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第五章 日記に記せなかったできごと

 三年間、毎日書き続けた日記であるが、検閲のため思うことはあまり書けなかった。日記に記せなかった出来事の中にも、印象深く忘れることのできないいくつかの思い出がある。

 焼き肉の思い出

  三年兵の田中兵長が下士官室で「焼肉をしようか」と言い出した。田中兵長は炊事係で肉の入手は容易である。菅野班長、紺野班長と私の同年兵も一、二名いたと思うが、氏名は覚えていない。
早速私と田中兵長二人で地下を掘った冷蔵庫に入った。豚を四つ割りにした技肉の足を釣り下げ、たくさん並んでいた一つの枝肉を凍っているので鋸で一部を切り取った。帰ろうとした時、田中兵長が「切り取った枝肉がどうも気になる。足一本ごっそり持って帰った方がばれないで済む」 と言うので、重い豚肉の足一本担いで兵舎に帰った。室温で解凍する外側より次々小刀で削いで鍋に入れて食べ、呑んだ。枝肉一本一度に食べ切れるものではない。余った肉を冷蔵庫に返すことも出来ぬので、風呂場に隠し、その後も何度か班長を中心に古参兵も混じって食べ尽きるまで呑んだ。
このような行為が、上層部に知れずに済むはずはなくいつか厳重なる処罰があるのでは。そんな不安を抱いて過ごしたが、遂に何事もなく終わった。どのように班長や炊事担当の田中兵長が帳簿を合わせたか知る由もない。たとえ露見しても、上官の命に従ったという安心感は持っていたと思うが、よく無事に済んだものだと思うと同時に、ふんだんに食べた肉の味も忘れられない思い出である。

 半田班長の教育

 半田班長の教育担当時間であった。救護演習というので、一つの担架を二人で持って営外に出た。
よく晴れた朝だった。満州の住民が瓜や胡瓜、西瓜を作っていて、草取りが何か作業をしていた。
「あの畑の負傷者を運べ」 と命令された。負傷者というのは、西瓜や胡瓜だった。班長が満人に、
 「お金を受け取れ」といくばくかの小銭を差し出した。満人は「不要(ブヨウ)々々」 と言って断った。背後で満人の声が聞こえた。「メンフワーズ (仕方がない)」西瓜や瓜など担架に山程積んで引き上げた。

 看護婦の兵食差入れ

 入院患者は、もちろん将兵ばかりであるが、病気や怪我をするとただの人間である。注射や食事処置など嫌なことはなるべくやりたくない。なかには看護婦の指示に従わぬ患者もいる。特に注射は拒否される場合が多く、看護婦は持て余していた。そんな時、衛生兵の出番。「病院では階級に関係なく衛生兵の指示に従うこと」 の規則があり、上官でも服従して戴く。その代償(?) として、日曜の休日には、看護婦殿から「ビール」 の差し入れが実現する。
当時の給料に戦地加算を加え、兵隊十余円、看護婦約百五十円前後、ビール一本四十銭、清酒一升一円五十銭と記憶する。日曜日は看護婦達の差し入れビールにより、兵舎の食堂で二、三年兵はよく呑んだ。

  班長の自殺

 陸軍病院に転属して一、二カ月経過した頃と記憶する。「班長が自殺した」 という声があり、兵舎は騒然となった。病院玄関を入ると左側に日直室があり、寝台に寝た姿勢で小銃の銃口を口中に入れ、足で引き鉄を引いた形で兵隊が血みどろになっている。呼吸はまだ絶えていないが、夥しい出血である。苦しむ様子は見えないので、意識はないものと一目で判断される。弾丸は口中から炸裂して三、四カ所に分かれ、頭蓋に孔をあけて文字通り四散していた。病院内とはいえ、もう手の施しようはない。日直軍医殿の指示で人払いをされてその後は知るすべもない。
 この事件は当然口止めされたが、その後の仄聞によると、郷里の家庭内の複雑な事情に悩んだ果ての自殺であったらしいが、この事件で強く衝撃を受けた。人間の死ぬということは、予想外に単純でないということである。映画、テレビで見る死は、一刀の下に斬られ、或いは銃で撃たれてバッタリ倒れると同時に息絶えている。毒薬を呑まされても、口角に一筋の血を流してバッタリ倒れて瞬時に息絶える。
人間の死とはそのような結末で終わると考えていたのであるが、銃口 (三入式歩兵銃) を口中に自殺しても数時間、無意識ながら死ねなかった現実を知った。救護班など望めない戦線での負傷によって野死することなく死に至る迄の間、何時間或いは何日も死の苦しさと戦わねば死に切れぬことを想像し、今更ながら、国と国、人間同士の無惨なる殺戮に、心底より戦慄感に襲われて言葉を失ってしまうと同時に、人間の死と死に至るまでの苦痛は想像を絶する現実であることを改めて思い直すのである。

 見習士官との対話

 昭和十四年五月、ノモンハンに於いてソ連軍と戦火を交え、大敗して九月に停戦協定が結ばれたものの、爾来関東軍は強化され、昭和十六年八月には、関東軍特別大演習(通称関特演) の名のもとに大動員があり、病院にも召集兵が配属され、同時に若い見習士官も配置された。名前は記録していないので忘れてしまったが、その見習士官との忘れ得ない一事がある。
 或る日、兵舎内に見習士官殿が見えた。導火線となった原因は今思い出せないが、「上官の命令は朕の命令と思え」 の一言より始まった。持ち前の私の性格で、転属して来たばかりの若い見習士官が、という心が態度に出たものと思う。私に不当の命令の実行を迫られた。「天皇陛下は見習士官殿のような、無理な命令はなされません」 と答弁したもの
 だから、「貴様」 バシン、「上官の」 バシン、「命令に」 バシン、「反抗するのか」 バシン、私は叩かれる度に一歩一歩後退した。一つ、二つ、三つ・・・…・。
 私は叩かれながら、後退しながら、頬の痛さに耐えながら、数を数えていた。三十位数えた頃、背後にペーチカがあり、もう下がれなくなったので、立ち止まったまま叩かれつづけた。一方的に怒鳴りながら、バシンバシンと殴られ続けた。一言の弁解も陳謝もしなかった。遂に諦めて見習士官殿は退散したが、強情で生意気な奴と思ったにちがいない。
 幸い兵舎にあまり兵隊はいなく、見られていなかったと思い助かったものの、反戦思想で意志を貫き、制裁で死んだ滝沢二等兵のことが脳裏に浮かんで消えた。あんな若僧に負けるもんか。心の中ではやり場のないくやしさで、見習士官に叩かれた痛みなど忘れて、涙の流れようとするのに耐えていた。

  モルモットにされた兵隊

 外科勤務をしていた或る日、アッペ (虫様突起炎、俗に盲腸炎) の疑いで入院した兵隊がいた。検査の結果、白血球も増えていないし、腹痛は回虫か、他の原因であろうとの外科主任、滝沢軍医殿(少佐) の診断であった。
ところが、同じ外科に藤尾軍医中尉殿が勤務されていた。応召前は産婦人科の開業医とのことで、召集されてわが陸軍病院の勤務となった由。初めての外科勤務で、勉強熱心は結構であるが、いつも滝沢軍医殿の助手として手術を手伝うばかりで、自分で執刀する機会がなかった。
 その頃、滝沢軍医殿は、病院の副院長にも当たる庶務主任なので公用のため出張されることになった。留守中、先のアッペ疑いの兵隊は、手術しないようにと言い残して出張されたのであるが、その留守中の出来事である。
 藤尾軍医殿が看護婦や私たちに、手術の準備をせよと命令された。先のアッペ疑いの兵隊を手術するというのである。外科勤務の下士官は、高橋軍曹殿と記憶するが、看護婦と共に止めたようであったが、上官である藤尾軍医殿の命令は強く、従うしかない。まして衛生兵長の私など物の数には入らない。命令に従って、手術の準備をした。私は機械係を命じられたので、手洗いをして待機した。何も知らない患者は、手術台に乗せられ、藤尾軍医殿の執刀が始まった。
 開腹した結果は、検査通りアッペは異常なかったが、切開したものだから一応アッペ切除することになって手術は進行した。藤尾軍医殿は、初めての執刀で、手術中の処置が行き詰まり、看護婦や班長に助言を求めたり、ついには「医学書を持って来い」という始末、看護婦に医学書を開かせ、その図解と、開腹中の患部を見比べながら手術をされるものだから、見ている方が手に汗を握る。
それでも何とかアッペの切除も無事終了した迄は良かったが、いきなり外皮を縫合しようとされる。
 「軍医殿待って下さい。まず腹膜を縫合し、筋膜を縫合、外皮はそれからです」 と看護婦の助言によって、藤尾軍医殿はようやく手術を終了された。
 これで何も起こらねば、一応めでたしで、我ら兵隊に跡片付けを済ませてひと安心していた。ところが、出張より帰られた滝沢軍医殿が、「あれ程手術をせぬよう言い残したのに」と怒っていた。このような時は兵隊は命令に従った迄で、我閑せずと気安くしていたのであるが、涼しい顔しておれなくなってきた。手術した患者が発熱して苦しみだしたのである。
看護婦と共に私も軍医殿の命に従って不寝番に立ち、看護せねばならなくなった。二、三日の間、種々手当を尽くしたものの、発熱後、数日を経て患者は死亡してしまったのである。
 原因や責任、結末については表向き何事もなく終わったようであった。行わなくてもよい手術を実施した結果、死亡した患者は浮かばれない。
 俗に「医師は何人か、人を殺さねば一人前の医師になれない」と伝誦されている。初めより名医、達人になれぬことは当然ながら、許されて良いことではない。戦時だから、軍隊だから、隠蔽されたのであろう。
 上官の命令は、天皇陛下の命令だと教育された兵隊には関わりのない事件であった。

 教育(私的制裁) の効果

 平成七年の「オウム事件」 で猛毒のサリンが撒かれた。その後、「オウム信者の非業」なるものの一部が公表されているが、たとえば、熱い風呂の中に強制的に入れ、死者まで出たとか、暗い地下の穴の中で絶食しながら数日間も耐え抜くとか、私たちの知らない非業が存在していたようで、「マイソドコントロール」 とか非業によって洗脳され、麻原が仏様になって絶対服従する信者が生まれるのではと想像するのであるが、軍隊の初年兵教育も同様というより、「オウム」 は軍隊の教育で洗脳されてゆく過程、精神状態を真似たのではないか。そのようにさえ思われる。
 方法、手段こそ幼稚であったり、行き過ぎたり、暴走したり、逆効果をもたらしたりしていることもあろうが、「上官の命は、その如何を問わず従うべし」「上官の命は畏れ多くも天皇陛下の命令なり」ということをふりかざし、心の底まで短期間に一律に善良忠誠なる兵隊に仕上げねばならない。そのうえ、逃亡する者は軍法会議で銃殺刑と脅す。お前達の死が家族を救い、国を救うのである。日本は神州不滅、亡びることはない。一死報国、一命は鴻(コウ)毛より軽く国に尽くすべし。敵の捕虜になると拷問にかけられ、必ず殺される。捕虜になる前に必ず自決しろ。これが日本軍隊の教育の基本であった。軍人勅諭、戦陣訓の教えが示している如く。
「軍人勅諭」 によって忠節・礼儀・武勇・信義・質素を教えこまれ、「戦陣訓」により「生きて虜囚の辱を受けず」 の精神を叩きこまれるのである。
 特攻隊の十六、七歳の少年が、死をおそれず(第三者にはそう見えた)、必死を覚悟して(させられて)特攻隊機で出撃する本心は、喜んで死を覚悟した者が幾人あろうか。命令に従わなくても、死以外に方法はないと覚悟を定めさせられた結果の行動であったと思う。「一機、一艦」「滅私奉公」涙の止まらない覚悟の遺書を残して知覧飛行場を飛び発ち、沖縄で散った特攻兵達が、出発の最後の夜を過ごしたという三角兵舎の前に立ったことがあるが、寝床の毛布はベットリと涙に濡れていたと、語り部の女性に聞かされた。
 米軍の撮影したテレビ、或いは太平洋戦記の米軍の記録で、日本人の特攻精神、自ら死を求めているような、いくら攻撃してもどんどん攻撃してきて、無駄に死んでゆく、大和魂と呼ぶ日本軍が米兵には恐ろしく、理解できず、恐怖のあまり発狂した兵も多数いることを、硫黄島攻略戦での米軍従軍記者による手記にも記されている。
別に記す予定であるが、父島で硫黄島を占領され、逆に硫黄島の敵艦船に対し、日本の特攻機が発進されたのであるが、その殆どは中途の警戒機のため撃墜され、或いは損傷を受けて海没し、中の一部が父島の扇村飛行場へ不時着した。
 狭い、弾穴ばかりの飛行場で、機は大破したが運良く生き残った特攻兵も何名かいた。いたと断言できるのは、その生存した紅顔可憐の (十五、六歳位か) 特攻兵達と直接話した事実があるからである。彼等は飛行士としては、ほんの初歩的技能しか教育を受けていない (期間も短い)。飛び上がって、急降下する、ただそれだけの訓練を受けたという。敵機と交戦するにも兵器は装備されてなく、ベニヤ製の飛行機もあったとか。硫黄島上空遥かの地点で、数百機の戦闘機が上空で待機していて、近づくどころか発見されるや攻撃を受け、皆反撃もできず撃墜された。近づけないまま引き返し、燃料も足りないから兎に角父島の小飛行場を見つけて不時着をした、という。
 「死」より一応解放された安堵感であろう、敵の上陸に備えて、防御陣地の穴掘り作業を無心で手伝っていた特攻機少年達の姿を顔を今も忘れていない。