未来に残したいアナログの記録はありませんか?こちら(タイムトンネルADC)へどうぞ。
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第9章 第10章 第11章
第八章 父島での戦い

父島の陣地構築

 サイパン、グアム、テニアンと玉砕の報が続いた。米軍は戦車、火炎放射器を用い、こちらとは比較にならない物量、兵力を持っている。制空権、制海権は、既に米軍の手にある。日本魂など振りかざしたところで、何の役にも立たない。
海軍は船を失い、父島に残って陣地を構築している。海軍の兵達の会話を聞いていると、日本の連合艦隊は、度重なる南方海戦により既に壊滅しているというのである。まして航空機など無に等しいという。
 父島に上陸以来、連日大型機(ボーイングB25) による空襲が繰り返されているが、二見湾内の大村側海上に複葉の単発水上偵察機が繋留されていたが、空襲警報が鳴ると飛び立って姿が見えなくなる。敵機を迎撃するのかと思ったら、攻撃されないよう安全な空へ退避するということで、警報が解除されるといずこよりともなく戻って来るのである。甚だ情けない情況である。それも数カ月の間に、いつとは知れず一機も姿が見えなくなってしまったが、どこかで敵機の餌食となったことであろう。
 連日の空襲に対して、数ヵ所の道路に沿った隧道の他、避難所もなく、戦略的にも洞窟戦法が重要との判断であろう、島の兵隊は総力をあげて岩盤に向かい、穴を掘る作業が始まった。火炎放射器という新兵器に対応できる穴にしなければという命令であるが、具体的にどうするのか指示はない。鑿岩機で一メートル位の穴を数個掘り、その穴に爆薬を詰め、導火線に火を付けて穴より逃げ出す。爆破後、崩れた岩片を取り出し、爆破でモロくなった岩石を鑿で削り落し、また鑿岩機で穴を掘る。
 こうした作業を繰り返し、岩盤に穴を掘ってゆくのであるが、私たちの中隊には残念ながら、鑿岩機も爆破のためのダイナマイトもあるはずがない。砲弾などの火薬を抜き出してそれを代用する。鑿岩機もないので鉄棒を一人が肩にして穴に当て、一打毎廻しながら背後の一人がハンマーで叩く、いわゆる手掘り作業である。一日掘ってもせいぜい五十センチ位しか掘り進まない。それでも火薬や雷管が続く間はよかったが、次第に不自由となり、敵の艦砲射撃で不発となった敵弾を拾い集めて火薬を抜き取ったりして使用したが、危険な作業で、抜き取り中暴発して死亡した戦友もいた。
 私たちの中隊は、二見湾の入口東嶺で、大村は爆撃で焼け果て、爆弾の穴だらけとなっているが、小笠原支庁跡の後上方に当たる、百八十メートル高地と呼んでいた山の陵線地域を陣地としていた。
殆ど湾内に向けて岩盤に穴を掘りつづけていたので、対岸に当たる扇浦より約十キロ位を徒歩で毎日通っての作業である。穴が退避所として使える程深くなった頃、扇浦の民家は空襲の標的にされるので、すべて焼き払い、必要な物資は洞穴内に移動した。
アッツ、グアム、テニアン、サイパン島などの戦争は地上戦が主体であったようで、無限と思われる程の物量と艦船、航空機による重火器の攻撃の前に、バンザイ突撃で次々玉砕を遂げている。日本軍玉砕戦略の尊い犠牲の教訓を生かし、地下耐久戦に切り替えるべく、栗林最高指導官より作戦変更がようやく伝達された結果である。

 硫黄島へ物資輸送

 わが船舶工兵隊の本命は、サイパン島よりマリアナ方面への物資輸送を任務とする船団であったが、既に目的地を失っていたので、父島船舶司令部に従属し、硫黄島、父島間の物資輸送を行う結果になったのである。
父島は全島岩山で、自然の要塞となっているのに対し、硫黄島は南端に摺鉢山---名前の如く摺鉢を伏せたような山---はあるが、洋梨のような形の平坦な砂丘状をなし、北方の周囲は小高い岸壁で囲まれていて攻め難いが島の中央部は攻めるに易く、守るには困難の島である。米軍にとっては、本土攻略のためには重要な基地となり得る。
そのため、「敵の攻撃を今受けたとすれば、父島は三カ月は頑張れるが、硫黄島は三日保てばせいぜいだ」 などとささやかれていた。それ故にこそ、セメントなど、地下陣地の構築が緊急重要となるわけで、わが中隊はその大任を担当したのである。
艦を失った海軍はもっぱら洞穴を掘ることに専念している。全島で三万人とも、三万五千人とも伝えられる将兵等は、上陸に備えて陣地構築のための岩盤掘鑿(クッサク)に殆どが専念していた頃、私たちの船舶工兵独立中隊は、二見湾より硫黄島間の陣地構築資材の輸送に専念しながらも、連日連夜の空爆を避け、敵の上陸に備えての陣地構築(洞穴の掘鑿)も並行して行わなければならなかった。
航行の船はわが中隊が、内地の九十九里浜を中心に海岸周辺より集めた数十隻の木造漁船にセメントなどの陣地構築資材を積んで数隻で船団を組み、それぞれの船員にわが隊の兵数人が分乗して船員を指揮し硫黄島に向かうのであるが、もちろん武器も護衛等も一切なく、敵機、潜水艦等に対しては無防備で、発見されると無抵抗に撃沈されてしまうので、夜間に大村港を出航した。それでも、敵のレーダーに発見され、無事に任務を果たして帰る船は、度毎に減少して、帰らぬ戦友、船員の数が増えていった。
千石軍曹という班長がいた。満洲事変、ノモンハン事件、支那事変と歴戦の勇者で、生存者の金鵄勲章受章者は珍しかったが、千石軍曹はその受章者である。「俺は数十回の戦闘に生き残り、不死身だよ。敵前で<俺を撃て>と立ったこともあるが、弾丸の方が避けて通った」硫黄島向け出発の日、大村海岸のドラム缶の湯に入浴しながらの自慢話である。「ああいい湯だ。これでいつ死んでも悔いはない」 と上機嫌であったが、その夜、出航した千石軍曹は再び父島へ帰っては来なかった。
硫黄島に向けての物資輸送は、昭和二十年二月十九日、米軍が上陸開始直前まで続いたがわが独立中隊の兵、船と船員の消耗は多く、特に硫黄島上陸一カ月位前より攻撃が漸次激しくなり、八十数名のわが中隊の兵員は、半数位にまで減少していた。撃沈された船の兵隊は同航の兵による戦死確認報告により戦死公報となるのであるが、確認されない者もあり、また終戦後の情報で、戦死と公報された兵のうちでも米軍の捕虜として救助され、内地に生還した者(四国出身者、小林上等兵ほか氏名忘却) も数名存在したことを承知している。

 B29本土爆撃

 父島に到着以前より、米軍の空襲は連日大型爆撃機(ボーイングB25) による爆撃は続いていたようであるが、サイパン島陥落後は、目立って空襲が激しさを増してきた。
 中隊長が入手した情報によって判断した戦略の予想によると、「米軍は本土攻略するに際し、サイパン、硫黄島は空軍基地として、わが父島は海上艦船の寄港、修理基地として、絶対占領が必要で攻撃は必至である」 と訓示していた。果たして米軍はサイパン島占領後、本土空襲に対してもB29の爆撃は、年末頃よりサイパン島を基地として本土を空襲した。夜半頃より未明にかけて父島の上空を三機、五機と断続してサイパン基地方向に南下するのを見る日があった。
 根気よくその数をかぞえる戦友がいた。大本営発表のラジオ放送と大きく結果が相違していた。大本営発表とは何であろうか。信じたくても信じられない発表に、戦争の前途が見えて暗澹たる気持ちになり、やり切れない毎日が続いた。

 輸送船の轟沈

 島に対する本土よりの物資輸送は、制海、制空権なく、米軍の航空機、潜水艦攻撃により殆ど島には届かなくなってきた。本土の物資の欠乏と船舶の欠落が基困するものと思われるが、更に加えて優れた米軍レーダー網の餌食となる結果で、残念ながら致し方がない。
昭和十九年も師走となった頃と記憶するが、ある朝、わが陣地より北方海上に島をめざし、久し振りに三隻の木造輸送船が近づいてくるのである。無事に島へ到着を祈りながら見守っていると、心配していた爆音が聞こえてきた。やはり、レーダーに発見されたかと気掛かりだが眺めるのみで何もできない。
 船は数百メートル位の間隔を保ちながら島へ向けて航行をつづけていたが、果たして十数機の小型機による急降下爆撃が始まった。小型機は五十キロ位の爆弾三個を次々船をめがけ投下して上降を繰り返す。爆弾は船が小型のせいもあって、幸い船の至近距離で水柱をあげていたが船は沈まなかった。
 もう爆弾はなくなったようで、ほっとする間もなく、続いて機銃掃射の急降下が繰り返される。船員の人達、無事であってほしい。神に祈るような気持ちで眺めていると、突然、最後尾の船が黒煙に包まれて見えなくなった。やられた!! と思った。
煙は風とともに東へ移動した。船は……と煙の去った海上を見渡すと、何も見えない。煙とともに消えてしまったのである。「轟沈」 そんな言葉が頭脳に浮かんだが、目前に見た現実はショックである。先頭の船は既に島近くまで接近しており、次の船も島にかなり近くまで到達していたので、敵機も諦めたように引き揚げた。
 後日の情報では、到着の二隻の船員に負傷者はあったものの、生命は無事の様子であった。轟沈された船には、ダイナマイトを積んでいたらしく、機銃弾の命中によりダイナマイトの爆発で轟沈したものと知らされた。上陸に備え、島よりの攻撃は許されなかったためとはいえ、目前で人命とともに沈む船に手出しもできぬ無念さを思い知らされた出来事であった。

 米軍の父島攻撃

 米軍の父島攻撃は、我等中隊上陸前の昭和十九年六月頃、サイパン島上陸前より始まって、硫黄島上陸作戦十日位前より急に激しさを加えてきたようだ。八月に、私たちが上陸した時は、既に扇浦の海岸には空襲で撃沈された艦船のマストが海面上に姿を現しているものもあった。
 また、二見湾の東南部海岸の境浦には約五千トソ級の輸送船「濱江丸」が、海岸に座礁したままで、空襲の度毎攻撃の目標にされていた。幾度攻撃し、どれ程の爆弾を投下しようと座礁している船は沈みようがない。上空より見ると浮かんでるように見えるのか、他に恰好な攻撃目標のないためか、大型機による空襲は約一万メートルの高度より水平爆撃で来襲の度毎「濱江丸」を目標に爆弾を投下して去った。
 日曜日の米軍は休日らしく、空襲は全くない。日曜日以外は毎日必ず二、三十機の編隊で午前、或いは午後、時には午前、午後の二回来襲し、水平爆撃をする。一機五百キロ爆弾を十個宛、二百~三百個を投下して引き揚げる。毎日定まった時間に定まったように爆撃して帰るので誰言うとなく「定期便」 と呼んでいたが、一万メートル位の高度を水平飛行の爆弾投下では手も足も出せない。
 飛行進路の直下でなければ爆弾の被害を受けることはなく、自分の位置よりほんの僅かでも編隊機が左右にそれておれば、爆撃の被害は安全で、島の北方に当たる我等は陣地より毎度高見の見物をしていたものである。なにしろ一機で五百キロの爆弾十個。二、三十機の飛行機より一斉に投下された瞬間は兎の糞を串で連ねたように (金魚が糞を曳きながら游いでいるように) 見え、やがて降下速度が早くなり肉眼では見えなくなると、しばらくして眼前の湾の水面より一斉に水柱が立ちのぼるのである。
 なにしろ、二百~三百個の爆弾が、弾と弾の間隔約五十メートル位で、それが五百メートルにも及ぶから、二見湾内は水柱の屏風を立てた如く、しかも私たちの陣地が百八十メートル高地と呼ばれていたから、その眼の位置より高く昇るので、二百メートル以上の水柱屏風ともなるわけで、まさに壮観である。見事な水中ショーである。危険の及ばぬところで眺められるので、戦争中のささやかな慰めでもあったが、しばらくすると、さすがの水柱屏風もゆっくり沈下し、元の静かな海面に戻る。湾内に繋がれていた船は全滅? と思いきや、殆ど元のまま浮かんでいるのにむしろ驚いた。何百の爆弾を投下しても案外当たらないものだと思うと同時に、味方の弾もこんなものかと思ったりして、彼我の戦争の無益と経済的無駄をしみじみ感じたものである。
 私たちの陣地より数百メートル西方で北面の海に向かって、平時より砲台が岩壁の内部より海上に向けられているらしく、その上部で見晴らしのよい位置に、観測のためと思われる展望台が建っていて、無住となっていた。湾内はじめ、島の四方を一望できて、空襲などの時一番よく観測というより見物ができる。大型機の進行方向が、真上を僅かでも左右に外れると予測がつけば、水平に降下する爆弾はかなり左右何れかに外れて爆発するので安全である。毎日の爆撃で体験した智恵で、今日の空襲は安全と判断できると、前地見晴らし台に行って見事な空中爆弾ショーを戦友と見物のため出かけていた。
 或る日の空襲警報は遅れて鳴ったため、見晴らし台に行く時間がなく、爆撃が終わり空襲警報も解除された。今日はどこに爆弾を投下したのかなと、いつもの仲間を誘って見晴らし台まで行ってみて驚いた。直撃弾を受けたらしく、いつも眺めていた見晴らし台は吹っ飛んでいて、大きい穴だけが残ってくすぶっている。もし今日もいつものようにあの見晴らし台に来ていたら、私たちの体は木端微塵に吹き飛んでいたはずである。思わず一同顔を見合わせて幸運を喜び合った。
 空襲も昭和二十年と年が改まる頃になると、サイパン島より発進するらしく、従来の大型爆撃機のほか、航続距離の短い双胴の中型爆撃機、グラマン艦載戦闘機等の来襲が加わるようになってきた。
 投下する爆弾も、従来の大型機のものは、落下すると地中深くもぐつてから爆発する爆弾ばかりで、高層ビルでも倒壊可能のようにセットされているものの如く、爆発した跡は直径、深さとも四~五メートルほどの摺鉢状の穴が掘れていたものが、穴は一メートル位に浅く、逆に横幅広く爆風が拡大して破壊力が強大となる。その爆弾が投下される一時期があった。主に日本軍が使用していた爆弾に類似しているので、もしかしたら、サイパンで米軍に没収された日本軍の爆弾が、私たちの攻撃に使用されているのではと説明する者もいた。
 一月も中、下旬頃になると、米軍の空襲は日毎に頻度を増してきたが、小型幾によるロケット砲による急降下爆撃を受けるようになり、胸が騒ぐ思いに明け暮れた。ロケット弾は、急降下しながら、降下前面の目標に向かって昼間でも鮮やかに火焔を曳きながら、物凄い高音を発して地上で大爆発を起こす。数発の爆発音で地面が地震のように小刻みながら揺れる。近くに一発落ちたら終わりだな。皆が無言で顔を見合わせたりした。
 めったに来襲したことのない夜間の空襲もこの頃であったと思う。来襲する飛行機の数は少ないが、一夜のうち十数回も来襲するので、眠る暇がない。神経戦が目的であろうと思われた。
 案外低空なので、地上よりの探照灯に捕えられ、曳行弾の集中攻撃を受けながら、なかなか撃墜に至らない。機をめざして発射される曳行弾群が、あたかも花火の如く見る目には美しいと思ったりした。意外にも曳行弾は直線に上昇するものはなく、稲光のように曲り、うねりながら昇ってゆくのには驚いた。かげろうの原理で、空気圧の変化による屈曲と思われるが、思ってもみなかった現象であった。
 或る夜、一機が燃えながら島に落下した後も長時間燃えていたが、数時間も燃える地上での飛行機の焔は形容し難く美しい。また地上にドラム缶十個位宛埋蔵した燃料に運悪く敵弾が命中して爆発することがある。一個のドラム缶の燃料が燃えると、誘発されて隣のドラム缶が爆発し、次々と同所に埋められたドラム缶は全部爆発炎上してしまうが、ドラム缶の爆発する瞬間に立ちのぼる火柱も数十メートルの 高さに上昇し、この世の地獄図とも最高の火炎の祭典とも見える凄惨な夜景を展開する。
 戦争であることを瞬時忘れる程の、華麗な夜の火炎ショーの思い出もある。

 硫黄島上陸前の牽制攻撃

 昭和二十年も二月を迎える頃には、本土よりの物資は完全に届かなくなり、武器、弾薬、食糧等すべて現在保有する限度で、玉砕の日まで死守するしかないことが現実感となって一同改めて覚悟させられた。
 本部よりの情報によると、「サイパン島周辺に、米軍の艦船が数百隻集結しつつあり、更に増強されている。本土攻撃のため北上せんとするものの如し」 との情報が伝えられた。
 二月十日頃の朝方であったと思う。空襲警報とともに、今迄と異常な爆音がとどろき、しかも相当なる機の数のようである。陣地の稜線に登って爆音の聞こえる南方上空を見て驚いた。雲霞の如き小型機の大編隊が、わが島をめざし接近しっつあるではないか、部隊一同騒然となって命令を待った。
 接近するに従って、艦載戦闘機グラマンのようだ、島の上空数千メートル付近までのあたりで各編隊は右廻りに一列となり、大きく島を取り巻く態勢に変わった。攻撃の命令を待つものの如く、島を大きく取り巻き旋回を始めた。
 機数は約三百機位。見る間に円陣の数カ所、島の上空四方より一列数十機単位に分かれ、急降下が始まった。やがて島は爆弾と機銃掃射で、空は暗み、数百個、否数千個の爆弾の炸裂音と爆音、機銃掃射音と黒煙の中で島は揺らぎ、今に爆弾のため島が砕けて沈没してしまうかと思われた。米軍の上陸作戦が開始されたのだと直感した。この日のために、島を守備する私たちすら知らなかった高射砲陣地より、また対空機関砲よりの応戦が始まった。
 わが中隊には対空火器はなく、洞窟の入口で怖い物見たさでおそるおそる空を覗いてみる。日常気付かなかったが、わが陣地西南下方に野戦高射砲陣地があって連続火を噴いたが、その発射音は間近なせいもあり、耳の鼓膜が破れるかと思われ、島が振動するほどのはげしさであった。
 湾内に繋留された船を攻撃する一機が急降下してきた。降下の正面陣地より発射した二十五ミリ機関砲がポンポン、二連装備で一発ずつの発射音が響いたと思ったら、降下一番機が火を発してそのままの角度で湾内に突入し、水中で爆発し、高い水柱をあげて消えた。
 対岸の扇村付近の上空を一機が急降下の態勢をとったと思った前面で、わが高射砲弾が炸裂した。
 その爆風で飛行機がバラバラに飛び散り、木の葉が舞い落ちる如くに、ヒラリハラリと高速度カメラの映像を見る如くゆっくり落下する。その上方でバッと落下傘が開いて降下する搭乗士の姿が見えて、扇浦あたりに降下、消えてしまった。
 不意に頭上より一機が火を吹きながら、南の空にどんどん逃避してゆく。今にも海上に墜落するか、今か、今かと眺めていたが、視界に見える限りは燃えながら飛び去った。しかし無事で母艦まではとうてい還れないだろうと思って目をそらした。
 空襲は父島上空四方八方より急降下して爆弾を投下し、舞い上がり、また反転降下を繰り返す。艦載機は五十キロ爆弾三個を搭載しているようで、三回までは爆弾を一個宛投下する。三百機だと延べ九百回の急降下爆弾の攻撃を受ける計算である。そのあとは機銃掃射による急降下攻撃が繰り返される。燃料の関係か、約二時間ほどで引きあげるものの、午後また約三百機位で午前と同様の攻撃が繰り返される。連続数百個の爆弾炸裂の爆裂音と振動と黒煙、地上よりの対空砲火の轟音も加わり、自分はまだ生きているが、次の瞬間どうなるのだろうか、恐怖心を越えて放心無想状態である。この世の地獄図を見る思いである。
 敵機が退散して静かになると、初めて生きていることに改めて気付くとともに、先刻までの空襲の激しさと恐怖心が蘇るのを覚えた。あれ程の対空戦で敵機に何機ほどの損害を与えたのだろうか。延べ数千機の空襲にも関わらず、湾内の船はあまり沈没していないようだし、陣地は壕内にあるので被害は軽く意外であった。対空戦果の発表があった。来襲機約三百、延べ三千機、敵に与えたる損害撃墜三十五機、撃破九十五機……。洞窟より眺めたのみでは、墜落機は五機~八横位しか私には確認できなかったが、大本営の発表とはこのようなものかと改めて思った。
 ただ考えられることには、一機撃墜しても、甲の陣地と乙の陣地で同じ機をねらい、どちらかの弾が当たっても墜落機は一機でも、甲、乙陣地でそれぞれ撃墜と報告するので二機撃墜という発表となり、三機にもなり得る現実もありうる、誇大報告の可能性もあるが、私の確認した機数はもとよりこの限で見た範囲のものに過ぎないので確実な撃墜機数は米軍しかわからない。

 救出されたブッシュ大統額

 硫黄島攻略戦が始まった頃の或る日、父島に艦載機が攻撃してきた時のことである。
一番機が、急降下して来るのをねらった地上よりの機関砲が命中して、機体はその儘湾内に突入して爆水をあげて沈んだが、乗員はパラシュートで脱出し、父島北方我等の陣地の真下二キロあたりの海上に落下した。
 救援機が投下したゴム製であろうか。乗員は円形の救命ボートに乗り移り、海上に浮かんでいた。
 米軍はこの一人の飛行士を敵前ながら、救出するため、十数機が島よりの攻撃を牽制しつつ大型水上機を着水させ、救命ボートに乗っていた飛行士を救出して悠々飛び去った。
 ただ一人の兵隊を敵前で救出する米軍の人命尊重と物量の豊富さ、島々の玉砕を見捨てる日本軍との相違を、どう考えればよいのであろうか。
 昭和六十三年、アメリカ大統領にブッシュ氏が就任する。或る日、NHKテレビのニュース解説を聞いていたところ、「大統領は、太平洋戦争に従軍し、父島を空襲して、飛行機を撃墜されたが、機より脱出し、島の北方海上で米軍に救出された戦歴があると語った」 との報道を聞いて仰天したことである。ということは、前記救出兵士はブッシュ氏であったことになる。
 数百万の日本軍兵士が戦死した。もし戦争がなく、皆生存していたら、現在の日本より、もっと良い日本にしてくれる人がきっといたものと思われる。無謀無益の戦友が残念でたまらない。

 米軍上陸に備え戦闘配置につく

 連日の大編隊機による反復空襲に、いよいよ米軍の上陸が近づいたと、作戦などに関わりのない一兵士の私たちでも直感した。果たして中隊長より、各班それぞれ上陸に備えて、戦闘配置につくよう、命令が伝達された。私たち衛生兵も同様に、小銃と銃弾(六十発)、手樽弾(数個)、戦車地雷等を受け取った。配置された洞窟の前面は二見湾の大村港を眼下に一望される位置であるが、たとえ米軍が上陸して水際を攻撃するにも、三八式歩兵銃(明治三十八年、日露戦争当時に、新式銃として採用されたもの) では、近代装備の米軍重装備には歯が立つとは思えない。
 敵が洞窟前面を攻撃して来た時に狙撃せよ。戦車が接近した時は戦車地雷を胸に抱えて、戦車の進行前面の車輌めがけて飛び込め、一兵以て戦車一輛の破壊を果たせ、小銃弾最後の一弾、手榴弾の一個は、自決用に残しておけ、戦車攻撃以外は絶対洞窟より出てはならぬ。
 これが敵上陸に対する命令内容である。かねて承知している米軍との戦闘で、常に海軍は海上で敵を殲滅すると主張し、陸軍は上陸させて水際で殲滅すると言って譲らなかったが、海軍にはもう海上で戦う艦船はない。敵の上陸を待つしかないから、上陸した敵がわが洞窟陣地の前面に攻めて来た時が最後と死を覚悟して待ち構えていた。
 当時の戦況は、大本営発表の無線を信ずるしか正確なる情報は得られないが、昨年六月にわが海軍はマリアナ海戦で空母三隻と航空機約四百機を失い、十月にはこの島沖海戦、レイテ沖海戦で無敵と誇っていた日本の連合艦船の殆どを殲滅され、既に連合艦隊は壊滅していた。
 また米軍は八月初めにサイパン島占領後、グアム、テニアン島を占領、十月にはフィリピン・レイテ島を奪回し占領していた。また、マリアナ基地より本土の空襲を本格的に実行するなど、日毎に敗戦の様相が深まる状況であったが当時の私たちは知るすべもない。
 当時私は二十六歳、まだ死にたくない。せめて三十歳まで生きたい。本音はそう思っていたが、千死、否万死に一生も望めない孤島である。物量、兵力無尽の米軍との戦闘で生き残る術はない。生者必滅、死にたくないが、早晩死は必然とすれば死ぬしかない。国のため、妻子らが一日でも長く生き延びるために死ぬのだ。敗戦は時の問題であろう。日本魂、神風、精神力、そんな美辞や慰め言葉は、現実の物量による攻撃力の前には、洋上で溺れんとする時に浮かぶ一本の藁すべほどの力にも及ばない。
 日本の武士道に「切り結ぶ刃の下は地獄なり、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」 とあるが、人間最悪の場合でも、自分だけは助かりたい、助かるかも知れないという生に対する未練心は否定できない。
 しかしながら、食糧、弾薬が欠乏し、一日一日飢えて死を待つことを思えば、瞬時にいさぎよく戦闘による一瞬の死ができるならその死を望みたい。今、絶対的死と対峠する時、人間の心は弱く、乱れ、怖れ、醜く揺れるものだ。この期に至り、如何に嘆きわめいても死を免れる術はない。同じ死ぬなら潔く誇りある死を遂げよう。もう一人の心の囁きが、暗い洞穴の中で聞こえてくる。

死を覚悟してかにかくも命あり明日の死がまた越え難く待つ

 艦砲射撃

 今日は朝より爆音が聞こえない。昨日まで死と対峙していたのが、うそのようで死ぬことなど考えることもなく次の夜を迎えた。

今日も又生き永らえて婆姿の月

 誰の句か知らないが、現在の心情をよく表現している句だ。今日は休戦かな?と思うと、昨日までの死に対する追い詰められた覚悟も崩れ去って、今日もまた一日長く生き延びられそうだと生の欲望が湧いてくる。
「ドカドカ、ドドン」突如、地軸をゆるがすと思われるほどの連続爆発音である。
 「艦砲射撃だ」と誰かが叫んだ。空襲の場合、警報も鳴るし、空に飛行機という物体が確認できるので、或る程度の防御、退避もできるが、艦砲は相手が海上にあり、飛来する弾着の見当がつかないから、一層不安であり危険である。洞窟の奥で皆しばらく鳴りをしずめていたが、至近弾が殆ど飛んでこないことに気付いた。どんな敵艦が、何隻位、どんな位置で砲撃しているのだろうと、好奇心が湧いてきた。
 幸いわが陣地は百八十メートル高地の頂上で、南方は二見湾、北方は弟島を前に北の海が真下の断崖より広がっている。「稜線より少し低いと断崖に砲弾は当たる。ちょっと稜線を高く越えても砲弾は陣地を越えて湾内の方へ飛び去ってしまう。稜線という位置は比較的安全だよ」 と中隊長が言い出したので、私たちも中隊長の後に従って、陣地の稜線にそっと進んで外海を見下ろした。
 米艦船は海上遥か遠くで砲撃しているものと予想していたのであるが、稜線陣地の木陰より海上を見下ろし驚いた。予想に反し、米巡洋艦と思われる軍艦が三隻、海岸より四キロ位の至近海上でわが島に平行し主砲を向けて砲撃しており、甲板上を移動している水兵の姿さえはっきりと見える至近距離を遊弋(ユウヨク)しながら砲撃する。右舷で砲撃が終わると、Uターンして左舷、反対側の主砲を発射している様子が手に取る如く見下ろせる。
 また、その周辺を十隻ほどの駆逐艦が巡洋艦を護衛して、それぞれ水脈白く曳きながら巡回しているのである。北岸は殆ど高い断崖絶壁で、わが軍の抵抗はしていない。米艦は思うが儘に砲撃を続け、一時間ほどで引き上げたが、しばらくして今度は空より百機以上のグラマン戦闘機が襲来して急降下攻撃が始まった。
 父島付近の海上には猛攻撃を始めて一週間近く経過しながら、上陸作戦が予測される程の艦船の数はなく、上陸の意図はないものと判断されひと先ず命が生き延びることができたと心中ひそかに安堵し、明るい気持ちが湧いてきたのであるが、実は大変な情報を中隊長より伝達を受けたのである。我々が小型機や艦砲射撃を受けている時を同じくして、硫黄島では父島の数十倍もの攻撃を受け、艦船約八百隻、海兵隊三個師団約六万余の大兵力によって上陸作戦が展開されていたのである。

入港の我等ねらひて爆音はとどろき早く降下して来ぬ (空襲)

数百の水柱一斉にのぼり来て百八十高地を越えつつ高し

急降下のまま湾内に爆ぜたりし命のあぐる白き水柱

沈みたる船のマストに照る夕日見つつしをれば亡き兵の顕つ

われのみがおくれて着まし壕すでに直撃受けて残る兵なし

此の位置にひそめゐし友弾(タマ)爆ぜて肉片ひとつ葉の上に拾ふ

銃爆撃うけ沈みゆく吾が船を島より見つつみつつすべなし

入れ替り艦載機島を襲ひつつ暮るるにいまだ飽くことのなし

この次は誰に下らむ命令かこの壕に寝し兵かへり来ぬ (硫黄島へ物資輸送)

死ぬべきに今日生き残る明日の死は越え難く身に迫り来るなり (戦闘配置)

吾が命この洞穴に果つらむか砂礫つめたく手よりこぼるる

我が陣地死守せよの命伝へ来ぬ視角九十度目に照らふ海

一弾は自決のために残せとぞ配らるる手に実弾重し

抵抗をやめて故国へ帰れとふ電波にひびく日本人のこゑ (降伏勧告放送)

自爆なす訓練うくるや飛びたちし少年兵をわれはかなしむ (硫黄島への特攻兵)

攻撃地をまだ見ぬ空にことごとく撃墜されしか少年兵たち

ばんざいを叫ぶもありぬ声ならぬ声あげて聞く玉音放送 (無条件降伏)

アメリカの本土に曳かれゆく噂今日のいち日心を占むる

敗れなば自決をすると口ぐせの彼らは生きて平然とあり

作歌手帳歌誌も埋めぬ洞窟を下らむとして涙わきくる (生還)

靖国に祀らるる身を救ひとし戦ひ経にしことのむなしき