰るようで、午前一時前後より明け方にかけ、父島の上空約一万メートルあたりを一列に十機、十五機と通過するのがたびたびで、時には、海上に爆弾を投棄したり、焼夷弾を父島にも投下し、ジャングルが焼けたこともあった。
 兵隊の中には熱心にその数を一機、二機と数えている者がいて「昨夜本土を爆撃したB29は大体百五十機だよ」と話していたが、その日の大本営発表を聞いて驚いたものである。
「大本営発表、昨夜マリアナ方面より関東方面に敵B29爆撃機が約百五十機来襲したが、これに対しわが軍の対空火器及び小型機による必死の抗戦により、敵機に次の如き戦果をあげ撃退した。撃墜二十五機、撃破三十八機以上、之に対しわが軍の損害は軽微なり」
発表によると、来襲機数は大体一致するが、撃墜されたはずの機は殆ど全機無事に父島の上空を帰道しているのをはっきり私たちは目撃しているのである。しかも島の上空引き上げ途中、残っていた爆弾を海中に投下したり、焼夷弾を島の上空より投下する機もあり、高射砲の射程及ばざるをあざ笑うかのように悠々と上空を通過するのである。
 大本営発表の信じ難い戦果は、戦況が漸次不利になるに従い甚だしくなったようで、国民まで欺瞞されていた事は戦後になって明白となったが、空々しい粉飾誇大発表も、広島の原爆投下時に至り、初めて「広島における新型爆弾の損害は相当莫大であった」 と、隠し得ずようやくかなり本音を述べている。

 戦果発表について

 硫黄島攻略戦にともない、父島に初めて数百機による小型艦載機の攻撃を受けた時、凡そ三百機が一列縦隊で島を取り囲み、数千メートル上空より四方八方に分かれ急降下爆撃をして反転を繰り返す。
 五十キロ爆弾三個搭載しているので三回合計九百個の爆弾が投下される計算であるが、四回目よりは機銃による連続掃射のみが繰り返され、約二時間の間、島の上空は機影で暗くなったようにすら感じられた。
 その戦闘中、わが軍は二十五ミリ二連装機関砲と野戦高射砲による応戦のみである。敵機の爆撃、機銃の連続掃射に対し、友軍の機関砲は「パンパン」と二連装一発宛の発射を間歇的に発射するのみであり、高射砲の音響は島をゆるがす程の大音響とともに発射されるが、物量と威力の差は比ぶべくもない。
 数百機の艦載機は、二時間程銃操撃を繰り返すと引き上げてしまうが数時間経過するとまた来襲し、一日二、三回繰り返された。ざっと計算すると約百三十五トンの爆弾と無数の機銃弾が降下したわけだが、地上施設は殆ど岸壁をくり抜いた壕内にあるので、被害は軽微であった。

 神風特別攻撃隊

 神風特別攻撃隊こそは、アメリカ海軍に対する日本軍の最も恐るべき武器として恐れられ「自殺狂の狂熱を有効に利用した」 と記し、「日本人の外には誰もこのような中世紀的な宗教的狂熱と、飛行機のような近代的な機械とを結合出来たものはない」 とも記す。
 沖縄戦に於いても、初期にはかなりの戦果をあげていたようであるが、漸次防御の強化と、攻撃機の質の低下とにより、戦果は減少していったようだ。
 沖縄戦で、四月六日、太平洋戦争を通じて最大の神風特攻データと米軍が伝えている攻撃で、九州各地より発進の約五百機は、第一防御網で三百八十四機が撃墜され、次の戦闘哨戒飛行隊により五十五機が撃墜され、残る六十一機が米軍の水陸両用部隊の艦船を攻撃に成功したものの、各艦艇の対戦砲火で三十九機は撃墜され、残る二十二機が艦船に自爆したと記録されている。
 特攻戦果、実に四・四パーセント、百機に四・四機がなんとか敵艦隊に損害を与えたに過ぎない。

 父島に不時着した特攻機

 父島の湾内、二見湾の南部に扇浦があり、振分山の東側、扇浦にかけて狭いながらも飛行場があるが、私たちが上陸した昭和十九年八月頃には、米軍の爆撃で使用不能となっていた。
 二十年三月、硫黄島は米軍に占領され、本土(沖縄)攻撃の足掛かりとなって軍事力が強化されつつあり、それを粉砕する目的で、本土より特別攻撃機が出撃していたのであろう。その特攻機が或る日、米軍の爆撃により使用不能となっている扇浦の飛行場へ不時着を敢行するのが、わが陣地より確認された。特攻機は着陸態勢をとるが、着陸することができなくて反対側の海上すれすれに通過する機……。着陸はしたものの、爆撃でできた穴に嵌って炎上する幾、反転して動かぬ機も何機かあったようだった。
 このような状況を何回か目撃し、神風特攻機の実態を知ったのである。日本はもう駄目だと改めて感じ、奈落の底に突き落される想いであった。
 何カ月か経た或る日、大村港附近で十五、六歳位の若い少年に出会った。頬を赤くした数人の若者であった。話しかけると素直に応答してくれた。
 もしや? と予想した通り、先に見掛けた不時着機の特攻機の兵達であった。話を要約すると、本土より出撃した特攻兵達で、特攻機は自爆用の爆弾を搭載するのみで、攻撃、防御等の兵器は一切なく、技術も習得していない。もちろん空中戦どころか飛ぶこと、急降下突入すること以外は何も訓練を受ける間もなく出陣させられたというのである。
一人前の飛行士になる期間も許されず、飛行機の生産も間に合わず、戦果の有無すら考えるに至らず、我武者羅の出撃を強要敢行していたことを物語っていた。
硫黄島の周囲数十キロ半径上空にはレーダー網、対空火器、上空には戦闘機群で取り囲み、無防備、丸腰のうえ、急降下操縦しか習わぬ少年兵達が敵の防空圏を突破するどころか、近付くことすら容易ではなく、撃墜されるか海上に自爆するしかない。引き返そうにも燃料は片道しか積んでいない。戦果どころか、米空軍の硫黄島上空防御圏外にて大方は撃墜されたらしく、やむなく引き返し得た一部の兵達も先に述べた如く、父島に不時着で失敗し、運良く助かった特攻兵も極くまれで、その者達の語ってくれた実状が以上のような事柄である。
 現在でいえば高校の一、二年生位の少年兵で、たとえ内地に帰れたとしても、再び強制的に出撃を命令されるということであった。思えば君達は運が強かったと慰めたが、父島の守備軍に属して壕掘り作業に従事しながら語ってくれた。

 原爆投下

 昭和二十年八月七日であった。山頂の陣地より大村まで下り、焼跡附近で久々に交代でドラム缶に湯を沸かし入浴するために出掛けた。焼跡の一角に告知板があり、大勢集まっていたので覗いてみると、大本営の発表として張り紙がしてあった。何時もの大本営発表かと軽く考えて覗いて読むと……。

一、昨八月六日、広島市は敵B29少数機の攻撃を受け、相当の被害を生じた。

二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。

とあり、大本営は初めて「相当の被害」と原爆の大被害を認め、原爆と表現せず、「新型爆弾」  と発表し、この期に至って尚、国民に真実を覆い通さんとするように思われた。
 続いて九日には長崎の原爆投下が発表され、日本はもう駄目だと誰もがささやいた。日本全国原爆投下で、一億総爆死、国も妻子も自滅しかない。島で餓死を待つより、一瞬の死の方が、苦しまなくてよいかも知れない。そう言って皆涙ぐんだ。

  『終戦の大詔』玉音放送を聞く

 昭和二十年八月十四日、わが市瀬中隊長より全員集合の命令があり、「明日正午ラジオで天皇陛下の放送がある。全員集合して拝聴するように」 との伝達である。玉音放送なぞ初めてのことであり、異常な緊張感が深まった。
 去る六日、九日の広島、長崎の新型爆弾は、原子爆弾というもので、一発の爆弾で数十万人が爆死し、原爆の落ちた土地は五十年間、草も木も生えないなど囁かれていた。大本営の発表は「新型爆弾」と表現しているが、日本国の不利をこの期に至っても覆い隠そうとする大本営の発表は信用していないというより腹立たしい。
 「相当の被害」 の実態は原子爆弾であることを、兵隊達は暗黙のうちに見抜いていたようだったが、真実の威力や被害状況はもちろん想像の及ばぬものであった。明らかに考えられることは、いよいよ敗戦だ。降伏だという予測である。
「日本が負けたら、俺は自決する」
指揮官、将校の口よりそんな言葉をかねてからよく聞かされていた。私たち兵隊は不安を抱えて十五日の正午を待つしかなかった。
いよいよ、十五日の正午が迫った。私たち船舶工兵独立中隊、市瀬隊は、父島の北方、二見湾の北岸大村の北背に三日月山(二百二十七メートル) があり、数百メートル東端百八十メートル位の高地のジャングル地帯の稜線附近を占める陣地に隊員一同集合して無線ラジオを取り囲み、正午の玉音放送を固唾を呑んで待っていた。
 正午の時報、続いて君が代の奏楽、詔書の朗読が始まった。初めて聞く天皇陛下の玉音との説明があり、耳をそばだてて聞いていた。電波の乱れか何かしれないが、声がとぎれたり乱れたり、雑音に遮られたりして聞き取り難く、放送の意味を汲み取るのに懸命であった。
「朕深く世界の大勢と……時局を収拾せんと欲し……朕は帝国……米英支蘇四国に対し……受諾……せしめたり……世界の大勢吾に利あらず……敵は新に残虐なる爆弾を使用……」
 放送は続いたが、粛然としている時、突然「バンザイ」 と叫んだ兵隊がいた。つづいてまた一声。
「戦争は終わった」「降伏だ」「助かった」次第に騒然となってさまざまのささやきが聞こえる。
「戦争に負けた」 そんな声は聞こえなかった。勝てるなど思っている兵隊は、ずっと以前からいなかったからで、何時負けるのか、何時戦争が終わるのか、誰もが心の奥深くではそれをひそかに願っていたにちがいない。
「これで命が助かった。日本に帰れるかも知れない。妻子にもあえる」
私は玉音放送で、日本国が無条件降伏で敗れたことより「死なずに済む」 という安堵感で、全身の力が抜けてゆくように思われた。

ポツダム宣言の受諾「終戦の大詔」 (玉音放送)

  昭和二十年八月十五日
十二時 時報
君が代奏楽 詔書の御朗読
朕深ク世界ノ大勢卜帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民二告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ(中略)
然ルニ交戦己ニ四歳ヲ関シ朕ガ陸海将兵ノ勇戦朕ガ百僚有司ノ励精朕ガ一億衆庶ノ奉公各ニ最善ヲ尽スルニ拘ラス戦局必ズシモ好転セス世界ノ大勢亦我二利アラズ加之敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用(中略) 尚交戦ノ継続セムカ終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス述テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ (中略)
皇宗ノ神霊ニ謝セルヤ是レ朕ガ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ癒セシムルニ至レル所以ナリ(中略)
朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ忍ビ難キヲ忍ビ以テ幕世ノ為ニ大平ヲ開カント欲ス (以下略)

裕 仁⑳
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
以下各大臣 十六名

  武装解除

 終戦間もなく、二見湾内に米海軍の艦船が数隻入港し、武装解除の命令が伝えられた。
私たちの兵器といえば明治三十八年に制定された、俗にいう三八式歩兵銃。菊の紋章が付いているので、「かしこくも天皇陛下より支給されている兵器」なるが故に、命より大切にと教育されてきた。
 兵員の輸送中、敵の潜水艦などに攻撃されて海中に放り出された兵隊が、天皇陛下より預かった御紋章付の歩兵銃を、海中に投げ捨てれば身軽になれて浮かばれる。助かるかもしれないのに銃を文字通り命より大切にして手に持ったまま沈んで死んでゆく。そんな実例を隣り陣地の海軍兵が話していた。
 その歩兵銃と帯剣を抱えて、一緒に戦車のキャタピラをめがけて飛び込み死ぬはずであった戦車地雷・弾丸とそれだけ。将校さんはピストルや家伝来という日本刀などである。二見湾の焼跡広場に山と積まれた。どこか海の底に沈めてしまう由、帝国大日本軍隊の末路である。
武装解除が終わったら、米海軍もようやく安心したらしく、山頂の陣地より湾内の艦を見下ろすと何やら音楽が聞こえ、甲板にスクリーンのようなものが見えて、人影のようなものが映っている。艦の甲板上で映画を上映しているようだ。戦争で勝った者、負けた者の明暗で、夜陰に響いてくる音楽や、甘い女性の声だけを、数百メートル離れた山頂より見下ろして聞くまいとしながら目にしている。
米軍としては、勝つと決まった戦争はゲームのようなものであったことと思われるが、戦争中、休日は空襲も休みであったことなどを思い合わせ、恐ろしいと思われた日本軍隊も丸腰になったのだから、安心して湾内の艦上で楽しんでいるのである。

 敗戦以後の生活

 戦争中、ラジオに日本人の声で「無駄な戦争は一日も早く止めて降伏しなさい。米軍は捕虜を殺すことはありません。日本の妻子の元へ無事に返します」 そんな意味の放送がたびたびあった。その度に「敵の謀略だ。信じてはならぬ。捕虜になれば必ず殺される」 と教育され信じていた。
 この度の終戦も何か信じ難い気持ちがどこかまだくすぶっているようでもあったが、十五日以来、空襲がパタリと止んだことを考えるとようやく戦争が終わったという実感が湧いてきた。
 「偉い人は戦争犯罪で軍事裁判にかけられる」 「兵隊は皆米軍の捕虜となり、米本国に拉致され、強制労働させられる」「日本に帰るとしても日本に船はない」「たとえ帰れても何年先やら」
そんな噂が誰が言うともなく伝わってくる。日本軍は敗れたので、中国や南方の島々等に生き残っている将兵は幾十万人、否百万単位で存在すると思われるが、どうして日本に運ぶのか、また何年間で終わるのか……。そんなことを語る話を聞いていると、また新しい不安がわき、心を占める。
 津山出身の見習士官(名前失念) が、「アメリカに負けたのだから英語が話せぬと損をする。英語を覚えろ」と言って英語の講義が始まった。岸壁に向かって穴を掘る作業も不要となり、時間を持て余すので講義を聞いたりして時間をつぶした。夜は洞穴に寝なくともよくなったのでジャングルの下の椰子の葉で囲った家に住むことになった。
 中隊に中島上等兵という兵隊がいた。召集までは地方巡業の芝居一座の座長をやっていたという。
 戦争終結後は、元来海上輸送を任とする私たちの中隊では格別の仕事はない。特に夜になると皆退屈してしまう。いつとなく、中島上等兵の芝居物語が面白いと言って、夜、洞窟の中で語るのを、毎夜兵隊達は聞くようになった。私も退屈凌ぎに中島上等兵の洞窟に出掛けて聞くことにした。
 中島上等兵の物語は時代物、現代物、何でもやる。その演題(頭のなかで覚えている演題) は約二百位、暗記しているという。毎夜一話宛話したとしても半年以上は続け得るという。しかも物語というのが、講談調で語りつつ、出演者それぞれの役者となり、台詞を一人で述べる。薄暗い灯火の下で皆横になって聞いているのであるが、女性の台詞を言う時は女性の声で……、老人の台詞は、老人の声に変わり……、娘、やくざ、侍他それぞれの役になりきった声と間合いの妙、三人いれば三様の声、五人いれば五人の、それぞれに似合う声と台詞にナレーションが加味されて進行するので、眼前にあたかも芝居が展開されているような錯覚すら覚える。全く一人芝居の名演技に感心する。実際に数十日毎夜続いたが、同じ演題を繰り返したこともなく、物語に登場する人々の名前も全部覚えていて物語る記憶力と名演技には全く感心、驚異的であった。
 終戦後、いつ帰還できるという予測もなく、他の部隊でも皆退屈しているので、各隊毎に演芸会を開く計画が、隣接部隊指揮者同士間で話がまとまった。わが中隊も出演することで準備が進められた。
 民謡、舞踊、流行歌など、それぞれ素人自慢の演技が当日披露され、何千人の兵たちが見物を許された。
戦後流行し、現在でも唄われている「ソーラン節」 は、この演芸会で唄われて、リズムがよいので皆覚えて唄ったものである。わが部隊では、先に述べた中島上等兵の名演技こそ、当日の圧巻で、五十余年経た現在でも忘れられない。
 演技は、靖国神社を参拝するお婆さんで、どこでどうして作ったか、婆さんの鬘を被り、杖をつき、ヨタヨタと歩む演技の絶妙さ。
へ上野駅から九段まで……
 別人の唄う歌に合わせて舞台上の中島は、本物のお婆さんかと見まちがうほどで、思わず観衆はその演技力にひき込まれ、涙ぐみ、むせぶ声すら聞こえて来る名演技。たとえば、梅沢富美男の舞台を連想する。今、中島上等兵はどこで何をしているだろうか?。

 食糧自給

 食糧不足は解消したわけではないが、無期限に戦うという時と比べ、いつか本土に帰れるという目安と安心感、それに本土よりの食糧補給も可能となるであろうとの予測もある。
 しかし、自給に努めよとの命令で、前記した如く甘藷の蔓を挿せば数十日で藷ができ、掘ったあとの蔓を挿せば、また次の藷がつくので可能の限り蔓を挿した。海岸で魚をとりに出たりしたが、海中に爆弾の投下があった頃には、その爆波で魚が浮くのでよく食べたものであるが、今は自分で獲らなければ食べられない。或る日、海岸に下りて岩場を巡っている時、蛸が岩の上に寝そべって(?) いるのを見つけてとらえたことがある。話では、よくあることで、さほど珍しいことでないと聞かされた。
 冬の一、二月でも夜間毛布一枚では少し寒いと思える位の気温で、茄子、トウガラシ等は越年して実がつくが、冬に実ったトウガラシは辛くない。極力自給に努めたが、量からいえば気安めにすぎなかったものの、気分的には明るかった。
戦争の終わったことが、鶯にも理解されたのであろう。身近に姿を見せて鳴くようになって、早く日本に帰りたいと、皆が毎日北方の海を眺めて暮らす日々であった。