未来に残したいアナログの記録はありませんか?こちら(タイムトンネルADC)へどうぞ。
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第10章 第11章
第九章 硫黄島の地獄

 硫黄島地獄の攻防戦

 五十数年経過した今、父島の一洞窟に配置されて眼前に米軍の猛爆撃と、時折の艦砲射撃のなかに置かれ、敵が上陸して洞窟の眼前まで攻撃してきた時、或いはそれ以前に必ず死以外はないという立場に明け暮らしたことを思い起こしている。そしてその頃、連日にわたる米軍の攻撃は、硫黄島を攻略するための、付近の島々に対する牽制攻撃であったことは結果的にいえることで、当時の一兵士の私たちは知るはずもない。記録も殆どなく、半世紀以上経た当時の記憶を正確に記すことはできないが、『決定版昭和史』(毎日新聞社) の記述によると、父島で毎日定期的な大型襲撃機数十機による水平爆撃で終わっていたものが、急に数百機の小型艦載機による銃爆撃の連続攻撃、艦砲射撃等の攻撃を開始したのは、昭和二十年二月十九日、米軍の硫黄島上陸開始の一週間位前と考える。
 私たちが父島で受けた海空からの攻撃は、硫黄島の日本軍が受けた攻撃に比べれば、数十分の一にも及ばぬもので、更に最も決定的な海兵隊による地上作戦の悲惨なる戦闘には、私たちは幸運にも遭遇することはなかった。
 しかし、それはあくまで結果であって、当時の私たちは、玉砕した硫黄島の兵達と同じ立場にあり、 同じ心で砲火の下に対峙し、必死、玉砕を覚悟していたことは間違いない。
 予想された敵の上陸が、硫黄島になされ、続いて日本軍部の予測通り父島、伊豆諸島を攻略して日本本土決戦を米軍が実行していたならば、父島も玉砕の運命が待っていたものと思われるが、米軍は蛙飛び作戦で沖縄に向かった。
 当時、上陸こそ行われなかったが、父島は母島とともに硫黄島と最短距離にあり、特にわが独立船中隊は、父島到着以来、洞窟陣地構築と、硫黄島向け軍需物資の海上輸送を、上陸作戦間際まで行っていたことも含め、最も硫黄島作戦に深く関わり、影響も深刻であったと思われる。
 幸い上陸しなかった父島にいて現在生き残っている私が、私と同様の立場で、ひたすら尽忠報国、敗戦を意識しながら、一死を以て日本を、家族たちの安全を、たとえ一日でも永らえるために、命令を守り、戦果を確認されることもなく、硫黄島の砂を握りしめて戦死した将兵達の鎮魂のために、戦後の昭和史、米軍記者による硫黄島攻略戦記等を参考に硫黄島玉砕の概要を記してみたい。

 硫黄島上陸開始当時の戦況

 硫黄島は東京より約千二百五十キロ、小笠原父島より西南方に約百キロ余、サイパン島と東京のおおよそ中間位の位置にある。東西約八キロ、南北四キロ位の孤島で、地熱が高く、随所に硫黄ガスの臭気を漂わせている島で、水に乏しく天水を利用せねば飲料水にも事欠くことは、父島同様であるが、日米共に戦略的には非常に重要な島である。
 具体的には、米軍が本土爆撃する場合、サイパン島を基地として空襲するとしても、中間の位置となるわけで、米軍の立場からいえば、本土空襲実現には絶対必要な島である。
 戦後の米国側の記録によれば、本土を空襲したB29が硫黄島に不時着して墜落を免かれた数は約二千機、搭乗士の数にして約二万六千人と記されている。仮りに硫黄島に不時着できなかったとすれば、右の不時着機と搭乗機は全部失う結果になったかもしれないのである。
 米軍としては、如何なる犠牲を払っても、占領せねばならないと考えるのは当然であり、予想をはるか越える兵員と物資と日時を費やして攻撃したことが結果的に理解される。
 昭和十九年八月頃、わが船舶独立中隊は、父島に勢揃いしたのであるが、当時より定期的に大型機による空襲は日曜日以外、連日来襲したが、十二月中旬頃より、中型小型機による空襲、ロケット砲による攻撃、艦船による砲撃が加わった。米軍の記録によると、硫黄島上陸作戦七十四日前より連続の猛爆撃を開始、日本軍の難攻不落と自慢する地下防御陣地の壊滅作戦を展開したとあり、現実の戦況と大方一致する。
 硫黄島は、南の先端部に摺鉢を伏せた形をした、摺鉢山という標高百七十メートル位の火山に続く砂丘地帯(元山第一飛行場) が島の約三分の一を占め、以北三分の一はところどころに百メートル前後の高地を含む丘陵地があり、多くの地中陣地、洞窟トーチカ等の捲蔽陣地で占められ、以北は砂糖黍畑と潅木で占められていた。
 米軍は、日本の万歳突撃、必死の特攻作戦など、理屈では解せない頑強さに脅威以上の精神的威圧を感じながら、人命の尊重を最優先にして作戦を進めている。上陸予定日数十日前より作戦開始。砲爆撃を周辺の父島、母島を含めて行っている。上陸に際しての事前攻撃に、艦砲射撃航空機による低空爆撃機銃掃射、ロケット弾発射、沖合駆逐艦等による砲撃、空中で炸裂する榴霰弾等々の猛攻撃は、合計七千五百トンを投入したと報じている。
 「この猛攻撃あとの陣地には、一兵たりとも生存なし得ることはあり得ない。これまで他の如何なる同様の上陸作戦より最も戦慄的な攻撃であった」とも記されている。
 硫黄島攻撃に対し、わが軍の具体的な実践記録は、戦闘に参加した殆どの将兵が戦死しているので、詳細な事実を知ることはできないが、極めて少ない生存者(元海軍上等兵曹長金井啓氏) の記録によると、前記上陸戦に応戦態勢に入った守備隊にとって、弾薬は高角砲一門につき一日三発であったが、それすら航空隊の弾薬庫が、敵弾の直撃を受け、命ともたのむ砲弾を一挙に爆発させられ、二日間にわたり自爆が続いたと語られている。
 島の最高指揮官栗林忠道中将は、防備作戦に当たって、マキン、タワラ、サイパン、グアム、テニアンなど連続玉砕の戦歴を検討分析し、バソザイ攻撃を改め、父島同様に地下坑道を縦横に構築して持久出血戦法に改める作戦大綱を決定した。島の兵力二万三千余名は坑道掘鑿に専念した。即ち元山を中核として二十八キロに及ぶ坑道で摺鉢山と元山とを連結する計画をした。しかしながら、七十パーセント位完成した時点で上陸の日を迎え、結局この区間の坑道は未完成に終わったとある。
 坑道構築作業は、物資不足と有害な一酸化炭素と硫黄を含んだものすごい熱気のため、十分間交代で掘らねばならぬほどで、その間死ぬほど若しかった由。熱気ばかりでなく、鼻をつく硫黄臭を防ぐために、全員が防毒マスクを装着して続けなければならなかったが、私たちを苦しめたのは熱気ばかりではなく、一日半リットルの水しか配給されず、西海岸にただ一つの湧水井戸が頼りであったが、それすら海水まじりの硫黄くさい水であった。それ以外には、ときたま通り過ぎるスコールを溜めて飲むしかなかったと記されている。
 二月十一日、紀元節はささやかな祝日に終わり、翌々十三日に数百隻からなる敵の大機動部隊が硫黄島を指向して北上中との無電が入り、同十六日午前六時頃突如、耳をつんざく轟音が私たちを包んだ。同時刻、硫黄島でも父島の数十倍の上陸作戦が島の西海岸に展開されたのである。激しい潮流と、島の海岸に向けられたトーチカの頑強なる応戦で、一度は上陸を諦めたようであったが、迂回して南
海岸を襲ってきた。このあたりは、身を守る一本の草木もない砂浜であるため、上陸軍は殆ど全滅したようであった。
 この日の夕刻、司令部は父島を経由して大本営へ 「敵撃退」 の無電を打ってきた。しかし、間断なく降りそそぐ砲弾によって壕はつぶされ、主砲陣地はうち砕かれて、莫大な被害を受けた。味方陣地へ叩き込まれた鉄量は想像を絶するほど膨大なものであったと思われる。(米軍発表では日本軍の攻撃した鉄量の数百倍の鉄量で返礼したと記述されている)
 わが軍の開戦第一日の兵器は、二十センチ砲(臼砲) 二十門、ロケット砲七十門、迫撃砲百六十門、対空火器三百余、小口径火器およそ二万、戦車二十柄、火焔放射器少数で、海軍の対空高角砲はすべて水平砲台(水際方向に) として活用するよう布設されていたとある。
 わが父島に対する米軍機の攻撃は、小型機数百機による銃爆撃が、午前と午後の二回繰り返され、前述の如き至近距離から、砲弾による攻撃が繰り返されていたが、硫黄島上陸開始の情報を承知した前夜に至り、夜間の空襲が急激に激しくなってきた。
 同じ夜、硫黄島では、私たちが受けている米軍の攻撃より数十倍、否数百倍の夜間攻撃を受けていたのである。
 米軍の従軍記録によると、二月十九日午前八時を期して上陸前の準備攻撃を行っている。サイパン島より飛来した大型機の爆撃。沖合の艦船よりの砲撃、特に駆逐艦より発射する榴散弾は、空中で炸裂し、全島灼熱の鉄片の雨を降らせ、「この攻撃の下で誰一人生き残ることはできない」 と断言するほど、凄惨な猛攻撃であったと記されていて、一夜の準備攻撃で合計七千五百トンの砲弾を投入したとあるから、想像の及ぶところでない。
 上陸前夜のこの猛攻撃は、後記金井海軍上等兵曹の手記によると、上陸前日の十八日に至り、摺鉢山の要塞砲は、米軍が上陸を開始して、海辺に橋頭堡を設定する前後に集中して攻撃を開始する計画であったのに、海岸線地点に接近した米艦隊を見たこの陣地の兵達が、我慢できなくて命令を待たず一斉砲撃を行った。そのために、わが主砲陣地は敵に知られて数百倍の銃砲火の返礼を受けて沈黙させられたのであるが、そのものすごさば島毎吹き飛ばされ砕けて沈没するかと思われるほどであったとあるが、同時刻に猛攻を受けた 父島よりは、何十倍の激しさであったことと想像する。
 硫黄島と父島と、ところを変えて敵の猛攻撃に耐えた当時の戦況は、五十数年経過した現在でも、昨日の出来事のように鮮明に思い出されて消えることはない。
 硫黄島守備の兵力約二万三千人に対し、米軍は七万五千人。艦船八百隻と記録され、上陸第一日に投入された兵力は、日没までに約四万人、島の南岸一里にわたり四地区に一斉上陸を開始した米軍は、如何なる損害も辞さぬとばかり、無限の物資と装備、兵力を以て攻撃を敢行してきた。上陸第一日の人的、物的損害は米軍の方が日本軍よりはるかに莫大であったと米軍の戦記には記録されている。

 硫黄島上陸戦開始

 二月十九日、上陸第一日の夜、日本軍の夜襲を最も警戒する米軍は、夜になると沖の軍艦群より星弾(照明弾)を島の上空に発射し、全島を終夜連続白夜の如く煌々と照らして夜襲困難ならしめている。米軍は過ぐるテニアン島、その他の上陸戦で、日本軍の常識を逸した自殺的夜襲により、莫大なる損傷を受けたことに対応する作戦をとったと思われる。
二月二十日、日本軍の攻撃は、摺鉢山山腹にまだ残っている迫撃砲機関銃を以て抵抗し、また元山地区の断崖にある高地の中腹陣地より、洞窟に埋設したコンクリート造りの砲坐より、野砲による水平攻撃、迫撃砲、機関銃その他で、洞窟の中より必死の反撃を繰り返した。
 これら、硫黄島の洞窟内に設定した陣地は、連日の度重なる空襲、艦砲射撃、ロケット弾等、あらゆる近代装備による長期的な連続攻撃に対しても、完全に破壊することができなかった。結局、直撃弾、火焔放射器等による地上からの直接攻撃を行わなければ、すべて沈黙させることはできなかった。日米戦争中、すべての攻略戦の中で最も米軍が損害を受け、最も悲惨な、地獄の戦いであったと認めている。日本軍のアッツ島玉砕に始まり、マキン、タラワ、クエジェリン、ルオット、サイパン、テニアン、グアムの各島の玉砕戦を教訓に、横穴トーチカ、岩壁、断崖の洞窟陣地等の防御作戦を栗林司令官は採用して実戦に備えて戦法を転換した成果であったと思う。
 硫黄島上陸は二月十九日で、第二、第三、第四日位までが、大戦中でもこの類まれなる組織的な現世地獄の大激戦であったと思われるが、父島では敵上陸は今日か明日かと岸壁の洞窟に、戦車地雷や、手榴弾を抱えながら、これを使用する時が死ぬ時だと、繰り返し考えていたが、そんな冷静な刻はいつまでも長くは続かなかった。朝となく夜となく、サイパン島より発進するであろう大型機の爆撃、艦上よりの艦載機の銃爆撃、海上よりの砲撃が繰り返し続き、その都度島は地震の如く轟きゆれる。
 突然、大型機による爆弾が間近く爆発したりすると、首をすくめて鎮まるを待った。まだ生きている。ふと眼前を見ると、ひと抱えに余る位の松の木が根こそぎ爆撃で飛び上がり、私たちの銃眼の前にどっかりと道を塞ぐように立ちはだかっているのには驚いた。
 当時私たちの受けていた攻撃は、上陸戦の前に対峙している硫黄島の将兵に比べると、比較にならない攻撃であったと、結果的には思われた。

 上陸四日頃の戦況

 二月十九日、米軍の上陸開始初期に於いては、守備のわが軍が絶対優勢で戦っていた。
敵は千鳥飛行場(元山飛行場附近) を占領するため、戦車数百輛を先頭に、空、海よりの援護射撃に守られながら攻撃を繰り返した。
断崖中腹の洞窟陣地は、地の理を占めて頑強に米軍を悩ませ続けた。上陸四日目の二十二日、父島
 司令部の無電の傍受によれば「我々はいまだかつて経験しなかった強敵と戦っている。毎日一ヤード進むにも血の前進で、死傷者は極めて多く、一哩が千哩より長く思われる。一刻も早く医療品を送れ。
 一刻も早く救援たのむ」との意味の無電を、サイパン島やグアム島に向け、平文で打ち続けていたことでも、米軍の苦戦状況が推察できる。しかしながら、米軍は「永久に抵抗は続かない」との方針を崩さず、無尽の物量と圧倒的な兵力による反復攻撃は勢いを増すばかりで、これに反して守備軍は、援護も兵員の交代もなく、兵器、弾薬は底をつき、攻防ところを変えるところとなり、次第に上陸軍に占領されてゆく。
 二月二十三日に至り、中央地区の主要陣地帯と摺鉢山の最も重要な拠点陣地は、山容も一変する程の陸海空よりの猛攻撃で抵抗力を失ってしまった。
 同陣地は、少なくとも一カ月以上は応戦でき得ると、守備軍は自負していた陣地であった。構築された攻撃目標は、すべて海岸線に向けられていた。それは米軍を悩ます最強の陣地と信じていたが、背面に対しては防備力に欠け、背後よりの奇襲攻撃を受けるに至り、遂に陥落してしまったようである。
 父島に米軍の艦砲射撃や、艦載機による空襲が最も集中したのは、一週間位の間であったと思う。
 その後は、大型機二、三十機による高空よりの水平爆撃が午前と午後一回程度定期的に来襲し、時折り双胴の中型機が、連続機銃掃射をしながら、爆弾を投下して過ぎる位となっていたが、硫黄島では、摺鉢山と元山飛行場を失い、以後制空制海権はもとより、地上権すら失いつつあった。島の北部洞窟陣地を頼みとする洞窟持久戦に移って組織的戦闘は漸次少なくなったようで、当時はもちろん詳細な戦況を知るすべはない。米軍の記録によって推察するのみである。
 硫黄島の南端に標高百七十メートル位の摺鉢山があり、北に向かって東西に広がる全島の約三分の一は平坦で元山第一飛行場があり、次の三分の一は平時砂糖黍畑や潅木地帯であって、第二飛行場があり、多くの地下や台地に捲蔽陣地、洞窟陣地が構築されていたのは、栗林司令官の指令によるもので、父島の私たちの陣地もこれにならった。残る北方の三分の一は不毛の荒地で、ところどころに百メートル余の高地があり、至るところに洞窟陣地が構築されていて、自在の角度より接近する米軍の攻撃に備えたが、入口はコンクリートで固め、洞窟は内部で他の多くのトーチカ陣地の入口と連結しているので、一カ所の兵が全滅しても、再び他の兵が洞窟内を経てその陣地より攻撃できる。
 危険な時は、洞窟を通って他の陣地に一時的に避難することもできる反面、米軍に背後より攻撃を受けることにもなる。米軍としても簡単に進撃することができなかった。米軍にとっては、頑強な洞窟陣地に、死をおそれぬ日本兵。空爆にも艦砲射撃にも効果の薄いモグラ戦術に対し、想像を絶する物量攻撃で石橋を叩くようにジワジワ進撃するしかなかった。
 守備軍の武器・弾薬・食糧の補給は皆無で、特に飲料水の欠乏に苦しんだ。一方、米軍は難攻不落の洞窟陣地に対し、数と物量、優れた兵器をたのみ、執拗に攻撃を強化してきた。各洞窟陣地に対しては、かなり接近して、機関銃隊が物量を惜しまず弾丸を撃ち込み、続いて火焔放射隊が洞窟の陣地入口に向けてしらみ潰しに焼き払う戦術で攻撃してきた。
 洞窟陣地の正面入口より奥まで、火焔放射器で数回にわたり放射して、たちまち内部の日本兵多数をジリジリと油で揚げたように焼き殺して進んだ。少数の日本軍の戦車の大半は地中に深く埋め、装甲トーチカの役目を果たしていたが、度重なる海空よりの砲爆撃に使用不能となり、使用可能の極く少数の戦車は、バズーカ砲(対戦車用のロケット砲)数十発を発射して撃破したと、米軍記者の記録がある。

 硫黄島攻略機に従軍した米軍記者の記録により

「三月一日になっても、米軍はまだ島の半程度しか攻め取ったにすぎない」
「硫黄島の完全占領が公表された二日前(三月十五日) になっても、第五海兵師団は三百二十七名の死傷者を出している」
「米軍の手中に帰したと声明したあとより十日間でも五百名以上の死傷者を出した」
「島の北部の (荒地) における掃蕩戦で、二百名の中で僅か五、六名しか生き残らぬ中隊がいくつもあった。また、一名も生き残らぬ小隊や、ほんのひとかたまりの人員しか生き残らぬ大隊が幾つもあった」
「北部の荒地に上陸、掃蕩戦を行った第五海兵師団所属の第二十六海兵連隊の第二大隊は将校四十名中三十七名、下士官兵九百十七名は九百十一名戦死傷している。(将校戦死傷者の負傷者再度負傷した者あり)」
「三六二高地の頂上攻撃一日だけで百五十二名の人員を喪失した」
「硫黄島攻略戦に参加した第二十六海兵連隊の第二大隊は、他のいかなる大隊よりも甚大な死傷者を出しているが、最も損失の軽かった歩兵大隊でも五十四パーセントの死傷者を出している」
「上陸開始日 (二月十九日)島の西側部を突破進撃した時、最も激しい人員損失を受けた第二十八海兵連隊のB中隊は、八回も中隊長が代り、同中隊の第二小隊長は十一回も代わっている」
「硫黄島で戦った米軍は約六万名といわれるが、死傷者は二万二千九百六名、その内、戦死五千五百六十三名、負傷一万七千三百四十三名。」
「日本軍の戦死傷者は、殆ど死者で、二万二千八百十七名。(当時、生存者(捕虜)百八十三名)艦砲、航空攻撃、野砲攻撃の圧倒的優勢な攻略戦に対し、日本軍最高司令官栗林忠道陸軍中将の巧妙な地中洞窟防御陣地と、玉砕するまで頑強に闘い抜いた指揮下の将兵の勇敢とによって差し引かれ、太平洋戦争中に他のいかなる戦場でも見られない攻防戦であった」
「日本軍はまるで火星人のように、この世の人間と思われないような闘いぶりにおそれおののいた」

 海軍上等兵曹金井啓手記より

 二月十九日午前八時頃、敵が島の南岸に上陸した。四日間にわたる徹底的な砲爆撃によりわが第一線の抵抗陣地を壊滅させた敵は、戦艦を三、巡洋艦九、駆逐艦三十、空母四十五、舟艇百三十隻。午前十一時頃戦車二百輛と、海兵隊と黒人兵からなる主力は千鳥部落を目指し、一部は地熱ケ原に向かい激戦を展開、四日間にわたり、地獄をこの世に移したような光景。彼我共被害莫大、二十三日には摺鉢山友軍全滅。千鳥飛行場、元山第二飛行場占領さるる。
三月八日
 約千名の海軍航空隊将兵、特攻作戦で夜襲厚地大佐以下敵幕舎に突っ込んだが、敵戦車隊と兵に包囲され全滅。
 内地向け、武器・弾薬の補給打電に対し、僅かな雷管と竹槍が届いただけであった。守備軍の中にも小銃の射ち方も知らぬ応召兵も随分居た。
三月十三日
 司令官は北方百~二百メートル移動、天然壕に入ったが、敵戦車に襲われた。
三月十七日
 栗林中将最後の決意、大本営に打電。
 「戦局ついに最後の関頭に直面せり。十七日夜半を期し小官ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮絶なる総攻撃を敢行す。
 敵来攻以来、想像にあまる物量的優勢をもって空海陸よりする敵の攻撃に対し、よく健闘をつづけたるは、小隊のいささか自ら悦びとするところにして、部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり。然れども、執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで幣れ、ために御期待に反し、この要地を敵手にゆだねるのやむなきに至れるは、誠に恐懼(ク)に耐えず、幾重にもお詫び申しあぐ。特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安らからざるを思い、たとい魂塊となるも誓って皇軍の捲土重来の魁(サキガケ)たらんことを期す。いまや弾丸尽き水涸れ、戦い残れる者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩のかたじけなさを思い、粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。ここにとこしえにお別れ申しあぐ」
 軍旗は既に十三日奉焼。残存兵千余名。その夜は彼等ともに手榴弾を投げ合う白兵戦。敵は無数の手榴弾を壕の中へ投げ込み、壕の入口にラセン状の鉄条網を仕掛け、壕のとじ込め、戦車・火焔放射隊による火焔放射攻撃を繰り返す。夜が明けると、僅か生き残った壕内の兵に猛烈な銃撃が繰り返される。(米軍記録では、壕入口毎に四万発以上の機銃弾を発射とある)
 地上は全部米軍、壕に閉じ込められたわれらは、息のつまるような硫黄の臭気の中で飢えと渇きとも戦いながら、生きる努力をつづけた。

  四月六日再び司令部の壕へ

 総攻撃の日から約三週間、たしか四月六日だったと思う。私のいる壕は二十名位が生き残っていたが、或る日、昼間眠っている処を突然襲われて、半数の戦死者を出した。私はこの壕は危険と考え、部下四名と壕を出たがあとで判ったのだが、翌日この壕は敵の機銃攻撃を受け、生き残った二名の下士官の話によると、主計長と寝ていたら、米兵が機銃の腰だめ射撃をしながら入って来た。この下士官は、死んだふりをしながら、ひそかに石を手に突然立ちあがり石を振り上げた。
 米兵は悲鳴をあげて壕を飛び出した。手榴弾でもぶつけられると思ったらしかった。然しその後が大変で、この壕にダイナマイトを仕掛け、ガソリンを流し込んで火をつけたのだ。
 ところでわれわれは幾度壕を変えたことだろう。しかも次の壕へ移ったあと、きまって前の壕がやられていた。
(『定本太平洋戦争』)

  ついに捕虜となる

 司令部の壕にたどりついて一息ついていると、突然敵兵数名が懐中電灯で照らしながら入って来た。
 毛布をかぶっていた我われは一斉に手榴弾を投げつけた。敵はあわてて飛び出したが、ダイナマイトを仕掛けられたのでたまらないぼど息苦しくなった。もう我慢できないと一人が言い出した。窒息するような壕内である。止めることは出来なかった。
 出て行った彼を待っていたものは激しい機銃の音だった。外はそれきり静かになった。
 その日背の高い豪州兵が入って来た。通りすぎるのを待って、手榴弾を投げ付けたが発火しなかった。逃げ出した敵兵は入口にハッパをかけ、硫黄弾を投げ込んだ。黄燐弾の苦しさは言葉に表現出来ない苦しさで、私達は手で土をかき分けて、そこに顔を埋め、辛うじて呼吸する始末だ。壕内には死体が累々として悪臭を放っていたが、その死体に鼻を押し付けて黄燐弾を避けなければならなかった。
 そんな時、八木上水が石に挟まれ、悲鳴をあげた。石は動かなかった。苦しみに悶える八木は、手榴弾で自決するという。手のほどこしようもない我々は、やむを得ず手榴弾を発火させて渡そうとしたが、なかなか発火しなかった。今度は「拳銃で頼みます」という。こればかりは私には出来なかった。全員が泣きながら八木の苦痛を見守っているうちに、手榴弾が発火爆発した。八木は永久に苦痛から解放された。
 それから幾日経ったろうか。確か五月六日と覚えている。八木の手榴弾の炸裂で、閉ざされていた土が崩れて穴があいたので、壕の上を顔見知りの三沢兵長が通りかかって私を驚かせた。彼は米兵の服を着ていたからである。
「どうしたんだその服は?」
「うん、死体から剥ぎ取ったんだ」
そんなやり取りで、彼は私に水を呑ませてやろうと言った。壕内にいた小松二等兵曹が、危険だから出ない方が良いと頻りに言う。
 しかし水の誘惑には勝てなかった。私は壕から手を引っぱり上げて貰った。明るい壕の外へ出た私の限の前には、米兵が機銃を構えて待っていたのである。
(『丸』昭和三十四年六月)
硫黄島玉砕後の戦い (手記)
陸軍(大尉) 軍達森本一書(証言より)
 最高司令官を先頭に、三月十七日夜中を期し、皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ、全員玉砕(中略)その後も戦いの壕に対する攻撃は日毎に激しさを加えてきた。迫撃砲を撃ち込むばかりではない。手榴弾や爆弾や爆雷を投げ込む。
 またある時すぐそばに五十センチの艦砲が炸裂した。轟音とともに砂が飛ぶ。私も横倒しに吹き飛ばされた。その時右手首に砲弾の破片らしきものが当り、母の形見の腕時計がバンドを切って飛んでしまった。しかし、私の手首には何の傷もない。奇跡と言えば奇跡。母の霊感を覚えた。またドラム缶からガソリンを壕の中に注ぎ込んで火炎放射機で火をつけ壕内を焼かれたこともあった。
 さらに窒息ガスを注ぎ込まれ一日中フーフーいいながら手拭きを小便で濡らし顔に当てて我慢していなければならなかった。このガス攻撃が一番苦しかった。此の時分勿論食糧はない。水もあと僅か、どの顔も地獄の亡者のようになって来た。
 「死を本分とせよ」と教えられて来た兵隊でもジリジリと死地に追い込まれて真綿で首を締められるようになっては到底堪えられるものではない。いかなる国の兵隊がこの状況のもとで、戦いを続けることが出来ようか。
 日本の軍隊の教育とは実に恐るべきものであった。